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龍の花  作者: ぴえろ
第二章 龍の風格
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「龍の風格」【前編】

第二章『龍の風格』


拝啓 桜と百合の君

木々が色鮮やかに朝露を照らす季節となりましたがそちらはいかがお過ごしでしょうか。

こちらでは庭園を一新いたしまして、今は華やかに色めいております。

ぜひ貴女にもお見せしたく思いますので今度の講演会への招待状を送付させて頂きます。

またかの日のように相見える日を心待ちにしております。

続きます暑い日々にどうか枯れてしまわれぬよう、ご自愛ください。

P.S ぜひご来場の際はお父様の″ご遺品″とご一緒に。



*



「この、馬鹿共が!!」


ブラナ=メルタ領『moon』本拠地の要塞内に雷が落ちたかのような怒号が響く。思わずその部屋の前を通った人物たちが驚き固まるが、関わりたくない、と言った感じであっという間に逃げていった。

その室内では白い口髭を生やした50代くらいの男が、丁寧に細工が施された立派な机をドンっと強く叩き目の前に立つ大きな男2人に説教を行っていた。


「まずリック!」

「あい」

「返事はハイ!だろ!」


小学生に行うような注意をしながら口髭の男は机の上にあった資料を一枚掴むと彼の目の前に突き出す。


「なんだこれは!」

「この前の、お偉いさんの接待経費ですね」

「それは知っている!ここだ!この項目!」

「あー、キャバクラ代」


さも悪びれていない様子で軽く話すリックに口髭の男は思わず立ち上がって丸めた雑誌で彼の頭を叩いた。一応立派なパワハラである。


「『あー』じゃない!なんで接待費でキャバクラに行ってるんだ!」

「え〜だって〜『お偉いさんたちがなんかいい店ないの〜』って聞いて来たから〜」

「100歩譲って接待のために行ったとして、金額を考えろ!なんだこの、1、10、100、1000、10000……お前経費でいくら使ってんだ!!」

「担当の子が誕生日で☆」

「自分の金でやれ!!!」


そう怒鳴るともう一度リックの頭を雑誌で叩いた。そして完全に釣り上がった視線を今度は隣の更に大きい男に向ける。


「次にマルス!」

「ん」

「返事はハイ!だろ!!」


顔を真っ赤にしながらリックにした注意をこちらにも言う。そして口髭の男はリックとはまた別の資料をマルスの目の前に突きつけた。


「お前これが分かるか!」

「この前行った任務先からの請求書です」

「そうだ!お前が行った任務先から届いた、″お前が壊した備品″の請求書だ!!なんだこの金額、1、10、100、1000、10000……リックのキャバクラ代より高いぞどう言うことだ!!」

「″龍″追っかけてたら街灯に激突して、その街灯が折れて教会のガラスを全部割って、そのガラスがなんか貴重なオルガンをぶっ壊したみたいです。怪我人はいません」

「うわ街灯折るとかお前いよいよ人外じゃん」

「お前は黙ってろリック!!」


口髭の男がリック同様丸めた雑誌でマルスの頭を叩こうとする。が、マルスの頭は口髭の男より30cmも上にあり叩こうとはしたが、彼に目の前でヒョイっと躱されてしまった。


「避けるんじゃない!!」

「いや自分から叩かれに行くのも変だろワグナー中佐」


ワグナーと呼ばれた男はぐぬぬとマルスを睨むも、急に諦めたのか革張りの椅子にドサっと座り直した。


「あ!なんだよ中佐!ちゃんとマルスも叩けよ!不公平だぞ!」

「何が不公平だ!俺のは事故だがお前のは故意だろうが!」

「は〜?!事故なら何億でも使っていいって言うんですか〜?」

「もーやめろ。やめてくれ。お前らの相手をしていると無駄に体力が減る」


ワグナーは頭を抱えながらそういうと自分が怒りのままに荒らしてしまった机の上を直していく。名札も転がっていることに気づき元の位置に戻した。

ワグナー・ゴールドマン中佐。背はそれほど高くなく、体も細身だが実際に幾度となく戦場を駆け抜いてきた生粋の軍人である。前線を退いてからは後進育成に励みマルスとリックの士官学校時代の教官も務め、現在は巡り巡って2人の直属の上司であった。彼ら2人がいまいち緊張感が足りない態度を示すのも自分のことを深く信頼しているからこそ、であるはずだと一応ワグナーは思っている。


