第一話
そこは仄白く煌く『霧』の中。朧げで幻想的な光の粒たちが辺り一面に漂い、周囲の木々の影を霞ませている。ひどく静かな森に『霧』が輝く景色は傍目から見れば美しく、初めて見たときは思わず手を伸ばしてしまった事をよく覚えている。それが何を意味するかを知らなかったがために。
今、『霧』の中を進む手には鈍い光を照り返す銃が握られている。光を揺蕩わせるこの『霧』の正体は、ごく小さな水滴が浮かんで起こるただの気象現象などではない。言うなれば、散らされた生命の欠片の煌めき。
それは魔に飲まれた哀れな成れの果て、『魔獣』の支配圏にして、それを狩る事を生業とする者達、『魔狩人』の狩場の印なのだから。
──────
視界を覆う霧に感覚は狂わされ、いくら走り続けても同じ景色が連続しているかのように先が見えない。今自分はどこにいるのか、どれほどの時間が経ったのか。それを確かめている余裕もないほど、疲労は限界に達しつつある。確かなのは、未だに危険な霧から抜け出せていない事だけだった。
重い足は思うようには動かず、やがて立ち止まってしまう。息を切らして傍の木にもたれ掛かると、立っているのも億劫ですぐに膝が崩れてそのままずるずると座り込んだ。息を荒くしてへたり込む顔に乱れた赤髪が垂れ、白を基調とした魔導士の法衣も土埃や破れた痕などで随分と汚れていた。
「皆、上手く逃げ切れたかな……」
伏せた紫瞳が不安に揺れる。無我夢中で森を駆けずり回って身体中どこもかしこも擦り傷だらけではあるものの、動けないほどではないなら問題ない。ひとまず動ける自分よりも、負傷して身動きが取れなくなった仲間の方がずっと深刻だった。自分がわざと霧の奥へ飛び込んだ事でどうにか逃げられるだけの時間は稼いだつもりでも、完全に散り散りになった今はもうその安否を確かめる方法は無い。
茂る木々の隙間から空を見上げても、霧に蓋をされて空の様子はほとんど見えない。しかし、ぼんやりと光る陽の輪郭は傾いて徐々に暗さを増している。正確な時間はわからなくとも恐らく日没前なのだろう、直にこの霧に満ちた森は夜の暗闇に落ちる。何処ともわからない霧の中で一人きり、もしこのまま日が暮れてしまえば満足に動く事もままならなくなる。そうなったら無事に生きては帰れないだろう、間違いなく。
時間が迫っているのなら、悠長に休んでばかりはいられない。ただし、方角すら見失ったままでは、あてもなく走り続けて力尽き果てるのもまた時間の問題だった。
「ダメ、悲観的になるな、まだ、大丈夫だから」
ふと頭をよぎるのは暗い想像や恐怖ばかり。だからと言っていつまでも立ち止まっていては何の解決にもならない。不安を振り払って重苦しい身体に無理を言わせ、木の幹を支えに立ち上がる。先が見えない霧も無限に広がっている訳ではない。最悪でも一方向に進み続ければいつかは外に出られるはずだ。どうにかして霧から逃れさえすれば──
──そこで感じたのは不自然なひやりとした寒気と視線。言いようのない殺気が急激に膨れ上がり、背中にのしかかった。
どくりと大きく鼓動が跳ねると同時に、振り向く間もなく背にしていた木から思いっきり飛び退いた。受け身を取る事も考えず、派手に地面に擦り付けた身体の痛みを無視して、間髪入れずにそこへ飛び込んできた影に向けて右手で残り僅かな魔力を横薙ぎに払う。
あらゆる生命の身に宿る魔力は、扱い次第で超自然の現象を顕現させる。初めはこちらの意志に反応して現れ始めた淡い光と共に、燃えるような熱が腕に集う。手の中で形を持たない魔力がいつしか炎へと変わり、瞬く間に身を覆うほどに燃え広がった。
爆発的に大きくなり、眩しいほどに猛烈な熱波を放つ炎の壁が直前まで座り込んでいた木々を飲み込んでいく。が、しかしその影は鋭敏に身をくねらせて波のように押し寄せる炎の隙間からくぐり抜けてしまった。
爪牙を叩きつけられ、炎に炙られた幹が悲鳴じみた音を立てて倒れるのを背に、眼前に躍り出た姿は獅子か狼のような獣型。体高が人の背丈ほどもある巨体は霧に紛れる灰褐色の獣毛に覆われ、尾を引いて輝く赤い双眸がこちらを睨めつけている。『霧』の住人にして魔に飢える理性なき怪物『魔獣』の姿がそこにあった。
「もう、いい加減にしつこいのよッ!」
