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龍の花  作者: ぴえろ
第三章 龍の愛
6/8

「龍の愛」【後編】



【アリシア17歳】


「それでね!オルガ公国は独自の植物が多くてこーんな大きい身をつけた植物もあったんだ!」

「ええ?!本当に?またエドガーお話を盛ってない?」


エドガーが腕を大きく広げて大きさを強調してくるのでアリシアは少し悪戯っぽく言ってまた2人で大笑いした。

エドガーと出会ってからアリシアは変わった、と周囲の人間は話していた。以前は非常に引っ込み思案で誰と話すにもメイドがそばにいないと泣き出してしまうような臆病な性格だったのに、今は誰にでも笑顔で接することが出来、気を許している相手にはこうやって大きく口を開けて笑うようなこともあった。それに『一国の王女がみっともない』と話す人もいたが、そんな声だって笑い飛ばせるくらいにまでアリシアは強くなっていた。

そしてそれらは全て、アリシアを王女として特別扱いすることなく、素直な心のままで接してくれたエドガーのおかげであった。


「本当に父さんには感謝してるよ。色んなところに連れて行って貰えるだけで新しい発見が山ほど見つかるんだ」

「ふふっきっとお父様も貴方に期待してるのよ。知ってる?メイドの話では巷では貴方『若き天才科学者』なんて呼ばれているらしいわよ」

「え?本当に?ええ〜照れちゃうな〜!」


そう言うエドガーは頭をかきながらも非常に嬉しそうな表情を浮かべていた。

エドガーはこの時16歳であったが、既にずば抜けた学力と観察力を備え父の所属する王室専用の科学研究チームに参加。そしてその一環として父と一緒に各地を巡り研究を重ねており、研究出張から帰ってくると必ずアリシアにそのお土産話しを聞かせてあげるのがここ数年の通例になっていた。もちろんアリシアもそのお土産話がいつも待ち遠しかった。


「でもさぁ〜アリシアにも見せたかったな〜こんな写真とかスケッチとかじゃなくて」

「あら私は貴方のスケッチも写真もすごく楽しんで見ているわ」

「違うよ。今を生きている″彼ら″の姿をその目で直接見て欲しいんだ」


そう言ってエドガーはふと真剣な顔をすると自分が各地で描いてきたスケッチを見つめた。彼は幅広い分野に興味を持っていたが特に植物に関してはアリシアも驚くほど関心、という言葉だけでも表せないような何か特別な感情を抱いていた。しかしパッとすぐに顔を上げると、いつもアリシアに見せるような目をまん丸と輝かせた瞳に戻っていた。


「そうだ!今度アリシアも出張に同行出来ないか聞いてみようよ!」

「ええ?!」


エドガーの突拍子もない意見に思わずアリシアの口からひっくり返ったような声が上がった。彼の意見はいつだって唐突で奇想天外で常識から外れていた。


「そんなの出来るわけないでしょう!お父様が許さないわ」

「えーそっかーそういうものなのかー……」


ピシャリと言うアリシアにエドガーはやや口を尖らせながらしょんぼりとしていた。アリシアはそんなまだまだ子供のような彼に″とあること″を告げようとして口を開いた。


「ねぇエドガー私ね、」

ピピピピッ


突如、エドガーの通信機に着信が入った。エドガーがパッとその画面を開くとそこにはアリシアにも見える文字で『エナ』と書かれていた。


「あ、アリシアごめんちょっと、」

「いいのよ。例のトウワ領で出来た新しい彼女でしょ。私はもうお土産話は沢山聞いたからあとは彼女にお話をしてあげて」

「ごめん!ありがと!」


エドガーはそう言ってアリシアに片手で礼をすると嬉しそうな笑顔で部屋から飛び出して行った。アリシアはそれを見届けて、彼の足音が遠ざかったのを確認するとふぅーと大きく息を吐いてだらしなく姿勢を崩し、天井を見上げた。


(今日も言えなかった……)


ふとアリシアが壁側に置いてあるチェストに視線を向ける。そこの引き出しには一冊の冊子が入っていた。中に書いてあるのはとある人物のプロフィールと領土や爵位、そして顔写真。所謂お見合い写真だった。

アリシアはスッと立ち上がるとチェストからその冊子を取り出し徐に開く。そこにはセレスディア国内でも有数の名門家の当主の名前が書かれていたが、その人物の年齢はアリシアよりも20歳も上であった。

このセレスディア王家では女性は冷遇される。王女も例外ではない。しかしそれでも蔑ろにせずにしっかり教育を施して育てるのは、より王家に有力な貴族と婚姻関係を結ぶ為。よってこのお見合いは既に決定事項で、先日1回だけ会ったこの男性とアリシアは今年の冬にも結婚することが決まっていたのだった。

アリシアはこのことを唯一の友人であるエドガーには直接言いたいと、そう思っていたのだが、ようやく帰ってきた彼に今日も話すことが出来なかった。


(エドガー、通信の画面見て、すごく嬉しそうだった。ああいうふうに人は恋をするのね)


エドガーを羨ましい、と思ったことは正直何度もあった。自由に学び、自由に旅をして、自由に恋をする。自分にはない選択肢を沢山持っているエドガーがアリシアは非常に羨ましく思っていたが、妬んだことは一度だってなかった。何故ならば彼には憧れの感情よりも感謝の気持ちの方が大きかったからだ。


(私は多分、エドガーがいなければずっと″弱い″女の子のままだった。お父様から、お兄様から、そして周囲から″弱い″″弱い″と言い続けられて、自分でもそれが当たり前だと思っていた。だけど、彼だけが、エドガーだけが私を″強い″と言ってくれた。あの時の言葉がなければ私は今でもメイドの腕の中に隠れて話すことしかできない臆病なお姫様だったわ)


恐らくエドガーのことだから、他意はなく本当にそう思ったから言っただけなのだろうが、それだからこそアリシアはその言葉に救われていた。そして願わくば自分もいつかは彼を支え、救える存在になりたい、そう思っていたのだがアリシアがこの王家から離れる日がもう目の前に迫ってしまっていた。


(また、どこかで会いにきてくれるかしら……)


アリシアはまだ春の花が綻ぶ外を見てそう思った。しかしその直後またエドガーの出張が決まり、彼が帰ってきた頃には既にアリシアは王家を離れていた。



*



「私は独自に″龍″の研究をしておりますザクロと言います。こちらに短期間で複数の″龍″の飛来があることを確認いたしましてぜひ調査させていただきたくお伺いさせていただきました。急を要し突然のご訪問になり誠に申し訳ございません」


マルスはここで新たなる発見を2つ見つけた。1つはチェリーが敬語を使えたと言うこと。普段マルスに対しては乱暴な言葉しか使わなかったので敬語をしっかりと使えるとは思っていなかったし、彼女が敬語を使う姿は失礼を承知の上で若干不気味な感じがした。2つ目はチェリーは自分より嘘が上手かったということ。これはマルスがただ下手なだけであるが、勝手にチェリーも同類だと思っていたマルスは少し裏切られたような気分になった。


ヴァシリー邸に突然姿を現したチェリーは食卓の末席に案内されるとヴァシリーご夫妻のご厚意で出されたスープなどに手をつける前に早々に本題を切り出した。彼女は偶然いたマルスに戸惑う様子もなく、ただヴァシリー夫妻の方だけを見て話していた。

ふとマルスは隣に座るリックに視線を向ける。彼もチェリーの方を向いてその話を静かに聞いており、その横顔は特段何かを考えているようには見えなかった。しかし、彼は先日のピオニー城での事件で薬を盛られた状態ではあったがチェリーに会っているのである。もし何かの拍子でその時の記憶が蘇ることがあるのではないかとマルスは危機感を募らせたが、とりあえず現段階ではその心配はないように見えた。


「実を言うと、その″龍″の調査に既にこちら『sun』と『moon』の方々がいらっしゃっておりまして、私としては″龍″の行動理由を調べていただけるのであればどなたでも歓迎するのですが、」

「お待ち下さい」


ロウェルの思案するような声に制止をかけたのは彼女の話をずっと渋い顔で聞いていたウィリアムだった。彼はロウェルの話を遮ったことを詫びると、左隣の末席に座るチェリーに視線を向けた。


「ザクロ様、と仰いましたね。ご出身はどちらでしょう?ご自身の研究室はお持ちで?″龍″については具体的に普段どのような研究をされているのでしょうか」


ウィリアムは完全にチェリーを怪しんでいるようだった。それもそうだ。彼からしてみれば世界公認の″龍″研究チーム『sun』の研究員の研究に今まさに外部からの横槍が入れられようとしているのだ。プライドが人一倍高い彼にとって恐らく屈辱以外の何ものでもないのだろうと、マルスは推測した。

ウィリアムはチェリーの返答を待たず、矢継ぎ早に質問攻めを続けた。


「第一先ほど″急を要しまして″と仰いましたが、一体どのような事情があるのでしょうか。ぜひお聞かせ願いたい」

「……ここに来る″龍″は日を追うごとに多くなっています。最初は小型が数体のところ、直近の飛来だと数十匹確認されています。これは恐らく時期が何らかに関係していると推測しております」

「そんなことは『sun』も確認しております。しかしご自身も通ってきたから分かるでしょうが、現在外は雨です。そして今出ている予報ではしばらく続くとのこと。ちゃんとご存じでしょうか?″龍″は雨天時には発生致しません。″龍″の飛来がしばらくはないことを分かってこのお屋敷に訪ねてきたのですか?」


どうやらウィリアムは完全にチェリーのこと下に見ているようだった。言葉の端々から皮肉めいた言葉が飛び出す。しかしそれに対しチェリーは至って平静な顔でウィリアムを見つめ返した。


「何故言い切れるのですか」

「は?」


チェリーの言葉にウィリアムが一瞬動きを止めて戸惑う。彼女はそのまま声のトーンを変えずに続けた。


「今から20年前の『龍の花』発売当初も皆が植物は空を飛ばないと言った」


チェリーの冷たいようで、どこか凛とした声が食堂に響く。マルスもそんな彼女を見つめ続けた。


「しかし今では″龍″は世界共通認識です。それに鳥だって昔は雨の中をほとんど飛べませんでしたが、今では嵐の中でも飛べる鳥もいます。生物とは進化を繰り返すものです。″飛翔″と言う進化を遂げた植物が何故いつまでも天候の支配下で居続けると思うのでしょう」


彼女の言葉をマルスやウィリアムだけでなくその場にいた全員が聞き入る。そうだ、とマルスは思い出した。彼女はいつだって″龍″を植物としてではなく、自分達と同じ生物として扱っていたのだと。


「断言します。″龍″もいずれ雨の中でも飛べる進化を遂げる」


チェリーはその純粋な黒い瞳でウィリアムを射抜き、ほんの少しだけ言葉尻を強くして言い切った。それにウィリアムは納得していない表情を浮かべながらも、科学者として彼女の話に完全に否定することも出来ないようであった。そんな難しい表情のまま彼は腕を組んで口を開く。


「……それは、確かに可能性はゼロではないでしょうが……でも、それと今回の調査の件は別でしょう。『sun』が既に正式に調査をすると言っているのだから民間人が立ち入る必要はないかと……」

「別に邪魔をするつもりはございません。ただ視点が違うもの同士協力できれば有難いとは思います」

「……それは……まあ、……」


どうやらチェリーの方が話は一枚上手のようだった。彼女の言葉に言い返せなくなったウィリアムを見て、察したロウェルはにこやかな笑顔でチェリーにも屋敷の滞在許可を出した。しかし今日はもう遅いと言うことで一旦解散となり、明日改めて今後の調査計画を立てることになった。

ロウェル夫妻が先に食堂を退室した後、マルスたちも使用人たちに案内され食堂を出た。その時、チェリーとすれ違いざま一瞬だけ彼女としっかり目が合う。


「……」

「……」


しかしマルスもチェリーも一切言葉を交わすことはなく、そのままお互い通り過ぎた。しかしその一瞬をマルスの後ろにいたミルテだけはしっかり見ていたのだった。



*



「……流石に今回は一緒の部屋かぁ」

「それは安堵の顔か?それとも落ち込んでんのか?」


マルスたち一向はそれぞれ2人1部屋で案内された。部屋割りはマルスとリック、そしてレオとウィリアムである。レオとウィリアムもすぐ隣の客室に案内されたらしく、今回はピオニー城とは違い何かあってもすぐに対応が出来そうでマルスとしては安心したのだったが、どうやらリックは違うようだった。


「だってお前寝返りがうるさいんだもん……お前が動くたびにギイギイ音を立てて3ヶ月に1回は壊れた士官学校の寮のベットを忘れたのか?」

「あれは……!その、古いベットだったし、小さかったから……」


憂鬱そうなため息を吐くリックにマルスは顔を赤くしながらゴニョゴニョと反論する。マルスは士官学校時代、リックと同室であったのだが就寝時の騒音問題についてはその頃から散々注意されてきたのであった。

一応さっき確認したそれぞれのベットは古そうではあったものの作りは貴族の客室のものらしくしっかりしており、マルスの様な長身でも何とかベットに体を収めることが出来るサイズではあった。マルスは必死にそう説明したがリックは過去の経験からかあまりその言葉を信用してないようで眉を下げた表情のままシャツのネクタイを外してだらしなくベットに腰掛けた。


「ぜってぇ〜お前ベットから落ちて物音とか立てるじゃ〜ん。俺そう言うので起きちゃうんだよなぁ」

「知るか!だったら耳栓でもしておけ!」

「もういっそのこと夜這いでも行ってきてくんない?」

「はあ?!」


リックの言葉にマルスは顔を真っ赤にして声を上げる。しかしふと考えるように黙り込むと腕を組んで真剣な表情になった。それに今度はリックが驚く。


「え?!マジで行くつもり?お前が?!」

「いや!その!夜這いじゃなくて、ただ少し話をしてこようかとは思う。お前はその間に先に寝てればいい」


それを世間は夜這いと呼ぶのではないか、とリックは思ったが、彼の表情が女性とお楽しみに行くものというよりは任務の延長線上で何かをしようとしているようなそんな様子だったので何かを察し、あまり深く突っ込むのをやめた。


「まぁーお前がそうするって言うならいいや。俺は眠い」

「おう。寝ろ」

「あ、あとさ」

「ん?」

「避妊はしっかりしろよ」

「だから夜這いじゃない!!」


マルスは夜なので少し抑えめにそう怒鳴ったが、リックはヒラヒラと彼に手を振ると本当に眠かったようでベルトも取らないままベットにダイブして直ぐに吐息を立てた。マルスはそんなリックを見て、一応近くに寄って本当に寝ているのか確認したあとよし、と頷いて今度は客室の大きな窓に手をかけた。


(恐らく廊下からじゃ″あいつ″がどこにいるのか分からない。窓から直接部屋を覗いて行った方が確実だろ)


マルスはそう1人心の中で呟くと音が鳴らないように静かに窓を開け、雨が降り続ける外に飛び出した。ちなみにマルスたちがいる客室は一階。マルスは屋根の軒下に隠れながら地面に立つと静かに今出た窓を外側から閉めた。そして一応身を低くしつつ先ほどの食堂側の方へ歩いて行く。


(確か食堂を出てすぐに俺たちとは反対方向へ歩いて行ったから向こう側のどこかにはいるだろう)


そう思いマルスはずんずんと歩を進めていったが、一向に目的の部屋は見当たらなかった。おかしいな、と思いながらふと上を見上げると1室だけカーテンの閉められている部屋があり、思わず絶句した。


(嘘だろ)


外は大雨。なんだったら遠くの方から雷の音が聞こえるほどの嵐に近い。マルスの身長なら少し登ればあっという間に手をかけられるのだがそれには屋根の軒先から出なければいかず、必然的に土砂降りに当たらなければいけなかった。マルスは呆然とその2階の目的の部屋を眺め、大きく息を吐くとぐっと身を屈め次の瞬間上に向かってジャンプした。マルスの手は一つ出っ張った壁の煉瓦に引っかかり、そこに体重をかけて壁をよじ登る。庭の草木がバサバサと叩きつけられる音を聞きながらマルスは激しい雨に打たれ、手を滑らせないように慎重に上へ上がって行った。

ようやくの思いで目的の部屋まで辿り着くと、マルスは窓の淵に足をかけて窓をドンドンと叩いた。しかししばらく待ってもカーテンは開かれず、部屋を間違ったか?と不安に駆られた。その時。


「……」


カーテンが開かれ、その隙間からチェリーが顔を出した。その表情は明らかにこちらを見て引いていた。


「……どこかで来るだろうとは思っていたが窓からとは思わなかった。お前実はドMか?」

「何言ってんのか聞こえねーよ!!いいからここ開けろ!!」


激しい雨音のせいで全くチェリーの声が聞こえないマルスはとりあえず窓をドンドンと叩いてチェリーを急かした。それに彼女は未だ引いた表情を浮かべつつ仕方なく窓の鍵を開けてやった。

窓が開いた瞬間マルスは転げ落ちる等に部屋に入る。ほんの少しの間だけ雨に打たれたはずなのにその全身はシャワーを浴びたように濡れてしまっており、マルスは獣のように体を振るって水を払った。


「おいやめろ。お前は犬か。ほらタオル使え」

「そう思うならさっさと部屋に入れろよ!」


マルスは文句を言いつつも、呆れた表情のチェリーからタオルを受け取り体を拭く。ついでに濡れてしまったジャケットとシャツも脱いでその部屋の空調機近くにかけさせてもらった。


