忘れられた約束1
「カンターバラの奇跡の夜はね、立役者の姫君を拝見出来た最後の夜でもあるんだ」
「…手を放して下さい」
目を鋭くしてアルバートを睨み付けるが、意にも返さず男は底の知れない笑みを浮かべる。
「何を急ぐ。まだ宵に入ったばかりじゃないか。ゆっくり話をしよう。それとも何か不都合があると」
断定するような、疑問符のない言葉だった。
アルバートは何か知っているのかもしれない。
彼は何者だと焦る頭で考える。
名前をなんと言っていたか。
国の要人か。政治に携わる人間か。カンターバラの姫君に、何かの利益を得る者か?
「いいえ。約束があるので行かないといけないの」
腕を振り払おうとして、力を込めると痛みが走る。
痣が出来るほどの怪力で、アルバートはぐっと腕を放さなかった。
この、馬鹿力!
思わず胸中で悪態をつく。
アルバートは憎らしいほど余裕の笑みだった。
女性に乱暴を働くことに、何の罪悪感も持たないのだろう。
「逃げなくていい。私はこれでもラッフェコルタの宰相でね。後で約束の者には詫びをしよう。少し話に付き合って欲しい」
そうして告げられた言葉に、ティナは大きく目を見開く。
宰相。
そんな大物が、こんな時間にこんな下官を捕まえて一体何の用だというのか。やはりティナが、誰かと決めつけているような。
「訪問国の宰相に無礼を働くとどうなるか、誰に迷惑が掛かるのか、考えてみるといい」
無礼を働いているのはどっちだと腹立だしい目で相手を睨むと、アルバートこそが怒っているのかと見紛うような真剣な顔がティナを見下げていたのが見えた。
その余裕のない視線に全身に恐怖心がどっと沸き立つ。
総毛立つ感覚がして逃げなければと警笛が鳴るが、焦る頭ではその逃げ道を探せない。捕まれた手がじんじんと痛みを訴えた。
「…失礼致しました。ご身分を存じ上げず、失礼な振る舞い大変申し訳御座いません」
しばらく硬直状態で見つめ合っていたものの、とにかく隙を窺うしかない。ティナは抵抗を諦めて、静かな声で礼を取った。
アルバートはその手を放さないまま、にこりと歪な笑みを浮かべると、ティナに座るように促した。
「あまり畏まらなくていい。今は公式の場でもないだろう。とにかくかけたまえ。冷えるようなら部屋を用意させるが大丈夫かな?」
目だけは真剣なまま、アルバートも態度を和らげる。
落とした毛布を差し出してくれ、緊張に遠ざかっていた寒さを思い出す。手足の先まで冷えきった体を毛布にくるめてティナは座った。
「いえ、お気遣いなく。長居をする気は御座いません」
「私は君とゆっくりと過ごすことはやぶさかではないがね。それで、何の話だったかな。そう、カンターバラの奇跡の姫君」
「やけにその話にこだわりますね。何か、思い入れでも?」
「そうだな。カンターバラの王族は軒並み打ち首に処されたことは知っているかい?」
「………はい。敗戦したカンターバラは、その王族の首と引き換えに国民を守ったと」
感覚のない手がカタカタと震えた。
いけないと思うのに、嘆く心臓が騒ぎだす。
父の、母の、叔父の祖父の伯母の祖母の。数多くの顔が浮かんでは、皆が処されたと聞いたその夜へと記憶が後戻る。
孤独に、寂しさに、虚しさに、切なさに心が千切れたその夜へとフラッシュバックしそうになって、知らず呼吸が乱れだす。
「カンターバラの王族の血縁は完全に絶たれたと言われている。けれどただひとり、その奇跡の姫君だけは、未だ生死不明のままでね」
酸欠にぼんやりする頭に男の声が遠くで響く。
カンターバラは敗戦し、歴史の舞台から姿を消した。無力に泣いたあの夜に、ティナは確かに何かを失った。
それでいいではないか。
これ以上何を奪うというのか。
共和国として政治を取り仕切る権利を失くして、かの国にはもう何の力もないというのに。
「…それが何だと?力をなくした国に、価値などないように感じますが」
「そうだな。確かに国には興味がないな。けれどカンターバラの王族には、他国の王族と異なる特別な血が流れている」
はっ、と呼吸が上擦った。
彼は何を知っている?