「全くお前らは学生時代から能力などは非常に優秀だったが中身がいつまで経っても、」

「なぁ昼飯何食う?」

「俺うどん」

「え、俺パスタ食べたい」

「説教中にランチの話をするな!!」

「ところで中佐」

「勝手に話を切るな!!」


ワグナーはまたしても顔を真っ赤にして怒ったがマルスは完全に無視して話を続けた。


「任務先からの請求書ってそれだけですか」

「は?!まだ他に来る可能性があるのか?!」

「いや、そうじゃなくて。……元ミトカ町からの請求書は全て来ましたか」


一瞬ワグナーはギョッとしたがマルスのその言葉に不思議そうに首を捻った。


「それはもう1ヶ月も前の事件だろ。あの時の請求書なら既に全部精算済みだ。元々町長の不正金問題が上がったせいでさほど多くもなかったしな」

「そう、ですか」


今から1ヶ月前。マルスたちが行ったあの元ミトカ町での騒ぎはどんどん規模が大きくなり結局ワグナーの言う通り、大きく破損した建物はあったものの行政側の不正問題が上がったことで補償責任が全てそちらに変わり、『moon』が出した大きな出費といえばあの時急遽借りた馬代ぐらいであった。一応『moon』に届いた請求書は全てマルスも確認していたので知ってはいたが、なんとなく腑に落ちないものがあった。


(あの女……やはり『moon』に修繕費を申請しなかったのか。あのあとあの村から″魔女″に関する情報が上がらなかったところを見ると言っていた通りすぐに引っ越したのか。……だがなぜそこまでして身を隠しているんだ?)


あの日、元ミトカ町でマルスが偶々出会った女性。町の大人たちとはほぼ接触せず気味悪がられ、1人町外れの森の中でひっそり暮らす。完全な世捨て人かと思いきや″龍″に関しての知識は何故か″龍″専門家たちの集まり『san』よりも詳しく今回マルスが出会わなければ元ミトカ町の″龍″は乗せた猫の命が尽きるまで飛び続けていたかもしれないし、元町長及び領主の不正金問題は一生闇の中だったかもしれない。

女からはこれ以上詮索するなと釘を刺されはしたが、やはりマルスはずっとそんな彼女のことが気がかりであった。


「もういいのか?じゃあいい加減本題に入ろう」

「え?さっきのお説教がメインじゃないの?」


ワグナーの言葉にリックが驚き、そしてすぐにガクッと肩を落とした。


「あからさまに嫌そうな態度をするな!いいか、今回はまたお前たち2人での任務だ。ただし今回は本当に態度と行動に気をつけろよ」


そう言って2人に資料の束を手渡す。

ちなみに今世の中は紙よりもデータを扱うのが主流ではあったが、ワグナーは根っからのアナログ人間であり、マルスやリックに任務が通達されるときは大体紙の資料だった。現在ワグナーは孫から最新端末の操作を絶賛勉強中である。

その2人に渡った資料の1ページ目には2人もよく知る人物の写真があった。


「あ、こいつあれじゃん『san』の″ボス″」

「『san』の所長はブラナ=メルタ家当主だ」


リックの言葉にマルスがムッとして反論する。それにリックは「違う違う」と笑いながら彼の写真を指差した。


「よく見ろよ!こいつよくテレビに出てるやつじゃん。なんか″龍″の専門家代表って顔して。実際、影ながら全体をまとめるブラナ=メルタ家に対してこいつは表に出て舵取り、みたいな? だよなワグナー中佐」

「そうだな。現在『san』では、その前身となったアルドメリア公国国営化学生物研究室の所長を務めていたこの男が事実上の指揮をとっている。今回お前たちには彼の護衛をしてほしい」

「はあ?!」


明らかに嫌そうな声を上げたのはマルスだ。彼は信じられない、といったような目でワグナーを見ると資料を机に突き返した。


「俺らは『moon』ですよ。SPじゃない。なんだってそんな奴の護衛なんかしなきゃいけないんだ」


一応目の前にいるのは上司であるため抑えてはいるが、彼が怒っているのは明らかだった。

マルスは元々ブラナ=メルタ家を非常に尊敬しており、何に関しても誓いの言葉はブラナ=メルタ家に立てるほどだ。そんなブラナ=メルタ家よりも表に出て実権を握る男にマルスが嫌悪感を抱かないわけがなかった。そしてそれはワグナーももちろん分かっていた事だった。


「分かってる。これはお前向きじゃないことは分かってるさマルス。だが仕方ないだろう。向こうからの指名なんだから」

『……指名?』


思わずリックとマルスの声が重なった。




------------------------------------------------------


『san』から『moon』へ指令

fileNO.2971

アルドメリア公国ブラナ=メルタ領にて要人を護衛せよ。


------------------------------------------------------




「まあなんて美しい花なの。ねぇあなた、これはなんと言う花?」

「なんだろうなぁ。バラにしては花が大きいし、ダリヤはまだ早いだろうし……」

「それはボタンですよミッドレアーご夫妻」


広大な庭園で花を愛でていた若い夫婦にふいに男が話しかける。男は40代くらいで身長は170cm後半。ほっそりとした体躯をしているが貧弱な様子は無く体に一本の木が通っているのかと思うほど姿勢がいい。髪型はこれまた誠実な印象を与えるようなブロンドのオールバック。白いフチのメガネをかけており、服は白いシャツに紺色のストライプ模様のスラックス、黒い革靴を履いており、その上から白衣を羽織っていた。


