第三話
眩しい。
凍てついた世界は一面どこからも光を照り返し、瞳を刺激する。何もかもが氷に閉ざされて、全てが静止していた。足元の地面も、呼吸する空気も、人間すらも、一つの彫像と化した光景は、眩しさと共に脳裏に焼き付いていく。
その中で唯一動きを止めない後ろ姿。
片時も忘れた事はない。目の前に立つ身動ぎ一つしない凍てついた両親の姿を。二人に手を掛け鼓動を止めた、その人の形をした魔獣の面影を……。
──────
窓の外から差し込んでいる柔らかな月明かりが瞼の裏に当たるこそばゆさに、意識を現実へと引き戻された。目の前には煌めく霧の眩しさも、倒れ伏した森の冷たい土の感触もない。ただ気づけば見覚えのない小部屋のベッドに横にされているのだった。
身を起こしてみると、身体の節々が痛む。特に足周りにはジクジクと染みるような痛みがあり、その上から包帯が巻かれていた。あちこちの擦り傷も処置されている。そういえば着ていたはずの法衣もいつの間にか無地の部屋着に替えられている。
「どう、なったんだっけ」
……霧での顛末は、あの魔獣が目の前で魔狩人に討ち取られ、消えていった後から判然としない。なんとなくは覚えているものの、まだ起きたばかりで頭がふらつき、脈絡なくひとりでに意識がなくなったような、曖昧な記憶しか思い出せない。
少なくとも今自分は生きていて、見知らぬ部屋のベッドに寝かされていたという事は、気を失った自分をここに運び出した誰かがいる。
そして、それは案外近くに居た。
それほど広くないも部屋の中、見渡せばすぐ気づく間近に、霧で見たあの魔狩人の少年がベッド脇の椅子に座って目を閉じている。背もたれに身を落とし、呼吸に合わせて小さく肩の揺れる様子をからして、どうやら眠っているようだった。
改めて月明かりに見えるその顔は、想像よりもずっと若いという印象が強い。こんな自分と同年代の少年にしか見えない彼が、命懸けで魔獣を狩る賞金稼ぎであるというのは、にわかには信じがたい。透けるような白銀の髪の下、眠たげに半開きの黒い瞳と目が合って──。
「んぁ……ん、やっと目が覚めたのか」
驚いてベッドの上で軽く飛び退る。随分近くでじろじろと他人の寝顔を観察していた事に少し気恥ずかしくなったものの、当の相手は気づかなかったのか、何も気にする様子もなくただ眠気を飛ばすように椅子の上で伸び、欠伸を漏らしていた。
「今日は暇すぎて寝ちまってたな……」
「あなたが助けてくれた、でいいの?」
「ああ。突然目の前で倒れたんだ、覚えてるか?」
「……ええ、そうだった気がする」
途切れ途切れになった受け答えには理由がある。
気を失う以前の出来事は、魔獣に襲われている所で彼が、魔狩人が現れた辺りまではちゃんと頭に残っている。
ただ、瞳の色が違う。
霧の中で見たのはぎらつくような獰猛さを湛えた紅色だったはず。それが今は特別目立たない灰がかった黒に変わっている。
それに加えて寝起きで気が緩んでいるからなのか、それともこれが素の表情なのか、霧の中で見た覚えのあるどこか冷たい雰囲気は鳴りを潜めている。
そう、とても畏怖を感じさせないような、どこにでもいる年相応の少年にしか見えない。まるで別人のよう変貌ぶりに違和感が隠せなかった。
「色々聞きたい事があるんだが、その前に。丸二日寝てたんだ、腹は減ってるんだろ。飯を食いながら話すか」
「ま、丸二日!?」
そんな軽い口調に反して、慌ててベッドから立ち上がり窓の外を覗き込む。完全に夜が更け、空から明るく見下ろしている月。それで眠っている間に日が落ちた頃なのだとばかり思っていたのに、もう二日も寝たきりだったなんて。
思わぬ衝撃に足取りがふらつき、窓枠にしがみつく。
「おい無理するな、まだ身体も魔力もほとんど回復してないだろ……大人しく待ってろよ」
愕然とする自分にそう言い残して、彼は扉を開け何やら賑やかな喧騒が聞こえる部屋の外へと出ていってしまった。
「どうしよう、皆……絶対心配されてる」
丸二日。その言葉にジリジリとした焦りが背中を焼く。
霧に飛び込んでそれだけ連絡が付かないような者は、大抵生存を諦められる事になる。魔導士は元々都市を守るための存在。ましてやその訓練生である学生の身だ。ほんの僅かな生きている可能性に賭けて、本来の任を疎かにしてまで人員を送り込み霧の中を捜索する事は、まずない。
まだ生きていると、今すぐにでも知らせないと。いや、連絡手段がないし、そもそも全員無事なのかどうかもわからないのだ。すぐに自分も彼の後を追おうと扉を開け放つ、その手前。
隠しきれない空腹のサインが静かな部屋に鳴り響く。
「焦っても、仕方ない、よね」
本調子でもないのに、いくら強がって無理をしたとしても、またすぐに倒れるだけ。独り言も尻すぼみになり、忠告通り大人しくベッドに収まる事にした。
魔獣を片っ端から焼き払って、空っぽになった魔力。まず身体が万全に癒えない限り、切らした魔力はほとんど回復しない。
魔力切れは魔導士としてはあってはならない失態だ。
普通は魔力を使い果たしても、ただの精神的な疲労だけで済む。だが、霧の中ではそうとは限らない。霧は魔獣の莫大な魔力に反応して、不安定になった大気中の魔力が輝きを放つ現象であり、そこで完全に体内の魔力を使い切ってしまうと周囲の魔力から押し潰されるように意識を保てなくなり、気絶する。
もちろん、魔獣の版図である霧の中でそうなったとしたら、辺りの魔獣がそんな格好の獲物を逃す訳もなく、大抵はそのまま二度と目覚める事はない。
そんな自分を拾い上げて、怪我の治療まで施されていて。今いる部屋も、恐らく彼が手配したものだろう。
途方もない幸運に恵まれて、今自分は生きている。それなのに、まだ伝えるべき感謝の一つも出来ていない。
それは、ただ言いそびれただけが理由ではなく……相手が魔狩人だから。
「あれが魔狩人……あれが、殺し屋……」
魔導士の中には、狩人などと取り繕った呼び方をしない者も多い。魔獣どころか、時には人間の命すらも金に変える、野蛮な霧の『殺し屋』なのだ、と。
感謝と、焦燥と、恐怖とが入り混じり、心の中が渦巻いて訳がわからなくなってきて。部屋に一人取り残され、急に心細さを感じて呟いてしまう。
「──情けないなぁ、私」
小さな自虐は、うつむいた自分に沁みて仕方がなかった。