「龍の愛」【前編】
第三章『龍の愛』
その女性は花々が優しい光を浴びて淡く綻ぶ穏やかな日に生まれた。
産声を上げた時まず最初に医師が安堵したような声を上げ、そして次に看護師の喜びの声が上がった。医師はその小さな命を丁寧に取り上げると5時間の陣痛を戦い抜いた母親の胸へその子をそっと降ろした。
母親は息絶え絶えになりながらもその小さく泣く新しい命の誕生を心から喜んだ。そしてそれから数分後。その部屋に1人の男性が入ってくる。医師達がそれを見て壁際に控える中、男性は堂々とした足取りで女性に近づきその胸に眠る小さな命を見た。
「よく頑張った。次は男の子を産んでくれよ」
ただそれだけ言うと、その子供を抱くこともなく足速に寝室を後にした。
アリシア・セレスディアはこの瞬間を含め生涯一度も父から抱きしめられることは無かった。
*
「いや〜!本当に大きくなられましたねマルス坊ちゃん〜!」
「……」
左手に大量の野菜が入った紙袋。右手に小麦粉と米の袋を5kgずつ。完全に両手が塞がっている状態のマルスは、目の前の恰幅の良い女性が嬉しそうに肩をバシバシ叩いてくるのを止めることが出来ず、ただ疲れと羞恥を滲ませた渋い顔ではぁと息を吐いた。
「……あの、勘弁してください、Mrs.ロット。俺もうすぐで24ですよ」
「やあね、私にとっては5歳も24歳も一緒みたいなものですよ!あ!ちょっと!アヴィーさん!ほら!覚えてます?!マルス坊ちゃんですよラルゴー家の!」
「え?あ、あの小さかったマルス坊ちゃん……?!まさかそんな!何年ぶりですか?いや本当に大きくなりまして〜!!」
「ちょっと私グラムさんとブラウンさんと、あ、やだ主人も呼んでこないと!」
「……」
目の前にどんどん人が集まってくる。そして一様に皆嬉しそうな顔をしながら、時には涙ぐみながら無抵抗のまま立ち尽くすマルスの体を感心するように叩いた。
今マルスが居るのはセレスディア王国ラルゴー領最西端の村、ヴィガ村。ここはかつて幼少期に母に連れられて過ごしたことのある、彼にとって馴染み深い村だった。今彼を取り囲む人々も今から約20年前に母と訪れた際に面倒を見てくれた人たちで、全員当時より白髪が増えたり腰が曲がったりしているようだったが変わらず元気そうであり、マルスはそれが半分嬉しく半分親戚に囲まれたような気恥ずかしさを感じていた。
ちなみにマルスは現在、一応ここの領主であるのだが皆マルスを小さい頃から知っている人たちなので、マルスのことを尊敬しつつもつい癖で子供扱いが抜けなくなっていた。
「やだマルス坊ちゃん?!やだ!え?!こんなに大きくなられたんですか?!やだうちの子よりおっきいわ」
「あの、一応領主を継ぎましたので坊ちゃんは、」
「はあー!坊ちゃん随分見ないうちに男前になりましたね〜!筋肉もこんなに!こりゃ〜都会で女の子たちにモテモテでしょう!」
「いや、あの、俺は、そういうのは。というか、本当に坊ちゃんは」
「ねぇー!マルスさまー!いっしょにきたひと、およめさんってほんと??」
あまりにも周りから坊ちゃん、坊ちゃん言われるのに流石に堪えてきたマルスはそれを静止しようとしたところで急に上がった小さな子供の声にバッと後ろを振り返る。そこにはマルスの膝ほどの高さしかない小さな子供がやや鼻水を垂らしながら好奇心に満ちた顔でこちらを見ていた。
「なっ!違う!あいつはそういうんじゃ、」
「え?!お嫁さん?!マ、マルス坊ちゃんどういうことですか?!」
「まさか今回は結婚のご報告で村にお越しに……?!」
「やだ私こんな格好なのに!」
「違う違う!ちょっと全員落ち着け!俺の話を聞いてくれ!」
「何してんだ?」
大勢の年配勢に四方を囲まれ大声を上げるマルスに、呆れたような声をかける人物が1人。その場にいた全員が声がした方向を見る。そこには黒の足首まで隠れる長いズボンと、同じく黒いノースリーブのタイトなサマーニットを着用して、その磨かれた貝のように白い肌と対比するような長く艶やかな黒髪を静かに風に靡かせる、黒曜の目をした女がいた。
ちなみに女の腕の中にはトイレットペーパーと紙袋に詰められた缶詰が収まっている。彼女は声をかけた直後に全員に視線を向けられて思わず一歩後ずさった。
「坊ちゃんあの人ですか?!あの人が坊ちゃんのお相手で?!」
「いい人を見つけたのですね坊ちゃん!ああ、感動で私は涙が出そうです!」
「結婚式はいつですか?!お世継ぎのご予定は?!ご新居はまさかこの近くに?!」
「だから違う!そういうんじゃないだって!全員落ち着いて話を……」
女の声で一瞬静まり返ったと思った人々は再度堰を切ったように話し出す。ぐいぐいと押されるマルスは助けを求めるように1人輪の外側にいる女に目線を送った。しかし彼女はマルスと目が合うと、非常にめんどくさそうな顔をし、くるりと踵を返してスタスタとマルスに背中を見せて歩き出した。
「な、ちょ、おいこら無視すんな!チェリー!!」
マルスの情けない声が穏やかな青い空に悠々と響いた。
*
「決めた。あの村にはもう行かない」
ヴィガ村から歩いて15分。草木が生い茂る平原にポツンと1本だけ生えている立派な木の側に建つ質素な平家の中に着いた途端、チェリーは吐き捨てるように言って荷物をダイニングのテーブルの上にダンッと置いた。チェリーの後に続いて頭を下げながら家に入ってきたマルスが半分呆れながらチェリーを嗜める。
「おいそんなこと言うなよ。確かにちょっと押しは強い人たちだが悪い人じゃないんだ」
「じゃあなんだ?毎回あの村に行く度にお前の結婚相手として村人に囲まれなきゃいけないのか?」
「それは……その、……」
今から約3週間前。ピオニー城での事件後セレスディア王国首都ウォルフの駅前にチェリーは時間通りに現れた。ロータリーに車を停めて待っていたマルスは、案外素直に姿を表したチェリーに若干面を食らった。
黒く真っ直ぐな長い髪に光を吸収してしまう黒い瞳を持つこの人物の正体は、世界で最初の”龍”の学術書『龍の花』の著者エドガー・フロワの一人娘であるチェリーブロッサム・リリー・フロワ。その出生故、ロバート・レブンという悪意のある男に父親の研究資料を狙われ続け、先日奴が逮捕されるまで例え近所の子供だろうと自分の名を言わずに世間から隠れて暮らしてきた。
そして現在。レブンは逮捕されたものの奴の一件でエドガー・フロワの知名度は現在非常に上がっており、逮捕されたからと言ってその名前を公表して生きていくのはまだ些か時期が悪かった。そこでマルスが一部父親から受け継いでいる領土の中の、今は誰も使っていないこの家を貸し出すことにしたのだ。
ちなみにこの家を使っていたのは今から約20年前。それから全く手入れをせず今まで放置されていたので畑は荒れ放題、家の中は廃墟同然、だったので引っ越してきて10日程はマルスも手伝って家の掃除というか修復活動を行なった。
そして今日、ようやく家の中も人が暮らせる状態になり、庭も新しく植える準備が出来たので、マルスがチェリーを連れて村に新しい住人が増えたことを報告しに行ったのだが何故か彼らには結婚相手だと間違われその誤解を今日だけで解くことは出来なかった。
「いいか。想像してみろ。お前の横を短足で肥満で明らかに体から異臭がする売女が歩いていたとして、隣に居たからという理由でそいつと寝ているんだと想像されてみろ。悪寒がするだろう」
「それはつまりお前の中で俺は短足で肥満で体から異臭がするってことか」
「それから、」
「せめて否定しろよ」
