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日本物語  作者: kikuzirou
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第三話 吾平津媛の想い


「わたくしは嫌でございます!」


 吾平津媛あひらつひめの甲高い叫びが、邸内にこだまする。


 その声に驚いたのは狭野尊さの・のみことだけではなかった。護衛の者が二名。庭の向こうから走り寄ってきた。


「何事にござりまするかっ。」

「大事ござりませぬかっ。」


 慌てた様子の二人に、吾平津媛が怒声で返す。


いましらには関わり合いのないことですっ。早々に持ち場に戻りなされ!」


 訝し気な表情を作りつつも、命じられた通り、持ち場へと去っていく男たち。その姿が見えなくなったのを確認すると、吾平津媛は言葉を続けた。


「なにゆえ、わたくしが残らねばならぬのですっ。」


 一応、護衛の者たちに気を使い、少しだけ声を落とす。目の前には、難しい顔をする夫、狭野がいる。夫の言い出したことに、吾平津媛は納得がいかなかった。


 夫は、この地に残れと言う。そんな提案など受け入れられない。自分がいなければ何もできない人が、何を言っているのかと、吾平津媛は思っていた。


 渋面を崩しもせず、狭野は幼児をなだめるように語りかけてきた。


吾平津あひらつ・・・そちの想いは痛いほど分かっておる。わしとて、そちにいてもらえたらと思っておるのじゃ。」


「それでは、なにゆえっ、なにゆえ、わたくしを置いて行くなどと仰せられるのですっ。」


「何度も言わせるなっ。此度の旅、危うきこととなるは必定じゃ。そちを連れて参ったとして、わしが、そちや岐須美美きすみみを守り能うとは限らぬのじゃ。」


 必死の嘆願をおこなう夫の言葉尻に、吾平津媛は不快感を抱いた。


「おかしな物言いにございますことっ。」


 鼻息荒く、夫に喰ってかかる吾平津媛に、狭野は辟易とした面持ちで、髭を撫で始めた。困った時の癖である。いつもの癖が出てきたことで、吾平津媛は余計に悔しくなった。


「わたくしを置いて参りたいのは、他にお考えがお有りだからではございませぬかっ。」


 媛の発した言葉に、狭野は過敏に反応し、媛の髪が揺れるほどの大声を張り上げた。


「そちは何を申したいのじゃっ!」


 再び護衛の者らが駆けつけてくる。それを狭野は、目で追い返す。狭野の怒りを込めた眼が、吾平津媛の目に突き刺さる。だが、今日は全く恐ろしいとも思わない。


「わたくしとっ、岐須美美の名前しか挙がっておりませぬがっ・・・。」


 対抗するように厳しい目つきで返す吾平津媛。だが、それに反して狭野の顔付きは、怒りの形相から血の気が失せていくような、悲しそうなものへと様変わりした。


「そちは、何と愚かな・・・。わしが興世おきよを連れて参ると思うたのか・・・。」


 そんな言葉に騙されはしない。吾平津媛は、夫が嘘を吐いているとしか思えなかった。自分を追い出し、興世姫だけを連れていくつもりなのだと・・・。新しき国に、己は必要ないのだと宣告されたに等しい物言い。それを承諾することなど出来ない。更に厳しい口調で返す。


「そこまで、わたくしが、お邪魔なら、離縁してくださりませっ。」


「何を言うておる。そのようなこと・・・。そちは、勘違いしておるだけじゃ。」


 困り果てた様子の狭野。だが、吾平津媛には、その全てが演技にしか見えない。


「もともと、吾田あたの豪族と血縁を結ぶだけのまつりごと・・・。庶民の女の方がよろしいのでしょう? でしたら、このような邪魔な女はさっさと・・・。」


 そこまで言いかけたところで、吾平津媛の頬に衝撃が走った。狭野が平手を打ってきたのである。一気に怒りがこみあげてくる。怒りはそのまま、目頭に熱く溜まった。


 初めて嫁いだ日のことを想い出した。確かに、最初は夫を愛してはいなかった。政略結婚である。ただ家のため、国のため。その一念のみであった。己の使命を果たさねばという気概だけであった。一目見た時も、別に良い男とは思わなかった。


 なかなか子供を授からなかったが、吾田と天孫の一族が結ばれているだけで充分であった。それ以上のものを求めようとも思わなかった。愛していない男との間に子ができなくても、さほど問題ではないと考えていた。夫には三人の兄がいる。どちらかの子が継げば良いのだからと・・・。