「私が品種改良し、今の時期でも花をつけるようになった新種なのです」

「レブン副所長!」

「お久しぶりですMrs.ミッドレアー。以前よりもまた更にお綺麗になられましたね」


そう言ってメガネの男は目を細めて笑うと妻の手をそっと取りそこに軽いキスを落とした。それを横で見ていたなんともいえない表情の夫がコホンと小さく咳をする。


「レブン副所長。お久しぶりです。今回はお招きいただきありがとうございます」

「いえいえこちらこそ今回は私の講演の為に遠路はるばるお越しいただき恐悦至極です」



「あー俺ああ言う男嫌いだわ。なんつーか『いや自分は全然そんなつもりないんですけど何かよく好意を寄せられてしまうんですよね〜本当に何でか分からないけど〜』みたいなオーラが出まくってる」

「同族嫌悪か」

「はぁ〜?俺は亭主の横で妻を口説いたりしません〜」


庭園とは少し離れた、渡り通路の大きな柱に隠れるようにリックとマルスはメガネの男を観察していた。もちろん声は抑えて向こうに聞こえないように配慮している。


アルドメリア公国ブラナ=メルタ領 首都アルセン

2522年現在5大国家の中で最も発展している国であり、その中でもここ首都アルセンは水と花の都として世界的に有名で街の至る所に色とりどりの花が咲き乱れ、その富を象徴するかのように各所には噴水があった。

そのアルセンの中でも今最も注目されているのがここ、ピオニー城。

その名の通り、屋敷では無く城。立派な城門から始まり、車で森の中を走ること約10分、そこには非常に広大で美しい花と水の庭園が広がり、その中央には庭に負けない豪華絢爛な城があった。城はもちろん中も豪華で大理石の広いホールから始まり、幾つ説明されたか分からない美術品の廊下を抜け、ここもまた豪華な中庭が見渡せる渡り通路に来る頃にはリックもマルスもややぐったりしていた。


「つーかさ」


未だ若い夫妻と話を続けるメガネを男の後ろ姿を見ながらリックが小声でマルスに話しかける。


「ここに辿り着くまでで、50台は監視カメラあったけどこれって普通か?」

「家にもよるが、少し多いな。それに俺たちを案内したあの使用人たち、身のこなしから多分元軍人だ」

「だよな。マジで俺たち何のために呼ばれてんだか」


はぁ〜とリックがため息とつく。ふと、マルスがメガネの男から視線を外してリックを見た。


「お前この前の接待」

「んあ?中佐に怒られたやつ?」

「アルセンでやってなかったか」


大体接待などの任務にマルスは向かないのでリック単体で行う。なので先程ワグナーにこってり絞られたキャバクラの件についてもマルスは同行していなかった。


「あ〜そういえばそうだわ。やっぱり大きな都市はいいぜ〜! み〜んな可愛いし優しいしぃ……え?何?」


リックはその夜のことを思い出したのかうっとりしながらニヤニヤした笑みを浮かべる。しかしすぐにマルスが微妙な顔でこちらを見ているのに気がついた。マルスは非常に言いにくそうに口を開く。


「……いや、ここまで来るとどっちかが何かやらかしたから指名が来たのかと……」

「は?!え?!もしかして俺がキャバクラでフィーバーしたから?!まさか担当被り?!!」

「何の話だい?」


ビクッと大きな男2人の肩が跳ね上がる。声をした方を見ると、先程までこちらが観察していたはずのメガネの男が2人のすぐ隣に立っていた。

メガネの男は彼らの『moon』指定の軍服を見るとにっこりと微笑んで手を差し出した。


「君たちがリック・ニコルズ大尉とマルス・ラルゴー中尉だね。私はロバート・レブン。この城の主人であり、『san』の副所長をしている。どうぞよろしく」



*



「ママー!見て!ミミズいた!」

「きゃあ!ちょっとそんなもの持ってこないで!早く捨てなさい!」


閑静な住宅街の一角。家の庭で洗濯物を干していた女性の元に小さい男の子がまだウネウネと動くミミズを掴んで持ってきた。男の子は目をキラキラさせていたが、母親らしき女性の方はそれどころでは無く顔を青ざめるとさっさと捨てるように指示をする。褒めてもらえると思った男の子は口を尖らせた。


「えーでもー」

「でもじゃないでしょ!ミミズさんも地面から引っ張り出されたら可哀想でしょ」

「違うよー!僕が引っ張り出したんじゃないよー!向こうにいっぱいいたんだから」


そう言って男の子はミミズを握る方とは反対の手で母親の手を引く。母親が嫌々ながらもそちらに向かうとそこは用水路の側溝だった。


「な、何これ……」


側溝からは沢山のミミズが這い出てきていた。1匹や2匹ではない。恐らく100匹以上はおり泥水のように溢れ出しており、恐らくその下にも何百匹といるのであろう。

母親は何か嫌なものを感じたのか急いで男の子からミミズを放させると、そそくさと家に戻っていく。

その一部始終を反対側の道路から1人眺める黒髪の女がいた。女は母子が立ち去ったのを見送るとその側溝に近づく。そこは一部干からびているものもいたがまだウヨウヨと蠢くミミズの集団がいた。それをしばらく見つめると女は徐に側溝の蓋に手をかけてガゴっと外す。


