忘れられた約束3
夢を見た。
愛おしい顔が、私を覗き込んでいた。
体はまた動かない。
まるで金縛りにでもあったように、呼吸の一つすら思うようには難しく、驚くほど近くにある、彼の顔をただ静かに見つめていた。
初めて出会った時から、何一つ変わらない美しい顔。
けれど真紅の瞳が見たこともない深い色をしていて、まるで吸い込まれるようだった。
彼は私の体を抱き締めていて、今までどれだけ追いかけても決して踏み込めなかった彼のテリトリーの内側への侵入を許していた。
厳かで、触れることの許されない聖域。
そう信じていた場所に居るのだと、頭のどこかで理解する。絶対に踏み入れないはずだったそこは、酷く暖かくて安心した。
「…生きているのか?」
最期にたったの一言だけでも、愚かにも聞きたいと願っていた、その声を耳が拾う。
「主の根性に負けた気分だ。何故助けを求めない?」
相変わらず無感動な淡々とした声だった。それだけで簡単に、涙が頬を伝って落ちた。
彼はここに居てはいけない。
自ら罠に飛び込むような、好奇心で愚行を犯す事など決してしないはずなのに。
「一言でも弱音を吐いたら見捨てるつもりだった」
見捨てて欲しいと願っていたのだ。
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
いつだって彼は、私の願いを叶えてくれない。
「来るなと思えばやってくるのに、逢瀬を望めば一向に来ない。まったく良い性格をしているな」
初めてみた微笑みは、胸にぽっと咲くような仄かな暖かさを感じさせた。
「最初から最後まで振り回されたような気分だ。我にその身を差し出せ。望み通り貰い受けてやる」
まるで現実味のない言葉だった。
理解が何ひとつ追い付かなかった。
ただ夢でもみているような幸福感に包まれて、恍惚する胸に喜びが溢れる。
けれど拒絶しなければ。
彼に飛び込みたい衝動を必死に打ち消してはひきつる呼吸で無理やり息を吸い込んだ。
引き裂かれるような悲痛が刺さって、心がズタズタに引き裂かれるようだった。
泣いてはいけない。
笑え。最後はきっと笑顔がいい。
「…行けない。来てくれてありがとう。さようなら」
上擦る声を必死に紡いで、首を小さく横に振る。
彼は私はじっと見つめていた。ちゃんと笑顔が出来ているだろうか。
「どうした?」
彼の声は優しかった。
いつもは一蹴するだけの、その口が先を促すように言葉を紡ぐ。
それだけで喉に突き上がる衝動をぐっと力を込めて嚥下した。
「…嫌になったの。貴方のせいで、こんな罪人みたいな扱いを受けて」
幸せだったの。貴方のひとつひとつを思い出すその度に。
「いつまで経っても捕まらないし、無愛想だし、女の子に向かって容赦の欠片もくれないし」
その目が少しだけ、緩む瞬間があったのを知ってる?
その声がいつからか、険を緩めたのを知っている?
「優しくないし、酷いことばかり言うし、威圧的だし横暴だし皮肉屋だし」
いつだったか、崖から転落しかけた私を攻撃するフリして助けてくれた時があったね。
知ってたよ。口がにやけるのを押さえるのに苦労した。
「……き、……嫌いに、なったの。顔、も見たく…いの。もう私に関わらな
いで、と音にする前に、その口を大きな冷たい手で塞がれた。
「我への恨み言なら聞いてやれるが、最後のそれはどうにも聞けんな。どれだけ悪態を吐いても無駄だ。我はもう、主から離れない」
その声が、目が。揺るがない。
当たり前だ。人の言葉を素直に聞くような性格でなはかった。
ならば何を言っても無駄なのだ。
どうしたって彼は、私の希望を叶えてはくれない。
「…なんだ?終わりか?」
なのに声ばかりが優しいのが、どうしようもなく憎らしかった。
「なら行くか」
このまま流される訳にはいかない。
思うのにもう、彼を引き離す言葉が浮かばない。
立ち上がろうとする彼へと、動かない腕を必死に伸ばして、彼の服を掴んで止めた。
彼は静かに私を見下ろした。
「……くが。…毒がね?私の体を巡っているの。悪魔を弱体化させる蟲毒が、全身を犯し続けているの」
私を連れているだけで、貴方に途方もない苦痛を与える。
そんな冷酷な事、どうか私にさせないで。
「…つまらぬ小細工だ」
「どうせ私は一日も待たずに呪い殺される。あなたは逃げて。どうか、お願い。幸せになって」
「聞けんな。さっきも言ったはずだ。我から離れる事は許さない。」
「でも、それじゃあ貴方は―――」
「我の幸せに、主が入っているとしたら?」
「………な、に?」
彼の皮を着た違う悪魔が乗り移ったのではないかと疑うくらい、今日の彼は別人だった。
彼の紡ぐ言葉が何一つとして理解できない。
だってそれじゃあ、まるで私を必要としているようではないか。
願望が強すぎて、頭が勝手に幻覚を生み出しているのではないかと本気で疑う。
彼を陥れるだけの醜悪な存在に、一体何を言っているのだろうか。
「何故我が、いつまでも魔界に帰らぬと思っていた?何故我が、大人しく主の追跡を拒まず居たと思う?」
目を見開く。
彼ほどの力ある悪魔が、それを出来ないと何故盲目的に信じていたのか。
無意識に考えることを避けていた。問えばきっと、居なくなってしまうと知っていたから?