 だが、周りはそれを許さなかった。正室に子が出来ないのなら、側室を持てと言い出したのである。


 狭野は、その提案を断った。当初、吾平津媛は、自分への義理立てだろうと、冷めた目で見ていた。だが、いつしか、それが偽りではないことを知った。神に祈り、子宝を祈願し、食べ物にまで気を使い、媛を不安にさせまいと懸命に語りかけてくる夫。そんな日々を続けていく中で、媛にとって、夫はかけがえのない存在となっていた。


 姑から小言を言われた時も、家臣から非難めいた意見がなされた時も、夫の真心溢れる言動に、幾度も助けられたのである。気が付けば、吾平津媛は、この人の子を産みたいという気持ちに変わっていた。


 しかし、一向に子が出来なかった。こればかりは、コウノトリが運んでくるのを待つほかない。吾平津媛は焦った。焦ったが、どうにもならない。悩みに悩んだ挙句、ついに、自ら口にした。側室を持ってほしいと・・・。


 そのとき、媛にとって、あってはならないことが起きた。側室がすぐに見つかったのである。庶民の女だという。そんなにいきなり見つかる筈がない。それも豪族の娘ではなく、ただの民である。


 側室の興世おきよが来た時、吾平津媛は確信した。元々、この女は囲われていたのだと・・・。その日から、吾平津媛の中に猛り狂うほどの嫉妬心が巻き起こった。決して、あの女に子は産ませない。子を産むのは自分だと・・・。


 内からのほとばしる熱情ゆえか、激しい想いが天に通じたのか、吾平津媛は手研耳命たぎしみみ・のみことを授かったのであった。更に女の子も産んだ。岐須美美である。


 不思議なことに、側室の興世姫には、子供が出来なかった。吾平津媛は、その結果に満足していた。己が勝利者であり、あの女は負けたのだと・・・。


 その勝利の栄光が、今、奪われようとしている。こればかりは許せない。決して、認めるわけにはいかない。だが、夫は自分を捨てようとしている。


 吾平津媛は頬を濡らしながら、無念の想いを口にした。


「殿は・・・わたくしではなく、興世を選ばれたのでございましょう。用のない者が去って、どこに憚りがございましょうや。美豆良みずらも、あの女に結ってもらえばよろしいのです。」


 溜息を漏らしつつ、呆れ口調で狭野が返す。


吾平津あひらつよ。わしは、興世おきよも連れては参らぬ。」


 どこまでも自分を愚弄する夫。涙が止めどなく流れてくる。拭いもせず、媛は思いをぶちまける。


「もう何を信じて良いのか分かりませぬっ。分かりたいとも思いませぬっ。息子を頼みますっ。」


 そうとだけ言って、媛は寝所に駆けて行こうとした。その刹那せつな、狭野が媛の手首を力強く掴んできた。


「お離しくださりませっ。」


「そちの勘違いをただすまでは、この手、離さぬ。」


「おやめくださりませっ。わたくしは捨てられた女っ。未練も何もございますまい。好きにさせてくださいませっ。」


「未練有るゆえ、掴んでおるのじゃ。それが分からぬ、そちではあるまい。」


 必死に振り払おうとするが、夫の力に抗えそうもない。そうするうちに、媛は狭野の胸元に招き寄せられた。両腕に包まれ、抱きしめられる。こうまでしなくても良いではないかと、吾平津媛の心は怒りと悲しみでいっぱいとなった。


 そんな媛の想いなど知る筈もなく、狭野が言葉を続ける。


「そこまで、わしが信じられぬと申すのならば、そち自ら、興世に伝えよ。旅に連れて行くこと能わぬとな・・・。」


 唐突な夫の提案に、吾平津媛はしばし呆然としてしまった。本当に、自分の勘違いだったのではないか。興世と夫の関係を穿うがって見ていると思い込んでいただけではないのかと。


「そは、真にございますか?」


 恥ずかしいが、訊ねてみたい衝動に駆られた。夫が覗き込むようにして応える。


「そうまでせねば、そちは信じぬであろう。勝気なおなごよ。暴れ馬めっ。もう乗りこなせぬのかと思うと・・・わしも、寂しいのじゃ。許せよ、吾平津・・・。」


 吾平津媛は見てしまった。夫の目にも、光るものが浮かんでいるのを・・・。見てはいけないものを見たような感覚に襲われ、媛は目を背けた。そして、強情な自分が情けなくなった。媛は感情の発露のまま、夫の腕を抱きしめ返した。


「わたくしもっ・・・わたくしも、寂しうございます。」


 あとは涙が代弁していた。もう言葉は要らなかった。




 注)美豆良とは、当時の成人男性の髪形である。左右に分けた髪を、それぞれの耳の横で括り結うものである。


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