佐藤百花
「知らない天井だ」
どうやら僕はふかふかなベッドに横たわっているらしい。とりあえず僕は状況確認のために体を起こした。
「栄君! 大丈夫?」
「……ああ、佐藤?」
起きたばかりだからうまく頭が働かない。どうして僕は佐藤の横で眠っていたのかがわからない。
「ええ、私よ」
佐藤は僕の横でニコニコと笑っている。
「さ、とりあえず朝食でも食べましょうか」
「待ってくれ。なんで僕は佐藤の家にいるんだ?」
昨日、佐藤を家に送って僕は高校に向かったはずだ。だけどそこからの記憶が曖昧だ。
「そんなことどうでもいいわよ。ほら、早くいきましょ」
佐藤は僕の脇を抱えて強引に立たせてから僕の腕を引っ張る。
明らかに怪しい。佐藤は僕が起きたときに「大丈夫?」と言った。何かがあったと考えてまず間違いないだろう。
僕が強引に立ち止まると僕の腕を引っ張っていた佐藤も止まった。
「佐藤……昨日、何があったんだ?」
「何のこと?」
「おかしいんだ。昨日、フロースになったことは覚えてる。佐藤を家に送ってから高校に向かったんだ。だけどその先が靄がかかってるみたいで思い出せないんだ。僕が佐藤の家にいるのもその時に何かあったからだろ?」
佐藤はすこし困ったように顔を顰めてから、観念したのか僕の腕を離した。
「──わかったわ。だけどまずは朝食でも食べてゆっくり話しましょ」
僕は昨日のことが気になるがおとなしくテーブルに着いた。
「栄君、朝食はパン派?ご飯派?」
「佐藤に任せるよ」
「そう? じゃあパンにするわね」
佐藤は棚から食パンを取り出しトースターで焼き始めた。すぐにパンの良い香りが場違いにリビングとキッチンを包む。
二人分のトーストとヨーグルトとお茶を佐藤がリビングのテーブルに運ぶ。
「さ、話は食べてからにしましょ」
話が気になって食事に集中できないが、食べるしかない。思えば女子どころか同学年の人と一緒に食事をするのは中学校の給食以来だ。
すぐに食べ終わり、佐藤は食器を洗うなどの片づけを済ませてから改めて僕の向かい側に座った。
「さ、話しましょうか。最初に言っておくけどこれは栄君にとってかなりつらいものになると思うわ」
「ああ、構わない。話してくれ」
リビングに緊張が走る。この時、僕はまだ現状をなめていた。
「栄君がここを出てから連絡が一時間近くなかったの。だから私は高校に向かった。その一時間の間に何があったかは私にもわからないわ」
「多分だけど少し状況を教えてくれたら思い出せる気がするんだ。パズルみたいにところどころのピースが欠けてる感じだ」
「そう。私が高校に着いたときには栄君は倒れてたわ」
「……操られてた高校のみんなはどうなってた」
「全員ではないけれど私が最初に眠らせた人たち以外の大半は校舎の窓の下に血を流して倒れてたわ。もしかしたら……」
僕は絶句した。頭の中で佐藤が言った情報が欠けているところを埋めて、昨日の記憶がだんだんと鮮明になる。
「ご、ごめん。トイレ借りていいか」
「ええ、そこの廊下の右よ」
無理だ。耐えられない。
僕はトイレに駆け込んで、今食べた朝食も昨日食べたものもすべて吐き出した。しかしそれだけでは収まらず僕は涙を流しながら胃液も垂れ流し続けた。
どれくらいトイレに籠っていただろうか。漸く吐き気は止まり、流す涙さえなくなった。
リビングに戻ると佐藤が椅子に座ってお茶を飲んでいる。
「そうか。僕のせいで学校のみんなが死んだんだな」
佐藤が正面の椅子を促すが、僕はそれを無視し、ドアのところに立ったままで聞いた。
「……それは違うわ。確かに学校の人たちの中で死んじゃった人はいるわ。だけどそれはあなたのせいじゃない」
「いや、僕のせいなんだ。僕が花弁を使ってすぐにあいつを殺していたらみんなは死ななかった。僕の甘さがみんなを殺した」
そう、甘えてしまった。忠告なんかせずに花弁を使って殺すべきだった。この期に及んでまだ明人が殺すことを本能が認めていなかった。
「でもあなた、殺さないって言ってたじゃない」