「普通人間なら部屋のドアから入ってくるもんだ。それをお前は窓からだったり天井からだったり、お前本当に獣にでも育てられたのか?」

「うるせえ!用水路の中を通って不法侵入する奴より俺はまだマシだ!」


正直どっちもどっちなのだが、こんなことで喧嘩しても体力の無駄なのでチェリーは諦めたようにその部屋の、窓際に設置されているアンティーク調のカウチに腰をかけた。

ちなみに現在の彼女は先ほど羽織っていた白衣を壁際のハンガーに掛けており、いつものように黒いスキニーパンツと黒いトップスを着用していた。マルスもタオルを被りながらそんな彼女の隣に腰を下ろす。


「つーかここが次の研究目的地だったなら言えよ。急にお前に会うと心臓に悪い」

「私だってお前の任務地なんか知らない。私の行く先々にいるお前が悪いんだろ」


マルスの仕事は『moon』として″龍″の調査を行うこと。チェリーの仕事も独自で″龍″の調査を進めるもの。よく考えなくとも、どこかでこのように出会うのは必然的ではあった。しかし。


「お前は人前に易々と姿を表す奴じゃないと思ってたんだ。元ミトカ町の時だってそうだったろう」


マルスはチェリーが今まで徹底的に姿を隠していたのを知っていた。もちろん今回も偽名を名乗ってはいたが、まさかリックやウィリアムの前に素顔を晒すとは思わず、マルスは非常に驚いていた。

それにチェリーは背もたれにその体を預けながら気怠そうに彼を見た。


「基本的にはそうしている。今までも『moon』の人間が来る前か、立ち去った後に調査していた」

「じゃあ何故だ。車庫に『moon』の車が停まっていたんだから中にいるのは推測できたろ」

「言っただろ。今回の件は″急を要する″」


チェリーはそういうとマルスから視線を外して部屋の中を見た。マルスはそんなチェリーの百合の花のように凛とした横顔を見つめる。


「雨だろうが関係ない。これはただの直感だが、この件は早く調査しなければいけない。そんな気がしたんだ。『moon』なんか待ってられるか」


まさかそこにいたのがお前だとは思わなかったが。と最後にチェリーは吐き捨てた。マルスはその言葉を聞くと自身もカウチの背もたれに深く体を預け腕を組んだ。


「……今回の件はお前がそう言うだけ、異常ってことか」

「そうだ」


正直マルスとしては元ミトカ町やピオニー城での件の方が異常事態ではあったが、学者であるチェリーからするとこの件の方が異常性は高いようであった。現に今まで比較的落ち着いて″龍″への見解を示していた彼女が今回は少しソワソワしているようにマルスは見えた。

彼女には鋭い観察眼もさることながら、父親エドガー・フロワの研究資料がある。しかしそれを持ってしても今回のことは謎が多いようだった。


「……しかし、今回はめんどくさそうなやつがいるな。今まで『sun』の人間はほとんど現場に出てなかっただろう」

「ローか?今回の任務から『moon』の任務に1人以上『sun』の人間が同行することになったんだよ」

「厄介だな」


チェリーはそう言うと徐に立ち上がりベット脇に置いていた小さい荷物から何か手のひらサイズの物を何個か取り出した。


「『sun』の人間の前で下手に″龍″のことを話すと″何故お前がそんなことを知っているんだ″と怪しまれる。だからと言って何も言わずに行動しようとすると論理的ではないと否定される。全くもって厄介だ」


そう言いながらまたマルスの座るカウチまで戻ってくると元の場所に腰を下ろしてその手のひらサイズの包み紙を開ける。それは綺麗な三角に握られたおにぎりだった。よく見ると何か茶色いものが表面に塗ってありなんとなくいい匂いがする。


「お前何とかしてあの男を別行動にさせられないのか?もしくはもう1人の頭の回転が早そうなあの優男風なやつに………何見てんだ?」

「そのおにぎりの表面、何塗ってんだ?」

「……味噌」


その瞬間、マルスの腹がグゥッと音を立てる。それにマルスは赤面しチェリーはどん引きした。


「嘘だろお前さっきステーキみたいなの食べてたろ」

「う、うるせえ!美味そうなもん見ると腹が鳴るのは生理現象だろ!」


大体満腹の人間ならそうはならないのだが、マルスはいかんせん人より体も大きいため先ほどの一般人向けの食事では実は足りていなかったのだ。ついでに言うとハーブの味もあまり好きではない為満足感も少なかった。

チェリーは目の前で赤面しながらあたふたする男に呆れたようなため息を吐くと手にあったそのおにぎりをマルスへ差し出した。


「ほら」

「い、いいのか……?!」


チェリーは、あまりにもひもじそうで罪悪感があるのでお前に食べてもらった方がいい、とは流石に言わずただ頷いた。それにマルスは目を輝かせながら受け取るとその大きな口でおにぎりに齧りついた。それだけで半分があっと言う間に無くなった。


「……!うまっ!何だこれ!」

「ただ味噌塗って焼いただけだぞ」

「中身なんだ」

「ナス」


あまりにがっつくのでチェリーは何だか本当に可哀想なやつだと思って、今度は小さいパックを彼に差し出した。


「?何だこれ」

「野菜の味噌漬け。こうしてると保存が効くんだ」

「こ、これも食っていいのか……?!」


完全にチェリーから見たマルスは腹を空かせた子犬であった。チェリーはマルスの問いにやはりやや引きながらも頷いて許可を出す。マルスは爪楊枝を受け取るとこれまた美味しそうにバリバリと音を立てて野菜の味噌漬けも次々と口の中へ放り込んだ。チェリーもそんな彼を不審そうに見ながら自分のおにぎりに口をつけた。


「……お前貴族だよな」

「んあ?そうだが?」

「だったらこんな庶民食よりさっきの料理の方が口に合うだろう」

「別に、貴族だって人それぞれだろ」


マルスはあっさりとそう言ったが、チェリーは尚も変わらず彼を見続ける。


「調べて分かったが、お前の家は公爵なんだな」

「……調べて分かったのか?」

「お前は知らんだろうが貴族の序列なんて一般市民にはほぼ興味のないことだ」


生まれ育った国でもないしな、とチェリーは追加した。それにマルスは口の脇についた米粒を親指で拭いつつ思い出すように視線を少し上に向けた。


「まあ、公爵家ではあるが俺は跡取りでもないし。与えられている領地もお前に案内したあの村近郊だけで、ほとんど期待されてないんだ。だからこそ自由に出来る」


マルスはそう言うとまたおにぎりと味噌漬けをガツガツと食べ出した。チェリーはそんなマルスを少しだけ眉を顰めながら真剣な眼差しでその横顔を見つめた。


(期待されてない……?跡取りじゃないと言うだけで公爵家なのにあんな辺鄙な領地しか与えられないのか?貴族のことはよく分からんが、よっぽど上の出来がいいのか……いや、やめよう)


チェリーは少し彼について考えようとしたところでその思考を止めて彼から視線を外した。


(どうせこいつも長く続く縁、という訳ではない。一時の人間関係を拗らせると面倒だ。しかも貴族。住む世界が違う奴についてあまり深く考えるのはよそう)


そう自分に言い聞かせると自身も静かにおにぎりを食べた。それと同じタイミングでマルスがあっという間におにぎりを食べ終える。


「なあ、そこの水取ってくれないか」

「ああ、これか」


マルスはチェリー後ろのティーテーブルに乗っている水のピッチャーを指す。チェリーはそれを見ると一旦片手で持ち上げようとして上手くいかず、おにぎりを膝の上に置くと今度は半身振り返って両手で持ち上げる。しかし思ったよりピッチャーが重かったのか、チェリーの体が傾きピッチャーがずり落ちそうになった。


「ッ、危ねぇ!」


マルスは咄嗟にその長い腕を伸ばしてチェリーの持つピッチャーを彼女の小さい手ごと掴む。必然的に前のめりになった体はチェリーをカウチに押し倒し、彼女の目の前には鍛え上げられたマルスの肉体があった。ふとお互い同じタイミングで顔を動かし視線が合う。思わず互いの時間が止まったような気がした。その時。


「ザクロ様、ご就寝前に当家特製のハーブティーはいかが、で……」


最悪のタイミングで部屋の扉が開いた。そこにはティーセットのトレーを持ったミルテが立っており、こちらを見るとその場で固まった。

カウチの上で寝そべっているように見える2人の男女。そして上に乗る男の方は上半身裸。どう解釈しても18歳の少女には刺激が強すぎたようだった。


「きゃああああああ!!」

「ちょ!み、Missミルテ!!誤解です!!」


マルスの言葉も虚しくヴァシリー邸に少女の悲鳴が響き渡った。



*



【アリシア18歳】


「おめでとうございます!男の子です奥様」

「顔を見せて。ああ、なんて可愛いの……」


アリシアは汗で張り付く髪の毛もそのままに新しく生まれてきた命をその胸に抱いた。そして元気よく産声を上げるその命に涙を滲ませた。周りの医者や看護師たちがそれに安堵していると寝室の扉が開く。入ってきたのはこの城の主人であり、アリシアの夫であった。


「生まれたか。アリシア、よく頑張ったな」

「旦那様。元気な男の子ですよ」


アリシアの夫は汗だくのアリシアを労うように額にキスを落とすとその胸に抱かれる小さな赤ん坊へ視線を移した。その視線は非常に慈愛に満ちたものでアリシアはそんな夫にふふっと小さく笑った。


「そんな眺めてらっしゃらないで、ぜひ抱っこしてあげて下さい」

「え?!わ、私がか?!」

「他に誰がいるのです。あなたが父親なのですよ」


くすくすと笑うアリシアに夫は戸惑いながらも看護師たちにサポートされながらまだ生まれたての小さい赤ん坊をその腕に抱いた。そしてまた愛おしそうな視線を向け、アリシアが横になるベットに腰をかけた。


「君に似ているな」

「あら鼻は旦那様似ですわ」


アリシアが夫の肩口から顔を覗かせて同じく赤ん坊を見る。医師と看護師たちは微笑ましい笑顔でそんな2人の後ろ姿を見守っていた。


アリシアがセレスディア王室から嫁いできて早1年。嫁いできた当初はいくら同じセレスディア国内と言っても土地や文化が異なり悩む日も多かった。しかし幸いなことにアリシアの20歳上の夫は非常に彼女に優しくしてくれた。

嫁いだ初日に1人では心細いだろうからとアリシアと同年代のメイドを側に付かせ、土地に早く慣れてくれたらと各地の学校へのボランティアにも参加させた。アリシアはこれが非常に嬉しかった。

王室にいた頃は同年代の友達はエドガーしかおらず、基本外には出してもらえない日々。城の中を歩いてもアリシアに冷たい人間の方が多く、いつも窮屈さを感じていた。しかしここに来てからは様々な土地で様々なことを学び、直接経験することができた。城に戻っても冷遇されることはなく、むしろまるでバラの花のように丁重に扱ってもらったのだった。

最初アリシアは20歳も上の、そして戦争で功績を上げたという武闘派の家に嫁ぐのは嫌で仕方なかった。しかし実際嫁いでみるとこちらの城の人達は皆アリシアを歓迎し、そして何より夫はアリシアのことを心から愛してくれた。そんな夫にアリシアも次第に心惹かれ、本日第一子がめでたく誕生したのだった。


「名前は何にしようか?」

「え?旦那様が決めるのではないのですか?」

「2人の子だ。2人で決めよう」


夫の言葉にアリシアは驚いた。セレスディア王室では女性に子供の命名権は無く、全て夫が決めるのだ。アリシアもそれが普通だと思っていたので子供の名前なんて全く考えておらず急に問われ思わずフリーズしてしまった。


「……あ、あの、今から考えますのでとりあえず3日くらいもらってもいいですか?全力で考えますので」

「いや、無理はしなくていいんだよアリシア」


アリシアの切羽詰まった顔に夫はやや苦笑いしつつもその直向きさに笑顔をこぼした。そんな2人の間に生まれた子供はのちに太古の神話から引用して「アポロ」と名付けられた。アポロは怪我や病気をすることなくすくすくと成長した。夫の遺伝子を多く継いだのか非常に運動神経が良く、歩くのも走るのもあっという間だった。しかしそれを夫に報告すると夫は必ず笑って、


「いや君だよ。君の打たれ強さに似たんだ」


そう言った。アリシアはそれに嬉しく思うと同時に、嫁いでから会わなくなってしまったエドガーをふと思い出した。アリシアは現在23歳。エドガーと最後に会った日からもう5年は経過していた。セレスディア王室から連絡がないのは予想していたが、エドガーについては彼のことだからどこかで尋ねに来てくれるのではないかと勝手に思っていたのだった。


(私が嫁いだことも、嫁ぎ先も、ニュースで流れたりもしたのだからエドガーでも知っているはずよね……研究がやっぱり忙しいのかしら)


もしくは勝手に何も言わず嫁いでしまったことを怒ってしまったのだろうか。アリシアは急にそんな不安に駆られた。そう思うといてもたってもいられず、アリシアはメイドに頼んで手紙を出してもらうことにした。今彼がどこにいるのかは分からなかったが、彼の父親はまだセレスディア王室の科学研究室で働いていると思ったのでそこに手紙を書いた。


「ごめんなさいシルビー。これを旦那様には秘密で出してもらえる?」

「旦那様には秘密、ですか?」

「あの人は優しい人だからきっと何かしてくれようとしてしまうわ。でも今は忙しいでしょう?あまり心配をかけたくないの」


この時セレスディア王国は一部国境の戦況が激化していた。そこにアリシアの夫も向かっており、帰らない日が増えていたのだ。シルビーと呼ばれたアリシアと同年代くらいのメイドは分かりました、と笑顔で了承すると直ぐに部屋を出ていった。アリシアがふと窓のから外を覗くとアポロが使用人たちと一緒に庭でかけっこをして遊んでいた。その光景に思わず笑顔が溢れる。


(エドガーも結婚していたりするのかしら。相手はどんな人だろう。子供はいるのかしら。うちの子と一緒に遊んで仲良くなってくれないかな……)


アリシアはこの時そんな期待に胸を膨らませていた。

事態が急変したのはその数日後。前線に出ていたはずの夫が急に帰城したのだ。


「旦那様!いかがしたのですか、帰宅はまだ先のはずじゃ、」

「なんだ!城主が自分の城に帰ることに理由がいるのか!!」


急いで出迎えたアリシアに夫は激昂した様子で怒鳴った。それに思わずアリシアは慄く。夫はアリシアが嫁いでからというもの無口なことが多かった。表情も固く最初は何を考えているのかアリシアも分からなかったが、徐々に不器用ながらもその優しさを見せてくれ、アリシアもそこに惹かれたのだった。しかし彼は結婚してから今までアリシアを怒鳴ることなど一回もなかったのだ。突然の事態にアリシアのみならず使用人たちまでも驚きに目を見開いた。

夫はというとそんな周りの様子は目に入っていないのか、興奮した様子で一直線にアリシアの目の前に来るとその細い肩を力の限り両手で掴んだ。


「っ……!だ、旦那様痛いです!」

「お前!俺がいない間に男へ恋文を送っただろう!!」

「?!な、なんのことですか?」


夫の突然の言葉にアリシアは驚いて聞き返す。しかし夫はとぼけるな、と再度怒鳴ってアリシアの肩を揺すった。


「メイドが内密に手紙を出したのを執事が見ていた!手紙の宛先はどこだ!何を書いた!」

「ま、待って下さい誤解です」


どうやら夫は以前アリシアがメイドに頼んで出したエドガーの父宛の手紙のことを言っているようだった。アリシアは夫の気迫に怯えながらも必死に説明した。


「あれは私の友人に送った手紙です。宛先はセレスディア王室の科学研究室です。そこに私の幼馴染も所属していて今どうしているか聞きたくなって手紙を、」

「何故過去の人間のことを必要とする!!?」


アリシアの言葉を遮るように夫が激昂する。その言葉にアリシアは目を見開いて固まった。夫はそんなアリシアにまるで狂ったように怒鳴り続けた。


「俺が今まで愛してやっただろう!あの閉鎖的な王室で1人孤独なお前を救い出してやっただろう!住みやすい環境や外に出れる機会も作ってやった!子供だって作った!なのに何故お前は過去を振り返ろうとする!何故俺を愛そうとしない!!」

「だ、旦那様落ち着いて下さい。私はあなたを愛しております。ただ私は友人と連絡が取りたかっただけで、」

「黙れ!お前はもう俺のものだ!!」


夫はそういうと呆然と立ち尽くす使用人たちを押し退けてアリシアの腕を強く引き、寝室へ入ると内側から鍵をかけた。その直前、夫は執事に地獄から響くような低い声で一言だけ言った。


「しばらく誰も来させるな」


その後扉はバンッと大きな音を立てて閉まり、次の日の朝になるまで開かなかった。

その翌年、アリシアはまた男の子を出産。名前は夫が1人で決めた。



*



「あの、本当にあれは誤解なんです……」


一夜明け、変わらず外の天気は雨。昨日よりは雨足も弱くなったものの部屋の窓をポツポツとノックし続けた。そんな部屋の中には8人がそれぞれ様々な面持ちで座っていた。

まずは中央テーブルの正面向かって右側にヴァシリー夫妻とミルテ。ミルテは両親に挟まれるように座り母親セシルに慰められるように寄り添っていた。

その向かい側にはマルスとチェリー。マルスは膝の上に乗せた拳を真っ白になるほどに握りしめておりその額からは冷や汗が流れ出ていた。ちなみにチェリーは無表情である。

そしてそんな彼らの背後、少し中央からは外れて壁際のソファーには奥から順番にニヤニヤするリック、静かに本を読むレオ、血走った目でマルスを睨むウィリアムが座っていた。

何故彼らが改めて集まっているのかと言うと、それは昨晩の夜に突如響き渡ったミルテの悲鳴にある。昨夜はそれぞれが使用人に案内され客室で夜を過ごしており、もちろんウィリアムとレオも例外ではなかった。