「……なるほど。これは異常だな」


想像通り、そして想像よりは遥かに多く中には大量のミミズがそれぞれを押し合うようにひしめいていた。そして女はその側溝を辿るように視線を上げていく。大体大都市の用水路は上から下へ繋がっており、この用水路の1番上には特に目立つ街1番の城、ピオニー城がある。


「……お前の仕業か。レブン」


そう言って女は己の黒く光の反射しない瞳で上を睨んだ。



*



「いやあこの度はご足労いただき本当にありがとう。それにしても2人とも背が高いね。あ、クッキーはどうだい?うちの料理長はお菓子も得意で」

「あー……えっと、ありがとうございます……」

「……」


現在マルスとリックはレブンに連れられピオニー城の、これまた立派な応接室に来ていた。応接室からも天井まで伸びる大きな窓からは見事な庭園が見渡せ、またその中央に立派な噴水が設けられているのも見えた。

2人ともレブンを″いけすかない男″だと思ってやってきたが、現在そのレブンからは非常に高待遇を受けていた。まず部屋に着いて最初にキンキンに冷えたウェルカムドリンクを手渡されたあと、瑞々しい新鮮な果実がそれぞれ2人分用意され、その後2人もよく分からないが有名だという茶葉の紅茶を置かれ、そして今は本物の花を使ったというクッキーを勧められている。とりあえずリックはそれらを薦められるまま飲んで食べたが、マルスは何一つ手をつけず腕を組んだまま気味が悪いといった表情で窓の外をずっと眺めていた。


実際、『moon』として出迎えられる時は冷遇されることが多い。現在世の中は武力よりも知識の深さがものをいう世界になっており、有名な貴族たちは『moon』ではなく『san』で仕事に就くことを選ぶ。世間にもそれが広まっており、『moon』は『san』に入れなかった″荒くれ者″という印象を持たれることが多かった。なのでマルスもリックも士官ではあるがこの前の元ミトカ町のように働きに合わぬ扱いを受けるときも少なくなかった。

だからこそ余計、『san』を執り仕切るこの男からこのような扱いを受けることは不思議で仕方なかった。


「あ、あのーレブン副所長」

「何だい?ああ、紅茶のおかわりかな?」

「い、いえ、えっとー、」

「俺たちをここへ呼んだ理由は?」


リックがどうやって本題を話せる空気にしようと考えていた最中、マルスはそんな空気など全て無視し単刀直入にレブンへ尋ねた。それにレブンは少し驚き、リックは慌ててフォローに入った。


「あー!その!ほらレブン副所長って大変お忙しいイメージあるじゃないですか〜。なのに何でここまで時間を割いて俺たちを呼んでくれたのかな〜って!」

「ああ、そういえば話してなかったね」


レブンはリックの言葉を聞くと特に嫌な顔せず涼しい顔で、静かに飲んでいたティーカップをテーブルに置いた。ちなみにテーブルもティーカップも非常に高価そうである。


「君たちは先日の元ミトカ町不正金問題の功労者らしいね」

「!」


リックとマルスの視線が、全くレブンに興味を示さなかったものから緊張感のあるものに一気に変わる。レブンはそれに気づいたのか気づかないのか読み取れない表情のまま続けた。


「元はこちらが指示した″龍″を追っていただけなのに、その町の無茶な大量伐採問題、そしてその領主の不正金問題まで発覚させてしまうとは驚いたよ。一体どんな捜査をしたんだい?」

「いえ捜査というか何というか、″龍″が降りてこないっていう非常事態を解決するために色々調べていたら偶々というか」


リックが適当な理由を並べる。実際ワグナーなど上層部に説明するときもリックがこのようにうまく話を合わせてくれ、マルスはその横でただしれっと話を聞いているだけだった。


「偶々でも素晴らしい功績だよ。特に君達2人は同世代の中で1番の出世頭らしいじゃないか。これでまた昇進に一歩近づいたんじゃないかい?」

「そんなまだまだ勉強の身です」

「ところで」


終始笑顔で穏やかな口調だったレブンが突然、無意識なのか声のトーンが若干下がる。その口元は変わらず薄い笑顔を浮かべていたが、2人を射抜いたその緑色の目は全く笑っていなかった。


「その元ミトカ町で″魔女″と呼ばれた人物がいたらしいね。どういう人物だったんだい?」


突然の質問にリックはやや戸惑いながら答えた。


「どういう人物と言われても、実際には会ってないんです」

「そうなのかい?」

「はい、何でも『数ヶ月前にやってきた』『″龍″が来ることを予言していた』らしいんですが、なにぶん証言者が子供しかいなかったので俺たちもよく分かりません。興味はありますけどね」


そう言ってリックはハハハと笑い紅茶を一口飲んだが、レブンはただ小さくニコリと笑みを浮かべるだけだった。そして急にマルスの方へ視線を向ける。


「君も会ってないのかい?」

「……会ってない、です」


内心驚いて心臓がビクッと跳ねたがなんとかそれは表に出さずにマルスは短く返事をした。その返答にレブンは「そうか」とだけ答えて少し目線を下げ一瞬間を空けた。しかしすぐに彼らの方を向く。その顔は先ほどとは違いまたよく分からないが愉快そうな笑顔が張り付いていた。