マルスのツッコミは聞き流しつつ、チェリーはイライラしたように紙袋の中の缶詰をやや乱暴にキッチンにしまっていった。
「お前、私の名前を呼んだだろう」
「?それの何が悪いんだ」
その瞬間、チェリーは持っていた缶詰を振り向きざまにマルスに投げつけた。しかしマルスはそれを寸前で躱し、代わりにマルスの背後の壁に穴が空く。
「おい!何してんだ!せっかくここの壁も板を打ち直したのに!」
「うるさい!お前が避けるからだこの単細胞!」
「ああ?!」
一応マルスはここの家主でありこの土地の領主なのだが、チェリーはそんなの知ったこっちゃないと言った感じで憤慨した。そして1つの缶詰をダンッとキッチンの台の上に叩き置き、その台に軽く腰掛けるように体を預けてマルスを睨んだ。
「いいか?私は中学までは普通に本名で生活していた。探ろうと思えば名前から私の正体を知ることは出来るんだ」
その言葉にマルスはようやく理解したようにハッとした。それにチェリーはため息を漏らしつつ視線を下へずらした。
「レブンは逮捕された。だが奴のことだ。いつまた狙ってくるか分からない。それにレブンと同じような奴が出てこないとも限らない。私は父の研究を完成させ、父を見つけるまで自分の存在も公にするつもりはない」
「……エドガーは生きているのか?」
チェリーの言葉にマルスは床に落ちた缶詰を拾いながら、真剣な眼差しで彼女を見た。チェリーは視線は合わせないもののその瞳には揺るぎない信念が浮かんでいた。
「絶対に生きている。私はそれを信じている」
「……そうか」
マルスはそういうと自身も視線を彼女から外した。
現在エドガー・フロワは全世界から捜索されているものの、失踪から20年経った今でも手がかりの1つとして見つけられていない。娘であるチェリーさえも行方を知らないとなると一瞬もうこの世にはいないのではないかとマルスも考えた時はあったが、それでも彼女がここまで強くいうのであれば自分もそれを信じよう、そう思った。
「そういえば、」
マルスが思い出したように切り出す。それと同時にキッチン台へ軽く腰掛ける彼女に近づく。
「任務が入ったからしばらくここに来れなくなる。今後家が壊れたら自分で直せよ」
「むしろ今まで任務なかったのか。大丈夫か『moon』」
「レブンの一件で『sun』も『moon』もバタバタしてたんだよ!引いたような目で見るんじゃねぇ!」
「引いてるんじゃない。憐れんでいるんだ」
「どっちもやめろ!」
マルスはそう言いながらも律儀に投げられた缶詰をチェリーの手元に渡した。チェリーはどちらかというと『sun』や『moon』を憐れんでいるのではなく、この大男のまるで犬のような行動にそんな視線を向けていたのだが、マルスがそれを知るよしも無く彼女の視線を払うように怒るとフンッと腕を組んだ。
「とにかく!こっちも色々あるんだ。本部に帰還したらまた連絡する」
「いやいい。私もそろそろまた研究に出る予定だった」
「は?」
チェリーの思いがけない言葉にマルスは目を丸くした。チェリーは中断していた缶詰の片付け作業に戻りながら言葉を続けた。
「言っただろ。私には父の研究を完成させる使命がある。その為にまだ各地を回る必要がある」
「は、いや、だって、お前今日、野菜……」
「一部は保存食にして持ってく。残りは加工して冷凍する。」
今までもそうしていた、とチェリーは淡々と話す。それにマルスは数回瞬きをした後、1人なんとなく落ち着かない感情が湧き上がる。
(そうだよな。ここを拠点にしたからってずっとここにいる訳が無い。そもそもその拠点だって今後のこいつの研究次第では今後も変わっていく可能性がある。
……なんだろうなこの気持ちは。まるでやっと懐いたように思えた猫がやっぱり近寄ると離れていくような……)
いやそもそも懐いた素振りも見せていないだろ、などとマルスは自分自身にツッコミを入れた。ただ何となくその日はモヤモヤした気持ちが残った。
*
【アリシア5歳】
「あ!お兄さま!」
美しい花々が咲き乱れる庭でメイドと遊んでいたアリシアは稽古から帰ってきた兄2人を見つけ、彼らに駆け寄った。アリシアの兄は2人とも歳が彼女と離れており、長男は16歳、次男は13歳だ。アリシアは滅多に会えない彼ら2人の元まで行くと笑顔で挨拶をした。
「ルシエルお兄さま、セルフィルお兄さま、こんにちは!ねぇお兄さま、私お花のかんむりを作ってみたんです!よかったらどうぞ!」
アリシアは無邪気な顔で兄2人の前に飛び出すと手に持っていたシロツメグサで作った花の冠を彼らに差し出した。彼らはそれをアリシアと同じ金色の瞳でしばらく無言見つめ、徐に長男のルシエルがその花の冠を受け取った。それにアリシアは顔をパッと明るくさせる。
しかし直後、ルシエルはその冠を地面に叩きつけると思いっきり踏み付けた。
「いいなお前は平和で」
ルシエルはそう言うと今度は呆然とするアリシアの肩を突き飛ばす。それに慌ててメイドが駆け寄ってきてアリシアを守ように抱きしめたが、ルシエルはまるで反省しておらず、むしろそういう行動をするメイド自身も侮蔑の目で睨みつけた。
「女はいいな。剣も握らず、勉学に励まず、己を鍛えることをしなくても、庭で花を編んでいるだけで許される。そうしている間にも嘆き苦しんで死んでいく兵士が大勢いるというのに」
「も、申し訳ございませんルシエル様……!」
ルシエルの静かな怒気を含んだ言葉にメイドはアリシアを抱きしめながら頭を下げた。それに対しルシエルはただその頭を冷たい目で見届けて何も言わずに立ち去った。
「ルシエル兄様と私はこれから剣技の訓練があるんだ。今後また私たちの邪魔するようなら父様に言ってお前たちを地下の拷問部屋に閉じ込めるからな。気をつけろ」
弟のセルフィルもアリシアとメイドに冷たくそう言い放つとルシエルの後を追って何処かに消えた。メイドはただアリシアを抱き抱えながら震えていた。
「……ごめんなさい。わたしがお兄さまをおこらせちゃった……」
「いいえ違うのです。アリシア様は何も悪くないんですよ」
メイドは5歳のアリシアにニコッと笑って見せたが、彼女は非常に聡くメイドが無理をして笑っているのに気がつき、そのまま何も言わずに今度は自分からメイドに抱きついた。そしてそうすることによって顔の見えなくなったメイドの頭をその小さな手で撫でた。
メイドは一瞬ビクリと体を震わせたが、すぐに声は出さないままアリシアの体を強く握りしめて先ほどよりも肩を震わせた。後にアリシアはこれが人に恐怖した時の人間の反応なのだと学んだ。
それ以降アリシアから兄たちに話しかけることは無かった。
*
「あなたたちが″あの″リック・ニコルズ大尉とマルス・ラルゴー中尉ですか。まあ私の同行者としては不足はありませんが、足を引っ張るようでしたら帰りは走って帰って来てくださいね。経費の無駄なんで」
「……」
「……」
その男は執務室のソファーに深く腰掛け、足を組み、視線を己の爪に向けたままそう言った。身長はさほど大きくなく、ワグナーと一緒くらいの170㎝程度。少し幼い顔立ちで恐らく年齢は20代前後。髪と瞳はやや珍しい銀色で、すん、と澄ましたその表情は明らかに高飛車そうであった。
そんな態度の男に流石のリックも笑顔のまま硬直し、マルスは後ろに控えていたレオに肩を上から押さえつけられながら何とか目の前の男を殴り飛ばすのを必死に抑えていた。
ここは『moon』本拠地内にあるリックの執務室。夏の強い日差しが降り注ぐ大きな窓を背にソファーに深く腰掛ける男は尚も自分の爪を見つめたまま少し暑そうにシャツの上から羽織る白衣をパタパタと動かした。