『僕、窓際じゃないと寝られないのでこっちで』

『どうぞ』


時は少し遡り昨晩。部屋に通されて早々、そう言ってきたウィリアムに対しレオは抵抗も反論もせずにすんなりと部屋奥側のベットに自身の荷物を下ろしテキパキと寝る支度を始める。そんなレオにウィリアムは眉を顰めながら彼を見た。


『……あんたは一々抵抗しないんだな』

『抵抗して欲しいんですか?』

『いや別に。上司たちとは違うんだな、と』


ウィリアムのその言葉はどこか感心している、と言うよりはレオを挑発している、そんなふうな口ぶりだった。レオは荷解きの手を一旦止めると窓を背にして立つウィリアムを自身の濃い紫色の瞳で見た。彼は得意げに意地の悪そうな笑みを浮かべており、レオに反抗されるのを今か今かと待ち構えているようであった。


『……なるほどもうそれは性分ですか』

『はあ?何のことだ?』

『その反抗的な態度の原因はやはりその銀毛でしょうか』


その瞬間、レオの顔目掛けて灰皿が飛んできた。レオはそれを難なく最小限の動きで避けると己の後ろで灰皿が壁に激突する音を聞きつつ正面を見る。そこには憎しみのこもった視線でこちらを睨みつけるウィリアムがいた。


『お前に!この銀毛の苦労がわかるか!!』


今から遥か昔。過去の聖書から始まった銀色の髪を持つ人間に対しての差別は一時期文明の発展や価値観の変化などにより緩和されたらしいが、戦争が始まり人々の心の余裕がなくなるとそれはあっという間に再開された。

特に銀毛の人間が何かをした訳ではない。ただ聖書に銀毛の罪人がいたと言うだけでその髪を持つ者たちはある時は意味もなく虐げられ、ある時は住んでいる地域から追い出される時もあった。そしてそれは辺境の地域ほど意識が強く、銀毛を持つ人間たちは必然的に都会を目指したがったが、今度はそんな行動から『銀毛は目立ちたがり』『銀毛は傲慢』など勝手な印象をつけられることになった。


『何もしていなくても盗人だと決めつけられ、何をしても傲慢だと笑われ、やっとの思いで『sun』に入れたと思ったら″その髪をブロンドにでも染め直してきてくれたら幹部入りを考える″などと馬鹿にされるんだ!!こんな世の中素直に生きるだけ損に決まっているだろう!!』


ウィリアムの言葉の端々から今まで苦労を重ねてきたのだろうことが何となくレオにも感じ取れた。レオはそんな彼を尚も無表情で見つめながら静かにズレた眼鏡のツルを指で押し上げた。


『貴方が今まで苦労されてこられたことは分かりました。しかし苦労されたからと言って悪戯に他人を傷つけていい免罪符にはなりません。それはむしろ同じ銀毛を持つ者たちへの足枷になるのではないでしょうか』

『だからお前のような貴族が知ったような口を、』

『と、私は妹たちに言い聞かせるようにしております』


その言葉にウィリアムは言いかけていた言葉を止め、眉間のしわを深くした。


『……妹?』

『私の双子の妹は生まれつき銀毛です』


ウィリアムはレオの言葉に一度目を見開いて驚き、しかし直ぐに厳しい目つきに戻して彼を睨んだ。


『ハッそんな都合のいい嘘に騙されると、』

『祖母家系に銀毛の方がいらっしゃるのです。妹たちは所謂先祖返りでした』


レオはそう言うと視線をカバンに戻し、また淡々と寝る支度を進め出した。


『大人たちは直ぐに妹たちと私を比べるようになりました。″銀毛だから成長が遅い″とか″銀毛だから発音が下手だ″とか。正直アホらしいな、と思いました』


目覚まし時計をセットしながら話すレオは、相変わらず事務連絡のように淡々と話していたが、その視線だけはほんの少しだけ怒気を含んでいるようにウィリアムは見えた。


『たかが色素の影響で人の成長に何か問題が発生すると本気で信じるより、どんな子供でも成長速度の個人差はあれど秘めている可能性は無限大だと思う方が何と有意義なのだろうかと』


そう言ってレオは目覚まし時計をサイドテーブルに置くと、もう一度ウィリアムに視線を戻した。


『だからこそ、妹たちにはよく言うのです。この世界には差別がある。お前たち2人は何をしなくても差別をされてしまうだろう。しかしそれに卑屈になってはいけない。それに屈してはいけない。多くの苦悩があると言うことは多くのチャンスがあると言うこと。そのチャンスを生かし、真っ直ぐに生き、これからも沢山産まれてくる銀毛の人たちの希望となるような人となりなさい。と』


レオの真っ直ぐな視線はウィリアムの瞳を同じく真っ直ぐに射抜いた。彼の淡々としながらもしっかりとした信念のある言葉にウィリアムは強く握りしめていた拳を解き、何か言いたげな顔をしつつもレオから視線を背けた。


『まあ今まで差別をされてこなかった私が言ったところで、ではありますが。それでも理解を示す人間が近くにいるかどうかがあの子たちの将来に関わってくるのだと私は思っております。リック大尉やマルス中尉のように』

『……?なぜそこであの2人が出てくるんだ?』

『だってあの人たち見てくれはどうであれ中身は5歳児と変わりませんから』


スパッと言い切ったレオにウィリアムは思わず息を呑む。レオの目が先ほどの真っ直ぐなものとは異なり急に据わったものになったからだ。


『中にいれば書類を無くすは破くは仕事サボって鍛錬しに行くは散々ですし、外に出れば女性と問題を起こすは物を大破させるはで何度注意しても治りません』


ですが、とレオは一旦言葉を区切った。


『1人でも多くの人の幸せのために命を懸けられる人たちです。その証拠に出会ってから一度も、あの2人は貴方のことを″銀毛″とは呼ばないでしょう』


その言葉にハッとした。レオはその様子に気づきながらも調子は変えずに続けた。


『ああいう人たちは誰かの盾になることはあっても自分自身のことは守れなかったりするのです。だからこそそんな彼らを1人でも多くの人間が支えてあげられれば、必然的により多くの人を幸せにしてあげられるのだろうと私は思っております』


ウィリアムはレオの言うことを理解はしたが、納得は出来なかった。だが何を言いたいのか感じ取ることが出来た。


『……この僕にあいつらの部下になれと言っているのか?』

『いえそこまでは。ですが貴方の対応次第で今回の任務はもう少しやり易くなるのではないかと思ったまでです』

『あんた、大人しそうに見えて意外と行動派だな。実は』

『よく言われます』


レオはそう言うとスッとベットに潜り込んでウィリアムを振り返った。


『では私は寝ますので』

『は、え?!お前いつの間に着替えた?!』

『″意外と行動派″なので』

『そう言う意味で言ったんじゃない!!』


気づけばいつの間にかパジャマに着替えて寝ようとしているレオにウィリアムが驚いた時、突然2階の方から女性の悲鳴が上がった。それに2人で目を合わせて慌てて飛び出し2階へ急ぐと沢山の使用人に囲まれるミルテと何故か2人一緒に部屋から出てきたマルスとチェリーがいたのだった。

そして時は戻り現在、8人は一部屋に集まり事情聴取、と言うことになったのだった。各々が押し黙る中、1番最初に口を開いたのはぐすぐすと涙を流すミルテだった。


「ラルゴー様どういうことなのですか?想い人はいなかったのではないですか?!」

「あの、その、これは……」


マルスは思った。自分は何を釈明すれば良いのかと。まず今目の前で泣いてしまっている子爵令嬢を泣き止ませなければとは思うがそれはイコール、マルスがミルテに気があることを認めてしまうようなものだった。だからと言ってお前に気はないし一々そんなことで騒ぐな等と言おうものなら恐らく同じく目の前で困惑の表情を浮かべるヴァシリー夫妻を傷つけるだろう。じゃあ何故あの部屋にいたのかと問われると、チェリーと知り合いであることがバレるわけにはいかないし、話をしたかったからと言っても今度は何故上半身裸だったのかだとか何故窓から入る必要があった等と追及されかねない。マルスは完全に思考がパンクしていた。その証拠に先ほどからいつもだったら正常に見えている筈の視界は今はやたらチカチカしていた。


「一つよろしいでしょうか」


そう言って声を上げたのはマルスの右隣に座るチェリーだった。それにマルスは救われたと思った。チェリーももちろん知っているがマルスは嘘をつくのが非常に下手なのだ。こんな危機的状況を乗り越えられる嘘など考えつけるはずもなかった。きっとこいつならこの場を収めてくれる、マルスはそう思った。が。


「あの写真は夫妻の結婚式のものですか?子爵」

「え?あ、ああ、そうです」


全然違った。嘘どころかこんな状況で全く関係のない話題を出してきたチェリーにマルスは思わず横目で睨んだ。しかしチェリーはというと真剣な顔で夫妻の後ろの壁に飾られている一つの写真を凝視していた。そして何が気になるのか、徐に立ち上がるとその写真に近づいた。

ちなみに全員彼女の行動にぽかんとした表情を浮かべている。それもそうだ。どう見ても修羅場にしか見えない状況で渦中である人物が全くもって話題に興味ないのである。この行動に少し感情が昂っているミルテはムッとして後ろ姿のチェリーに声をかけた。


「あの!今は皆さんわざわざお集まりいただいてお話ししているのですから席に戻って、」

「それは″龍″と関係あるのですか」


ミルテの言葉を遮るようにチェリーが口を開いた。そしてほんの少しだけこちらを振り返る。純黒の瞳に見つめられミルテは思わず少しだけ肩を震わせた。


「昨日も言いましたように私は″龍″の研究・調査を行うためにここに来ました。それ以外は興味ありません。……あとはそこの″酔っぱらい男″に聞いて下さい」

(?!)


チェリーの言葉にミルテは再び視線をマルスに戻すと焦ったように聞いた。


「ラルゴー様昨日は酔ってらしたのですか?」

「え、あ、……そ、そうなんです!昨日のワインで酔ってしまって!部屋に帰ってからもリックが寝た後に飲んでしまいまして、気づいたら外に出て壁をよじ登って彼女の部屋にたどり着いてしまったみたいなんです!いや本当に悪い酔い方をしてしまいお恥ずかしいです。申し訳ございません!」


マルスは捲し立てるように一気に話すと勢いのまま頭を下げた。ちなみに昨日は全く酔ってはいなかった。マルスはどちらかというと酒は強い方で昨晩の夕食に出された程度のワインではそうそう酔うことは無い。だが、ここはチェリーの出してくれたナイスパスに乗っかることにしたのだった。

マルスの言葉にヴァシリー一家は驚きながらもそんなこともあるのか、と思ってくれたようで頭を下げ続ける彼に優しく声をかけた。


「ラルゴー殿、頭を上げて下さい。確かにこちらとしても驚きましたが、そういうことなのであれば今後気を付けていただければ構いませんよ」

「本当にすみませんでした!もちろんザクロ様に手出しをしたわけでもございません!折角お屋敷に置いていただいている身だというのに節度のない行動、心から反省致します!」


ロウェルの優しい言葉にマルスはもう一度深く頭を下げて謝罪をした。しかしミルテはそれに微妙に納得していないようで膝の上の小さい手をぎゅっと握り締めた。


「でも、本当に何も無かったのですか?第一何故彼女の部屋に……」

「本当に何もございません。ザクロ様が止めて下さいました。彼女の部屋にたどり着いたのは本当に偶然です」

「でも……」

「まぁまぁミルテもういいじゃないか。彼がこんなに反省しているのだから」


マルスに食い下がるミルテにロウェルは優しい顔のまま彼女を諌めた。その姿は正しく慈悲深き聖人、そのものであったが、リックは1人その姿に違和感を感じた。彼は前を向いたまま隣のレオに小声で声をかける。


「……なぁどう思う?」

「マルス中尉ですか?酔って大雨の中壁をよじ登るとは流石やることが常識外だなと思います」

「あ、うん。それは俺もそう思うけど、そうじゃなくて」


レオの言葉にリックはやや苦笑しながら突っ込みながらも本題を切り出す。


「あの夫婦。特に子爵。普通娘の想い人の失態ならもっと怒るものじゃないか?」


リックに言われ、レオが静かに目を細めて正面のヴァシリー夫妻を観察する。ロウェルの方は終始ニコニコと穏やかな表情を浮かべており、妻セシルの方も口は出さないものの娘を慰めるのみで特に深くマルスを追及するような素振りは見せてなかった。


「……確かに。私も親ではないので分かりませんが、本来でしたらマルス中尉は屋敷を追い出されても仕方ないほどの失態だと言うのにここまで寛容だと逆に気味が悪い気がしますね」

「だろ?なんつーか、うまく言えないけど絶対にマルスを逃したくない、みたいな意地を感じる気がするんだよな」

「それの意図は?」


リックが思わず瞬きを数回して視線を正面から隣に向ける。彼の言葉に同じく小声で声をかけてきたのはレオのさらに隣のウィリアムだった。まさか会話に参加してくると思わなかったリックは戸惑うが、先にレオが口を開いた。


「まだ現段階では何も言えないかと思いますよ」

「両親が中尉を好きになるようにMissミルテを操っている、とかは」

「それも微妙でしょう。彼女の反応は純粋な乙女そのもののように思えます」


レオの言葉にウィリアムはぐぬぬ、と悔しそうに自身の爪を噛んでまた正面に座るマルスの大きな背中を睨んだ。その一連の流れの後にリックはようやく固まっていた口開く。


「……君たちいつの間に仲良くなったの?」

「特に仲良くはございません」

「癪に触るのでやめて下さい」

「……息ぴったりじゃん……」


レオとウィリアム双方から同時に否定され、逆にその息の合いようにリックは再度目をパチクリと瞬かせた。そんな中、しばらく無言で1人壁に飾られた写真を見ていたチェリーが再度声を上げた。


「すみません、もしかしてこの地域に″花向け″の習慣はありますか?」

「ええ、よくご存知ですね」


声を上げたのはセシルだ。その顔は少しチェリーに困惑しつつも当時のことを思い出しているのか嬉しそうであった。


「すみませんヴァシリー夫人。花向けとは?」

「結婚式に来ていただいた方々に式で使ったブーケの花々を幸せのお裾分けとして一本ずつ皆様にお渡しする文化です。オルガ公国の一部地方に伝わる伝統の一つで今の若い方は知らないと思っておりましたが、ザクロ様は博識なのですね」

「……いえ」


マルスの問いにセシルは丁寧に答えてくれたが、声をかけられたチェリーはというとこちらのことを聞いているのかいないのか非常に短く返答しただけで終わった。マルスは『なんだその返事は!』と怒鳴りたくなる欲求を何とか抑え込んだ。

そのチェリーはというとブーケの中のある一点の植物を指差してこちらを振り返った。


「このブーケに使われている植物は大半この庭の中にあるようですが、このギンバイカだけないのは枯れてしまったからなのでしょうか?」


チェリーが指した写真には確かにブーケの中に白い花をつけた木の枝が含まれていた。


「ああ、いえ。昔は裏の平原も庭代わりに使っておりまして。ギンバイカは私が嫁いでくるずっと前から生えておりましたので結婚式ではそこから何本か枝を拝借させていただいたのです」

「……裏の平原とはもしかしてここ最近頻繁に″龍″が降り立っている地のことでしょうか」

「ええ、そうです」


セシルの言葉を聞いた瞬間チェリーは目を見開くと今度は視線をバッと奥へ移す。その先にはウィリアムがいた。


「昨日調査をしたと伺いましたがギンバイカの年代調査は行いましたか」

「え?いえ流石にそこまでは、」


突然問われたウィリアムの驚き半分、戸惑い半分の返答を最後まで聞くことなくチェリーは踵を返すと一直線に扉へ歩き出した。全員がその行動に戸惑う中、チェリーは歩きながらマルスへ視線を送った。


「同行し調査補助を」

「え?あ、え、わ、分かった」


彼女の短い指示に思わずマルスの敬語が外れる。しかしそんなのを気にする余裕もなくマルスはすぐに立ち上がるとスタスタと勝手に行ってしまうチェリーの後を追いかけようとした。しかし。


「お、お待ち下さい!」


マルスの腕を咄嗟にミルテが掴んだ。その必死の声にチェリーも立ち止まり部屋を振り返る。ミルテは羞恥からなのか顔を赤くしつつもマルスの左腕を掴み、切なげな表情で彼を見上げていた。


「あ、あの、私も同行させていただけないでしょうか?」

「え?」


突然の申し出にマルスも驚きの声をあげる。もちろん彼女の両脇のヴァシリー夫妻も驚いているようだったが、彼女は本気のようでマルスの腕を掴む手にほんの少しだけ力を込めた。


「こんな雨の中、小山といえど外を歩くのは危険です。もしラルゴー様に何かあったら私は悔やんでも悔やみ切れないのです。お願いです、同行させて下さい」

「い、いえMissミルテ、危険があるからこそ貴女を同行させる訳には行きません。すぐに戻りますからこちらでお待ち下さい」

「で、でも……その方は行くんですよね」


そう言ってミルテは扉に既に手をかけているチェリーを見た。彼女も無表情のままミルテを見返す。


「そりゃ、ザクロ様は学者なので、」

「では私も勉強をさせていただきたいです。貴方をお支えしたいのです!」

「いらない」


冷たい声が室内にぽつりと響く。マルスもミルテも、そしてリックたちやヴァシリー夫妻も驚きの表情でその声のした方を見る。声の主、チェリーは不機嫌そうに眉を顰め吐き捨てるようにミルテに言った。