「関係ないんだ。僕は殺したくないけど、殺すという選択肢はあった。そしてその選択肢を選べなかった、いや、選ばなかったから、みんなが死んだんだ」
「だーかーら、なんであなたが悪いみたいになってるのよ。どう考えてもあのフロースが悪いに決まってるじゃない。それを勝手に責任感じて、莫迦みたい。言っておくけどね、たとえ、あなたじゃなくて、私が学校に行っても結果は変わらないわ」
「な、なんでだよ」
「なんでって学校に着いた頃にはみんな殺されてる可能性だってあったのよ。自分がもしこうしてたら、なんていうのは考えるだけ無駄なのよ!」
「無駄って言ったってな、事実なんだからしょうがないだろ」
「あーもう、ほんと辛気臭いわね」
「そ、そんなこと言っても……」
「まあいいわ、今日はどこかリラックスできるとこにでも行くわよ。いいわね」
佐藤がパチンと手を鳴らした。
すぐには僕は佐藤の言葉を理解できなかった。この話においてリラックスなんて言葉が出るはずがない。
「え? リラックスってそんな場合じゃないだろ」
「あなたねぇ、どの口が言ってるのよ、それ。あなたがそんな状態じゃ、勝てるものも勝てなくなるわよ。ほら、そうと決まったら早く準備しなさい」
「な、ちょっと待てよ」
「いいから、早くしなさい」
佐藤は僕を半ば強引に外へ連れ出した。
佐藤の家を出てからはまず僕の家に向かい、着替えを済ます。
そのあとは僕からしてみれば散々だったと言っていい。どこに行くかも知らされずに電車に揺られ、いろんな場所に行った。
女子しかいないようなカフェでお茶を飲み大きなショッピングモールで買い物に付き合わされる。これまで人との関わりがほとんどない僕が服を買ったことがあるわけもなく佐藤にコーディネートされ買わされる。昼食を近くのフードコートで済ませ、午後も歩きまわされる。行く先々で佐藤は服などを買いそれを僕に持たせる。当然、最初はほぼゼロだった僕の荷物はどんどんと増えていった。
太陽が沈みかかってきたころに佐藤は河川敷に行こうと言い出し、家の近くの河川敷に行った。
「どう? 楽しかった?」
佐藤が満面の笑みで訊いてくる。
「あのなぁ、楽しんでたのは佐藤じゃないか。それに本当は荷物持ちが欲しかっただけじゃないのか?」
本来なら緊張してしまうのだろうがそんな余裕すらなかった。荷物も多いし。
「ふふ、そうね。でも少しは元気になったじゃない」
それを聞いて僕は漸く佐藤が励まそうとしていることに気が付いた。
「……ああ、そうだな。佐藤、ありがとう。僕のこと心配してくれて」
途端に申し訳なくなった。そうなると僕がこの買い物に付き合わせたと言っていい。しかも僕の服のお金も昼食のお金もすべて佐藤が支払っている。絶対に今度返さなければと決意する。
「そうね。昨日は心配で私が死ぬかと思ったんだから。それとご両親は大丈夫? 連絡しといたほうがいいんじゃない?」
「そうだな。あとで連絡しておくよ」
「それで聞いていい? 昨日のこと。まだつらいなら全然大丈夫だけど」
「いや、大丈夫だ。これ以上は甘えていられない」
僕は吐き気をこらえ、所々嗚咽を漏らし昨日の絶望を思い出しながら説明を試みた。
思い出したこと、昨日あったことを話すだけだがかなり時間がかかってしまった。途中、何度も言葉に詰まった。だけど佐藤は一回も急かさずに待って聴いてくれた。
僕は佐藤に感謝しながらも佐藤に聞いてみたいことができた。昨日の最後の鈴木明人の言葉がよぎる。
『敵が自分の仲間、家族、知り合いなんかの大切の人を害するときに敵を即座に殺す判断ができないと後悔するぞ』
「佐藤、もし、もしだけど、敵が自分の大切の人を害するとき、佐藤は敵を即座に殺せるか?」
佐藤は数秒だけ悩んだ後にきっぱりと答えた。
「──そうね、その状況にならないとわからないこともあると思うけれど私は殺すわ」
その殺すという言葉の重みは明人と同じものだった。
強い。強すぎる。その言葉の重さはもちろん。佐藤も昨夜、高校で少しとはいえ窓から飛び降りて校舎の下に血だらけで重なっていた高校のみんなを見たはずだ。僕なんかよりも仲がいい人や交流があった人も多かったはずで悲しくないわけがない。それなのに僕を