「いやすまない!つい話が逸れてしまったね。つい興味のあることはとことん追求したくなってしまう性質なんだ」

「あ、はは、さすが学者先生らしいですね〜」


そう言ってリックと2人で笑い合うとレブンは徐に白衣のポケットから一枚のポストカードを取り出した。マルスもリックも少しだけ身を乗り出してそれを見る。そのポストカードの表面には夜にライトアップされたピオニー城と『講演会のお知らせ』という文字が入っていた。


「講演会、ですか」

「ああ、定期的に行っていたものなんだがね。この1年の『san』の研究成果を、支援していただいている人々に発表し、また来年のビジョンについて少しお話しさせてもらう会なんだ」

「……」


『san』の研究成果は毎年ではないが、所長であるブラナ=メルタ家当主が本家に人を呼びしっかり報告を行っている。それとは別に実施している時点で『san』の研究成果、ではなく″ロバート・レブン″の研究成果の発表なのだろうとマルスは推測した。本来なら必要ないはずなのにそれを平然と所長であるブラナ=メルタ家領地内で行い、かの家よりも目立とうとするその行為に思わずマルスの眉間の皺が濃くなる。それに1人気づいたリックは慌てて明るい声を上げた。


「そ、それはすごいですね〜!皆さん楽しみにしていらっしゃるでしょうね〜」

「実は今回の講演会に合わせて庭園もリニューアルしてね。それも見てもらえたらと思っているんだ」

「へ、へぇ〜!そうなんですね〜!」

「だが実は困ったことがあって」


いよいよリックのごまスリワードが無くなりかけたとき、レブンが急に暗い顔をしてため息をついた。何かと思うと、レブンは後ろに控えていた部下に何か指示を出して1枚の紙を2人の前に差し出した。


「!これは、」

「今から数日前、この脅迫状がうちに届いたんだ」


レブンが2人に見せたのはA4サイズの紙に印刷された脅迫状で、そこには「私はお前を許さない」と意味深な文字が記載されていた。


「″私はお前を許さない″?どう言うことでしょうか」

「それが全く分からなくてね。だが恐らく文面から私の命を狙っているんじゃないかと推測しているよ」


上司からも聞かされていなかった内容にリックもマルスも思わず言葉を失う。そんな2人にレブンはソファーの背に預けていた背を起こし、急に改まった。


「今回の講演会は私にとって非常に大事なものなんだ。既にお客様も到着しているし中止には出来ない。そこで『moon』の中でも優秀な君達2人に私の護衛を頼みたいんだ」


どうか頼む、とレブンは2人に頭を下げる。流石にそれには驚いた2人だったが、チラリとお互い困ったような顔でアイコンタクトをすると少しだけ小さなため息をついた。


「……頭を上げて下さいレブン副所長。俺たちにどこまで出来るか分かりませんが協力させていただきます」

「……!そうか!ありがとう!本当にありがとう!」


そう言ってレブンはリックの手を両手で握って礼を言った。マルスはというと2人に気づかれないようにもう1度ため息を吐いて窓の外の空を眺めた。


(……めんどくさいことになった……)



*



母は強い人であった。


「あら擦り剥いちゃったの?大丈夫よ。ほらあっちで絆創膏貼りましょう。すぐに痛くなくなるわ」

「……ぐすっ。でも今は痛い……」


小さな村の田舎道で母の後ろを追いかける途中、転んでしまった小さな女の子はピンクのスカートの裾を必死に握りしめたまま痛みに耐えていた。そんな女の子の頭を母親は苦笑しながら撫て、両手に持っていた買い物袋を全て右肩に担ぎ直した。


「ほら。じゃあここからは手を繋いで帰りましょうか。これならもう転ばないでしょう」

「うん……」


笑顔で提案した母親に女の子は渋々ながらも嬉しそうにその柔らかい手を握った。そうして2人で歩いていると向こう側から近所の主婦2人組が歩いてきた。


「こんにちわ〜」

「……」


母は笑顔で2人に挨拶したが、主婦2人組は母と目も合わさずその横を通り過ぎた。女の子が後ろを振り返るとヒソヒソと話し声が聞こえてくる。


「ほらあの人でしょう。都会で旦那に逃げられて最近越してきたって外国人。髪も瞳も真っ黒でまるで魔女ね」

「言葉を交わしたら呪われてしまうわきっと。子供まで真っ黒なんて」


そんなクスクスと嘲笑うような言葉に女の子はぽかんとしていたが、すぐに母親が手をつよく握り少し早く歩き出した。


「……ママ。今の人たち挨拶返してくれなかった」

「きっと今日はそんな気分じゃなかったのよ。さあお家に帰りましょうチェリー」


そう言うとまた母親は先ほどのようにニコッと明るい笑顔で笑った。この時女の子はあの主婦たちが何を言っていたのかは理解出来なかったが、母はどんな時でも泣かない強い人なんだと、そう思った。