「″龍″の為に第一に行動できる奴以外はいらない」

「あ!おい待て!」


チェリーはそういうと静かに部屋を出ていく。それに慌てたマルスはスッとミルテの手から己の腕を抜くとその後を走って追いかけた。それにリックたちも慌てて立ち上がる。


「あいつまた勝手に……!すみませんヴァシリー子爵!少々失礼致します!」

「リック大尉、合羽がありますので私はそれを持ってから合流いたします」

「僕も調査道具を持ってから追いかける。先に行っててくれ」


それぞれがそう言うと、バタバタとあっという間に全員が部屋を出て行ってしまった。残されたのはヴァシリー夫妻と、呆然とマルスの腕がすり抜けた己の手を見つめるミルテだけだった。

ミルテは急に静かになった空間で震える口を開いた。


「お父様、お母様、私は何か間違ったのでしょうか……?」


そう言ってなき崩れるミルテをセシルが立ち上がって抱きしめ、そしてその頭を優しく撫でた。


「……ミルテ、恋とは片方だけの思いが強くてもダメなのです。貴女がそこまで辛いのなら、あの方を無理に追いかける必要は、」

「いやラルゴー殿は絶対にミルテの運命の相手だ」


セシルの言葉をロウェルが唐突に遮った。ハッとして彼女が夫を見ると、そこには少し焦ったような表情を浮かべるロウェルがいた。彼はミルテの肩を抱くセシルの手に己の手も重ねると優しい声で言い聞かせるように言った。


「ラルゴー殿のような家柄が良く、能力も申し分なく、なおかつミルテ自身が強く惹かれている。そんな相手にミルテをもらって頂けたら私たちも安心だろう?セシル」


そのロウェルの言葉にセシルは何も言い返すことが出来ず、泣き続ける娘をセシル自身の震える手でただ優しく包み込むことしか出来なかった。



*



「はあ?!全てのギンバイカの年代測定?何故ですか?!」

「理由は無いです。手当たり次第調べるだけです。半分は私が調べます。その年代測定機の所要時間は」

(言いたいことだけ言ってるな)


暗い空の下、雨が降りしきる中でやや裏返った声を上げたウィリアムにチェリーはただ淡々と指示をする。それを後ろで見ていたマルスは、嘘は上手いが演技は下手なんだなこいつ、と思った。


「それで?俺らは何をすればよろしいですかザクロ様?」

「……この道具を使ってギンバイカの幹の細胞を採取をお願いします」


リックがチェリーに後ろから話しかける。それに対しチェリーは目も合わさぬまま指示をした。そのやや冷たい反応にリックは少しため息を吐いたようだったが直ぐに指示された通り道具を受け取ると採取に向かった。その後ろを当然のようにレオが付いていく。


「ロー研究員、このデカブツをお借りしてもいいですか」

「あ?!」

「こっちにいても邪魔なのでどうぞ」

「なんだとコラ!!」


1人会話の輪から外れて全員を観察していたマルスの合羽をチェリーが徐に引いてウィリアムに声をかける。彼は何かの装置を操作しながらこちらに視線を向けもせずにマルスを突き放した。2人同時にぞんざいに扱われたマルスは抗議の声を上げたがもちろんそれは無視をされ、チェリーに袖を引かれると、ウィリアム、リックとレオとはまた少し離れた崖近くの方へ歩いていった。

そこにあるギンバイカの付近にチェリーが膝をつくとマルスもそれに倣って膝を突き、一応周囲を確認してから小声で声をかけた。


「チェリーお前な、」

「悪かったな」


マルスが言い終えるよりも早く何故かチェリーが謝罪の言葉を述べた。マルスは何のことかさっぱり分からないのと、チェリーが謝罪するという中々信じ難い光景に思わず固まった。そして5秒程度経った後にようやく口を開く。


「……え、な、え、な、なな何が……??」


情けなく非常にどもってしまったが、チェリーは特にそれに反応はせず、淡々と作業の準備を進めていた。その表情は深く被った合羽のフードによってマルスからは見えなかった。


「あの子爵令嬢を突き放して。あの娘お前に気があるんだろ」


マルスはまたしても彼女の口から出た予想してなかった言葉に驚いて目を丸くした。チェリーは”龍”に関すること以外は無関心だと思っていたからだ。マルスは数回パチクリと瞬きをしながら、やはり彼女は出会った当初とは少し変わってきている気がする、と1人心の中で思った。


「いや別に、あれはお前の対応で正解だろ。好奇心でついてこられてもこっちは仕事だ。正直困る」

「そうか。でも戻ったらフォローしとけよ」

「あ?何でだよ」

「お似合いだったろお前たち」


その言葉にマルスは無意識にチェリーの肩を掴むと、こちらに無理矢理顔を向かせた。理由は分からない。だが何故かその言葉に非常に腹が立ったのだった。


「それ本気で言ってんのか」


突然の行動に驚くチェリーの瞳を正面から間近で覗き込んできたそれは、薄暗い雨の中でもしっかりと金色に光っているように見えた。チェリーは以前も一度この瞳を見てはいるが何となく苦手だと思っており、直ぐにそれから顔を逸らした。


「別にあくまで感想を、」

「何で顔逸らすんだよ」


しかしすぐにマルスに引き戻される。その有無を言わせない行動にチェリーは、今度はマルスの金色の目を正面から見返すとキッと睨みつけた。


「お前が無理矢理動かすからだ!何なんだ突然」

「突然はお前だろ。なんで、んなこと言い出したんだよ」

「一応気を遣ってやったんだろ!」

「はあ?何だそれ。別にそんなとこに気を遣ってくれなんて頼んで無いだろ!」


周囲に響く雨音が幸いし、2人の声はリックたちのとこまでは届いてはいなかったが、だからこそ止めるものがおらず2人の言い合いは案の定ヒートアップした。


「お前何キレてんだ?私はただ感想を言っただけだと言っただろ!何が言いたいんだお前!」

「だから俺は!!」


そう言いかけて、急にマルスは言葉を詰まらせた。目の前には眉を吊り上げて言葉の続きを待つチェリーがいる。しかし続けるべき言葉があるはずなのに、マルスは何故かそれが急に分からなくなってしまい、金魚のように口をハクハクと動かしながら何とか現段階で思い浮かべることが出来るワードを頭の中で繋いでいった。


「俺は……」

「……」

「……その、………味噌の方が好き、だ」

「…………何の話だ?」


マルスの言葉に長い間を置いてチェリーが突っ込んだ。その顔には『こいつは馬鹿か?』としっかり書かれていた。その時。


ゴゴゴゴッ


突如大地が地鳴りを始めた。それに気づいた面々がハッとして立ち上がり周囲を見渡す。


「まさか地震か?!レオ通信機から連絡は!」

「何もありません。オルガ公国は地震大国ですから震源地が近いのかも知れません」


リックとレオが少し離れたところでそう声を上げた。しかしマルスとチェリーは地震じゃないと直感で感じ取っていた。突然揺れ出す大地のこの感じはつい先日″とある城″で体感したばかりであったからだ。


「リック!レオ!ロー!今すぐ平原から逃げろ!!」

「え?マルス?」


マルスの渾身の大声が平原に響き渡る。それにリックが驚きの声を上げたが、すぐにそれは掻き消えた。大地は突然揺れるのを止めると今度は各所に大きな亀裂が瞬く間に入った。それは全てマルスやリック、平原にいる人間たちのちょうど足元であった。


「ダメだ間に合わない伏せろ!!」


チェリーの声が響いたと同時に雷鳴のような轟音が響き渡り、大地は彼らの足元から大きく割れた。そして割れたところから土砂が流れ出し、一気に崖下へ流れていった。それは先ほどの地鳴りよりも大きい音を立てあっという間に周囲の森を巻き込んだ。

平原の1番手前にいたローは何とかその土砂崩れから逃れることが出来、咄嗟に飛び込んだ木の根元で恐る恐る目を開けた。そこには綺麗に真っ二つに割れた平原とそこを川のように流れていった大量の土砂があった。そしてリック・レオ・マルス・チェリーの姿はどこにも見えなかった。


(まさか″これ″に巻き込まれたか?!)


何故急に大地が割れたのか、という疑問よりウィリアムはさっきまでは普通に立っていたはずの人間たちが一瞬で消え去ったことに青ざめて慌てて土砂の下へ声をかけた。


「おーい!誰かいるか!!返事をしろーッ!!」


辺りは雨空の影響で暗く、土砂も木々が邪魔して下まで上手く見通せない中ウィリアムは最悪の事態を想定した。その時、彼の立つところから10m程下の地点で光がチカチカと点滅する。ウィリアムが慌てて木々の脇からそこが見える位置に移動すると、剥き出しになった木の根に何とか掴まっているリックとレオがいた。光の点滅はレオが持っていた通信機の懐中電灯機能のものであった。


「おい!大丈夫か?!」

「こっちは何とか大丈夫だ!マルスたちは?!」

「ここから見渡せるところにはいない!恐らくもっと下の方へ落ちたんだと思う!」


ウィリアムが声をかけるとリックは真っ先にマルスを心配したが、彼が見渡してもあの大きな体は今のところは視界に捉える事は出来ていなかった。ウィリアムの言葉にリックは一瞬厳しい顔をしたもののすぐに切り替えて木の根を掴む手に力を込めた。


「とりあえず俺たちを上に引き上げてほしい!上がろうにも足場が不安定で自分達の力だけじゃ踏ん張れないんだ!マルスたちが下にいる可能性があるならこれ以上被害を広げるわけにはいかない!」

「わ、分かった!じゃあヴァシリー邸からロープか何か貰ってくる!少し待てるか?!」

「やってみる!が、雨もあるからあまり時間はないと思った方がいい!」


その言葉にウィリアムは内心舌打ちを打ちつつも踵を返すとヴァシリー邸へ走り出した。その後ろ姿を見送ったリックはやや不安な面持ちで息を吐いた。


「……大丈夫かなぁ。俺割とまだやり残したこととかあるんだけどなぁ……」

「縁起でもない事言わないで下さい」


リックの言葉にレオが同じくため息を吐きながらツッコんだ。彼のトレードマークである黒縁の眼鏡は先ほどの土砂崩れで何処かへ飛んでしまったようで、裸眼のレオは周囲が見えにくいのかいつもより眉間に皺を寄せてリックを見上げていた。しかしその言葉はいつも通りハッキリとしていた。


「それに、彼は存外″意外と行動派″だと思いますよ」



*



(くそっ!くそっ!こんなことになるなんて聞いてないぞ?!)


ウィリアムは体の至る所を枝で引っ掻きながらも全速力でヴァシリー邸へ急いだ。先ほどの唐突な土砂崩れが起こってから既に5分。もし土砂の下に誰かが生き埋めになっている場合助かるまでの猶予はもうほとんど残っていなかった。それをしっかりと理解ているウィリアムはとにかく助けを呼ばなければと、力の限り小山の中を走った。そしてヴァシリー邸に着くと玄関に入るよりも、食堂に明かりがついているのを発見しそこに人がいると見込んで窓へ駆け込んだ。その中には幸いなことにヴァシリー夫妻、そしてミルテがおり、ウィリアムは急いで声をかけようと大きな声を出そうとした。しかしその前にこちらに気づいていないロウェルの言葉が中から響き、彼は動きを止めた。


「この薬をワインに入れてラルゴー殿に飲ませなさい」


それを聞いた瞬間ウィリアムの動きがピタリと止まる。ロウェルたちはウィリアムの立つ窓には背を向けておりこちらに全く気付く様子はなく、何やら手元に小さい錠剤のようなものを乗せて不安そうな表情のミルテに持たせようとしていた。


「お父様これは……?」

「少しだけ眠くなる薬だよ。昨晩のお酒の量で酔ってしまうラルゴー殿ならきっとこれでぐっすり眠ってくれるはずだ」


ロウェルはそういうとミルテの方を向いて彼女の肩に優しく手を置いた。その光景にウィリアムは己の頭を誰かに強く殴られたかのような強い衝撃を受け、思わず固まった。


「今日ラルゴー殿が帰ってきたらお前の部屋に呼んでこれを飲ませなさい。彼はきっとそのままそこで寝てしまうだろうから同じベットでお前も寝なさい」

「え?!」


ミルテの顔が強張り、驚きの声を上げる。しかしロウェルはそんな彼女の肩を優しくあやすように撫でるといつもの穏やかな笑顔で話した。


「大丈夫。同じベットでただ寝るだけで、何もしなくても構わない。あとは私たちがラルゴー殿に責任を取ってもらうように話すよ。責任感の強そうなあの方のことだ、きっとお前をお嫁にしてくれるよ」

「そんな……でも、それはあの人を騙すということでは……」

「……運命には時には後押しが必要な時もある。だがそんな少しの後押しで上手く歯車が噛み合って回り出すんだ。ラルゴー殿もお前のことを嫌っている訳ではない。少しだけ変わるチャンスを作るんだと思えばいいんだよ」


ロウェルはそう言って慈しみを込めた瞳でミルテを見つめた。ウィリアムはその瞬間己の中で何かのスイッチが入るのを実感し、無意識に握りしめていた手を思いっきり窓に叩きつけた。


「ここを開けろ!!」

「?!!」


突然後ろから響いた声にヴァシリー夫妻とミルテは全員驚いた顔でウィリアムを振り返った。ずぶ濡れのまま凄んだ表情で窓の外に立つウィリアムに尋常じゃない気配を感じ、ロウェルは慌てて窓を開ける。その表情には驚きと少しの焦りが浮かんでいるようだった。


「ど、どうしたのですか?先ほど皆さんで調査に出かけたばかりで、」

「今の会話はどういうことでしょうか?」


格好を気にせず、窓から入ってきたウィリアムの丁寧ながらも冷たい言葉に全員がビクッと体を硬直させた。問われたロウェルは一度生唾を飲み込むと少しだけ穏やかな笑顔を浮かべて口を開いた。


「ロ、ロー殿ずぶ濡れではないですか。今使用人にタオルを持って、」

「申し訳ございませんが」


別の話題に無理矢理切り替えようとするロウェルの言葉をウィリアムは躊躇なく遮る。彼は銀色の髪の隙間から同じく銀色の鋭い目でロウェルを睨んだ。


「僕は愛想笑いは嫌いなんです。それ、止めていただけますでしょうか」


その言葉に今度こそロウェルは言葉を失い青い顔のまま口を閉ざしてしまった。シン、とした空間の中ウィリアムは視線を彼らから逸らさないまま話した。


「先ほど貴方からMissミルテに差し出したのは睡眠薬ではないですか?そうですよね?」

「……家の専属医に私も処方してもらっている弱いもので、決してラルゴー殿を傷つけようとした訳じゃ、」

「聞こえてましたか。イエスかノーかで聞いています。言い訳は別にどうでもいいです」


調査に行く前とは明らかに違うウィリアムの口調にロウェルは視線を下げて彼の膝あたりを見た。しかしそれでも自身の頭に彼の視線が突き刺さっているのが見なくても分かってしまった。その責めるような視線と罪悪感にロウェルは耐えられなくなり両の手の拳を握りしめるとウィリアムに向かって頭を下げた。


「あの……本当に申し訳ございません……!娘に、ミルテに幸せになってほしいばかりに、行き過ぎた行動をとっている自覚はありました……!しかし、どうしてもミルテにはこの恋を成就させてやりたくて……!」

「お父様……!」

「自身の幸せの為なら誰かを犠牲にしていいと、そういうことでしょうか?」


ロウェルの言動にミルテが彼のそばに駆け寄ったが、それでもウィリアムの冷たい言葉は止まることなくむしろ苛烈さを増したように周囲は感じた。その瞳には怒りと憎しみが込められているようだった。


「……かつて、己の幸福を優先し破滅した男がおります」


ウィリアムは静かに語り出す。外は変わらず雨が降り続き、リックやマルスたちのことももちろん気掛かりであったが、それよりも今はこの人たちにどうしても言わなければいけないことがあった。


「その男は己の幸せの為に他人の功績を横取りし、己の幸せの為に周囲を腐敗させ、己の幸せの為に多くの人間を騙しました。ある時、その男は僕を呼び出してこう言いました。『その銀毛を染めさえしてくれれば君を幹部にしてやる』と」


その瞬間、ウィリアムはダンッと力一杯食堂のテーブルに己の拳を叩きつけた。それに3人が一様に肩を震わせた。ウィリアムは先程とはまるで別人のように怒りの感情を露わにしていた。


「何故僕が!他人の幸せの為に自分自身を変えなければいけないんだ!!何故生まれながらのことを否定されないと仕事の成果を認めてもらえないのか!!僕はその瞬間、この男の下にだけは絶対につかないと誓った!あのロバート・レブンにだけは!!」


その瞬間ウィリアムから見てもヴァシリー一家3人の目が変わったのが分かった。いくら別の国で起こった出来事だとしても同じ貴族が大勢巻き込まれた事件として彼らにもあの件は強烈なインパクトを残しているようだった。ウィリアムは感情のまま言葉を続けた。


「ヴァシリー子爵!貴方は先ほど娘の幸せの為ならとラルゴー中尉を貶めようとした!」

「わ、私はただほんの少し後押しを……!」

「薬を使って相手の意思に反する状況を作り出すことが本当に幸せに繋がるとお思いですか?!」


その瞬間ロウェルがハッとしたように目を見開いた。ウィリアムは例え嫌いであるマルスのことだろうと言葉が止まらなくなっており、その顔は怒りで真っ赤に染まっていた。


「誰かがこれで幸せになるからと、こうすれば全てがうまく行くのだから我慢してほしいと、言うことは簡単に出来るでしょう。しかし逆からすれば何故自分の幸せでもないに自分を変えなければいけないんですか。何故ありのままの自分では認めてくれないのですか」


