第103話 幼女、膨れる。クラスメイトも膨れる。
ほっぺたを思い切り。風船みたいにまん丸にさせて芽衣は精一杯に不満を表明した。
「むぅううう」
唸る声にも乗せる。
「めいも行くぅううう」
優芽にも琴樹にも、芽衣の反応は想定の内ではあるのだった。
修学旅行(バージョン違い)まで一週間となった日に、琴樹と芽衣、優芽の三人は画面越しの対談を行っていた。
琴樹は自室というか自宅、優芽も自室で、芽衣が姉の部屋で姉の上に陣取っている。ベッドに胡坐をかく湯上りのお姉ちゃんは温かくて気持ちいい。しかも柔らかいし。
機嫌よく最近のあれこれ、山の名前だとか川の名前だとか、ケーキの事だとか、芽衣が体も一緒にお喋りし倒して、少し疲れて大人しくなったタイミングに優芽が打ち明けた。
「来週、お姉ちゃんとおにいちゃんと友達で、ちょっと旅行行ってくるね。土日だけだけど」
その後に姉妹間で多少の問答があって、お姉ちゃんとおにいちゃんが予想していた通りに芽衣は膨れっ面を見せたのだ。
「友達と行くからさ。芽衣、知らないお姉ちゃんの友達と一緒に旅行、行く?」
「うぅう……やだぁ」
膨れはしても駄々にはならない理由の大半はそこで、芽衣にもわかってはいる。姉には姉の『ともだち』がいて『あそび』があると。
でもやっぱり、その『あそび』に姉の優芽と、おにいちゃんたる琴樹がいるというなら芽衣はどうしても自分も一緒に遊びたい。その気持ちだけは理性で抑えるのが難しい。
『今度また、三人で遊ぼうな。お土産もさ、買ってくるから。そうだお土産、芽衣ちゃんはどんなのがいい?』
「……ぼくとう」
『……それは芽衣ちゃんにはちょっと、早い、かな。ははっ……。自分でね、買った方が……楽しいから、木刀は、うん、だから他の、他に、ないかな、欲しいもの』
「……おかし」
『よし。たくさん買ってくるね』
約束一つで頬の張りは引っ込んでお菓子話に花が咲く。
すぐに芽衣の瞼が下がりだしたが。
「うん、そう、公園でね」
『そっか、それで』
「一回も鬼にならなかったって自慢してたよ」
『俺にも自慢してくれていいんだけどなぁ』
二人だけになった通話は音声のみに切り替え済みだ。
優芽にとって琴樹の顔などというのは簡単に幾らでも脳裏に描けるもので、だからたまにこうして声だけに集中するのが気に入っていた。
特にベッドに寝転んで耳朶の心地よさに身を任せて微睡んでいくのが。寝落ち通話とかないない、と言っていた二年前の優芽が見れば呆れたかもしれない。
「そのうちするかもね。思い出した時に急に話するかも」
先ほどまでのテレビ通話に出てこなかったのは、たまたま閃かなかったからだろうと優芽は思うし、その考えは当たっていた。三日後、琴樹は芽衣が「鬼さんはね! めいならなかったよ!」と突然に言い出したことを理解するのに公園で園のみんなと行ったという鬼ごっこを思い出すことになる。
基本的にはとりとめのない雑談を交わすだけの時間に、時々には優芽の意識が覚める言葉もある。
『そういえば大学、決めたよ』
そんな話こそ唐突ではあった。優芽からすればであって、琴樹としてはひとつ意を決して切り出している。
「そ……っか。そうだよね」
『進路相談』は琴樹がいない間に二回あった。
「ど、どこ?」
『アメリカ』
「アメ……リカぁ? えぇ……そ……うーんでも……そっか、おう」
『は冗談だけど』
「えんしない。落ちちゃえ。ばか」
優芽はそれなりに本気で怒っているというのに、電話口に聞こえるのは笑い声だ。
たまにはこっちから通話を切ってやろうかとスマホを睨む。
『近くではないな』
慌てて耳元に戻したが。
そうして聞いた場所と名前に、感想は一つだった。
「遠いじゃん。ばか」
近くないなんて、そんな曖昧の不一致。
翌日に優芽は琴樹のクラスを訪れた。授業間の短い休み時間にだ。
用件は簡潔だし他クラスだけれど知った顔は多い。
「あ、今日は嫁の方が来る日だったか」
「旦那はあっちだぞー」
茶化してくるところはちょっと嫌い。
「もう、やめてってば。二人は、雑誌? あ、今日出たやつじゃん」
「そだよー」
「見る?」
「や、ごめん、大丈夫」
「知ってっし」
ちょっと嫌いだ。にやにやと笑みを向けてくるところ。
思ってもいないことを内心に呟いて、優芽は指し示された先に向かう。
琴樹も気付いてくれて、友人たちとの会話を打ち切って優芽の方へと来てくれる。
「どうした? てか、ほんとどうした? なんか元気ないというか……しおらしい、感じだけど」
「えっと、昨日のことなんだけど」
「昨日……なにかあったっけ?」
「あの、夜の通話の時さ」
「結局優芽が寝落ちしたのは別に気にしてないぞ? いつものことだし」
「そっ、れはいま関係ないじゃんっ。からかわないでよ」
「わるいわるい」
琴樹は笑っているがクラス内の雰囲気はある意味最悪である。
「マージでぶん殴りてぇ」
「今だけ同意だなぁ」
琴樹の背後で友人が二人、片や引き攣り笑いを起こし、片や深く同意の首肯を示した。
二人には申し訳ないが琴樹としてはこれは牽制でもある。自身の不甲斐なさは棚上げするとして、悪い虫は出来るだけ事前に排除したい。
「なんかまた悪い顔してるし」
「そうか? 朝飯が悪かったかな」
「いやそういう、具合がとかじゃなくって」
もちろん琴樹もわかっている。ので、流して用件を促す。
「具合悪そうってんじゃないなら大丈夫ってことだよ。で、ほんとにどうした? 会いに来てくれたとか? 用もなく。それならめちゃくちゃ嬉しいけど」
「……なんかもう全部悪い」
「全部か」
と笑みを浮かべながら実のところ琴樹には余裕などなく、最近はもうただただ不安なのだった。
早く。と、もしも。学校で優芽に会うたび、見るたび、頭の中はその二つでいっぱいだ。
早く動かなければ、言わなければ。
もしも、他の誰かに先んじられたら。
もしも。
琴樹が内心に焦燥を募らせていると知らない優芽は、用件を済ませることにした。
「あの、ね……昨日、落ちちゃえとか言って、ごめん。思ってないからね!? ほんとに! 私、琴樹が大学受かれるようにってほんと、本気で思ってるから。応援してるからっ。ほんとっ」
それは一晩、優芽の中にしこりとして残ったものだった。それともう一つ。
「でも遠いのはほんとだから……私、どうしようかなって。……一緒のとこ目指すとか、考えた。でも、それ……きっと違うよね。でもだから……ちゃんと考えるから。そしたら、私の応援も、してね?」
「……死ぬ気で、応援させてもらいます」
「えへへ、一緒に勉強とか、またしようね、いっぱい。じゃあ! それだけ! またあとでね!」
胸のつかえが取れてすっきりした優芽は足取り軽く教室を後にする。
琴樹はこめかみを抑え、なんとなく来るだろうと思っていた衝撃に顔を横に向けた。
友人が一人、琴樹の肩に腕を回している。
「シね」
いい笑顔だった。
後ろでは別の友人が呟いた。
「はぁ……おなかいっぱいだよ」