励ますために明るく振る舞い励ましてくれた。
「そっか。教えてくれてありがとう」
「いいえ、じゃあ、お返しに私も質問していい?」
「ああ、いいよ」
「フロースは世界に不満があるって言ってたでしょ? 栄君の世界に対する不満って何なんだろうなって」
僕は昨日の甲高い声を思い出す。確かにそんなことを言っていた。
「それは……僕もよくわからないんだ。花弁がそう言っていたときに疑問に思ったんだ。この世界に満足しているわけではないけど、どこに不満があるかって言われたら答えられない。強いて言えば誰も傷つかない世界かな。無理なのかもしれないけど、世界中の人たちが幸せに過ごせたらいいのにな」
佐藤はなぜか驚いた顔をした後、穏やかに微笑んだ。
空は西に沈む太陽によって赤く染められ、少しずつ群青に支配されていく。
いつもなら嫌いな時間だが今日に限ってはむしろこの時間が続いてほしいと思ってしまっていることに驚いた。
「日も沈んできたしそろそろ帰ろっか」
「ああ、今日はありがとう。それと佐藤、家に親いないだろ? 危なくないか?」
僕がそう言った瞬間、不意に佐藤の目に涙が浮かんだ。
「あ、ごめん。佐藤、僕、何かまずいこと言った?」
「ううん、大丈夫、ごめん。私帰るね」
佐藤はそのまま僕から逃げるように、実際逃げて帰ってしまった。僕はそこに立ち尽くすしかない。すぐに佐藤は見えなくなってしまった。
家に帰った後は一日ぶりの自宅を十分堪能した後、また襲われた時のためにいつもより強度を上げて筋トレを始めた。
ふと家で父が育てている花が目についた。そういえば僕の花弁は鬼百合だ。花弁もしっかりある。
テレビのニュースでは僕と佐藤の高校で集団心中があったと報道されていた。
夜になり佐藤に連絡をしようと思ったが連絡する手段がないことに気づく。それもそうだ。僕のスマホにある連絡先は父さんくらいだ。他は消防署や警察、LINEやらの公式でかさ増しをする始末。今更こんなことで落ち込んだりはしないのだけれど。
「とりあえず明日、また佐藤の家に行って謝らなきゃだな」
休日だということもあり、朝の町は静かで冷たく、太陽だけが明るい。
一昨日は佐藤と二人で歩いた道を一人でゆっくりと歩く。
佐藤の家に着くまでに頭の中でどう謝ればいいかを考えたが普通に謝るしか思いつかなかった。
インターフォンを押そうとして、唐突に緊張し始める。
高校生である僕にとって、昨日入ったとはいえ、同学年の女子の家のインターフォンを押すことがどんなことを意味するのかを分からないわけでもない。それに加え昨日の最後は逃げられたといっていい別れ方だった。緊張しない方がおかしいというものである。が家の前でうじうじしていても仕方ないこともまた事実である。よって考えることをやめ、素直にインターフォンを押した。
「あの、百花さんのクラスメイトの栄です。百花さんはいらっしゃいますか?」
恐る恐る返答を待っていると、
「栄君? 昨日はごめんなさい。入って」
佐藤の親が出たらどうしようかと思っていたが杞憂だったのと同時に佐藤の声は穏やかで一日経って落ち着いたようだった。
「お、お邪魔します」
「はい、お茶とか持ってくるからここで待っててくれる?」
「あ、ああ」
佐藤に昨日朝食をとったテーブルに案内され、おとなしくそれに従い座った。
なんとなく気まずい。
僕には昔から気まずいと感じると時計を見る癖があった。
佐藤の家は洋風な豪華な家だった。
外見はもちろん、中はヴェルサイユ宮殿のような家だ。ヴェルサイユ宮殿の中がどうなってるのかは知らないのでこの場合、あくまでとても豪華という意味になる。
天井が豪華なのは昨日気づいたが、そこら中の壁に絵画が飾ってあったり、僕には価値がまったくわからない壺が置いてあるような家だ。外には庭園のようなものもありピンクの花が咲いていた。佐藤の学校での成績や落ち着きの要因の一つが分かった気がした。
