第32話 二枚重ねの硬貨:表と裏の裏と表
太陽は雲に隠れ、雨の気配が忍び寄っていた。
赤毛の男は、布切れが示す場所へ向かっている。建物には、それぞれ住所を示す木札があり、猫、犬、豚、馬、魚、蜘蛛、百足など、多種多様の絵がその木札には描かれる。
布切れを握る手は、だんだんと強くなっていた。
少女の、ナーシェという名前。その貼り付けられた名前の粘着力は、とうに失われていた。もう手で押さえているだけ。
担当区域の反対方向であれば、長から問いただされることになっただろう。だが今は、誰かが担当するはずだった区域への出張。幸運なことに、その指定の場所と重なっていた。
高層建造物。その中、共有玄関。
階段とつながっている壁が、布切れで示されている。
しかしそれ以上のことは書かれていない。
十を数える。
1、2、3、4、5、6、7、8、9。
「ようこそおいでくださいました」
共有玄関出入り口から、見覚えのある老人が現れる。
赤毛の男はその老人を凝視。
仮にそのそうか老人が大きく息を吸えば、筋骨隆々になるような錯覚があった。
老人はその視線に応える。
「あれは(双子の)片割れ。さて、どうぞご案内します」
手が差し出される。そこには、簡素で細い鍵があった。
男は怪訝な視線を送る。
「取ってください」
一度手を伸ばし、もう一度老人の目を見る。
老人は淡白な目をしていた。
掴む。
ぐるりと視界が明滅。
すぐにはっきりと定まった。
円筒状、青い煉瓦に囲まれた広い場所。
鋭い目つきをした男が、その中央にいた。
その鋭さ、他者を蔑む強者のもの。
高貴さを表す、青と太陽の黄金、その色を散りばめた白い被服。
その者の、みかん色の瞳が赤毛を捉えた。
「こいつを使え」
鋭い目の男は、赤毛の男へ鍵を投げ渡した。
硬貨の形をした尻の部分から、ぎざぎざとした鍵の歯が伸びているその鍵。
それを拾おうとしたように、赤毛の男はかたかたと揺れる。しかしそれはできない。今、赤毛の男の体は、かかしとなっていた。
「急になんだお前」
鋭い目の男の眉間が、つまんだように盛り上がって皺寄る。
「どういうことだ?」
かたかたと揺れる赤毛の男。
自由な心の中で、頭を振り、己の額を指でつっつく赤毛の男。
「ああ、すまん。ちょっと混乱してた。おれは何をすればいい」
鋭い目の男は舌打ちをする。
「聞いていないのか。はあ。こいつを刺せ」
「誰に?」
ますます眉間の皺が深くなる男。
「イシュ王だ。聞いていないのか」
「誰から?」
「タフィリアから」
心の中、ひび割れた碧眼と頭に角刺さった聖職者が浮かび上がった。あの青年と聖職者の言葉を、照らし合わせる。
「ナーシェのことか?」
鋭い目の男は鼻を鳴らす。
「そんな名乗りをしていたな」
押さえつけていた、ナーシェという貼りもの。
くしゃくしゃに握りつぶして、手放した。
はらりと落ちたそれを、くしゃくしゃに踏みつける。
意識消えるような錯覚と、体潰れるように折れる錯覚が襲ってきた。
「なんで(ナーシェは)あんなことしてる」
「(私の)奴隷《ɡʁãn ˈaːvɛ》であるからに決まっている。満足したか。早く行け」
男の心中、激しい力の奔流がくすぶっているが、その行き場はここにない。
「お前は何がしたい。共和派か?」
「…………」
かかしの体が粉々に引き裂かれた。
視界が暗転。
「おっととととと」
よろめく老人の声。
尻餅をつく赤毛の男。
「え?追い出されてまいましたか。一体何が……?」
立ち上がる男。老人の胸倉を掴む。
「てめえあの男はなんだ」
「ひえええぇおやめください」
血が沸騰している。
「全部話せ」
「はいお話しします」
投げ捨てるように突き放された老人。
「ご、ご質問にお答えします。あの御仁はイシュの民をお助けくださるお方です」
逆さになった蜘蛛のような体の動きで、男から距離を取る老人。
「具体的に」
「かような方のお考えは無知蒙昧な私めには計り知れず………」
「ナーシェを知っているか」
「いいえ」
その姿勢のまま後ずさる老人の服を掴み上げる赤毛の男。
「本当だろうな」
「はい本当ですこう問いただされたときのために何も教えられていません木っ端の人間です」
手放され、背中を打ち付ける老人。
空模様は、ますます雨の匂いを漂わせている。
残りの担当区域へ、赤毛の男はふらふらと歩みを進めた。