「出来ないと思っていたか?容易いことだ。けれどあえてしていなかった」
どうして?
人も食わず、魂も欲さず、この世界に彼を魅了する何かが存在したとは思えない。
「最初はちょっとした好奇心だった。我を怖がらぬ者を見たのは初めてで、少し興味が湧いただけだ」
呪術が彼を犯し始める。
彼のきめ細かな肌が、醜くどす黒い色へと染まっていく。
「っ!放して、早く。毒が回る前に早くっ」
「どこに居ても必ず現れるその得意げな顔が、いつしか待ち遠しくなっていたと気付いた時は衝撃だったな」
ビリビリと、電気が走るように全身に痺れが広がった。
けれど彼はこの何十倍もの、耐え難い激痛に苛まれているはずだった。
なのに彼は歯を食いしばったまま、呻き声ひとつ上げずにそこにいた。
遠のきそうな意識の中、ぽとりと雫が頬に落ちた。
その感触にふと意識が集中する。見上げた顔に、それが彼の汗だと知って、恐怖に全身が総毛だった。
「イヴァリス?ねえ。本当は、痛くて仕方がないんでしょ?」
彼は笑顔のままだった。
「ここ数日はイライラして仕方がなかった。その姿が見えない事が、その声が聞こえないことが、どれだけ癪に障っただろうな。大暴れしてやろうかとも思ったが、主の顔が浮かぶとどうにも気が削がれてな。訳の分からない感情に答えを探して、気付けばこんなとこまで間抜けにもノコノコやって来ていた」
汗は止まらず、どんどんとその量を増やしていく。
それだけで正気を失いそうだった。
全身にまとわりついていた痺れが、やがては激痛へと変わり、内側で抑えきれない衝撃が、身を引き裂いてははじけ飛ぶ。
激痛に何度も意識を飛ばされながら、なんとか手繰り寄せた全神経で、必死に彼を凝視する。
私の何十倍もの強さで身を焼かれているはずの彼は、けれどやはり笑うのだ。
「主を見つけた瞬間、嘘のように苛立ちが消えた。触れたいと欲が出て、乱暴に触れた塵芥には殺意が湧いた」
抵抗する私に蟲毒を飲ませ、引きずるようにここまで連行してきた男のことだ。
目の前で塵化したことを思い出す。
それは宮廷魔術師にしていたような生易しい炎ではなく、一瞬でその魂すら消滅させるような無慈悲で残酷な焔だった。
「ここにいるすべてを土に還すのは容易いが、主を喰らう虫を払う術を我は持たない。もっと早く来るべきだった。…気付くのが、遅かったのだな」
彼は何かを悔いるように、ぐっと目を閉じ、顔を歪めて吐き捨てた。
けれど呼吸ひとつでそれを逃がすと、また優しい顔で私を見る。
彼の手が額に当てられると、苛むように続いていた痛みがすうっと引いていった。
すぐにぐっ、と彼の息が詰まって、生気を失くした青白い顔が、苦痛に歪んで顰められる。
「…イヴァリス?イヴァリス!?っ、イヴァリス!!」
俯いて影を落としたその顔に、何度も必死に呼び掛ける。
その表情が見えない事が恐ろしくて仕方がなかった。
氷で出来たレイピアがいくつも心臓を突き刺したように、鋭い痛みを走らせて胸の奥を凍らせる。
「いや、いやっ……いやだっ!イヴァリスッ!!」
最悪の結末が浮かんで、必死でそれを否定する。
ぼろぼろと落涙するのも構わず、ぼやける視界で一心不乱に彼を見つめる。
ゆっくり持ち上げられた顔は、玉のような大粒の汗が滴り、凶悪で、不敵な笑みが刺すように私を捉えた。
「相変わらず煩い主だ。心配することはない。我はこんなことでは死なん」
それが強がりであることなど想像するまでもないのに。
どうして逃げてくれないのかと、苛立ちにも似た焦燥が酷く全身を暴れまわった。
魔法陣がぱあっと発光し始めていた。
これまで研究されてきた中でもとびきり強力な魔法陣だと言っていた。
いくら強靭な悪魔といえども、抗うことなど出来るのだろうか?