遠くで雷鳴のような低い音が響く。まるでそれはウィリアムの怒りに呼応しているようで全員が彼から目を離せなくなった。


「そうやって他人の意思関係なく、己の幸せを優先しようとするその行為はロバート・レブンと変わらない!ヴァシリー子爵、貴方はあの男と一緒だ!!!」


そう言ってウィリアムはもう一度テーブルに拳を思いっきり叩きつけた。本来武闘派では無いのでそれによってウィリアムの拳も真っ赤に腫れていたがそんなことを気にする余裕もないほどウィリアムは怒りが頂点に達していた。それに誰1人言葉を紡ぐことができず、またしても沈黙が食堂を包んだ。

しかし唐突にウィリアムは踵を返すとまだ真っ赤の拳を握りしめたまま、3人に背を向けて食堂を出ようとする。それに少し慌てたように今まで一度も喋らなかったセシルが声をかけた。


「あ、あの、ロー様どちらへ?」

「……調査地で大規模な土砂崩れが発生いたしました」

「え?!」

「至急町から救助隊を送って下さい。僕は僕なりに対処いたします」


ウィリアムの言葉に全員がまた驚きに目を見開いたが、彼は特にそれについて詳細を話すことなく必要最低限のことだけ話すとさっさとその場を後にした。そうでもないとあそこにいた3人全員を感情のまま殴ってしまいそうであったからだった。


(……私も貴女の幸せは願っておりました。……Missミルテ)


食堂から出る際、一瞬だけウィリアムは驚き固まるミルテと目があったが言葉を交わすことはなく立ち去った。



*



「…………いっ……、クソッ……」


地面に顔を伏せるようにして意識を失っていたチェリーは頬に雨が当たる感覚で目を覚まし、直後全身の痛みに顔を歪めた。自身の体を見ると白衣は泥だらけで体の至る所に小さな傷はあったが、特に大きな怪我は無いようだった。

それに一安心して視線を上に上げると、すぐ横に大量の土砂と根の剥き出しになった木、そして自分と同じく地面に突っ伏したまま動かないマルスがいた。


「?! おい!大丈夫か?!」


チェリーは咄嗟に起き上がると痛みで悲鳴をあげる体を引き摺りながら彼に駆け寄った。そして彼の体に触れてその冷たさにゾッとした。彼の衣服はチェリーのものより損傷が激しく、体の方も致命傷はなさそうなもののチェリーよりも大きな怪我が沢山あり多くの血が流れ出ていた。

彼らがいるのは先ほどの平原から何十m下の湖の浜付近。あの時咄嗟の判断でマルスはチェリーをその腕の中に抱えると崖が崩れるよりも早く土砂に対して垂直に飛び、何とか土石流に巻き込まれるのは回避していた。しかし雨の崖下を生身で飛び降りて無事でいられるハズが無く何度もその身を地面に打ち付けながらようやくマルスの体は湖付近で停止したのだった。それによって意識を失い、尚且つ現在は大量出血によってそのまま命を落としてしまう可能性があった。

チェリーは彼の背中辺りにある大きい傷口を脱いだ白衣で強く縛って止血をする。そしてそれ以外の額や腹部にある傷も彼女の手で強く抑えて血がこれ以上彼の体から流れ出るのを堰き止めた。


(雨の影響もあるんだろうが、体温が異常に低い。このまま処置出来ずに放置すれば確実にこいつは死ぬ。……クソッ他にいた奴らは何やってるんだ?!)


チェリーは珍しく焦った表情を浮かべながら雨の降り頻る土石流の頂上を睨んだ。その時、湖の方から雨の音とは異なるザバッと言う何かが湧き出る音が鳴り、チェリーが振り返るとそこにはマルスの体と一緒くらいの大きなワニがいた。雨に濡れてその体は禍々しく黒く光っておりチェリーは一瞬状況が読み込めず固まってしまった。


(……冗談だろ?!)


大きなワニは水面から顔を上げるとあろうことかゆっくりとチェリー達のいる浜辺に上がってきた。その距離はほんの10mでマルスの足先に関してはまさにワニの目の前であった。


「……!この、来るな!あっちいけ!」


恐らくワニは動かないマルスを餌かもしくは別のワニだと判断したのだろう、こちらに気づいていてもゆっくりと近づいてこようとしたのでチェリーは普段だったら出さないような大きな声を上げてワニを威嚇した。しかし雨音の影響もあってかワニはチェリーの声に怯むことはなく、尚もゆっくりとこちらに距離を詰めていた。


「このッ……!」


このままではマルスがワニに食べられると思ったチェリーは立ち上がると自分の体重よりもずっと重いマルスの体を両肩を抱え込んで浜の上の方へ引き摺った。

現在マルスの体重は98kg。細身で小柄なチェリーが引き摺るにはあまりに重く、更に雨でぬかるんでいる地面に足や体を取られどれだけ必死に彼の体を上へ引っ張ろうともうまく運ぶことが難しかった。ハッとしてチェリーが再度ワニの方を見ると彼はあっという間にこちらに登ってきており、マルスの足がもう目と鼻の先にあった。

それを確認した瞬間、もう間に合わないと思ったチェリーはズボンのポケットから一本の注射器を取り出すと、ワニの頭の方に突き刺そうとした。

しかし、直前でワニの口が大きく開く。若干坂になっている浜に足を取られたチェリーはその大きな口の中にまるでダイブするように落ちていき、一瞬景色がゆっくりになるのを感じた。


ガンッ!


が、彼女がワニの口の中に落ちる前にワニの大きな口は突如降ってきた大きな足に踏み潰され、あっという間に閉口した。ふと気づくとチェリーの腹あたりに太い腕も回っており、彼女はゆっくりと後ろを振り返った。


「……お前、人外か?」

「ああ?!助けてやったのになんだそれは!!」


先程まで気を失っていたマルスがフラフラながらも目を覚まし、ワニに踵を落としたのだった。チェリーはそれに若干ホッとしつつも彼の体の丈夫さにやや引いた視線を向けた。


「普通、生身の体で崖から落ちれば大体無事ではないし、意識が戻って直後にワニの口を物理的に塞ぐこともできないだろ」

「知らないのか?ワニの口を開ける力はほとんど無いから上から抑えることが出来れば老人の力でも十分だ」


それに、とマルスはワニに踵を乗せたまま周囲を見渡した。そこには土砂に覆われた浜と何か盛り上がっている砂の小山があった。


「ここは多分この湖に住むワニ達の産卵場だったんだ。今の時期既に卵は孵っているだろうが縄張りを荒らされたと思って威嚇してきたんだろ。本当に食う気は無かったさ。多分な」


さらり、と言うマルスはゆっくりとチェリーを小脇に抱えたまま立ち上がると、ワニから足を下ろしさっさと浜を上がってワニから距離を取った。それにワニは途中まで彼を追いかけてきたが、浜を出るほどまで追いかけてくることはなく、急に動きを止めるとゆっくり湖の中へ戻っていった。

その光景にチェリーはやや顔をひねって彼を見上げた。その視線に気づきマルスも彼女を見返す。


「何だよ」

「別に。お前はやっぱりドMなんだなと」

「ああ?!」

「敢えて辛い道ばかりを選んでいる」


マルスの腕から解放されたチェリーは地面に立つと視線を彼から正面の灰色の湖に戻す。その後ろに立つマルスからは彼女の表情を見ることは出来なくなった。


「本当は動物が好きなんだろうに、好きじゃないと言う。助けなくてもいい人間を助けに、″龍″に飛び乗る。数多の人間に狙われる赤の他人を、自分のところに匿う。……何故そんなに苦難の道ばかりを選択する。いくら自分の体が丈夫だろうといつか本当に死ぬぞ」


彼女の忠告のような言葉にマルスは少し考え込むように無言になる。周囲には変わらず雨が降り注いでおり、ザアアという草を打つ音が2人を包んでいた。


「……目の前で何も出来ずに命がなくなっていくのが嫌なんだ。その為に自分が死んでもいいとまでは思っていないが、咄嗟に体が動く。……俺の本能みたいなものなんだ」


マルスは幼少期の記憶を思い出し、ゆっくりと瞼を閉じた。そしてチェリーの方にマルスの頭がトンっと落ちてくる。それにチェリーは一瞬ビクッと体を震わせたが、特に何も言わずただ彼の好きにさせた。

しかし彼の頭は何故かどんどん重くなり、耐えきれない重さになったあたりでチェリーはマルスを振り返った。


「おい!重いぞ!自分の体重を何キロだと、」


チェリーの言葉が最後まで言い切る前にマルスはチェリーに覆いかぶさるように倒れ込んだ。バッと焦ってチェリーがマルスの顔を覗くと彼は再び気を失ってしまったようで、その顔色はまさに真っ白だった。


「なっ!お前!言いたいことだけ言って!!おい!しっかりしろ!起きろ!!」


マルスの体をバシバシと力の限り叩くチェリー。しかし彼は一向に起きず、チェリーはマルスの巨体に潰される寸前であった。しかし、そんな時雨音に紛れながらも遠くから声が聞こえてきた。


「おーい!マルスー!!どこだー!返事をしろーー!」

「!おい!ここだ!!」


駆けつけてきたのは自分自身も傷だらけのリック達であった。その後ろには救助隊らしき人間達もおり、こちらを確認した面々は大急ぎで駆けつけすぐさまマルスを抱き起こすと担架に乗せた。


「ザクロ様!大丈夫ですか?!」

「私は大丈夫だ!それより彼の出血がひどい。すぐに輸血の準備を!」


リックの心配する言葉にチェリーはなんとか彼の現状を伝えた。その言葉に救助隊の人間達は処置の準備を手際よく始める。それにようやくホッとしたチェリーは緊張の糸が切れたのか、マルスのことも言えず、自身もその場で倒れるように気を失ったのだった。



*



「ねぇおかあさま、これはどういういみ?」

「えっと、″臓器″って言うのは心臓とかのこと。マルスにもあるでしょ。それが植物である″龍″にはないんですよーってこと」

「奥様。その本は流石に坊ちゃんにはまだ早いのではないでしょうか?」


若いメイドはそう言ってベットで小さい子供を膝に乗せて本を読み聞かせする女性に苦笑した。子供の手には先日発売され世界を騒がせた″ファンタジー小説″があり、明らかに5歳の子供が理解するのは難しそうな本であった。

しかし苦言をされた女性はというと朗らかな笑顔で首を振った。


「物事に早いも遅いもないわ。私は子供が興味を持ったことを最大限サポートしてあげたいの。……それにこれは″あの人″が書いた本だもの。子供に悪影響を与える本ではないわ」

「……奥様……」


そう言って女性は子供の頭を撫でながら直ぐそばの窓の外を見た。そこには小さめな庭の中にポツンと植えられている非常に小さい木があり、その目はどこか懐かしむようなものであった。


「全くあの人らしいわ。結婚の知らせに木の枝一本だけ送ってくるなんて」

「……奥様、あの、きっと彼の方も奥様に直接お話ししたかったと思いますよ」

「ええ分かってるわシルビー。全部お父様の妨害だったって」


そう言いながら女性は真剣に本を読む子供の横顔を覗き込む。そこには女性と同じ、金色の瞳が爛々と輝いていた。


「……結婚してから音沙汰なかったのも。こちらの手紙が届かないのも。全部お父様が私と″実家″の接点をなくす為にしてたこと。だから彼はせめても、と家の前に木の枝だけ置いて行ったのよ」


数年程前。女性の屋敷の前に一本の桜の木の枝がリボンを巻かれて置かれていた。使用人達はそれをただの悪戯だと思って捨てようとしたが、偶々それを見かけた女性が制止した。深い理由は特にはなかった。ただその桜の木の枝と、植物のことが大好きだった幼馴染の姿が重なった、それだけだった。

調べてみると巻かれていたリボンはウェディング用の物で、オルガ公国に結婚式のブーケで使った花をゲストに贈る″花向け″という文化があるのを知った。そしてそのまわりくどい行動から、親しかった彼が今まで音沙汰なかった理由を調べるきっかけになったのだった。


「きっとこの子が大きくなる頃にはあの桜の木も大きくなって花をつけるわね。今から楽しみだわ」

「奥様……」

「ねぇー!おかあさまー!」


女性の膝の上で大人しく本を読んでいた子供が突如声を上げた。


「りゅうに″しんぞう″がないってことは、りゅうはびょーきにはならないの?」


その言葉に母親は目を見開いて、そして少し悲しそうな顔をすると男の子の頭を撫でた。

親子は普段暮らす立派な城から、遠く離れたこの領地内の小さな小さな平家の家に療養に来ていた。原因は女性の重い病気である。彼女は元々丈夫な身体ではあったが、2人目の子供が産まれてから徐々に体調を崩し始め、昨年病を発症した。病の原因はハッキリとは分からなかったが、体が弱った原因は過度のストレスであると診断されていた為、親子は度々都会を離れ少人数でこの療養地を訪れていたのであった。


「いいえ植物には植物の病気があるのよ。でも大丈夫、植物のお医者さんもいるから病気になったら治してくれるわ」

「じゃあおかあさまのびょーきは?」

「お母様にも毎日診てくれる先生がいるでしょ?その人が治して、ゴホッゴホッ!」

「奥様!」


女性が急に咳き込みメイドが慌てて駆け寄る。それに子供も心配そうに母親を振り返った。


「おかあさま!だいじょうぶ?!」

「大丈夫、大丈夫よマルス」

「奥様横になって下さい!今先生を呼んできます!」


メイドはそう言って女性を寝かせると大急ぎで部屋を出ていった。母親と部屋に残された男の子はその大きな金色の瞳から大粒の涙を流しながら母親の服を強く握りしめた。


「おかあさま、おかあさま、しなないで」

「お母様は死なないわ。だってマルスと一緒に″龍″を見に行くんだもの」

「りゅうを?」


男の子がふと顔を上げると苦しそうな顔をしながらもしっかりとこちらを見つめる母がいた。


「そうよ″龍″は本当にいるわ。だからいつか一緒に見に行きましょう。ふふ、もちろんお父様もお兄ちゃんも一緒にね」


女性はそう言ってまた朗らかに微笑んだ。直後医者や看護師が部屋に入ってくると子供はメイドに抱えられて部屋を出た。


マルスの母。アリシア・セレスディアもとい、アリシア・ラルゴーはその年の冬。厳しい寒さを越すことが出来ずその波乱で短い一生を終えたのだった。








「…………母様……」


自身の低い声にゆっくりとその金色の目が開く。目の前には真っ白な天井が広がっておりあまり見慣れない光景にマルスはぼうっとする頭でしばらくそれを凝視する。耳元近くでピッピッ…、と規則的な機械音が聞こえ、視界の端に輸血袋のようなものが下がっているのを確認しここは病院か、とマルスはようやく理解した。

そして視線を今度はゆっくりと自分の右側へ動かすとそこには見慣れた人物がいた。


「……チェリー……?」


窓の直ぐ横で足を組んで椅子に座り、壁にもたれ掛かるように目を瞑っているチェリーはどうやら寝ているようで、窓の外の光が彼女の髪や長いまつ毛に反射しているように見えた。マルスはそんな彼女に無意識に手を伸ばした。


「……」


マルスの指は彼女のサラサラとした髪を撫で、指の間をすり抜けて下に落ちる様はまるで流砂のようだとマルスは思った。その髪の毛を指で持ち上げては下に流す動作をまだボー…とする頭で無意識に繰り返すマルス。するとそれに気がついたチェリーがゆっくりと目を開けてこちらを見た。


「……マルス?」


顔を上げた彼女の額には包帯が痛々しく巻かれていた。よく見ると至る所に絆創膏やガーゼなど治療の痕跡があり、マルスはそんな彼女を引き寄せるようにゆるい力で彼女の髪の束を握った。


「…………チェリー、……」


マルスの掠れた声にチェリーは目を見開いたままゆっくり立ち上がると彼の枕の横に手を置く。そしてまるで割れ物でも扱うかのように優しくマルスの頬に手を添えた。マルスの見上げる視線と、彼女の視線が絡み合う、その瞬間。


「……いっててててて!!何、何しやがんだ!!」

「……亡霊じゃないかと思って」

「それって自分の頬をつねるやつじゃないのか?!」


チェリーはマルスの頬を思いっきりつねった。確かにマルスのツッコむ通り本来であれば自分の頬をつねって確認する行為なのだが、珍しく困惑しているチェリーは咄嗟に目の前の彼の頬をつねったのだった。


「本当に生きてるのか?」

「失礼な奴だな!ちゃんと脈拍もモニターに映ってんだろ!」

「お前本当に数時間前まで死にかけてたんだぞ」


チェリーの言葉にマルスが口を紡ぐ。彼女は、はぁと息を吐くと椅子に座り直した。


「意識が無くなる前のこと覚えてるか?」

「えっと、確か平原の再調査に行ったら土砂崩れが起きて、一回気を失って、その後目覚めたらワニがいて、もう一回気を失った」

「そうだ。全身の裂傷による多量出血で本当に後一歩で三途の川を渡っていた」


マルスは横になったまま右隣に座る彼女を見る。その視線はやはり引いているような、憐れんでいるようなものであった。


「もうお前はドMだ。確定だ。普通の人間だったら今日だけできっと3回は死んでいる」

「おいその視線やめろ。結局助かったんだからいいじゃねーか!つーか3回って何だよ!」

「崖から落ちた時、ワニに襲われた時、そして私にのしかかってきた時だ」

「一つ明らかに他殺じゃねーか!!」


そう言えばこいつは色んな毒を持ち歩いていたんだと思い出したマルスはゾッとしながら精一杯彼女にツッコんだ。ふと、そんな彼女の後ろに無色透明なコップに水と共に入れられた何かの球根植物が窓際にポツンと置かれているのに気がついた。