「あ、僕はウィリアム・ローと申します。どうぞ気楽にロー研究員″様″とお呼び下さい。ところでこの部屋エアコンちゃんと効いてます?」
その瞬間マルスは自身の中で何かが切れるのを感じ、同時にレオの拘束を振り切ると、目の前の水滴ばかりがついているお茶が載ったテーブルを掴み感情のまま本棚のある壁の方へ思いっきり投げた。それに対しウィリアムと名乗った男は驚愕して肩を跳ね上げ、リックは『やると思った』といったような悟りを開いた表情を浮かべ、レオは宙を舞ったテーブルの修繕費を上に請求する時の理由を考えていた。
「お前さっきから黙って聞いてればなんなんだ!突然入ってきて茶を強請ったかと思えば足を引っ張るだとかエアコンが効いてないだとか癪に触ることをつらつらと!!」
「ねぇマルスお前ここが誰の執務室か分かってる?」
「ハッ!これだから『moon』の人間は嫌なんだ!気に入らないことがあると直ぐに暴力で解決しようとする!そんなだからこんなエアコンも効かないような低レベルの執務室しか与えられないんですよ!」
「え?何で俺何も言ってないのにディスられたの?」
ちょくちょくリックがツッコんで来たが完全にスイッチが入ってしまった2人の耳にはもう届いていないようで、お互い立ち上がって睨み合いお互いの胸倉を掴みあった。
「何だとこの……!それが人にものを頼む時の態度か!!」
「誰も命令じゃなければあんたのような獣と一緒に仕事なんかしたいもんか!!」
それは今からほんの数日前。『sun』と『moon』で大きな組織改革があった。
『以後『moon』の調査任務には『sun』の職員が1人以上同行することを必須とする』
その指令にマルスもリックも最初ワグナーが何かの冗談を言い出したのかと思ったが、それを直接言い渡したワグナー本人未だ困惑しているようで、頭を抱えながら眉間を揉んでいた。
今までの任務形態といえば、『sun』が研究に必要なものを『moon』が手足となって用意するのが通例であった。なので『◯◯地方に言って植物サンプルを採取してこい』というものからマルスたちも行ったような『特殊な条件で発生した″龍″を追いかけろ』等、所謂『moon』は使いっ走りに近い存在だった。
だが今回これに待ったをかけた人物がいた。『sun』の所長でありブラナ=メルタ家当主のイゴール・ブラナ=メルタその人である。きっかけはもちろん元『sun』副所長であるロバート・レブンの研究資金収集目的による各国要人の集団被毒事件。これをニュースで知ったイゴールは事態を重く受け止め、即時『sun』と『moon』の幹部を招集し今ままでの組織の実態の把握と今後のことを連日話し合った。その後行われた記者会見でイゴールはこう話している。
『私はロバート・レブンという男を深く信用しすぎてしまっていた。今まで『sun』の指揮などを彼に任せてしまっていたのが間違いであった。これからは非凡な『sun』の科学者、優秀な『moon』の軍人、それぞれが手を取り合い、協力して″龍″という人類が解明しなければならない謎に挑んでいきたいと思う』
その″協力″の一つが『任務に『sun』職員を同行させること』らしい。実際『sun』の人間は自分は動かない為、無理難題な任務をいい渡される時や、こちらの体力を考慮しないスケジュールを組まれる時もあったので『moon』の人間でもこれに賛同する人間も多かった。抵抗を示したのはどちらかというと『sun』の人間である。
『sun』には監査、という形で各国行政の目が入ったのだが、その内情は思った以上に腐りきっていたらしい。
例えば履歴書の改竄。しっかり調べてみると植物学の知識は大学で少し齧った程度で、家の金の力で入ってきていた者がゴロゴロと発覚。それから不正な領収書。研究費、と称して必要備品とは別に、自分の時計の購入代や個人的な飲食代、果ては愛人の車代までそこから出している人間もいた。
調べれば調べるほど出てくる実態はやはり全てレブンが己の感情一つで気に入った部下たちに良い思いをさせてやろうと裏で手を引いていたことのようだった。
このことでイゴールは『sun』の指揮をレブンに任せてしまったばかりに組織を腐敗させてしまったと責任を感じ、一時期は自身も『sun』所長の座を辞そうとしたらしいが、今ここで所長にまで抜けられるといよいよ首が回らなくなる『sun』幹部と、ブラナ=メルタ家という強力な後ろ盾が無くなると任務遂行に支障が出る『moon』幹部から必死に説得されそれは阻止されたらしい。(ちなみにマルスはこの話を聞いた時『何故誰も優秀な科学者が減ることを第一に理由に上げないんだ』と憤慨しリックに諌められた)
その結果『sun』では不正書類で入局した人間の一斉リストラや、幹部等の配置換え、一定以上成果を上げていない者の降格制度制定など大規模改革を行い、しばらくは『moon』以上に大混乱していたようだった。
そして本日、今度行くことになった任務の伝達とその前の挨拶という名目で『sun』からウィリアム・ローという研究員がマルスとリックを訪ねに来たのであった。しかしこの男、一斉リストラの対象ではなかったので非常に優秀ではあるのだが残念なことにマルスとの相性は最悪であった。
「大体、上から見下ろすのやめてくれるか?!非常に不愉快だ!」
「あ?!テメェが小せぇからだろうが!嫌なら背伸びしろ!」
「はあ?!言っとくが僕は平均だ!170はある!お前が巨人なだけだろ!このデカブツ!!」
「ああ?!!何だとこのチビ!!」
「リック大尉お茶です」
「レオ、それも嬉しいけどこれを止めてくれよ……」
先程マルスにテーブルを投げ飛ばされた為に目の前から消えたお茶をレオが律儀にもう一度用意してリックに手渡す。リックはそんな彼に感謝を示しつつ非常に疲れた表情で目の前で唾を飛ばし合うほど大喧嘩する2人を指差した。しかしレオは真面目な無表情を崩さないまま黒い縁の眼鏡の縁をクイっと上げた。
「それは私の仕事ではありませんので」
俺の仕事でもない気がする、という言葉は何とか飲み込んだリックは諦めたようにため息を吐くと立ち上がってヒートアップし続ける2人の仲裁に入った。
「ハイハイ2人ともその辺でストッープ。相性が悪いのは分かったけど、これは仕事なんだからやらなきゃいけないだろ?ほらマルスも。ブラナ=メルタ所長も言ってたろ?『sun』も『moon』も手を取り合って協力しなきゃいけないんだって」
「……う、ぬん、ん」
返事というか呻き声というか、曖昧な返答であったがブラナ=メルタ家の名前を出されたことで強く言えなくなったのかマルスの勢いは一旦止まったようだった。それにリックは苦笑しながらマルスの肩を軽く叩く。そして次にその笑顔のままウィリアムに視線を向けた。
「ロー研究員だっけ?まぁ苛立つ気持ちも分かるけどさ、ここはお互い大人の対応して−、」
「僕、愛想笑いする奴って生理的に受け付けないんでこっち見ないでもらえますか」
「よし!マルス行け!窓から突き落とせ!!」
「任せろ!!」
何とか歩み寄ろうとしたリックの言葉をあっさりと切り捨てたウィリアムは、ついにこちらも堪忍袋の尾が切れたリックから許可が出て楽しそうに目を爛々とさせたマルスによってその細身の体を軽々と持ち上げられた。その子供の喧嘩のような光景をじっと見ていたレオはもうこなると誰にも止められないな、と諦め、1人紙の束を手に取ると今度の任務の資料を確認することにした。