*



「ここは女神イシスと間と言って中央に伸びる川はナイル川をイメージしててね、今のような季節でも快適に過ごせるんだ。ああ、君達の部屋はもう少し先だよ」



「おい何で俺たちまでここに泊まることになってんだよ」

「仕方ないだろ。あんなに誘われて断れるか」


現在リックとマルスはレブンに連れられ再びピオニー城の中を歩いていた。2人とも今日は本拠地に帰れるものだと思っていたが明日行われる講演会の為に前泊してほしいとレブンに頼み込まれ、やや引き攣った笑顔を見せながらもリックが了承していた。

前を歩くレブンは時折こちらを振り返って自慢の部屋たちを紹介しており、リックとマルスは彼に聞こえないよう前を向いたままこっそり話す。


「つーか明日の講演会とかの為に他にも前泊している客がいるんだろ。そんな奴らもいるのにわざわざ俺たちにも部屋を用意したのか? なんか変じゃないか?」

「まぁー何か企んでいるような気はする。お前も油断するなよマルス」

「お前じゃあるまいし」

「はぁ〜?お前なんかデカい肉出されたら一発で尻尾降りそうだけどな」

「ああ?」


「さあ着いたよ!」


レブン自ら大きな扉を開けるとそこは完全にスイートルームだった。高い天井に同じく高い窓。大理石の床には豪華な絨毯が敷かれ入って中央の部屋には大きなガラス張りのテーブルとその上に冷えたウェルカムシャンパン。それを囲うように置かれた革張りのソファーの後ろにはステップフロアとワインバーがあり壁一面にワインが既に敷き詰められていた。隣がベットルームのようでまさに王族のような天蓋付きのキングベットとカウチ。部屋の中にも関わらず滝が流れており外に続いている。さらにその奥にはトイレとシャワールーム。こちらは金具が全て純金で出来ていた。

高級ホテルのスイートルームも顔負けの部屋に2人とも口を開けて硬直する。


「ここがリック大尉の部屋だよ」

「え?!1人1人部屋ですか?!!」


リックの心なしか嬉しそうな声にマルスは眉を顰める。そんな彼に気づきリックはゴホンッとわざとらしく咳をした。


「いえ俺たちは任務出来ておりますので流石にこれは、」

「あ、こっちの内線使って貰えればいつでもルームサービスを用意させるから」

「ん?なぜ内線が二つもあるんですか?」

「こっちは内線じゃなくてアルセンの高級クラブ直通電話」


レブンは爽やかな笑顔でパンフレットをリックに手渡す。


「これがお店の女性たち。ここから電話をかければすぐに出張しにきてくれるよ。お代はこちらが持つから気にしないで」

「有り難く使わせて頂きまーーーす!!!!」

(テメェが尻尾ふってんじゃねーか!)


レブンに勢いよく頭を下げたリックをマルスは心の中で思いっきり罵倒した。しかしリックにはもう何も届いていないようで完全にニヤついた顔で浮き足立っている。


「良かったリック大尉は気に入ってくれたみたいだね。マルス中尉はこっちだよ」

「あ、ああ」


マルスは一抹の不安の残しながらもリックの部屋を後にした。レブンに連れられ案内された部屋はリックの部屋から数m先の同じくVIPが泊まるようなスイートルーム。何か不審なものはないかパッと目線を滑らせるがとりあえず目のつくところに監視カメラや盗聴器らしきものは発見出来なかった。


「ここの部屋の電気はここ、内線はここね。あ、バルコニーにはジャグジーがあるから1人で楽しむもよし、クラブの女性たちと楽しむのもよし、だよ」

「俺はそういうのいいんで」

「そうなのかい?君のような男に呼ばれたら女性たちも喜んでサービスしてくれるだろうに」


レブンは少し残念そうに言いながら部屋の中央でキョロキョロと辺りを見渡すマルスの背中を見つめた。


「ちなみに好みのタイプは?」

「だからそう言うのは、」

「黒髪ロングのストレートとか?」


急に謎の悪寒がしてマルスが後ろを振り返る。そこには先ほどのように薄い笑みを浮かべながら、しかし瞳は全く笑っていないレブンがいた。


「チェリーブロッサム・リリー、と言う名前に聞き覚えは?」

「……え、は?新種の花の名前ですか?」


訳がわからずマルスが適当な言葉を返すと数秒間を置いた後にレブンは「いや気にしないで」とだけ言い部屋を静かに出ていった。気味の悪さに思わずマルスの眉間がさらに深い皺を刻む。


(なんなんだあいつ……。やっぱり嫌な予感がする。リックは浮かれてやがるし、やっぱり今からでも同室にしてもらうか……?)