幾度となく見た顔だ。こうも何匹も相手にしていれば嫌でも覚えてしまう。幾度となく執拗に襲いかかってくるその魔獣は、どうやら仲間を焼かれた恨みが相当大きいらしい。思わず毒づいた言葉に返されるように、唸りと共に殺気を向けられる。
安々と樹木をへし折る膂力を持ちながら、霧と周囲の木々の隙間を滑るように駆け抜けてきた魔獣。その体躯の割には軽い身のこなしの相手は、集中力を欠いた状態で咄嗟に発動した魔術では捉えきれなかった。
……その時点で、おおよそ万策は尽きていた。既に目前にまで迫っていては逃げようもない。恐らく身を起こして魔術を放つよりも、その爪牙に捕まるのが先だろう。
こんな時になってから自分自身の鼓動ばかりがやけにうるさく響く。剣呑な魔獣の気に当てられると恐怖がふつふつと湧いて出て、今更ながらに心臓は跳ねるのだ。
一瞬、諦観が襲った身体は今度こそ喰らいつこうと牙を剥く咆哮に硬直する。本当は瞬き程度、なのにまるで引き伸ばされているかのように感じる。曖昧になった時間の中、地を蹴り飛び上がるその姿を、見届けるままになり……
──霧を一筋の閃光と鋭い轟音が切り裂いた。閃光は横合いから飛び掛かる魔獣の身体を貫いて青白い魔力を迸らせる。
真横からの強烈な衝撃に魔獣の跳躍は逸れ、呆然と目を見開いたままの自分を捉えることなく、すぐ横を転がり落ちていった。派手に倒れる魔獣は腹に風穴が空き、血を流す代わりにその魔力が溶けるように霧散していく。
魔獣の巨体を支える生命力は周囲の生物から奪った膨大な魔力だ。魔獣への単純な物理的な攻撃にさほど意味はない。それを叩き落とすには、同じく強力な魔力を糧とした力が必要になる。しかし、今の一撃は魔法によるものではなかった。
今、目の前を駆けて行くのはその白銀に光る弾丸を轟かせた猟銃を手にする人影。薄汚れた灰褐色のフードの奥に表情は見えないが、紅い眼だけが、妙に霧の中で浮き彫りに見えた。
「魔狩人……!?」
それは、金と自らの命を天秤に掛け、魔獣を狩る無法者。
素早く立ち上がった魔獣が、傷を負った腹を庇うように後退る。しかし走りを止めないまま片手で猟銃を構え、撃ち放ったニ発目の弾丸が今度は腕を打き抜き、距離を取る事を許さない。
魔獣自体の図体の大きさ故に、音すら置き去りにする高速の弾丸は避けられるものではない。真っ直ぐに魔獣を見据えて接近しつつ空になった薬莢を飛ばし、魔力が充填された魔獣殺しの弾丸、『魔導弾』を再装填。無駄なく、臆せず、一息に距離を詰め切った魔狩人は、一振りで命が飛ぶような剛腕を潜り込むように身を屈めて抜けていく。その銃の先端を飾る銃剣の切っ先が牙剥く顔を穿ち──霹靂の如く光が真っ直ぐに魔獣を貫き吹き飛ばした。
「グゥグォゥ、ガァアアアアアア!!」
一際甲高く響き渡る銃声。意味を為さない断末魔。銃剣で捉えた至近距離からの一撃に派手に弾けた魔獣の肉体は、原型を失って霧の中へと散っていく。
力の根源である魔力を全て消し飛ばされて肉体を維持できなくなった魔獣は、まるで実体のない煙のように崩壊を始める。最後には残滓だけが置き去りになり、消滅する。それが、魔獣の死だ。
不意に全身から力が抜けた。へたり込んだ心身から恐怖が抜けて、生きているという事実を正しく認識するには、あまりにも一瞬の出来事過ぎて、少し時間が掛かってしまった。何しろ、ほんの少しの前まで死ぬはずだったのは目の前の魔獣ではなく、自分だったのだから。まだ鼓動はうるさいまま、落ち着きそうにない。
そんな姿に振り返ってフードを外し、顔が顕になった魔狩人はこう告げた。
「同業者、には見えないな。こんな所で一人だけか?」
その声や顔立ちは想像よりも随分と若く、朧げな霧の中ではよく分からないが、年頃は少女と大差ない程に見える。しかし、たった今魔獣の命を奪ったその瞳と表情は嫌に寒々しい。
そんな相手を前にして驚きと戸惑いに詰まり、口から上手く言葉が出ない。それどころか、まるで自分の身体が自分のものでなくなったかのように、意識がこぼれ落ちていく。無理を効かせた代償にここまで身体を支え意識を繋ぎ止めていた気力が、一瞬の安堵と共にブツと途切れた。
止めようもなく視界が傾いて、そのまま横倒しに変わる。
「っ! おい……どうし……!」
狼狽えて聞こえる声も朧にぼやけて、沈んでいく。そのまま彼女は──魔導士の少女、リーゼロッテ・エヴァンズは、霧の中で気を失った。