「何度も″龍″が降り立つ地……」
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『sun』から『moon』へ指令
fileNO.2301
オルガ公国キリル領内の同じ屋敷にて″龍″の飛来を複数確認。
″龍″は全て5m前後の小型。原因を究明せよ。
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「おー流石にオルガ公国はこの季節でも涼しいねー!目の前に広がる大きな空と広い海、そして豊かな自然。いや〜本当に、…………このメンツじゃなければ最高だったんだけどなぁ…」
「……」
「……」
「リック大尉あれは湖です」
リックの半分以上独り言な言葉に車を運転するレオが律儀に答えた。今彼らは『moon』本拠地から航空機で5大大国の一つオルガ公国内へ移動し、そこから北西のキリル領まで車で移動中だった。車内には後部座席で窓を開けてひたすら外の景色ばかりを見つめるリックに、同じく後部座席で腕を組んだままのマルス、そして運転中のレオに、助手席で5分に1回はため息を漏らすウィリアムがいた。彼の表情は非常に憂鬱そうである。
「はぁ…」
「……おいそのため息やめろ」
「は?あんたに僕の生理現象を止められる権利があるわけがないだろ」
「あ?何が生理現象だ。わざとやってんだろ。うるせぇからやめろって言ったんだ」
「は?」
「あ?」
こんな感じでマルスとウィリアムは3km走るごとに1回は喧嘩をしていた。よって車内の空気は最悪。リックも最初はウィリアムと衝突していたが段々と喧嘩する体力も無くなり今は力なく外を眺めひたすら外を眺めて現実逃避しようとしていた。
「あ〜あこんなとこ、可愛い彼女と一緒に来たかったなぁ……」
「あ?どうせまたキャバ嬢だろ」
「キャバ嬢でもいいんです〜俺たちの間には確かな愛があるんです〜この前シャンパン入れた時も『リック大好き愛してる〜!』って言ってくれましたぁ〜」
「フッ」
ふと、リックとマルスの会話を聞いていたウィリアムが笑いを零す。その顔は微笑ましい、というより馬鹿馬鹿しいと言ったようなこちらを嘲笑うような笑みだった。それに流石のリックもムッとする。
「おい何だよ。それこそお前に俺の恋愛を笑う権利なんかないだろ」
「ええ確かに。でもあまりにも稚拙というか幼稚というか、大尉殿は金で手に入る愛で満足なんだな、と」
「誰かこいつの首へし折ってそこの湖に捨てていくのに賛成の人〜」
「おう」
「よしマルスやれ」
「やめろ野蛮人共!!」
リックに賛同したマルスがガバッと起き上がって前の席に座るウィリアムの首を掴もうとしたが、それは寸前で同じく体を席から離したウィリアムに避けられた。彼はその勢いのまま後部座席を振り返るとリックとマルスを睨んだ。
「気に入らない意見は一々武力で解決するのがお前たちのやり方か?!『moon』の格が知れるな!」
「人のプライベートに茶々を入れる自分自身は棚上げしといて格がどーのこーの言ってるそっちの方がどう考えても悪趣味だろ。他人の心配より自分の心配しろ」
「そーだそーだ!」
「ハッ」
マルスの意見にウィリアムは鼻で笑った。
「悪いが僕は金で買えないものに価値を感じるんだ。努力によって手に入れた地位、失敗を繰り返して成し遂げられた栄光、とかね。愛だって同じだ。金で買える愛など所詮紛い物。運命の元巡り合い、互いに努力を重ねて育んでいったものこそ真の愛なのだ!」
「あ、マルスあそこにいるデカい鳥何?」
「サギじゃないか?」
「聞けよ!!!」
思ったより長かった話にすぐに興味を失ったリックとマルスは2人して仲良く窓の外を眺め、それに対しウィリアムは顔を真っ赤にして激怒した。今回の任務はこんな4人で行うことになるのか、と不安に思うレオの視線の先に大きな屋敷の屋根が見え、彼はゆっくりと車を停止させた。
「皆さん着きました。ここが例のヴァシリー子爵邸です」
そこには大きな湖のほとりに建つ歴史が深そうな屋敷があった。それほど建物自体は大きくないが趣がありしっかり隅々まで手入れをされている。屋敷の前には大きな庭もあり、そこも細やかに手を込められているようでバラを中心に非常に彩り豊かな花々が咲き乱れていた。周囲は森に囲まれており今のような季節でも涼しく、時折鳥の涼やかな声が聞こえる。少し先には小さな町もあるようで屋敷はそこを見渡せる位置にあった。
4人は車を降りると、マルスだけ荷物を下ろすために一旦車に残り、あとは3人は先に敷地に入って行った。門をくぐり美しく整えられた庭園を進むと屋敷の入り口の前には60代くらいの老夫婦がニコニコとしながらこちらを待っていた。代表してリックが軍帽を取り、手を差し出す。
「どうも。『moon』第4部隊のリック・ニコルズ大尉と申します。こちらは部下のレオ・オルタス少尉。こっちは『sun』のウィリアム・ロー研究員です」
「皆さまこの度は遥々この地にお越し頂き誠にありがとうございます。当主のロウェル・ヴァシリーです。こちらは妻のセシルです」
「我が家の為にお越し頂き誠に感謝致します」
わざわざ玄関前で出迎えてくれたのはここの当主であった。その物腰は非常に柔らかく品があり、リックとウィリアムは先ほどまで子供のような喧嘩をしていたことを心の中で非常に恥ずかしく感じ、レオでさえもその老夫婦の雰囲気にいつもより背筋をピンと正した。まさに品とはこのことである、とその場にいた全員が思った。
「ご当主自ら出迎え頂き恐悦至極に存じます。それで早速ですが、″龍″が何度も降り立つ地、というのを、」
「お父様お母様ー!」
その時、リックの言葉を遮るように突如声が響き、老夫婦の後ろのドアが開く。そこから出てきたのはまるで神話の中から飛び出してきたような美少女だった。
肌は光り輝くように白く、こぼれ落ちそうなほど大きく丸い瞳はまるで湖の色を反射したかのような鮮やかな水色。髪は紅茶のように薄く淡い茶色で、柔らかくウェーブを描くその長い髪は庭に出た瞬間まるで天使の羽のようにフワッと広がった。そしてその体は細身にも関わらず非常に発育が良く、まだあどけなさが残る少女の顔に豊満な女性の体つき。その良い意味でのアンバランスさに思わず3人の視線が自然と少女に誘われた。
少女は庭に来客がいるとは思わなかったらしく、大きな声をあげてしまったことを恥じるようにその白い肌をほんのりと桃色に染め上げる。
「ごめんなさい、私、お客さまがいるとは思わずに、」
「いいんだよ。お前のことも紹介するつもりだった。ほら、こっちに来なさい」
少女の謝罪に老夫婦は笑顔で慰めると優しく手招いて、2人の間に立たせた。
「ご紹介が遅れました。こちらは娘のミルテです」
「ミルテと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「あ、娘さんですか。とてもお綺麗ですね。こちらこそどうぞよろしく」
淑女らしく頭を下げ、ミルテと名乗った少女に、リックは内心老夫婦の孫だと思ったところを娘ということに驚きつつそれを表に出さないままこちらも頭を下げて挨拶をした。
ふと、隣で固まっているウィリアムに気づく。リックがそれに気づいて視線を向けると、顔を真っ赤にしたまま胸を押さえて固まっているウィリアムがいた。その目は完全に見開かれており、視線はミルテに向かったまま動かない。そして口はまるで魚のようにハクハクと動かしており、小さくリックにしか聞き取れない声で「これこそ運命……」と呟いた。