「……何だその草」

「これか?ゼフィランサスだ。さっき平原の調査に行った時に見つけて拝借してきた」


″調査″と言う言葉にマルスはハッとしてほんの少しだけ枕から頭を上げた。


「そういえばリック達はどこだ?!怪我は?全員無事なんだろうな?!」

「おい!お前三途の川を渡りかけたと言っただろ!安静にしてろ!あの3人なら全員軽症だ。今は土砂現場の方にいる」


チェリーの言葉に少し安心したのか、マルスは頭を枕に戻すとはぁ、と安心したようなため息を吐いた。


「……俺はどれくらい気を失っていたんだ?平原調査はどうなった?」

「ほんの数時間だ。お前の仲間達はお前を病院に送り届けるとすぐに現場に戻った。私も病院で治療を受けてから向かったんだがすぐにお前のことを見ていてほしい、と追い返された。……まあ、だからほんの一瞬しか見れなかったが、現場は少し異様だったぞ」

「異様?」


マルスが視線をチェリーに戻す。彼女は腕を組んで窓の外、恐らくあの平原がある方を真剣な表情で見つめていた。


「多くの木や花が土砂崩れで流れたが、何故かギンバイカだけが全て割れた平原の中に留まっていた」

「……?どういうことだ?」

「……お前も経験しただろう。あの体の芯を揺さぶってくるような揺れに、自然ではあり得ない動きをする大地。恐らくだがあれは″龍″の仕業だ」

「!」


チェリーに言われてマルスはピオニー城での出来事を思い出した。地震のようではあるが、どちらかというと大地の中を何か生き物が這い回るような揺れに、まるで波のように流動したあの大地。そして直後地面は生物の形を形成し出し大空へと飛び立ったのだ。もうあの事件から1ヶ月近くは経とうとしているが、未だ鮮明に思い出せる光景にマルスは思わず生唾を飲み込んだ。

すると、マルスのいる個室の病室の外から足音が近づいてくるのが聞こえた。


「!マルス!お前もう目を覚ましたのか!」

「リック!レオも無事だったか!」


病室をノックして入ってきたのは先ほど調査に行ったと言われていたリック達であった。彼らも顔や手足など見えるところに幾つもガーゼが貼られており痛々しくはあったが、確かにマルスに比べると軽傷であった。ちなみにレオは土砂崩れで眼鏡を無くしていたのだが、全く同じ形のスペアを持ってきていたので今はほぼいつも通りである。


「マルス中尉流石ですね。中々人間レベルではあの大怪我の後すぐに目を覚ますのは不可能です」

「お前褒めてんのか?貶してんのか?レオ」

「ザクロ様も助かりました!こいつのことだから重症だろうとすぐに目を覚ますんじゃないかと思っていたので」

「……いえ。お気になさらず」


病室が一気に騒がしくなったな、と思いながらマルスは左隣に立つリックに声をかけた。


「ザクロ様から聞いた。平原調査に行ってたんだろ?どうだった?」

「あー、いや。二次災害が起きないように簡単に現地確認だけしたら直ぐに戻ってくるつもりだったんだけど、ちょっと別の事態が起こってて、それで今まで時間がかかってたんだ……その、ロー?」


リックは少し困ったように後頭部を掻きながら、珍しく歯切れ悪く言うと徐に先ほどから一言も話さないウィリアムに視線を投げた。

彼は入り口付近で腕を組んで立っており、その表情はどこか凪いだ海のように静かなものであった。こいつまでどうしたんだ、と不審に思うマルスをよそに、リックに声をかけられたウィリアムはスッともたれていた背中を壁から離すと何故か部屋の外に向かって「どうぞ」と声をかけた。

さらに不審がるマルスの目の前に現れたのはロウェル、セシル、そしてミルテのヴァシリー一家であった。


「ヴァシリー子爵?何故ここに?」

「お、起き上がらないでくださいラルゴー殿。私たちはあなたに謝罪しに来たのです」

「謝罪?」


咄嗟に身を起こそうとしたマルスにロウェルは手を前に出してそれを制し、非常に申し訳なさそうな顔で「謝罪がしたい」と言い出した。もちろんマルスは何のことか分からずポカンとして聞き返しつつ、そう言えばさっきも急にチェリーに謝罪されたな、と場違いなことも思い出した。


「あの、この怪我のことでしたら、これは完全に事故ですので皆様はお気になさらず、」

「いえ、その、それもあるのですが、そうじゃないのです……私はあなたを罠に嵌めようと致しました」

「?!」


ロウェルの言葉にマルスは目を見開いた。それはリック達も同じだったようで同じように目を見開いてロウェルの言葉の続きを待っていた。


「私は、その、あなたに薬を盛ろうとしたのです」

「く、薬?」

「はい、睡眠薬です」


それを聞いた瞬間マルスの顔が驚愕だったものから真剣な表情に変わる。睡眠薬といえば犯罪に使われることも多い薬の一つであったからだ。


「その、睡眠薬で眠って頂き、……娘ミルテと同衾させるつもりでございました……」

「なっ……!」


その言葉にマルスは思わず声を上げて咄嗟にミルテの方を見た。彼女は両手をきつく握りしめ、顔を真っ赤にして俯いていた。ロウェルはそんな娘を庇うようにその頭をマルスに向かって大きく下げた。


「申し訳ございませんでした……!全て私の独断で計画したことでございます……!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。一体何故、そんなことを……?」

「それは私が原因なんです」


戸惑うマルスに声をかけたのはロウェルの妻セシルであった。彼女も非常に申し訳なさそうな顔を浮かべており、隣の夫と並んで深く頭を下げた。


「私が……私が、ミルテの孫が最期に見たいと言ったからなんです。夫も、娘も、追い詰めてしまったのは私なんです……!」

「あ、あの、申し訳ないのですが順を追ってご説明いただけますでしょうか?最期とは……?」


マルスの言葉にセシルはゆっくりと顔を上げる。そしてミルテと同じ水色の瞳でマルスを正面から見つめた。


「……私の体にはもう治せない病がございます」

「!」


その言葉にその場にいた全員が驚愕した。少し細身な方だとは会った当初から思っていたが、病気を抱えているとまでは誰も想像していなかった。高齢なのはあるが、ロウェルもセシルもしっかりとした足取りで歩いているのを全員が見ていたからである。


「身体的なものではないのです……所謂認知症で、これから徐々に色んなことを忘れていくと主治医に言われたのが1年ほど前になります」


セシルはそういうとゆっくりと語り出した。


「幸いなことに現段階では進行は遅く、急に何かが変わることはないとは言われました。しかし診断を受けてから少しずつ物をなくすことが増え、使用人達の名前を思い出せないことが続いたのです。

その時私は恐怖いたしました。このまま夫のことも娘のこともいずれ忘れてしまうのか、と。ならばその記憶が消えてしまう前に最後の夢であったミルテの子供をこの手に抱きたいと言うことを2人に話しました」


セシルの話を聞いたロウェルとミルテは最初病のことにショックを受けたようだが、ショックだからこそその夢を叶えてあげたいと思うようになったらしかった。それからと言うものミルテは社交界に顔を出すようになり、夫妻のつてでお見合いをしたこともあったらしい。しかし中々本人が惚れ込む相手が見つからず悩んでいた時に出会ったのがマルスであった。

今まで誰にも熱中してこなかったミルテのその様子の変化に両親もいち早く気づき、そして何より運命を感じさせるお互いの名前にミルテとマルスをどうしてもくっつけたいと思うようになったらしかった。しかし思ったようにマルスが靡かず、焦ったロウェルはついに薬でマルスを眠らせて既成事実を先に作ってしまおうとしたらしかった。


「……超えてはいけない一線だというのは承知しておりました。しかし、娘のことばかり考えてしまい、私は悪魔の誘惑に負け、娘に薬を渡そうと致しました。しかしその現場を偶々目撃されたのがロー殿だったのです」

「……ローが?」


ロウェルの言葉に、マルスはそういうと未だ静かな表情で腕を組むローを見た。彼はただロウェルの頭を下げる後ろ姿を無言で見続けており、その様子は確かに今朝までの態度とは違っていた。


「ロー殿にお叱りを受けました。私の行為は娘の為、という免罪符を掲げたただの暴力であったと自覚致しました。ラルゴー殿、卑劣な持った私たちをどうかお許し下さい。悪いのは私なんです……!」

「違うわあなた。私なんです。私の願いが夫を追い詰めました!どうか罰は全て私に……!」


子爵夫婦に頭を下げられるマルスは困惑しながらも難しい表情をしていた。彼らが悪人でないのはもう知っている。今もこうして誰かを庇おうとしている姿は正しく愛情が織りなす賜物であると思った。しかしその内容は自分本位で、身勝手で、もし彼らの策にハマって薬を飲んでいたら自分はどうなっていたのだろうと、マルスは少しだけ悪寒がした。

決してミルテを嫌っているわけではなかったがそうやって無理矢理状況を作られてしまうのは誰だって嫌だろう、とマルスは思った。


「お前は何も言わないのか」


突如、チェリーの些か冷たい声が病室内に響く。マルスが視線を向けると彼女は窓辺に頬杖をついたまま横目でミルテを見ていた。ミルテは先ほどから手を固く握りしめて俯いたまま頭を下げる両親の横でただ立ち尽くしていた。問われた彼女はビクッと顔を上げてチェリーを見つめ返す。


「あ、あの……わ、私は……」

「この子は何もしておりません。この子はただ恋をしただけです……!それに何も罪はございませんでしょう」


戸惑うミルテを咄嗟にロウェルが庇った。妻セシルも彼女の震える細い肩に手を回してその身を抱き締める。それにチェリーは少しだけ目を細めると敬語を話すのも億劫になったのか不遜な態度のまま再度口を開いた。


「お前、それでいいのか。何かある度に両親に守られて、過保護にされて、自分の恋模様にまで口を出されて」

「え、そ、その……」

「そうやって頼り切っていいのか。お前の両親は恐らくお前より早く死ぬぞ」


その言葉にヴァシリー夫妻は目を見開き、マルスたちはギョッとしてチェリーに視線を集める。本来であれば今の発言は庶民同士でも諍いになり得るし、相手が貴族ともなれば裁判を起こされてもおかしくないレベルの発言であった。


「あ、貴女なんて発言を、」

「私の母は16の時に死んだ」


顔を青くしたウィリアムが流石に見かねて苦言を呈したが、それはまたしてもチェリーの冷たい声に遮られた。その彼女の表情はとても冷たく、暗く、そしてどこか辛そうに黒い瞳が鈍く光った気がした。


「父はその時点でもういなかった。頼れる親戚もなかった。金も必要最低限しかなかった。それでも生きなければならなかった。お前は親が死んでも地位も財産も手に入るだろう。だがそれだけで本当に生きていけるのか。そこまで親に頼り切って、意見も言えず、1人で世の中を生きていけるのか。財産等を手に入れるということはそれだけ良からぬ考えを持つ人間に狙われるということだが、それと1人で戦うことが出来るのか」


これは恐らく経験談なのだと、マルスは思った。

2歳で父親が失踪し、16歳で母親が死に、その後あのロバート・レブンに狙われ続けた。今の言葉はチェリーの半生が少しだけ垣間見えるような言葉であり、恐らくチェリーは彼女なりにミルテを心配しているのだろうとマルスは推測した。


「それともそういうものを全て丸投げできる結婚相手を早々に見つけておきたかっただけか」

「ち、違います!」


チェリーの言葉にようやくミルテは声を上げて否定した。ミルテは全員の視線が向けられていることに緊張しつつも一度唾を飲み込んで息を整えると意を決して口を開いた。


「わ、私は、その……本当に、ラルゴー様をお慕いしておりました……」


ミルテが顔を真っ赤にしてわずかに視線だけ動かしてマルスの方を見る。だがマルスと視線が合うとすぐに視線を下に逸らした。


「……ただ、結婚、となると正直まだ考えられてませんでした……」


その言葉にヴァシリー夫妻がハッとして娘の方を見た。ミルテは恥ずかしさと申し訳なさからなのか手で顔を覆い、その声は震えていた。


「お母様の夢を叶えたい気持ちももちろんあるんです……!ですが、……本当に子供で申し訳ないのですけど、ただ、知らない人と交流を深めるよりも、私はまだお母様とたくさん思い出を作りたかったんです……!」

「ミルテ……!」


恐らく初めて本音を聞いたのだろう、ヴァシリー夫婦は目を見開いて娘を見た。ミルテの手はまだ震えており、言葉もやや拙かったが、彼女は本音を出せたことで少し勇気がついたのか自身の胸あたりでグッと手を強く握ると視線を上げて己の両親を見つめた。


「最期なんて、言わないで下さいお母様!私はまだ教わりたいお料理やお花のことが沢山あるんです!お父様も、素敵な人をご紹介頂けるのは本当に嬉しいです。ですが、いつか私1人でこの領地を治められるようにもっと勉強もしたいのです!それも全てお二人がいる時でないと出来ないと思うのです。本当に、本当に、我儘な娘で申し訳ございませんが、どうかお二人と過ごす時間を増やしていただけないでしょうか……?!」


ミルテはそう言い切ると勢いよく両親に頭を下げた。言葉の最後の方は声の震えが大きくなり目にはうっすらと涙の膜が浮かんでいたがそれを零してしまう前にミルテは全てを言い切ったのだった。

一方両親はというと娘が今までそんなことを思っていたとは知らなかったようで一瞬2人で顔を見合わせて呆然と頭を下げる娘を見ていたが、しばらくして優しくその頭に手を乗せた。


「ミルテ、顔をあげなさい」

「……」


ロウェルの言葉にミルテはゆっくりと顔を上げる。案の定ミルテの大きな瞳からは涙が溢れ出てしまっており、可愛らしい鼻は真っ赤になってしまっていた。セシルはそんな娘に優しく笑いかけるとそっとハンカチを差した出した。


「……私は何十年と領主をやっていても失敗をしてしまう人間だ。それでもそんな私から学びたいのかい?」

「私ももしかしたらいつかレシピを忘れてしまうかもしれないけど、それでもいいの?」

「……!も、もちろんです!勉強をさせて下さい!」


両親の言葉に再度ミルテは声を大きくして勢いよく頭を下げた。そんな慌ただしい娘を笑顔で諌める2人の目にはうっすらとこちらも涙を浮かべているようにマルスは見えた。ふと周囲を見渡すと、その光景を見ていたウィリアムも少しだけホッとしたような顔を浮かべており、あえてキツい言葉を放ったチェリーは彼らに向けていた厳しい視線をフッと逸らしていた。


「……あのー……お話中のところ、申し訳ないのですが、そろそろよろしいでしょうか……?」


微笑ましい光景に、非常に申し訳なさそうに水を差したのはリックであった。そして彼の言葉にマルスもハッとする。そういえば自分達は平原調査の途中であったと思い出したのだ。


「も、申し訳ございません!こちらばかり話してしまいました……!そろそろ失礼させて頂きます……!」

「あ、すみません、その前に少しだけよろしいでしょうか?」


こちらも状況を思い出したロウェルがハッとして退出しようとしたところ、それをウィリアムが止めた。彼は白衣から通信端末を取り出すとその画面で何かの資料を見ながら妻セシルの方へ声をかけた。


「少々確認させていただきたいのですが、奥様はかつてあの平原を庭のように扱っていたのですよね。その時何を植えたか覚えておりますでしょうか」


ウィリアムの言葉にセシルは動きを止めると、少し困ったように眉を下げた。


「そうですね……もう5年はあそこに登っていませんでしたので、定かではありませんが……大体今の庭に植えている植物たちを上にも少し植えていたかと思います。それがどうかいたしましたか?」

「実はザクロ様の提案で平原にあったギンバイカの年代測定を行ったのですが、少し奇妙なことが分かったのです」


ウィリアムはそういうと自身の通信端末の画面をホログラムモードに変え、病室にいる全員に見えるようにした。


「それぞれ縦のグラフがギンバイカの年齢を示しています。分かりますでしょうか?全てまったく″同じ″なのです」


彼が指し示すグラフは確かに全て同じ高さになっており、横の数字は『40年』を示していた。


「普通自然に生えた木であれば年齢は異なります。このように全て一致する場合は人の手によって″挿し木″が行われた時です」

「挿し木?」


ウィリアムの言葉にマルスが疑問の声を上げた。それにリックがチラリと彼の方を向いて答える。


「確か一部の木の増殖方法だな。木の枝を折った後でも水につけてまた土に挿せば根を生やして成長を続けるんだ」

「ヒトデみたいなもんか」


リックの答えにマルスは納得した声を上げたが、自分の右側から『そんなことも知らないのか』と言った無言のプレッシャーを急に感じ、またウィリアムの方を向いて話の続きを促した。


「奥様にお伺いいたしますが、ギンバイカを40年ほど前に挿し木で増やしましたか?」

「い、いいえ。40年前といえば私はまだ嫁いできたばかりの頃です。それにこのグラフの数が、現在のギンバイカの数ということですよね?こんな、20本以上も5年前は生えてはおりませんでした」


困惑したように話すセシルにウィリアムは何か分かったように頷き「なるほど」と小さく呟いた。


「ならやはり、このギンバイカたちが今まで来ていた″龍″に乗っていた植物で間違い無いでしょう。そして全て同じ年齢なのは″奥様が挿し木をした″からで間違い無いです」

「え?いえ、ですから私は、」


セシルはそう言いかけてハッとした。そしてバッ振り向きあの黒い眼差しでこちらを無言で観察していたチェリーに視線を向けた。


「そうです。恐らくですが、あのギンバイカたちはあなた方夫妻の結婚式で″花向け″したギンバイカの″子供たち″です」

「!」


チェリーの言葉にセシルやロウェル、ミルテも目を見開いて驚いた。もちろんマルスたちも同様である。それにウィリアムが「しかし」と言葉を加える。


「何故40年も前の植物たちがまた故郷に戻ってきたのかは分かりません……。これが動物でしたら帰巣本能かと考えられるのですが、現在のところまだ″龍″について感情面でのデータは不確実なものばかりです。もしかしたらこれが大発見の一部かもしれませんが、やはり何故今になって戻ってきているのかを解明しないと何とも言えません」