そんなことを思っていると、マルスの胸ポケットの通信端末がブブブッと震える。何かと思い取り出すとワグナーからの着信だった。


「ワグナー中佐ちょうどよかっ、」

『リックに聞いたぞマルス。お前たちピオニー城に泊まるんだってな。だったらあれ買ってきてくれ。ピオニー城限定販売のピオニーキャンディー。あれ孫が好きでな。リックにも頼んだがあいつなんか浮かれてて忘れそうだからお前にも伝えておくぞ。いいか絶対忘れるなよ!あと領収書貰って来いよ!分かったな!』


ワグナーは早口にそう告げるとマルスの声も聞かずにブツっと一方的に通信を切った。機械音痴な彼のことだから留守電だと思って一方的にしゃべったのだとは思うが、マルスは急に1人で真剣に考えていたのがバカらしくなった。

そして通信端末を高そうなソファーの上に投げ捨てるとその大きな体を何もない硬い床の上にゴロンと転がした。


「寝よ」


そう言ってマルスは大の字のまま7時間は眠った。



*



「………」

「え?何その顔?貝にでもあたった?」


朝一番、顔を合わせたリックの一言目がこれだった。起きてから支度を整え事前に伝えられた合流地点に向かうと既にリックはいた。レブン側から支給されたSP専用の黒服に身を包み軍帽がないので今日は髪を全てオールバックに上げている。その顔は実に晴れやかで肌艶も良く、明らかに昨日より生き生きとしていた。何があったのかは聞きたくもない。


対してマルスはというと硬い大理石の上で7時間寝た後、外は真っ暗だったのでルームサービスを頼む気も失せこっそり持ってきた戦闘用食料だけ食べると今度はキングサイズのベットで寝た。しかしベットから香ってくるよく分からない花の匂いに熟睡することが出来ず、すぐに起き上がると結局また元の大理石の上で雑魚寝した。よって全身バキバキになり疲れが取れていないどころか昨日よりも疲れが増した顔をしていた。その話を聞いた朝からハイテンションなリックは面白くてたまらないと言った顔でマルスの背中をバシバシと叩く。


「お前なんだってあんな天国みたいな部屋でそうなるんだよ!生きるの下手くそか!つーかおまえここまで来てレーションとか!もしかして朝もかよ?!」

「……ここの食事は匂いからなんか受け付けないんだよ」

「あははははははッ!!」


思わずぶん殴ってやりたくなったが腕を強く組み必死に耐えた。そんなことをしているとSPの1人が彼らのもとにやってきた。それは昨日マルスたちをあの中庭が見える渡り廊下まで案内してくれた人物で、恐らくマルスたちより少し上の30代、他のSPたちより肌が白く鋭く細長い目が特徴的だった。


「昨日はゆっくり休めただろうか」

「それはもちろん!」

「……まあ」


2人それぞれ返答する。マルスの答えに対してリックがニヤニヤしながら背中を「嘘つけ」と小突いてきたがスルーした。そんな2人をよそにそのSPは今日の講演会の流れを説明した。


「講演会自体は午後7時から。会場はその2時間前には開場し来賓を迎え入れる。前泊されている方々はそれより更に少し早くに来場される。来賓リストは端末を確認してほしい」


そう言って細目のSPは2人の端末にデータを送信する。早速それを確認すると各国の政治家や資産家、芸能人などそうそうたる面子が名を連ねていた。男は説明を続ける。


「午後6時になったら各卓に料理の提供を開始。その後レブン副所長が登壇し講演を大体1時間程度行う。その後また1時間ほど歓談の時間を設け午後9時頃を終了予定時刻としている」

「なるほど。じゃあ俺たちはこの間レブン副所長に付き添っていればいいのか」

「いやそれはいい」

「は?」


マルスは男の言葉に思わず間抜けな顔をして問い返す。細目の男は彼らの方を厳しい目でじっと見ると平坦な声で続けた。


「お前たちは来賓と同じ会場内で合図があるまで待機していてほしい、と副所長から仰せつかっている」

「はあ?!俺たちはその副所長に指名されて護衛してほしいと頼まれてるんだぞ!おかしいだろ!」

「何かあったら合図する。それまではあまり目立つな、と言うことだ。お前たちの端末に今言ったスケジュールと場内の見取り図も送ったから後で見ておけ」


そう言って細目の男は踵を返そうとした。それに慌ててリックが声をかける。


「あ、ちょっ、俺たちはこのあと何すれば?」

「何もしなくていい。開場まではまた部屋で各々好きに過ごしていていい」

「はあ?!」

「マジ??」


それだけ言うと細目の男は足速に去っていく。残されたマルスはあまりのことにワナワナと震え怒りを露わにした。


「ふざけるな!仕事だからと呼ばれてきて、これじゃ客と変わらんだろ!こうなったらあのメガネ野郎に直談判だリック!」

「いやいや別によくない?」


その言葉にマルスは動きを止めてリックを振り返る。リックはいつものようにヘラッとした顔をしながら少し眉を下げて困ったように笑った。


「あっちがそれでいいって言ってるんだろ?じゃあそれ以上俺たちがすることないだろ」

「お前何言ってんだ。脅迫状を受けて命を狙われている人間が護衛として呼んだ人間を今度は遠ざけようとしている。どう考えてもおかしいだろう!」

「それなんだけどさ、俺たちレブン副所長のこと偏見の目で見すぎてたんじゃねぇーかな」


リックの言葉に何言い出すんだと言う顔をしてマルスは耳を疑った。


「いや正直『moon』に所属している以上『san』を好きな人間ってそこまでいないけどさ、なんかそこから偏見だよな。向こうだって組織的にそうなっているだけで全員が俺たちのことを蔑ろにしているわけじゃないだろ」