リックはそんなウィリアムを見てほぉーう、とほくそ笑む。面白いことになったと1人浮かれるリックに対し、老夫婦は一切気づいていないものの上司の背中を見ただけで何かを察したレオは無表情のまま内心ため息を吐いた。
そこへ荷物を全て下ろし終わったマルスがようやく合流した。
「おいリック荷物は全て使用人に預けたから……と、すみません失礼致しました」
人と既に話していると思わなかったマルスは慌てて軍帽を取るとその場で深くお辞儀をした。一瞬、それにミルテが小さく息を呑む。そして躊躇いながらも彼女は目の前のリックに話しかけた。
「あ、あの、あの方は……?」
「彼も『moon』の同じ部隊の士官です。名前はマルス・ラルゴー中尉」
「マルス……」
その名前を聞いた瞬間、ミルテの顔がまるで花びらが開くようにパッと赤く色づき目を潤ませた。そして何故か老夫婦もハッとしたようにマルスを見る。何も気づいていないそんなマルスがリックの隣に歩いて来るまでも少女の視線は彼に釘付けになっており、その顔は正しく恋する乙女、そのものだった。
そしてそんな彼女の視線に気付いたのはリックだけでなく、ウィリアムも同様に気付きその視線が意味するものまで理解した瞬間、まるで親の仇を見るような目でマルスを睨んだ。
6人中4人からいろんな感情を込められた視線を向けられているマルスは全くそれに気づくことなく、何故全員が黙っているのかが不思議でたまらないようで、チラチラとリックに視線を送った。リックはというと1人にやけてしまいそうな口元を抑えるのにただただ必死だった。
*
【アリシア10歳】
「アリシア様。初めまして。私はセレスディア王室が抱える科学研究チームのイアンと申します。こっちは息子のエドガーです」
アリシアが10歳になった頃、セレスディア城で日々研究を重ねる研究員の1人が、歳が近いからと息子を彼女に紹介した。日々勉強を家庭教師に教わり、外部の友達がいないアリシアにメイドたちがせめて同年代の友達がいたらどうかと掛け合ってくれたものだった。しかしアリシアとしては同年代の男の子はなんとなく皆兄たちのように怖いイメージがあり、今もあまり気が進んでいなかった。
エドガー、と呼ばれたアリシアより小さい少年は父親に「ほら挨拶しなさい」と言われるとポカンとした表情で彼女をじっと見た。あまりに長く何も喋らぬままこちらを見続けるのでアリシアは少し後ずさる。
「あ、あの、」
「エーデルワイスみたいだね」
唐突に何も脈絡もなくその少年は話し出す。それにアリシアはビクッとして思わず後ろに控えるメイドのスカートを握った。
「え、何?」
「エーデルワイス知らない?花の名前」
よく分からないが、少年はアリシアを花のようだと言ったらしい。彼女はまだ少年に警戒心を抱きながらも再度聞き返した。
「お花?私に似てるの?」
「うん!弱そうなところが!」
その瞬間、少年の父親は顔を真っ青にして彼の頭に拳骨を落とし、アリシアは『弱そう』と評されたことにショックを受けた。
この当時アリシアの下にはもう1人弟が生まれていたのだが、その弟の誕生を父も兄たちも、自分には今まで見せなかった表情で喜んでいた。
時は戦争真っ只中。勝ち続けなければ民が苦しむことになり、国は崩壊してしまう。その為国はより多くの強い戦士を欲しており、戦う術を持たない女性たちは特にこの国では冷遇されていた。
それはアリシアやメイド、そしてアリシアの母も例外ではなく、王妃として相応しい待遇を受けているものの男たちの仕事に対して口を挟むことは一切許されず、我が子であるアリシアの兄たちにさえ甘く接しようとしようものなら父親である王から厳しい罰を受けたと聞いた。
そんなアリシアにとって『女だから』とか『弱そう』などというワードはコンプレックスを思い出させる禁句になりつつあった。もちろんそれはメイドたちも知っており、突然暴言を吐かれたアリシアをメイドの1人が抱きしめて少年から引き離した。
「なんてことを言うのです!」
「申し訳ございませんアリシア様!おいエドガー!お前もちゃんと謝りなさい!」
「えーなんで?」
少年は父親に殴られた頭をさすりながら、何故大人たちが怒っているのか全く分からない、といった困惑の表情を浮かべ、そしてまた真っ直ぐな目でアリシアを見た。
「エーデルワイスはとても小さくて、踏んだらすぐに散ってしまいそうな見た目なんだけど、実際は地上から約8000m上の環境の厳しい高山でも咲くすごい逞しくて忍耐強い植物なんだ」
アリシアは少年の言葉にメイドの腕の中から少しだけ顔を覗かせて彼を見た。少年は兄たちのようにアリシアを卑下するような表情は浮かべておらずただ純粋な目でこちらに語りかけていた。
そんな彼の姿にアリシアはまだ怯えながらも声をかける。
「え、えっと、つまり?」
「うーんと、つまり弱そうに見えるけど実はすっごく強そうだよね君!ってこと」
そう言って少年は歯をニカっと見せて無邪気に笑った。それにアリシアは一瞬ポカンとし、そしてすぐにクスッと小さく笑った。
これがアリシアの人生で大きな転機となるエドガー・フロワとの出会いだった。
*
「こっち、こちらですわラルゴー様」
「……なあなんであの女俺ばっかりに話しかけるんだ?」
「……はぁ〜全く無自覚は恐ろしいねぇ〜」
時折チラチラとこちらをはにかみながら振り返るミルテに、マルスは怪訝そうな顔を浮かべ本人には聞こえないように小声で隣を歩くリックに話しかけた。リックはというと適当にとぼけながらこの状況をニヤニヤと楽しんでいる。何故リックがニヤニヤしているのかも分からないマルスだったが、もう一つ気になることを彼に尋ねた。
「あと、なんであいつあんなに俺のこと睨んでんだ?今はまだ何もしてねぇぞ」
「さぁね〜なんでかな〜」
マルスがやや引きながら指差す後方にはウィリアムがおり、彼は血走った目でマルスを変わらず睨みつけていた。ちなみにボソボソと「殺す殺すあいつ殺してやる」と呟いていたのだが、幸いそれは彼のさらに後ろを歩くレオにしか聞こえなかった。
「ここによく″龍″が飛来して来るんです」
ミルテに案内され連れてこられたのはヴァシリー邸の裏手の小山を少し登った先の開けた平原だった。そこからも広大な森と湖が見渡せ、まるで自然に作り出されたステージのように雄大な場所であった。ちなみにヴァシリー夫妻は体力的にここを登って来るのはきついのでミルテが代表して案内していた。
そのミルテは様々な花が咲き乱れる平原をゆっくりと歩き、時折こちらを振り返って天使のように微笑んだ。それをウィリアムはうっとりとした表情で見つめる。しかし直ぐにハッとすると首を振って彼女に話しかけた。
「Missミルテ、ご案内ありがとうございます。ここからは『sun』の研究員である私、ウィリアム・ローが調査を担当させていただき、」
「承知いたしましたお願いいたします。あ、ラルゴー様ぁ!」
ミルテはウィリアムの言葉を最後まで聞く前にフラフラと草原を歩くマルスに駆け寄った。そして頬を赤らめ、目を少し潤ませると上目遣いで彼の金色の目を見る。
「あの、もしお邪魔じゃなければご一緒してもいいですか……?」
「え?あ、ああ……まあ、別に……」
「本当ですか?ありがとうございます!」
マルスは戸惑いつつも、当主の娘を無碍に扱うことも出来ないと思い、曖昧な返事を返す。それに対してミルテは飛び上がりそうなほどの喜びの表情を浮かべ、マルスの横にそっと寄り添って歩き出した。