少しして、佐藤がお茶とお菓子を持って戻ってきた。僕はお茶で口を湿らせてから頭を下げて、
「さ、佐藤、昨日はその、ごめん」
「ううん、私の方こそごめんなさい。理由も言わずに帰っちゃって。つらいのは栄君の方だったのに」
佐藤も僕と同じように頭を下げた。
「つらかったのは昨日買い物に行ったおかげで何とかなったよ。ありがとう。それより昨日なんで、その、ああなっちゃったのか聞いてもいいか? もちろん答えたくなかったら答えなくていいけど……」
「……ええ、そうね。答えるわ。まず私には両親がいないの。この髪飾りは最後に両親がくれたものなんだ。私が小さいころに不出来だった私を置いて、姉とどこかに行っちゃって。それからは祖母がお金だけ送ってくれるようになってずっと一人暮らししてたの。それで栄君が両親のことを言い出したときに、普通の家庭だったら親がいるんだななんて思っちゃってなんか涙が出ちゃった」
佐藤は懐かしむように綺麗な長髪をまとめている髪飾りを触っている。
「そうだったのか。ごめん。知らなかったとはいえ、踏み込んではいけないところに踏み込んだ」
「いいえ、気にしないで。私が勝手に思い出しただけだから。昨日、栄君に聞いた世界に対する不満のことだけど、私は両親と姉を見返したいっていうだけなんだ。どこにいるかもわからないのにね」
佐藤は自嘲気味に言った。
「そっか。いいと思うよ。もしかしたら佐藤は僕の願いが平和な世界だからそれに比べたら利己的なものと思うのかもしれないけど、佐藤は両親がいないのがつらくて、僕は誰もが幸せでないのがつらい。ほら、一緒じゃないか。それに……僕も母親はいないんだ。四年前からずっと。どうしていないのかもわからないし、思い出もないんだ」
佐藤の目が見開かれるがすぐに穏やかな顔になる。
「……そうなんだ。やっぱり、栄君は優しいね。ありがと。そうね、今日はうちでゆっくりしていって」
「ああ、ありがとう」
「別にかしこまらなくていいからね。あ、それとも同学年の女の子の家に入って緊張してる?」
「ば、莫迦にするな。緊張なんかしてない」
「そう? じゃあ、話しづらいからもう少し近くに座ってくれない?」
佐藤はにやにやしながら僕の隣に来ようとする。が、そんなことされたら話をするなんてできるはずがない。
「か、からかうのもいい加減にしろよ。別に話しづらくなんかない」
「あはは、ごめんなさい。つい面白くって」
佐藤は楽しそうにお腹を抱えながら笑っている。高校でもこんなに笑っている佐藤を見たことはない。別にいつも見ているわけじゃないが。
「そ、そんなおかしいか?僕」
「ええ、おかしいわ、あなた」
佐藤はしばらくそのまま笑っていた。
佐藤は笑いすぎて目にうっすらと涙を浮かべつつも漸く落ち着いた。
「じゃああんまりそういう雰囲気じゃないけど、作戦会議でもしますか。まずは敵の把握ね、能力までわかれば万々歳なんだけど、それは高望みしすぎね。とりあえず、情報収集が優先。……あ、そうだ」
佐藤は急に真面目な顔をし、背筋を伸ばして椅子に座りなおした。
「栄君、私と手を組まない?」
佐藤は手を差し出し笑顔でそう言った。このときの僕は完全に佐藤の笑顔に見惚れていた。数秒のはずの時間が永遠にも感じられた。頬が赤く染まるのを抑えようとしても不可能だった。
「なによ? 私の顔じっと見て」
「あ、ああ。てっきり僕はもう組んでいるものだと思ってた。改めてよろしくな」
僕は必死に誤魔化しながら差し出された佐藤の手を握った。
「さ、じゃあ話を戻しましょうか。このニュースを見て。昨日の私たちの高校もニュースになってるし、やっぱりフロース同士の戦いは派手だからニュースになると思うの」
再び姿勢を崩した佐藤が新聞を渡してくる。
「昨夜、隣町で大規模な断水か」
「そう。いきなり水道管が破裂したらしいの。花弁で水を操るフロースがいたらあり得ない話じゃない」
「なるほどな。戦ったときに花弁を使ったわけか。可能性は高そうだな」
「……そういえば今気づいたんだけど、栄君、作戦立てるときとかって『賢者』使えないの?」