長い歴史の道中で、埋もれてしまった約束を?
ただ小指を絡ませただけの、小さくて優しい、いつかの彼との約束を?
汚すことのできない、私たちだけが知るはずの、大切で尊いあの誓いを?
ティナはぎゅっと目を閉じた。
瞼に浮かぶのは知らないはずの鋭い目。
生まれたときから、何度も何度も呼び掛けられる知らないはずの者の声。
「………イヴァリス」
月が雲間から顔を出し、蒼白い月明かりが周囲を照らした。
瞼の裏から、暗闇を照らす光を感じる。
名を呼ぶと、胸を満たしていた焦燥感がまるで他人事のように、アルバートも腕の痛みも遠ざかる。
ゆっくりと目を開けると、そこは先程までいた外庭のベンチではなかった。
知らないはずの愛しい人が、すぐ傍にいる背徳の場所。安心感が胸を満たす、小さな小さな二人だけの箱庭。
ティナには、幼い頃から繰り返し見る夢があった。
いつも気がつけば、小さな暖炉のある部屋にいる。
そこでは見知らぬ男がいて、けれどまるで肉親のように、優しい微笑みをくれるのだ。
ある日気づいたことがある。
その男は、人ではないのだと。
むしろ男はどこからどうみても人の容姿とはかけ離れていた。どうして気づかなかったのか、夢だからかと不思議に思った。
「イヴァリス」
初めて口にするはずの音が、とても口に馴染むのが不思議だった。
優しい顔で見返す彼は、手を触れてはいけない、とても高貴な存在に見えた。
出会った時の夢を見た。
薄暗い石造りの階段を浮かせた光源に照らされながら、響く足音がどこまでも下へと降りていく。
永遠にも続きそうな階段を降りきったその先で頬を掠めた何か。
ピリッと痛みが走って、触れるとぬるりと粘度のある感覚がした。見下ろせば赤く染まる手のひらに、頬に傷を負ったと知る。
その理由を考える暇もなく、ガタン、と耳にこびりつく音。
見上げればいくつもの宮廷魔法師の纏うローブが、その色を真っ赤に染め上げ落ちていた。
ドン、と風が巻き起こり、いくつもの大音響が爆発する。
思わず耳を塞ぎたくなる轟音に、目も開けていられない衝撃波が襲い掛かり、赤く染まったそのローブ達を四方八方へと吹き飛ばした。
「つまらん。不遜にも我を呼び出しておいて、これほど脆弱な力とは。張り合いがなさすぎて暇つぶしにもならんな」
風が収まると無音となった。
ローブは誰一人として身動きもなく声も発さず、ただ一人、真白い男だけがそこに居た。
声量を抑えて吐き捨てられるその言葉は、反響しては酷く耳に木霊した。
男は侮蔑を混ぜたような冷めた目で、静かに動かない魔術師達を眺めていた。
まるでこの世のモノではないような、透き通るような白い肌に乱雑に流されたプラチナブロンド。瞳だけは真っ赤に燃え上がり、長く尖ったその耳と、頭から生えた山羊のような二つの角が、異物のように鈍く光った。
悪魔。
見ただけでそう理解した。
宮廷魔術師は、人の理を捻じ曲げて、タブーとされる存在に愚かにも手を伸ばしたのだと。
その報復を受けていたのだと考えることもなく理解した。
悪魔の視線がそっと上げられると、一人立ち尽くす私の視線とかち合った。それに驚くこともなく、表情ひとつ動かさないまま、
「なんだ、人間。まだ居たのか」
酷くつまらなそうに吐き捨てた。
悪魔は気怠げに一歩、一歩と私の方へと近づいてくる。
「主はこいつらと少し種類が違うようだな。主も我を利用しようとする驕傲な塵芥か」
きょうごうなじんかい。難しい言葉に頭を捻る。
強豪、競合、人界、人海。どんな漢字を当てはめてもちっとも意味が成り立たない。
「あの、それは悪魔語かしら?」
わからないので尋ねると、悪魔の瞳に明らかな侮蔑が入り雑じった。