それを後ろから見ていたウィリアムは実験道具が入った鞄の持ち手をギリリと音が鳴るまで握りしめ、憎しみの表情でマルスを睨んでいた。
「おのれマルス・ラルゴー……お前だけは絶対に許さない……」
「男の嫉妬は醜いねぇ〜」
「なんだと?!」
ニヤニヤとしたリックに声を聞かれ、ツッコまれたウィリアムは声をした方へ振り返り彼のことも睨んだが、リックは直ぐに「まぁ頑張って〜」とだけ言ってどこかに歩いていく。そしてその後を追うようにレオもついて行った。広い平原に早速取り残されたウィリアムは、怒りが沸々と湧き上がるのを感じながらも渋々と調査を開始したのだった。
一方その頃マルスとミルテは平原の端の方に来ており、ミルテがふと平原崖下の野原を指差した。
「見てくださいラルゴー様。ここには野生の馬がいるんです」
「馬?」
ミルテが指す方をマルスも覗くとそこには茶色や黒い毛並みの馬がちらほらと草を食べていた。マルスにとっては数ヶ月前に馬から落馬した苦い記憶があるので、正直またここで会いたくはなく無意識に顔を顰めた。
「あの馬は、ここにも登って来るのですか?」
「いえあまりここには寄り付きません。ふふっ、でもラルゴー様が馬に跨る姿はきっと凛々しく神々しいのでしょうね……」
うっとりしたようにミルテが言う。それに対してマルスは「ハハ…」と非常に乾いた笑いだけで返答し詳細は答えなかった。そんなマルスになんの疑問も抱かずただじっと彼の横顔を見つめるミルテは徐に口を開いた。
「ラルゴー様のお名前の由来は神話の″軍神″マルスからですか?」
「……あ、ああ」
マルスはやや間を開けて答えた。彼自身名前や体格から″軍神″と呼ばれることは多かったが、そのあだ名で呼ばれるのは好きではない。何故なら今この世は戦無き世であり、そんな世で″軍神″と呼ばれると言うことは皮肉的に″お前は今の世に必要とされていない″そう言われていることと同義であり、このあだ名は嫌いであった。
もちろんそんな事情は知らないミルテは「そうなんですね」と小さく呟くと、ふと太陽の光を反射してキラキラと光る湖面を見た。
「……私の名前、ミルテってここにも生えている植物から名付けられたんです」
「え?」
「ほら、あれです」
そう言って平原に視線を戻したミルテは高さ1mほどの少し小さめの木を指差した。よく見ると緑色の小さな実をつけており、確かにこの平原には他にも同じような木がポツポツと生えていた。
「あれはギンバイカ、別名祝いの木と言って大昔はとある女神に捧げられる花としても有名だったんです」
「……へぇ」
マルスは全く脈絡のつかめない女の話に興味薄れつつもそれを表に出さないようになんとか返事をする。ミルテはそのまま気にせず話を続けた。
「その女神って誰だか分かります?」
「え?や、俺はそういうのは詳しくなくて」
「ヴィーナスです」
ミルテは先程までのうっとりとした表情とは違い、目を潤ませつつもどこか決意したような、そんな表情を浮かべてマルスを見上げていた。それにマルスは何か嫌な予感がした。
「ヴィーナスは″軍神″マルスの妻です」
「え」
そう言うとミルテは突然マルスの胸に飛び込んできた。それに流石もマルスも慌て、遠くにいたウィリアム、リック、レオも目を丸くした。マルスは咄嗟に彼女を引き剥がそうとしたが直ぐにミルテは彼を服を掴んでこう言った。
「ラルゴー様!これは運命だと思うんです!どうか私に貴方の子供を産ませてくれませんか?」
「はあ?!」
マルスの悲鳴に近い声が広い平原に響き渡った。
*
「で、了承したの?」
「んな訳ないだろうが!!相手はまだ子供だぞ!!」
ヴァシリー邸に戻ってきた4人は当主から案内された応接室で会議をしていた。が、会議と言っても専ら内容は先程ミルテに抱きつかれた上に子を産ませて欲しいとせがまれたマルスについてだった。
目をパチクリとさせながらも面白そうな雰囲気にニヤニヤが止まらないリックに対し、マルスは顔を真っ赤にして怒りの声を上げたが、それをレオが訂正した。
「マルス中尉、Missミルテは18歳だそうです。もう結婚は出来ます」
「そう言うことを言ってるんじゃねぇ!!」
「はぁ〜ついにこの日が来るとはなぁ〜。大丈夫、友人代表スピーチは任せておけ」
「話を聞け!!」
マイペースに話す2人に思わずマルスの怒号も大きくなる。しかしそんな中ずっと静かな人物が1人いた。ソファーにだらしなく座りながら力なく虚空を見つめるウィリアムである。彼はミルテがマルスに抱きついた瞬間からこのような魂の抜けた状態になり、あの平原からの帰り道も足取りがおぼつかず、レオが支えながらここに戻ってきたのだった。まるで廃人である。
「Missミルテ……何故……何故こいつなんだ……僕は一目見た瞬間から君に運命を感じていると言うのに……」
「こいつのこの謎な自信は一体何なんだろうな」
リックはうわ言のように呟くウィリアムの腕を指で突きながらこの男の図太さに感心した。だがこんなことをしている場合じゃないのである。彼らはここへ世間話をしにきた訳ではなく任務として調査をしにきたのだ。その調査員がこんな調子では困る、とマルスはため息をつきながらウィリアムに声をかけた。
「おい、いい加減起きろよ。ちゃんと調査は出来たんだろうな?」
「………」
「貴方とは話したくない、と言っております」
「めんどくせぇな!!」
ウィリアムの隣に座っていたレオが耳を寄せて彼の小さく呟く声を聞き、それをマルスに伝えた。マルスはそれに対しても怒ったが、ウィリアムはそれどころでは無いらしくそのままレオに話し続けた。
「……なるほど。結論から言うとまだよく分からない、だそうです」
「はあ?!」
マルスは思わず声を上げるが、レオはそれを一旦静止させて言葉を続けた。
「と言うのも平原に生えている植物は非常に種類が多く、また飛来した″龍″が何を乗せていたかも現状では分からない為、手当たり次第調査し新しい″龍″が飛来するのを待つしかない、そう言っております」
「何?!」
「そうきたか〜」
レオの、というかウィリアムの言葉にマルスは驚愕し、リックは残念そうにソファーに身を投げて天井を仰いだ。事前に受け取っていた資料では、ヴァシリー邸にはこの短期間で今までに小型の″龍″が何度も群れで飛来している、そう書かれていたが、その期間はまちまちだとも記載されていた。その期間最長で1ヶ月。
「つまり、新しく″龍″が飛来するまで俺たちはここに泊まり続ける必要があるってことか?」
「……もちろんヴァシリー様に許可を頂いた上で、になりますが」
マルスはガクッと力なく項垂れた。久々の任務。任務形態の変更などもあり、今回の任務は少し時間がかかるんじゃ無いかと思っていたが、まさかこんなにも長期になるかもしれないとはマルスも思わなかった。まあ、もちろん明日″龍″がやって来るかもしれないのだが、それの予知は今ここにいる人間には誰も出来なかった。
(あいつだったら予知が出来るのか……?)
ふとマルスはチェリーの存在を思い出す。今頃はどこで何をしているのか。まだあの家に帰る気はあるのか。それともあれは全て見せかけでもう2度と姿を見せてはくれないのではないか、とか。何故か今考えなくていいことをつらつらと考えてしまった。マルスはそんな思考を振り払うように頭をガシガシとかくと、項垂れていた頭をようやく上げた。
「……仕方ないか。とりあえずヴァシリー子爵に事情を説明する必要があるな。誰が行く?」
「……いや、そりゃぁ」
(なぜ俺なんだ!)