こんな、お荷物を抱えて負わなくてもいい傷を負って。
なすすべもなく、拘束されてしまうかもしれない。
そう考えた瞬間に、恐怖と怒りが沸き上がる。
あんな奴らが彼を使役するなどと、そんなこと絶対に許せなかった。
「逃げて!お願いイヴァリス!身動きを封じられて使役の魔法をかけられるのよ!?私は良いから早く!…ねえ?お願いっ」
必死に彼に訴えるのに、まるで聞こえていないかのように、深紅の瞳が私を見つめる。
「主に一つ、約束をやろう。何度転生しようとも、絶対を誓う約束だ」
光は少しずつ範囲を広げ、やがてはすべての陣が発光する。
彼の話を理解するより、彼を待つ末路に涙が溢れる。
逃げて!お願い!早く!逃げて!
頭も口も壊れたように、同じ言葉しか繰り返せない。
「我を使役出来うるのは、今後天地が避けようとも、主の魂を持つ者だけだ」
真っ白に染まる世界で、そっと唇に柔らかな感触が落とされた。
それが口付けと気付く前に、深く濃いものへと変わっていく。
息継ぎもままならないまま、混乱した頭は処理を止める。
「これくらいのこと、我には取るに足りない些事だ」
囁くような、誰よりも尊いその声を最後に、世界は真っ白に塗りつぶされた。
また、夢を見た。
小さな暖炉のある部屋で、寝台に眠る私をそっと覗きにくる、綺麗で愛しくて優しい顔。
「不足はないか?」
「大丈夫」
彼へと手を伸ばそうとして、何故か重い体は上手く動かなかった。
「我の主は主だ。なんでも叶える。なんでも欲しければ言えば良い」
頭をそっと撫でる手が、優しくて涙がぽろりと落ちた。
「もっと、もっと一緒に居たかったな」
ぎゅっと抱き締められると、彼の匂いが鼻腔をくすぐる。
「魂の契りを交わしただろう。これから永劫、我はずっと傍にいる。嫌だと言ってももう遅いな」
ずっと欲しいと思っていた。
ずっとその手に触れたいと思っていた。
こんな風に大切に、慈しみたいと願っていた。
「ずっとずっと、どれだけ寝ても満たされないの。次に眠ったら今度こそもう起きないんじゃないかって、ゾッとするのに気づけば瞼が閉じているの。イヴァリスに会えなくなるのが怖くて怖くて、堪らないのに抗えないの」
まるで病を患うように、いつも強烈な眠気に襲われていた。
「蠱毒が体を蝕む速度を力業で無理やり遅らせてはいるが、その副作用だろう。…さすがにもう限界が近いか」
「限られた時間しか一緒に居れないとわかっているのに、ほんの少しの時間も無駄にしたくなんてないのに」
「無理をしてほしいわけではない。休め。我は傍にいる」
「いや、嫌よ。休んだら後は死ぬだけなのに」
「次に目が覚めた時も、必ず我が迎えに行く。我を使役できるのは主だけだ。我の生涯を捧げる相手は、主しかいない」
優しい手が頭を撫でる。
優しい微笑が心を満たす。
本当は絶対に眠りたくなんてないのに、安心するとまた意識が微睡んでいく。
そこは優しい空間だった。
「必ずだ。約束しよう」
大きさの違う小指を絡ませたのを最後に、意識は虚空へと霧散した。
作者、蟲毒の知識ありません(^^;
ファンタジーなので自分解釈で設定作って強行してます。
おかしな点あればご指摘下さい。