「言葉が通じていないのか?それとも阿呆か。まあいい。殺せば同じことだ」
薄暗い部屋のなかで、その眼光だけが鋭く光って浮き上がった。
すぐ目の前まで悪魔が来ると、その身長差に見上げると首が痛くなる。
「言葉がわからない訳ではないの。あなたの言葉はちゃんとわかるわ」
背筋が凍りつくような冷徹で凶悪な眼差しを向けるその悪魔に、けれど私はにこりと笑う。
「綺麗な瞳ね。まるでルビーのような深い紅。ねえ、貴方の名前はなあに?」
悪魔は変わらず冷たい視線を落としていた。
「私は―――――よ。ねえ、悪魔さん。私を殺しにやってきたの?」
弾むような期待を抑えきれずに、目を輝かせて悪魔を見る。
けれど悪魔は動かなかった。
ただ蔑みの視線を落とし、私を観察しているようだった。
「………嬉しそうだな」
「そうね。誰も私を罰してくれないから、待ちくたびれていたところなの」
「死にたいのか?」
「そう。私は弟を殺したのに、誰も許さないでいてくれないもの。ずっと、ずっと弾劾してと、責め立てて欲しいと願っていたの」
「つまらん。我を巻き込むな」
「貴方は何も気にしないで。私を殺してくれるだけでいい」
「断る」
「どうして?」
「どうして主の勝手な都合を聞いてやらねばいけぬのだ?」
ようやく弾劾してくれる最高の相手を見つけたと思ったのに、悪魔は興味をなくしたように、視線すら逸らせて息を吐いた。途端に胸がざわめき始める。殺さないでは困るのだ。
「主は天帝の血を引く者だろう。我にはわかる。我はその血を喰らわない」
踵を返して、悪魔の背中が遠ざかる。
「興が削がれた。さっさと去れ」
私は慌ててその背を追う。
「そんなわけにはいかないわ。どうして私を見逃すの!?……貴方は国の宝とされる、宮廷魔術師を殲滅させた。私には、それを咎める義務がある。殺さないとどこまでもいつまででも追って行くわ!」
悪魔は歩行を早めも遅めも止めもしない。
振り返ることも声を出すこともない。
何の反応も返さないまま、まるで声など聞こえてすらいないかのように、呼び出された魔方陣へと横たわる魔術師を蹴飛ばしながら歩を進める。
それでも魔術師はピクリとも動かない。
もう事切れているのかもしれない。
「私は追跡の魔法が使える!どんなに貴方が逃げようと絶対に見つけることが出来るのよ!今殺さないと後悔するわ!」
「そんなに死にたいならひとりで死ね」
「弟を殺した私が、どうして自分を殺せるの!?弟が庇ってまで守ってくれた命を自ら放り出すことなんて出来ないわ!」
「だったら大事に扱えばいい。主の都合に巻き込むな」
そんなことはずっと前からわかっている。
弟が命と引き換えに守ってくれた命を無駄に散らすことなど許されない。
けれどあの日を自分を許すことなんて出来ない。
相対する二つの感情にいつでも心は千切れそうだった。
「錠前!」
光が悪魔を包み込み、追尾対象を認識する。
目が光に焼かれる間も悪魔が逆上して殺してくれないかな、と期待もせずに考える。
けれどその光が治まっても、悪魔は白けた表情で無感情に手を払った。
今度はぱあっと魔方陣から光が立ち上がり、視界を真っ白に染め上げる。
その光に消え入る前に悪魔は私の方を一瞥した。
「絶対に追いかけるから覚悟していて!」
声は果たして届いたのか。
光が視界を埋めつくし、美しいまでに酷悪そうなその悪魔は、跡形もなく消えていた。
宮廷魔術師の亡骸と私以外の居なくなったその部屋で、沈黙だけが佇んでいた。
けれど追跡魔法の効果に胸に残る感覚が、悪魔がちゃんとこの世界に居ることを感じさせる。
死なないから生きていた、無意味な人生に幕を閉じた。
目標を定めた瞬間から色を変えたその世界で、私は不敵に口角を持ち上げる。