マルスは憤慨したようにヴァシリー邸の廊下を歩いていた。いつもだったらこういう交渉ごとはリックやレオが行ってくれるのだが、今回は2人とも何故かマルスを指名してきた。明らかに嫌な予感はするが仕事を投げ出す訳にもいかず、また以前ピオニー城でリックが薬を盛られた時に言っていた言葉が地味にマルスの中で引きずっていた。
『いつもいつも交渉ごとは俺!向こうの機嫌取るのもフォローをするのも俺!お前はいつも渋い顔してどっかよそを向いているだけ!そんなお前に相手の本当の感情なんか読み取れるのかよ?!』
結局後からこれはリックがレブンの指示で言わされていたことだと言うのが分かったが、それでもこれはマルスにとって図星であった。
人と上手くコミュニケーションが取れないマルスにとってリックは自分の弱点を補ってくれる存在。しかしもちろんそれだけではなく戦闘能力でも危機的場面でも彼は暴走しがちな己の力をうまくコントロールしてくれる貴重な存在であり、長年の相棒だ。そんなリックから、たとえ他人の言葉だとしてもあのように言われるとマルスも何か変えなければいけない、そう思うようになっていたのだった。
非常に気は進まないが自ら変わるチャンスの一つとして、マルスは意を決して使用人に案内されたヴァシリー当主の部屋のドアをノックした。
「はい。どうぞ」
マルスが声に促されて部屋に入るとそこには執務机で何かにペンを走らせるロウェルがいた。他に使用人はいないらしく室内は静かで、どこか厳かな気が漂う部屋のドアをマルスは静かに閉めた。
「お仕事中申し訳ございませんヴァシリー子爵。任務のことで幾つか確認したいことがございまして」
「それでしたらそちらの机でお話ししましょう。どうぞおかけください。今使用人に紅茶でも持ってきてもらいます」
マルスの言葉にロウェルは嫌な顔ひとつせず微笑むと、かけていた老眼鏡を外し執務机の前にあるテーブルへ彼を案内した。ロウェルも杖をつきながらマルスの向かいのソファーに腰を下ろすとゆっくりと視線を上げた。
「それで、確認したいこととは?」
「まず1つ目は……ヴァシリー子爵、ご気分を害されたら大変申し訳ないのですが、あの裏山の平原あたりを過去に大規模伐採したことはありますか?」
「え?伐採ですか?」
マルスはまず、今回の任務に当たって真っ先に確認しなければいけないと思っていたことを聞いた。それは元ミトカ町と同じような大規模伐採による″龍″の飛来である。あの時のチェリーの情報では過去に大規模伐採した地域に何度も″龍″が飛来したと言っていた。その為今回もまずはそこを疑うべきだとマルスは思っていた。
しかしロウェルはと言うと不思議そうな顔をしながらはて、と頭を捻っていた。
「ここは先祖から代々引き継いできた土地ですから、あまり大きく自然を壊すようなことはやっていなかったと思いますが……少なくとも私の代になってからは行ってはいませんよ」
「そうですか……」
ここでひとつの可能性は潰れた。マルスはここで解決出来ていればすぐ帰れたのに、と少し残念そうに思いながらもそれを精一杯表に出さないようにして、いよいよ本題を切り出した。
「そうで無い、となると実は″龍″が新しく飛来するまで調査のしようが無いらしく、大変申し訳ないのですが、それまでここに私達を泊めさせて頂けないでしょ、」
「もちろんです!」
ロウェルはマルスが言い切るよりも早く、快諾した。その表情は何故が非常に嬉しそうで、すぐにハッとしたロウェルは恥ずかしそうに咳払いをすると使用人が持ってきてくれたいい香りのする紅茶を一口飲んだ。
「……ラルゴー殿、つかぬことをお伺い致しますが、現在恋人は?」
ギクっとマルスの心臓が跳ね上がった。そうなのだ。最初にロウェルの部屋に行くと決まった瞬間から何故かずっとこんな感じのことを問われそうな嫌な予感がしていたのだ。マルスは己の膝あたりを見つめながらそう後悔した。
「……いえ、おりません」
「婚約者なども?」
「今はおりません」
ロウェルは「そうですか、」と小さく呟くと視線をマルスから窓の外の美しい庭へ向けた。そこにはロウェルの妻とあのミルテが仲良く花の手入れをしていた。
「ミルテが私の娘と聞いた時、正直驚いたでしょう」
「え、あ、いえ、あの、そんな、特に」
嘘である。実際マルスもリック同様、彼女が老夫婦の孫ではなく娘だと聞いた時2度見するくらいには驚いた。ロウェルはそんなマルスの反応に少し笑いを零しながら「気にしてませんよ」とフォローを入れた。
「私も妻も子供はもう諦めていたんですが、40を過ぎて突然授かったのがミルテでして、あの子が生まれた瞬間の感動は今でも忘れられません」
そう言ってロウェルはその穏やかな目元に細い皺を刻み、窓の外を慈しむように見た。
「貴族である以上、いたずらに欲望を発散させることは今まで一度もしたことはありませんが、何故かあの子の前だとそれが揺らいでしまうのです。あの子には沢山美味しいものを食べて欲しいと思いますし、触れるものは全て一流であって欲しいと思いますし、あの子が幸せになれるような手伝いを最大限してあげたい、そう思ってしまうのです」
「……それは、親としてごく普通の考えなのではないでしょうか」
「そう言って頂けて嬉しいですラルゴー殿」
そう言って微笑むとロウェルは唐突に姿勢をピンと正して両手の己の膝の上に置いた。マルスの中では今すぐにでも逃げ出さなければいけない、そんな強い警報音がガンガンと鳴り響いていた。しかし緊張からなのか、彼の体は指一本たりとも動かなかった。
「ラルゴー殿。あの子が貴方に心を寄せていることはご存知で?」
「……あの、それは非常に有難いと思っておりますが、つい先ほど会ったばかりの相手で、」
「愛の前で時間は関係ない、私はそう思うのです」
ロウェルはしどろもどろのマルスの言葉を断ち切るように強く、しかし優しく言葉を紡いだ。
「私たちが子供を思い続け、結婚20年目にしてようやく授かったように、愛とはタイミングなのだと私は思うのです。貴方の名前を聞いた時に、私も妻も確信致しました。ミルテの名前はかつて女神に捧げていた花から取ったもの。その女神の名はヴィーナス。″軍神″マルスの妻です。そして今日、ミルテは一目で貴方に心を奪われた。これは運命だと思うのです。ラルゴー殿」
そう言い切るとロウェルは突然マルスの膝の上で真っ白になるほど握り締められている拳にそっと手を合わせた。それにマルスの肩が情けなく跳ね上がる。
「ここには何日でも居ていただいて構いません。その間にぜひ、あの子と、ミルテと交流を深めて頂けませんか。大丈夫、お二人はきっと運命のお相手なのですからきっといずれ貴方の中にも愛が生まれる、私はそう信じています」
視線を恐る恐る膝から上に上げるマルス。そこには真剣な表情でこちらを見ているロウェルがおり、マルスは今一度、この部屋に訪れたことを深く後悔した。
*
その日の夕方午後7時。ヴァシリー邸の食堂には大きな机を囲むように屋敷の人間全員の姿があった。まず上座からロウェル。そしてその隣に妻セシル。
「今夜の料理もとても美味いね。また庭のハーブを使ったのかい?」
「そうなんです。本日はお客様もおりますからより一層腕によりをかけてミルテと作ったんですよ」
セシルの隣にはレオ、そしてウィリアム。
「手厚いおもてなしに感謝いたしますヴァシリー夫妻」
「これはMissミルテが作られたお料理なんですね!目の前にあるだけで食欲をそそられる芳しい香りに柔らかくとろけるお肉、お二人とも料理が非常にお上手なのですね!」
その向かいは上座からミルテ、そして何故か疲れた表情のマルス、その隣にリックが座っていた。
「お口に合うと嬉しいのですが……ラルゴー様はお肉料理は好きですか?」
「……あ、ああ……まあ……」
「大丈夫ですMissミルテ。こいつ食べられないものとかほぼありませんから」
リックの最後の言葉にマルスは「余計なことを言うな」と言った感じで隣を睨んだが、リックはそんなものまるで気にすることなく目の前の美味しそうな料理に舌鼓を打っていた。ちなみに階級的に言うとリックが上座側に座るべきなのだが彼はそれをにこやかにマルスに譲り、目をキラキラさせて喜ぶミルテの隣に渋々マルスが座ったのだった。
彼が疲れた表情をしているのは、先ほどロウェルに言われたことを仲間に報告して、案の定リックに大爆笑されたからである。リックは大爆笑してソファーから転げ落ち、それにレオがまるで子供を相手にするように手を貸し、ウィリアムがまた激情してマルスの胸倉を掴んできて、まさにカオスといった状況に底なし体力のマルスもすっかり気力が尽きてしまっていた。
「……雨、ですか」
ふと、パシパシと音を立てる食堂の天窓を見上げてレオが言う。それにセシルが「ああ」と言って同じく上を見上げた。
「ここの土地は昔から雨が多いんです。なのでこうやって突然大雨が降ってくることも珍しくないんですよ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
そんな会話を聞きながら、マルスはチラリと右隣のリックを見る。彼もこちらを見ると難しい顔をして小さく首を振った。
実は雨の日に”龍”が発生及び飛来することはほとんど今まで起こっていない。『sun』の見解では恐らく大地を飛び立つ時に使う『プラント・エネルギー』は自分の体積分しか発生させることが出来ず、雨に濡れて重くなった体を飛ばし続けることが出来ないからなのではないかと言われていた。つまり”龍”の飛来を待つ彼らにとってこの土地の条件は非常に悪い、そういうことだった。
「あの、ラルゴー様の故郷はどんなところなのですか?」
「えっ」
ミルテが目を輝かせながらマルスに問う。マルスはそれに明らかに動揺した。
「確かラルゴー領はセレスディア王国でしたよね。私旅行で一回しか行ったことがないのですが、発展された都市と豊かな自然が見事に調和した国でしたよね」
「いやそれは首都あたりで、うちはもっと西の方で……、普通の田舎です」
「そうなんですね!ぜひ一度私も訪れてみたいです!」
グッとマルスの心臓が鷲掴みにされたような、そんな感覚がしてマルスは一気に青ざめた。元々マルスは押しの強い女性には非常に弱いのだ。少しずつ体がリックよりになっていくマルスに、ロウェルが気づき苦笑しながらミルテに声をかける。
「こらミルテお客様にそんなに強請るものではないよ。そういう話は後からゆっくりと」
(『後から』?!)