その言葉にマルスもうーん、と唸った。確かに大体の生き物には帰巣本能がある。それは安全地帯で己の子孫を守る為だったりするが詳細は今の科学でもまだ完全には解明出来ていない。なのでそれが植物にもあるのかと言われるとまだまだ研究不足である、としか言えないのはマルスにも分かった。それと同時に昨夜チェリーが言っていた″異常事態″だという言葉が何となく今になって分かった気がした。


「あの、先ほどザクロ様が″子供たち″と仰いましたが、″親″である木もまだあるのでしょうか」


控え気味にそう尋ねたのはロウェルだ。彼の言葉にウィリアムは頷きながらもやや眉を顰めて答えた。


「恐らく……としか現状では言えません。と、言いますのも先ほど全員で平原調査に向かった際に偶々私が調査しようとした他よりも古そうなギンバイカがあったのですがどこか元気が無く、病気の可能性も有り、とりあえず年代調査を優先しようと幹に器具を挿入しようとしたところであの土砂災害が発生したのです」


ウィリアムはあの時の状況を振り返るように言い、考えるように腕を組んだ。


「……ただ、今思うとあれはギンバイカたちの″拒否行動″のように感じられます」

「拒否行動、ですか?」


訝しむロウェルの言葉に「そうです」と短く同意をするとウィリアムは再度言葉を続けた。


「もちろんあの時は雨が降っていましたが、それでも土砂災害を起こすようなレベルではありませんでした。それに、先ほどラルゴー中尉を病院に送り届けた後にもう一度平原に行ったのですが、大地が散り散りに割れていたのです。普通の土砂崩れであればそうはなりません。……あの土砂災害はギンバイカたちが起こした可能性が高いのです」

「そ、そんな!」


ロウェルが慌てたように声を上げる。その目は少しの焦りと恐怖が滲んでいた。


「それは″龍″による行動ということですか?″龍″が人間を攻撃することは無いのではないのですか?!」

「貴方がシマウマだったとして」


ロウェルの言葉に真っ先に答えたのはチェリーだ。その声にロウェルはハッとして彼女を振り返った。


「もしライオンが後ろから迫って来たらどうしますか」

「……え?そ、それは逃げると思います……」

「植物は逃げられません」


チェリーの鋭い視線がロウェルを捉える。まるでこちらの方がライオンのようだとマルスは心の中でひっそり思った。


「何年、何百年、何億年と時を重ねてようやく植物はその身を動かす術を手に入れました。それがある今、人間に一切攻撃してこないとは言い切れないでしょう」

「そ、そんな……、では攻撃してくるかもしれない生物が今我が家の裏に住み着いているということですか?!」

「落ち着いて下さい。理由もなく襲ってくる生物の方が自然界では稀です」


焦りを露わにするロウェルをチェリーが静かな言葉で諌めた。ただロウェルの気持ちがマルスにもよくわかった。

″龍″は植物の集合体であるので降り立った後のことに関しては特に警戒心を抱く人間はいない。しかしそれがもし自分や家族を襲う可能性があるのなら話は別であろう。もし自宅の庭に人喰いライオンがいたら誰だって恐怖心を抱かずにはいられない。その恐怖の原因を一刻も早く消し去りたいと思うのは当然であった。


「では……、その理由というのは何なのでしょうか?」

「申し訳ございませんが現状ではまだ」


チェリーの言葉にロウェルは絶望したように顔を青くした。それはセシルも同じで右手は夫であるロウェルに、右手は娘のミルテの背中に添えられていた。そのミルテは両親と違い、何か考えるような表情を浮かべていた。


「単純にギンバイカに危害ももたらさなければいいのでは無いでしょうか。昨日は普通に調査は行えてましたよね」

「だからこそです。ギンバイカが原因だとしても何が彼らにとって″危害″ということになるのか、ハッキリさせる必要はあると思います」


発言したのはレオである。しかしウィリアムは難しい顔をして首を振った。それならば、と今度はリックが口を開く。


「じゃあやっぱりその病気のギンバイカに何かあるじゃ?詳細を調べることは出来ないのか?」

「やってみないと分かりませんが、またあのような災害が起きる可能性があるのに再度調査を行うのは危険すぎる気がします。今回死人が出なかったのが奇跡的なのですから」

「まぁ確かにな……」


リックがチラリとマルスを見た。今回体の頑丈なマルスだからこのくらいで済んだものの、通常の人間であれば土砂崩れにまともに巻き込まれたのであれば即死してもおかしくは無いのである。それを何度も行うのはあまりにも無謀であった。


「あ、あのっ」


小さな声を上げ、控えめに手を挙げたのはミルテであった。彼女は全員の視線を集めていることに緊張から顔を赤くしつつも一度息を整えると口を開いた。


「あの……″子供たち″が″親″を心配して飛んで来た……ということは無いのでしょうか?」

「!」


彼女の発言にウィリアムとチェリーの科学者2人がハッとした。しかし色々と思うところもあるみたいでそれぞれ考え込むように一旦沈黙し、先に口を開いたのはウィリアムの方であった。


「可能性としては、高いです。病気になった親を心配して各地から飛んできたのであれば″龍″が飛来するようになった時期とも重なります。……しかし自然界において『親が子を守る』行動は確認出来ても『子が親を守る』行為は未だに確認出来ていないのです」

「そ、そうなのですね……」

「……可能性がないわけじゃ無い」


次に口を開いたのはチェリーだ。


「自然界でそういった行為が確認出来ない理由の1つとして、野生動物の寿命が短いから、というのがあります。これが100年平気で生きる植物なのであればもしかしたらそう言った行為があってもおかしくは無いのかもしれないです」


チェリーのその言葉にミルテは少し顔を明るくさせた。しかしすぐにチェリーは眉を顰めた。


「ただそうなると厄介なのは、その″親″の病気を治さないとギンバイカたちが警戒心を高めたままであろうことです。治療しようにも木に手を出せばまた牙を剥いてくる可能性が高い。この雨の多い地域では病気の自然治癒の可能性も低いでしょう」


彼女はそう言って窓の外を見た。外は既に雨が上がってはいたが、変わらず曇り空で遠くには大きな雲も見えた。


「元々雨が多い地域ということは、植物の病気も多いのでしょう。逆に約40年病気も何もしなかったのが不思議なくらいです」


チェリーの言葉に全員がうーん、と黙り込んだ。マルスはその間に話を流れを頭の中で整理した。


(えー、平原にあったギンバイカたちは一部を除いて全て同い年の言わば兄弟木。元はヴァシリー夫妻の結婚式でブーケに使われたギンバイカを花向けしたもの。それが40年近く経った今、親木が病気になり子供たちが″龍″になって次々飛来。その親木の近くを歩くのは問題ないが、触れようものなら土砂災害。恐らく病気を治療しないとそのまま危険状態が続く……ってことか?)


マルスは全快ではない頭であったが何とか状況を整理した。しかし整理してみても何かいい案が簡単に浮かんでくる訳でもなく、とりあえずマルスは全員が悩んだ顔を浮かべる部屋の中を見渡した。ふと、その時先ほども少しだけ話題に上がったものが目に入る。


「……そう言えばザクロ様」

「なん、……なんでしょうか」


チェリーは不意に声をかけられ咄嗟に敬語じゃないまま話そうとしてすぐに言い直した。その顔は若干不機嫌そうで、マルスは一瞬話し続けるのを躊躇したが、ここで止めた方がもっと怒られそうだと判断し言葉を続けた。


「その植物、もしかして毒があったりしますか?」

「……よく分かりましたね」


チェリーは若干意外そう驚き、マルスはやっぱりな、と納得した。チェリーは何度か毒や、人体に害のある植物を使ってマルスを怖がらせている。その経験から彼女がわざわざ採取してきたこの植物も何か毒があるのではないかとマルスは疑ったのだった。そしてその予想が的中したことに嬉しい反面、再度この女は恐ろしいと恐怖した。


「あのヴァシリー夫人、もしかしてこの植物も平原に植えていたのではないでしょうか?」

「え?ああ、レインリリーですか」

「レインリリー?」


セシルの聞きなれない言葉に思わずマルスは聞き返した。先ほどチェリーが言っていた植物の名前とは違っていたからである。


「ゼフィランサス、という正式名称らしいのですがお店に出回るときはレインリリーと呼ばれる時が多い植物なのですよ。名前の由来は雨が降った後に一斉に花が咲き誇るというところからで、この地域にぴったりだと思って買って来た記憶があります」

「それは何年前でしょうか」

「大体ですが、10年前だったと思います」


正確ではないのですが、とセシルは申し訳なさそうに話した。ただマルスはそれでピンと来て、セシルよりも更に申し訳なさそうな顔をした。


「……あの、大変申し訳にくいのですが、もしかしてそれが原因ではないでしょうか……?」

「え?!」

「どういうことだマルス?」


マルスの言葉にセシルは再び驚いて口を覆い、リックは突然″らしくない″ことを言い出した相棒を見つめた。それはリックのみならずレオやウィリアム、チェリーも同様で『脳筋が言い出すんだ』という顔でマルスを見ていた。そんな失礼な視線に囲まれながらマルスは答えた。


「Missミルテ、昨日平原をご案内いただけた際、あの周辺には野生馬がいると仰いましたよね。もしかして10年前にはその馬たちはあの平原に来ていたのではないでしょうか」

「えっ、ええ。そうですね、いつからか寄り付かなくなりました」


突然マルスから声をかけられミルテはあたふたしながらもしっかりと答えた。それにマルスは少しだけ息を吐いてから口を開く。


「野生馬は毒草がある地域には近づかなくなるんです」

「なるほど……」


マルスの言葉にチェリーが納得の声を零した。見渡すと他の面々もなんとなくマルスの言いたいことを察したようであったが唯一ミルテだけがポカンと頭の上にはてなマークを浮かべていた。


「野生馬は嗅覚が鋭いのでそれで食べられる草、食べられない草を判別しています。あの平原に初めて行った時馬の好きそうな柔らかそうな草がたくさん生えているのにあまり寄り付かないということを聞いて少し意外でしたが、毒草が生えていたと聞いてようやく分かりました。もちろんヴァシリー夫人もそんなつもりはなかったと思いますが、レインリリーが植えられて以降馬は少しずつ平原を避けるようになったのでしょう」

「え、えっとラルゴー様、……その、馬とギンバイカの病気に一体なんの関係が……」

「馬糞です」


戸惑うミルテにストレートに言葉を投げつけたのはチェリーであった。ちなみにその言葉に戸惑いや躊躇は一切ない。


「生き物の糞というのは植物にとって非常に栄養価が高いのです。本来雨の多い地域ですと死んだ植物に生えるキノコなども多いのですがこの地域には少ないところを見ると、野生動物と植物が上手く共生関係を結べていたからでしょうね。ちなみに動物の糞は園芸店に売っている肥料にも普通に含まれていますよミルテ様」

「?!」


チェリーの言葉にミルテは顔を青くしてバッとセシルを振り返った。それにセシルが慌てて答える。


「もちろんそういうのもあるけど、うちで使っている肥料には入っていないわよ」

「そ、そうなんですね……」


ミルテはどこか安心したようにホッと胸を撫で下ろした。どうやらまだ弱冠18歳のご令嬢には『糞』というワードは少し衝撃が強かったようであった。


「じゃあ、やることは決まったな」


そう言ってチェリーが立ち上がる。それにマルスは、やはり″あの時″の嫌な予感は確信であっていたなと、どうでもいいことを思い出しつつ若干現実逃避をした。



*



それからマルスたちはその地で怒涛の1週間を過ごした。まず土砂災害の次の日から土砂の撤去作業。『moon』本部からリックとマルスの部隊の人間を呼び寄せ、総勢約60名で作業は行い丸3日はかかった。その後は3つの班に分かれ、チェリーの指示の下肥料を配合する斑と、ウィリアムの指示の下ギンバイカ付近の土に肥料を撒く斑、そして野生馬の馬糞を集める班に別れて作業を行った。(馬糞回収班からはもちろん批判殺到でありそれをなんとか諌めたにリックがしばらく胃を痛めた)

その間、意外と活躍したのはミルテである。彼女は肥料を撒く班の手伝いを自ら進んで行い、連日雨も降る中作業する面々を差し入れで励ました。ウィリアムは最初そんな彼女をやや遠くで見守っていたのだが、ミルテの方から積極的に分からないことはウィリアムに質問し彼も一つ一つ丁寧に教えた。ヴァシリー夫妻もそんな娘の逞しい変化に、あまり手出しすることはしなくなったらしく、『moon』の隊員たちの宿や食事の手配は全て進んでミルテが行ってくれたらしかった。

ちなみにマルスが復帰したのは土砂災害から5日後。本来であれば背中や腹を何十針も塗ったのだから全治1ヶ月はかかる筈なのだが、驚異的な体力と回復力を持つマルスは早々に退院すると体を慣らす為と称して現場復帰を果たした。

そして本日、全ての作業を終えた面々に帰還命令が下ったのだった。


「ヴァシリーご夫妻、そしてMissミルテ、本日まで大変お世話になりました」

「いいえニコルズ殿、こちらこそ我が家の為に最善を尽くして下さり誠にありがとうございました」


ヴァシリー邸の門の前でリックとロウェルがお互い頭を下げた。リックの後ろにはそれぞれマルス、レオ、ウィリアムがおりその後ろに彼らが乗ってきた車がある。そしてロウェルの後ろには優しい笑顔をたたえたセシルと1週間前よりも少し堂々としたように見えるミルテが立っていた。

既にマルスとリックの部隊の隊員たちは昨日帰還しており、事務手続きの為残っていたこの面子であとは最後であった。そんな彼らを最後に見送ろうと、ヴァシリー一家は出迎えの時と同じように来てくれたのだった。


「いえ、私どもが出来たのはあくまで最低限のことのみです。まだ今回の″龍″について正確な詳細が判明していない分、残念ながら今後あのような災害が起こらないとは断言出来ません」

「それでも土砂の撤去作業や植物たちに栄養を届けて下さった。それはあのギンバイカたちにも伝わっていると思いますよ」


リックはやや悔しそうな顔で謝ったが、それをロウェルが穏やかな笑顔で否定した。取り乱すこともあったが、やはり終始上品な人だと改めてマルスたちは思った。


「あの、ラルゴー様」


ミルテが一歩前に出てマルスに声をかける。マルスはそれに少しだけビクリと肩を震わせながらも平然を装って返事をした。


「はい、なんでしょうか」

「……あの、今回は、本当に沢山ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございませんでした……」


そう言ってミルテはマルスに、ひいてはリックたち含む全員に深く頭を下げた。マルスはそれに少し驚きながらも「いや、」と声をかける。


「もう十分謝罪はしていただきましたし、何より部隊の人間たちに手厚くして頂きました。もうそれで十分です。この件はお互い水に流しましょう」


マルスのその言葉にミルテはゆっくりと顔を上げる。そこには今の空模様と同じような晴れやかな笑顔が浮かんでいた。


「……いえ、貴方のような素晴らしい方を好きになれたことは私の誇りです。これを抱えたまま私もゆっくり大人になっていきます」


そう言って笑う彼女は少女のあどけなさは残しつつも、どこか大人びて見えて子供の成長はこうも早いものなのかと年寄りくさいことをマルスは思ってしまった。


「皆様、本当にこの度は誠心誠意尽くして頂き誠にありがとうございました。私共ヴァシリー一家はこれからも『sun』と『moon』を支援させて頂きます」


そう言ってミルテはもう一度頭を深く下げ、それに続くようにロウェルとセシルも頭を下げた。既に次期当主の風格が見え始めているミルテは顔を上げると最後にマルスの後ろの方へ少しだけニコリ、と笑いかけた。マルスがそちらに視線を向けるとそこには同じく晴れやかな表情をしたウィリアムがおり、彼も同じくニコリと彼女に笑いかけた。


「……おや、雨ですね」


そう言ってレオが上を見上げる。その声につられてマルスたちも上を見上げると確かにポツポツと晴天の空から雨粒が降ってきていた。お天気雨であった。


「み、皆様!あとは濡れますので!どうかお帰りもお気をつけて!」

「はいありがとうございます!Missミルテ、そしてヴァシリー夫妻もありがとうございました!」


最後まで一向を困らせた気ままな雨にミルテは彼らを車へ乗るよう促し、リックも最後にお礼を言うと雨がひどくなる前に、とヴァシリー一家も家に戻るように声をかけた。そしてそれぞれ車の扉をバンッと閉めると全員で大きなため息をついた。


「ったく、最後までやっぱり雨かよ。観光にはいい所だけど住むにはちょっとなぁ〜だよなマルス」

「おい、言っとくがそう言う理由でMissミルテを断った訳じゃないからな」

「Missミルテと言えば最後ロー研究員に向かって笑いかけてましたね」

「あ!俺もそれ見た!なんだよアレ!」

「あーうるさいうるさい。お前たち外面が外れると途端に5歳児並みにうるさくなるのはなんだんだ!」


お前も大して人のこと言えないだろ、とマルスは思ったが口には出さなかった。マルスたちは来た時と同じように、運転席にいつも通りローテンションなレオ、助手席にはヴァシリー夫妻に聞こえなくなった途端口の悪くなるウィリアム、その後ろには腕を組んでもう既に寝る体勢のマルスに、なぁなぁなぁとウィリアムをつつくリックが座った。外はやはりあっという間に雨足が強くなったようでキラキラと頭上で輝く太陽に雨粒が照らされまるで宝石が降っているようだとマルスは思った。