「いや、使えないことはない……けど昨日使ったときに十分くらいしか持たなかったからできれば温存しておきたいんだ。能力にもっと慣れたらもしかしたら使えるようになるかもだけど。ごめん」
「なるほどね。謝ることじゃないわ。じゃあまず約束を決めましょ」
「約束?」
「そ、まずこれは絶対、約束は守ること。一昨日だって連絡してって言ったのに」
「それに関しては僕は何も言えない。ごめん」
僕は素直に頭を下げた。
「まぁ、怒ってるわけじゃないからいいけどさ。約束は破るためじゃなくて守るためにあるんだからね!」
「尽力します」
「あとあなた、これからうちに泊まらない?」
「はい……って、ええええええ!? 何言ってるんだ?」
僕の心臓は音が聞こえてしまうのではないかと思うほど脈打ち、全身が熱を持っていく。さっきとは比にならないほど顔も赤くなる。
「何って、泊まらないかって聞いたんだけど」
佐藤はさも当然かのように言い返してくる。僕にしてみては、逆になぜそんな当たり前のように言い返せるのかがわからない。
「そういうことじゃなくてだな、いきなり何を言い出すんだ」
「だってフロース同士は引き付けあうって花弁が言ってたでしょ。あなたが自宅にいたら家族も巻き込まれちゃう可能性だってあるじゃない。それに私も栄君がいた方が安心だし」
「それはそうだけどなぁ、普通に考えたら駄目だろ」
「なによ、もしかしてまだ照れてるの?」
「ち、違う。照れてなんかない」
僕は強がるが佐藤にはすでにお見通しだ。佐藤はさらに意地の悪い顔をし、
「じゃあ、いいじゃない。私と絶対に暮らしたくないってのなら諦めるけどさ」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「はい、じゃあ決定。あなたは今日からここに泊まる。わかったわね。お父さんには友達の家に泊まるとでも言っておきなさい」
狼狽えている内に佐藤がすべて決めてしまった。こうなったら多分変えることはできないだろう。
もともと僕には強い意志がない。いや、意思はあるが決まってしまったことにはおとなしく従う、の方が正しい。人との争いやいざこざを避けようとした結果だ。僕は基本的には選択に他人が関わると途端に意思が草船のように弱くなる。
「ああもう、わかったよ。じゃあ着替えとか持ってくるからちょっと待っててくれ」
僕は佐藤の家をいったん後にし、自宅に荷物を取りに行く。
「こんなことが起きてるっていうのに相変わらずいい天気だな」
僕は朗らかないい天気のなか、これまでのことを思い出していた。
「一昨日までは普通の高校生だったのに今ではよくわからない戦いのファクターか。まぁ、考えても仕方ないんだろうけどさ」
呟きながら慣れない道のりを歩く。佐藤の家に向かっているときはほとんど人はいなかったが、この時間になると流石にある程度の人が行き交っている。いつも通らない道というだけで歩くのに退屈しない。
「ただいま」
帰ってくる音はなく、僕の声は空虚に消える。父さんはまたどこかに行っているようだった。一応、友達の家に泊まるといった旨を書いたメモを置き、念のためメールを送ってから荷物をまとめる。
友達の家に泊まりに言った経験なんてあるはずもなく、いまいち何を持っていけばいいのかわからない。とりあえずは日用品だろうか。
日用品のほかに武器になるようなものを持って行った方がいいだろうかと少し考えてから、押し入れの奥にしまっってあった授業で使った竹刀を鞄に詰める。
「母さん、行ってきます」
そんなにこの家に思い出があるわけではないが死ぬかもしれない戦いに参加させられ、帰ってこられるかわからないとなるとそれなりに名残惜しい。最後に鬼百合に水を上げてから自宅を後にした。
数分前に通った道をそのままたどり、佐藤の家に向かう。昼時になり段々と人が増え始め、町が活気を得る。
土手を過ぎ、大きな交差点を過ぎ、公園を過ぎ、佐藤の家に着く。
「佐藤、戻ったぞ」
デジャヴを感じた。
この家からも挨拶が帰ってくることはなかった。