ロウェルは笑顔でミルテに声をかけたが、マルスにとってそれは逃げ道を絶たれ追い込まれることと同じであった。普段大抵のことには物怖じしないマルスだったが、今はとにかくロウェルの優しさと笑顔が怖かった。マルスは助けを求めるようにリックの方へ視線を送ったが、彼はやはりずっと美味しそうな料理に舌鼓を打っておりマルスの方を見ようともしなかった。
(何故だ?!何でこんなことになっているんだ?!)
元はと言えばマルスは”龍”の調査に来ただけである。それが今は初めて会った女性に求婚され、その両親から外堀を埋められつつあり、仲間からは(一部を除いて)応援されてしまっている。本人の意思がはっきりするよりも早く進んでいく展開にただマルスは焦っていた。
(確かにMissミルテはまだ子供ではあるが非常に魅力的な女性だ。礼儀もしっかりしているし、家柄も申し分ない。だが、結婚ってそうやって決めるものか?!)
昔は戦争などの影響もあり、貴族の結婚といえば同等の家柄同士での政略結婚が普通であった。しかし戦争が終結し復興も進んでいる今はそうでない考えの貴族も増えており、必ずしも親の決めた相手の結婚しなければいけない訳ではない。なのでマルス自身にも一応自由に結婚相手を選ぶ権利はあるのだが、彼は如何せん今まで女性に触れ合ってきた経験が少なく、恋愛経験もないので結婚についてなど考えたことはなく、今求婚を迫られている状況が果たしていいことなのか、悪いことなのか全く判断が出来なかった。要するに混乱状態である。
そんな中、食堂の中へ1人のメイドが少し慌てた様子で入ってくるとやや困惑した表情でロウェルに声をかけた。
「ロウェル様お食事中申し訳ございません」
「どうしたんだい?」
「実はロウェル様とお話がしたいとおっしゃる方が突然お見えになっておりまして……」
ロウェルはその言葉に驚きの表情を浮かべた。時刻は夜7時半を回ったところ。外は大雨。こんな状況で突然当主を訪ねてくるなど、話が聞こえたマルスたちからしてもまともな客には思えない、そう思った。しかし、
「……そうだね。とりあえず入れて差し上げてほしい」
「!え、よろしいのですか?」
ロウェルの言葉にメイドは驚愕の声を上げ、同じくマルスたちも驚いたように彼を見た。ロウェルはというと少し悩むような表情を浮かべてはいたが、変わらずあの優しい笑顔をたたえており、メイドに言い聞かせるように口を開いた。
「この雨の中を訪ねて来られたのだろう?きっと体が冷えてしまっている。食堂にお通しして温かいスープでも用意して上げてくれないか。用事はその後で聞こう」
貴族の鑑のような人だと、マルスはそう思った。本来貴族とは領地を治めるのが使命ではなく、それはあくまで過程の1つ。本来の貴族の使命とはその与えられた財産や権力で恵まれない人々に富を分け与えるのが義務であった。所謂ノブレス・オブ・リージュである。
どうしても与えられた大きな富にそれを忘れてしまう貴族も多い中、このロウェル・ヴァシリーという男は正に今の貴族たちがあるべき本来の姿であるとマルスは心から思った。
そんなロウェルに指示されたメイドはその言葉に戸惑ってはいたが、主人の命に逆らうことはなく静かに頭を下げると食堂を出ていった。
「流石ヴァシリー子爵。長い歴史を持つ貴族に相応しいご対応です」
「いえそんなことありませんよニコルズ大尉。私はただ思ったことをしたまでです。それより皆様には申し訳ざごいません。お食事は続けていただいて構いませんので新しいお客様のことはどうぞお気にせず」
「はい。どうぞ新しいお客様にもこちらはお気になさらずとお伝えください」
リックは座ったままであるが恭しくロウェルに頭を下げ、そんな彼にロウェルも感謝を示すように頭を下げたのだった。
コンコン
食堂の大きな扉がノックされる。どうやらその新しい客というのが来たようだった。それに少しだけミルテが不安そうな顔を浮かべる。そして小声でマルスに話しかけてきた。
「ラルゴー様、私なんだか怖いです。こんな時間に訪ねてくるお客様なんて」
「大丈夫です。俺たち『moon』もいますので、あまり騒がぬように」
マルスは扉の方に視線を向けたままハッキリとそう言った。弱っている相手には守ってやらねばならないという強い思いが働く男なので、今は恋愛感情などは無しにそう言ったのだ。ただこういうところが余計に後で自分の首を絞めることになるのだが今のマルスにはそんな考えはなかった。
そんな中ゆっくりと食堂の扉が開かれる。メイドの後ろに立つその人物は、確かにメイドが困惑するのも分かるほど些か異様だった。
身長は恐らく150㎝程度の小柄。肩が細いので恐らく女性。ただ頭から白い雨合羽を着ておりその素顔は座っているマルスたちからは見えなかった。靴はボロボロのブーツを履いており、一体どこから来たのかまだ泥が残っていた。そんな泥が残るブーツでその女は食堂に足を踏み入れる。その時一瞬だけ何故かマルスの方を見て動き止めた気がしたが、それも一瞬のことでロウェルのところまで真っ直ぐに歩いていくとピタリと立ち止まって口を開いた。
「貴方がヴァリシー子爵でしょうか」
その声を聞いた瞬間。またしてもマルスの心臓は鷲掴みにされたように跳ね上がった。しかし今回のは先ほどとは少し違う。嫌な”予感”がするというよりも、嫌なことが起きる”確信”があるような、そんな感じだった。
(この声……いや、まさか、)
1人心拍数を上げるマルスを他所にその人物は深く被ったフードを脱いだ。
「この地に飛来する”龍”について少しお聞かせ願いたい」
フードを脱ぐと同時に広がる長く黒い髪。光に照らされる貝を磨いたような白い肌。そして光を反射しずらい珍しい黒い瞳。間違えるはずもない、あのチェリーが目の前にいた。