「つーかさ、ぶっちゃけロー研究員って言いづらいんだけど、もうウィリアムって呼んでいい?」

「よくない」

「おいウィリアムお前席もっと前に行けるだろ狭いんだよ」

「よくないって言ってるだろ!というか年上はさん付けくらいしろよ!」


ウィリアムの言葉にマルスもリックも怪訝そうな顔を浮かべる。完全に『何言ってんだこいつ』という顔である。


「いや年上ってどう見ても俺らより年下っしょ?俺ら24だけど」

「はあ?!僕は今年で30だ!」


その言葉に全員が一瞬固まりそして直後驚いた表情で全員がウィリアムを見た。ちなみに運転中だったレオも驚いた顔でウィリアムを見た為、直後彼に無理矢理顔を前に向けられた。


「何してんだ前見ろよ!!」

「いやいやいや、え?嘘でしょ?30?マジ?」

「もしかして若返りの薬とか使ってますか」

「お前その顔で30はないだろ……」

「好き勝手に喋るな!!」


各々思ったことそのまま口にするやや失礼な面々にウィリアムは顔を真っ赤にして怒鳴った。その時。


ドンッ


突如車のはるか後方で腹に響くような大きな音が響き、レオは咄嗟にブレーキを強く踏んだ。音に驚いた面々はすぐに車の扉を開けると音のした方を振り返った。


「……″龍″だ」


マルスがポツリと言った。そこにはヴァシリー邸の裏、あの平原あたりからゆっくりと上昇する沢山の小さい″龍″たちがいた。その数は20以上である程度のところまで上昇するとそれぞれが散り散りになって各所へ飛んでいく。マルスたち一向はそれぞれ車から降りてその光景を眺めた。


「……あのザクロ、とか言う女の言う通りになったな……」


ウィリアムが独り言のように言う。実はチェリーはマルスが現場復帰した翌日に気づいたら姿を消していた。その行方は誰も知らず、ただヴァシリー邸の食堂に少しのお金と『世話になった』と短い書き置きがあったらしい。それをヴァシリー邸の使用人から聞いたときは何ともアイツらしいなとマルスは苦笑いした。


「……多分、今回のこの件は後に″龍″の新たな進化を目撃した日として正式に記憶されるだろうな」

「雨の日でも関係なく″龍″が飛べるのを確認した日、ということですか?」

「いや、」


レオの言葉をウィリアムは一度否定する。そして視線は″龍″に合わせたままその銀色の髪を風に靡かせた。


「″龍″の感情をその目で目撃した日、だ」


20匹以上の″龍″は空を泳ぐように各々飛んでいく。その姿は母親の回復に安心して自分の家に帰っていく兄弟たちのようにも見えた。



*



「お誕生日おめでとうございます坊ちゃん!はいこれうちで取れた野菜。いっぱい食べてもっと大きくなってくださいね!」

「いやあの、流石にもう伸びない……というか、あの、坊ちゃんはやめ、」

「あー!マルス坊ちゃんこんなところに!はいこれうちの牧場の鳥ね!今朝屠殺したばかりだから!あとこれは家内が趣味で育ててるハーブね。沢山持ってって!」

「あのこんなに、いや5羽は多いです、じゃなくて、あの、坊ちゃんはやめて、」

「マルスさまー!おたんじょうびなんでしょー!おはなのかんむりあげるー!」


セレスディア王国ラルゴー領ヴィガ村にてマルスは次々に村民に囲まれ沢山の品をもらっていた。本日8月28日は彼の24歳の誕生日なのである。マルスは偶々用があったのでここに寄っただけだったのだが、村民たちは待ってましたと言わんばかりに彼を取り囲み祝いの言葉を投げては様々な品を手渡していった。


「あのMrs.ロット、本当に気持ちは嬉しいのですが流石にこの歳でここまで祝われるのはちょっと、」

「あら何言ってるんですか坊ちゃん!」


マルスは両腕両肩そして頭にも沢山の貰った祝いの品を吊り下げながら恰幅のいいご婦人に言う。しかしその婦人は大きな口で笑うと彼の腕をバシバシと叩いた。


「私たちは約20年前アリシア様に頼まれたんですよ。貴方の誕生日を幾つになっても盛大に祝ってほしいって」


その言葉にマルスは動きを止めて驚いた目で彼女を見た。婦人はまるで子を思う母親のように優しい目で笑っており、その目には微かに涙が光っているように見えた。


「『私は多分この先のあの子の誕生日を祝ってあげることが出来ないから。この先はみんながあの子の″母親″になってあげて欲しい』そう伝言を遺されたんです。だから貴方様がなんと言おうと私たちはずーと『坊ちゃん』と呼び続けますし何年経ってもずーと誕生日の日にはこうやって盛大にお祝いするんです。みんな大好きだったアリシア様のお願いですから!」


そう言ってまた婦人はバシバシとマルスの腕を叩いた。正直数週間前に大怪我をしたばかりであったのであまり刺激は与えて欲しくはなかったのだが、この時ばかりはマルスは許容して改めて沢山の祝いの品々を見下ろした。


実を言うとマルスはこの村を今まで避けていた。理由はここが彼の母親であるアリシア・ラルゴーの亡くなった土地だからである。チェリーに貸し出したあの家も晩年彼女が過ごした場所で、小さい頃は母親と離れたくなくてよく一緒にここに来ていた。しかし彼女が亡くなると、この地はあまりにも母親との思い出が多すぎて自然と訪れるのを避けるようになっていた。改めて来るようになったのも偶々チェリーに貸し出す為であり、一応領主ではあるがあまりここへは来たくないと思っていたのが本音であった。

しかし、今まで知らなかった母の最後の言葉を聞き、自分が今まで寄り付かなかった20年間を気にもせずこうして生まれた日を祝ってくれるこの優しい人たちにマルスは胸が熱くなり、そして深く感謝をした。


「……ありがとう、ございます」

「いいんですよ!あ、ほら!私からはお魚!主人がこの日のために沢山取って来てくれたんですよ〜!」

「いやあの、これ以上持てませんから!というかなんで全部食べ物ばかり……!」

「やあね、だって、ついこの前もお見かけしましたけど、やっぱりちょっと細すぎるというか……元気な子供を産むにはもう少し肉つきがいい方が安心と言いますか……」

「え?なんの話です?」


ゴニョゴニョと話す婦人に耳を傾けるようにマルスはやや背を屈めてもう一度聞き返した。それに婦人は何言ってるんですか、と笑った。


「あの人ですよ!綺麗な黒髪で、坊ちゃんのご結婚相手の!」

「?!アイツがここに来ましたか?!」


婦人の言葉にマルスは目を見開いて彼女にずいっと迫る。それに若干婦人がたじろぎながらも答えた。


「え、ええ来ましたよ。つい2日前に。確かロウソクを探していたとか何とか……」

「っ!す、すみませんありがとうございます!あ、この魚もありがとうございます!もちろん他の方々にもお礼を伝えていただければ!ああ、あと!あいつ結婚相手ではないので!では!!」


マルスは言いたいことだけ言うと婦人から受け取った魚が大量に入った箱を持ち急いで村を出た。その後ろ姿を婦人はポカンとして見送ったが、元気そうな様子ではあったので特に深くは気にしなかった。もちろんマルスの最後の方の言葉も聞こえてはいなかった。


ヴィガ村から約15分ほど、大きな1本の木が立つ家まで全速力で走ったマルスはその家の中に誰かいる気配を察知し足で扉を蹴り開けた。


「チェリー?!」

「…………お前なんだその格好」


扉を蹴り開けるという豪快な入室方法で入ってきたマルスに、リビングで茶を飲んでいたチェリーはまずその格好にツッコんだ。左腕に鳥を5羽、右腕に大量の野菜袋、首にはスカーフやハンカチが巻かれ、頭の上には手作りの花の冠。そして両手で魚が大量に入った箱を持ったマルスはどう見ても異様であったからだ。

チェリーに非常に引かれた表情をされながらツッコまれたものの、マルスは特に気にせず魚の入った箱をドンッとキッチンに下ろすとチェリーの前に迫った。


「お前!ヴァシリー邸からいろんな植物を持って帰ったろ!!」

「なんだもう気づかれたか」


悪びれもなくチェリーにマルスは、もっと言う事あるだろ!とまた怒鳴り声を上げた。

ヴァシリー邸及びオルガ公国から帰国して約3日後、ヴァシリー一家連名でマルスたち宛に手紙が届いた。そこには以下のように書かれていた。


『皆様、先日は我が一家の危機を救っていただきありがとうございました。皆様が帰られた直後飛び立った″龍″は全てギンバイカを乗せており、元々平原だった場所には1本のギンバイカしか残りませんでした。もちろんそれがあの病気だったギンバイカです。

皆様の作ってくれた肥料が恐らく効いたのか少し元気を取り戻し、それに安心したように″龍″たちは飛び立ったように見えました。

これらは全て皆様がいてくれたからこそ解決出来たものです。私たちだけでは決して解決できるものではございませんでしたし、″次期当主″としての自覚も一生芽生えなかったかもしれません。私共家族の絆を深めてくれたのも皆様のおかげだと私は思っております。

皆様には本当に、本当に感謝しております。ぜひまた近くにお越しになる際は遊びに来ていただけると幸いです。

皆様のこれからの幸福と益々のご活躍を心から祈ります。−−次期当主,ミルテ・ヴァシリー、ロウェル、セシル。


P.S もしかしたら関係ないのかもしれませんが、気づいたらうちの庭から何本か花が無くなっておりました。私も母も特に気にしてはないのですが、これも″龍″なんですかね……?』


「これ絶対お前の仕業だろ!!」


手紙を読み上げたマルスはそう言って通信端末を、チェリーの飲んでいた茶が置かれたテーブルにダンッと叩きつけた。その画面には手紙の内容が写っている。

チェリーはその画面をチラリと見ながら再度茶を啜った。


「向こうが″龍″だと思っているならそう思わせておけばいいだろ」

「そうしたわ!まさかあの時どさくさに紛れて植物を盗んだ奴がいた、なんて向こうに言えるわけないだろ!!」

「じゃあ別にいいだろ」


そう言ってチェリーは茶をテーブルに置いて椅子の背に肘をかけた。その表情は非常にめんどくさそうである。


「今回は″龍″の研究と直接関係ないことまでやってやったんだ。このくらい許せよ。それに盗んだんじゃない、″拝借″だ」

「それを盗んだって言うんだろうが!!」


なおもマルスは怒ったが、チェリーは完全にどこ吹く風なので怒るのも馬鹿らしくなり、はぁーっと大きなため息を吐くとチェリーと同じく椅子にその重い腰を下ろした。


「……つーかお前、いつここに帰ってきたんだよ」

「4日前」

「……」


マルスは何やら左を見たり右を見たり視線を何度か泳がせたあと、少し決意を決めたように息を飲んで口を開いた。


「……なぁお前通信機持ってんのか」

「持ってるが」

「……その、連絡先くらい、教えろよ」


その言葉にチェリーがふっとマルスに視線を向ける。それに何故かマルスは急にしどろもどろになり慌ただしく言葉を続けた。


「だから!その!いつこの家に帰ってくるのか、とか!こっちとしては気になるだろ!管理人は俺なわけだし!」

「別にいいけど」


マルスは急に動きを止めてチェリーを見る。彼女は特に何も気にしていないように通信機を取り出していた。


「……どうした?別に連絡先ぐらいはいい。と言うか今回みたいな急に遭遇した時に備えてあった方がいいとは思ったしな」

「……そ、そうか」

「だからもう夜中に突然窓から入ってきたりするなよ」


マルスも拍子抜けするくらいあっさりとチェリーは連絡先を交換した。マルス自身も何故自分はあんなに慌てたのだろうと後から疑問に思い、思わず通信端末の中のチェリーの連絡先をしばらく凝視した。


「……それから、」


何か言いかけると徐にチェリーは立ち上がり、キッチンの戸棚を開けた。何かと思いマルスが見ているとチェリーは小さいカップケーキをお皿に乗せてマルスの前に置く。その上には小さいロウソクが一本刺さっていた。

チェリーは再度椅子に座るとライターでそのロウソクに火をつけた。


「……なんだこれ」

「…………お前誕生日なんだろ」


一瞬言われた意味が分からずマルスはポカンとする。正面に座るチェリーはというと頬杖をついて完全にそっぽを向いておりマルスからは全くその表情が窺えなかった。そしてしっかり5秒ほど沈黙した後ようやく状況を理解したように今度はカップケーキを凝視した。


「……え?!まさか、え?お前が作ったのか?!え?なんで誕生日知って……?!」

「うるさいな。あの村の人たちが散々言ってたんだ、今日がお前の誕生日だからお祝いするんだとかなんとか。……だから一応用意したんだ。お前好きだって言ってただろ。味噌」

「は?味噌?」

「お前が言ったんだろ!『味噌の方が好きだ』って!」


キョトンと聞き返すマルスに今度はチェリーがこっちを向いて怒った。マルスは一瞬なんのことかと思ったが、記憶を辿ってそういえば土砂崩れが起きる直前にそんなことを言った気がする、とようやく思い出したのだった。


「あ、ああ!あれか!……つーか味噌って、味噌のカップケーキってことか?!う、美味いのか?!」

「私の母の故郷では普通だったらしい。私も子供の頃よく食べた」

「へぇ……まあ、じゃあ、いただきます」


そう言ってマルスはふっとロウソクの火を消すと恐る恐るそのカップケーキに齧り付く。最初は一体どんな味なのかと思ったが、食べてみるとほんのりと味噌の甘さが感じられる非常に美味しいケーキで上にトッピングされているゴマも非常にいいアクセントだった。


「美味いなこれ!意外といけるな味噌ケーキ。これこの一個しか作らなかったのか?」

「いや他にもあるが……」

「マジか後でくれ。本部に戻っても食べたい」


夢中で齧り付くマルスの耳にフッと小さな笑い声が微かに聞こえた。そのまま視線を前に向けると口元を隠しながら思わず吹き出して笑う非常に珍しいチェリーの姿があった。


「お前本当に庶民舌だな。それより美味いものもっと食べてるはずだろ」

「……お前誕生日何月だ」


マルスからの突然の問いにチェリーは目を丸くしてこちらを見た。マルスは口に含んでいた分を飲み込むと真剣な顔でもう一度はっきりと言った。


「お前の誕生日も祝いたい。お前の誕生日何月だ」

「……言っとくがもう過ぎてるぞ。4月の9日だ」

「じゃあ来年祝う」


そう言うとマルスはフッと振り返って後ろの窓の外を見た。そこには庭に一本だけ立派な木が生えている。


「あの桜の木が咲く頃だな。覚えておく」

「……桜の木って知ってたのか」


マルスの言葉にチェリーは意外そうに驚いてそう呟いた。既に青々とした葉をつけているそれは一見ただの木であり、知識のないマルスは何の木なのか知らないと思っていたからである。しかしマルスは窓の外に視線を向けたまま少しだけ優しい笑顔を作ってその桜の木を見つめた。


「あの木は母が生きてた頃に植えたんだ。あれだけは忘れない。今までほったらかしてしまったが……今年からはしっかりあれの面倒も見ようと思う」


チェリーはそんな彼をの横顔を見て、少しだけ考えるように視線を逸らすとまた頬杖をついて冷たい氷の入った茶を飲んだ。


「……挿し木だって知らないやつが大丈夫か」

「なっ……!あれは、その、まだ勉強中で!」

「前も同じこと言ってた。お前本当に次来る時はノートとペンを持ってこい。私がそのすっからかんの頭に知識を叩き込んでやる」

「だ、誰がすっからかんだ!!」


マルスの慌てたような声が家の中に響き渡った。



*



マルスの誕生日から1週間後。彼はリックの執務室にいた。


「よーうマルスーこの前は誕生日おめでとうー。ところでそのソファー座る前に何か気づかない??」

「……今日はエアコンが効いているな」


棒読みでマルスを迎えたリックは堂々と何も疑問を持たずにソファーに座るマルスに言葉を投げかけ、言われたマルスはキョトンとしてそう答えた。それにリックがダンッと机を強く叩く。


「ちっがう!!よく見て!部屋の中央!ソファーの真ん中!お前の目の前!机が!折りたたみ机に!なってるでしょーが!!」

「そういえばそうだな。とろこでこの茶菓子食っていいのか」

「いいけども!!」


リックはそう言って怒鳴ったもののすぐに脱力するとフラフラとマルスの向かいのソファーに座って一緒に折り畳み机の上に気持ち程度置かれた茶菓子をマルス同様手に取った。


「お前がこの前ぶっ壊した机が修理から帰ってくるまでこのダッサい折り畳み机を置くしかないんだぞ。ちょっとは反省しろよ」

「別に執務室のコーヒーテーブルなんて何でもいいだろ。何をそんなにこだわってるんだよ」

「いやダサいと女の子呼べないじゃん?」

「執務室に女呼ぶなよ」


こいつは相変わらずだな、とため息を吐いたマルスは開けた茶菓子をそのまま口の中へ入れて頬張る。ちなみにいつもリックの側にいるレオは本日はおらず、2人きりの部屋の中をマルスはいつもより少しだけ静かに感じられた。そんな中茶菓子をピッと開けたリックが視線は手元に向けたまま徐に口を開いた。


「なあマルス」

「ん」


「あのザクロって人何者?」




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