「リックお前、どうした……」

「どうしたはお前だろマルス。ここまで高待遇されたことが今まであったか?お前はすぐに寝ちまったから分からねーだろうけど、あの部屋に置いてあるのは全て本物の最高級品だ。家具も酒も食事も全て。ここまで手厚くしてもらって、よく知らないからと言う理由だけで彼を疑うのは浅はかなんじゃないか?」


「大体、」と更にリックは言葉を続ける。


「ブラナ=メルタ家が陥れられてるって思ってるのが間違ってるかもしれないんだぞ。ブラナ=メルタ家は滅多に表舞台には出てこないから真実はわからないけど、もしかしたら向こうが頼んで行っている講演会の可能性だってある」

「そんなの、!」

「マルスいい加減にしろよ子供じゃないんだから」


少しめんどくさそうに言うリックにマルスは怒りに火がついて彼の胸ぐらを掴んだ。


「お前がいい加減にしろ!なんださっきから。あいつの″施し″がよっぽど嬉しかったのか肩持ちまくって。こっちを見るあいつの目を見ただろ!あいつは何か企んでいる!」

「目?それをお前が言うのか?」


いつもだったらマルスが怒ると宥めようとするリックだったが今回は一歩も引かず冷たい目で言い返してきた。


「いつもいつも交渉ごとは俺!向こうの機嫌取るのもフォローをするのも俺!お前はいつも渋い顔してどっかよそを向いているだけ!そんなお前に相手の本当の感情なんか読み取れるのかよ?!」

「そ、それは」


滅多に出さないリックの怒号に思わずマルスの言葉が詰まる。リックはそれを確認すると胸ぐらを掴んでいた手を払い除け歩き出した。マルスは慌てて声をかける。


「おい!どこ行くんだ!」

「お前と話すのは疲れた。部屋に戻っていいって言われたんだから部屋に戻るよ」

「なっ……お、お前には失望した!!」


マルスは顔を真っ赤にして叫んだが、リックは振り返りもせずにスタスタとピオニー城の奥に消えていった。1人残されたマルスは小さく「くそ…」と悪態をついた。



*



(すっかり遅くなっちゃった)


少女が14歳になった頃。暮らしていた村では戦争の影響で食糧難が続いていた。芋一つに至るまで物価が上がり、各家庭の食卓は一気に寂しいものになってしまい、村のかつての活気も無くなっていた。


「ただいま母様」

「おかえりチェリー」


少女がパタパタと学校から帰宅すると母親は身支度をしながら食卓に食事を並べていた。


「今日の夕飯はお芋のスープに、お粥とお漬物……ごめんなさいね今日もこんなのしかなくて」

「気にしてないわ。それより母様見て。今回の成績もオールAよ。これなら志望校に特待生で入れるだろうって先生が言ってたわ」

「本当に?!すごいわチェリー!」


少女の言葉に母親は感動して娘に飛びついた。母親のつけていた大ぶりのピアスが大きく揺れる。


「大袈裟よ母様」

「いいえそんなことないわ。あなたはきっと父様に似たのね」

「本当に?」


抱きつかれた少女は照れ臭そうに顔を赤め、そして母親の言葉にパッと顔を上げた。


「私、父様に似てる?」

「ええ。顔は私似だけど中身は完全にあの人。あの人も若い頃から天才と呼ばれていたわ」


慈しむように頭を撫でる母親に少女は嬉しそうに目を細め、そしてハッとする。


「母様。時間。仕事行かなくていいの」

「あらやだもうこんな時間?ごめんねチェリー帰ってきたらお祝いしましょうね」

「もういいから。いってらっしゃい」


いつまでも子供扱いしようとする母親に少しため息をつきながら、しかし満更でもなさそうに少女は母親を見送った。

ふと、床に母親のつけていた大ぶりなピアスの片方が落ちているのが目に入った。


(もう母様ったら落として行ってるじゃない)


幸い母親の職場はこの近くの酒場だったので少女は忘れ物を届けにいくことにした。酒場に未成年は入れないので母にも近づかないように言われていたが、今回ぐらいはいいだろうと思ったのだ。

母親の職場に着くと、店は既に賑わっているようだった。少し離れている少女の耳にも男たちの大きな笑い声が響き、窓から漏れる灯りには時折楽しそうな人の影が混じる。

母はどこだろうと、少女は店の人には見つからないように窓の隅から中を覗いた。


(母様どこだろう……あ、)


ふと店の奥に母親の姿を見つけ、少女は手を振ろうとした。しかし。


(……え)


母親は店の客らしき男に肩を抱かれると店の二階に姿を消した。その意味が分からないほど少女は子供ではなかった。


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