望まない再会
生まれて今日まで出会ったものの中で、一番やっかいな存在はこいつだと私は確信した。目の前の、効果音がつきそうなくらいにっこりと
笑っているはずなのにどうしてだか背中を冷たくさせる少年に対して。
「それで、逃げた理由ってなんなの?」
白々しく聞いてくる少年の声は無邪気そのものである。ただ純粋に疑問に感じている声。むしろ楽しそうですらある。なのに何故か、今度は全身に鳥肌が立った。
寒い。こんなに外は陽気で風は穏やかなのに、一体どうしたことだろう。
こくり、生唾を飲んで私は
「逃げたってなんのことかし
「逃げてないとかいうつもりなら、俺にも考えがあるけど」
「…………。」
答えるのをやめた。英断だと思う。
目の前の少年は更に深くした笑顔で、ブリザードをもたらした。怖い。
今にも口から飛び出しそうな謝罪の言葉を飲み込んで、次の一手を考える。目の前の龍神様は曲がりなりにも攻略対象。私の最大の目標は攻略対象と関わらないこと!まだ抗えるはずだ。
言い訳をあれこれ準備している間にも笑顔の少年は、ゆっくりと唇を動かして、もしかして、と音を乗せる。
「助けてあげた恩も忘れて、逃げた挙句に行方をくらませて、平々凡々悠々自適に生きていこうとしてたってことじゃないよね?」
言い訳が一気に飛んだ!
いや、私はそんなこと一切考えてない!本当に!これっぽっちも!!
さーと引いていく血の気に頭が真っ白になりながら、私はぶんぶんと首を横に振った。
認める。
確かに助けてもらった。
引き換えに命まで差し出すとか言った記憶もあるけど、それはもう忘却してしまったからやっぱりそんな記憶はない!
とにかく助けてもらって、でもそこで力尽きた私は落ちたのだ。離宮の一室のバルコニーから、奈落の崖下へと。
死ぬだろう。普通。
私も確信した。私死んだ。
飛び降り自殺をしたら死ぬ前に失神するとかいうけど、私もそこで気絶した。だから何がどうなったのかよくわからないけど、次に目を開けたら森の中に落ちていた。慌てて体を起こしたら体中痛くて顔をしかめて。だけど確認しても大きな怪我は見当たらなかった。生きてるのか死んでるのかから始まって、生きていたとして怪我が軽すぎる怪奇に今度はぶち当たる。摩訶不思議な出来事に考えても考えても結局訳が分からなくて。しばらく動けず悩んでいたら、気付けば夜明けに差し掛かっていた。
状況把握を半ば諦め始めた私は凍えるような森で、地平線から漏れ出す光を見たのだ。
絶望の夜が明け、今新しい朝が来た!
胸に小さくも確かな勇気が湧いた。
決めた。なんでもいいからとにかく行こう!
あんな高いところから(見上げてもバルコニー見えないし。離宮もなんだか小さく見える)落ちて、まだ夜の空けきっていない今しかチャンスはない!
ボロボロのドレスにギシギシいう体。頬に張り付く髪に蔓延る疲労感を連れて。だけど私は立ち上がった。
私は、自由になる!
そうして私は森の中へと消えていった。
――――――――――っていう訳で。
逃げてない。私全然逃げてないよね。
希望に向かって走り出しただけだもん。私はなんにも間違ってない。うんうん。
「…へぇ?」
一言も発していないはずなのに、向かい合う少年は不穏当な声をあげた。
びくっと肩が粟立つ。
「俺が風を起こしてあげたから助かったことにも気づかず、アンタ探し回って夜通しあちこち飛んだのも気づかず。勝手に希望に向かって逃げたと」
「ち、ち、ち、違う!っていうか勝手に心の中読んだ!?何それ龍神様チートが憎い!」
「あっちこっちに自分の魔素振りまいてカモフラージュしながら木に草に紛れながら移動することを逃げるとは言わないんだ?」
「…………ッ!?」
「なんでそれをって顔してるね?あんたに根こそぎ魔力を持っていかれて、視力が一時的に低下してたんだけど、もしかしてそれも気づいてた?嗅覚も落ちて匂いもほとんど辿れず、唯一使えた魔力探知を子供だましみたいなせっこい技で妨害して。ああそう。人間の世界ではこういうのを逃げるって言わないんだ?」
少年の笑みはもはやまったく無邪気なものではなくなっていた。
「あぁ、そう。そういえばあの寒い中川に入るのはさすがに凍えたんじゃない?微かにかぎ取れる匂いも川まで行きついたらまったくなくなってたもんね。穏やかな流れだったけどよくまあ生きてたよね。」
…それで、何の話だったっけ?
にっこりと。そうして少年の話は結ばれた。
私と言えば「な、何の話でしたっけね?」とひきつる声で返すのがやっとである。
「あぁ、そういえばこの前約束をしたよね。なんだったっけ?ねえ、クリスティーナ。君は覚えてる?」
まさか忘れちゃった?龍神との約束ってそんな軽いものだったっけ?と軽い口調なのにすごいプレッシャーを感じさせる声。悪魔との契約をしてしまった。私は今はっきりと自覚した。
「……………………ごめんなさい」
深々と頭を垂れる以外に出来ることなどなかった。
「これでよし」
そうして私には腕輪がつけられた。
どうやらその腕輪があると一発で私の居場所がわかるそうで、前の世界で言うGPSってやつだ。
腕輪自体はデザインも凝っていてとっても魅力的なのだが、GPS機能…。最悪だ。
不貞腐れた顔で腕輪を触っていると
「あれ?首輪の方がよかった?」
とか嬉しそうに聞いてくる。ドSめ!
「うん?何か言いたいことがあるのかな?いいよ、聞くよ?」
心の声すら聞こえるくせに!うさんくさい顔しやがって!
…ぎゃあっ!怖い!タスケテ!
笑顔をどんどん黒くさせる少年に私は完全降伏するのだった。
「あのさぁ。普通なら命取られてもおかしくないし、逃げた時点で相当悪質だし。それをこんな腕輪ひとつで許して貰えてるってすっごい親切だと思うんだけど」
呆れたように嘆息する少年。あ、初めて笑顔以外の顔をみた。
でもまあ認めたくなくてもその通りなのだ。
「…わかってるけど。龍神様って本当はすっごい尊い存在だってことも、私の方に非があるってことも、出合頭に殺してこないくらいの懐の深さと器の大きさを持ってるってことも。(でも素直に認めたくないだけで)」
「・・・・・なんなの?嫌味?」
「素直に称賛したらそれだし!」
「胡散臭いんだもん」
「ひどい!」
ぎゃあぎゃあと言い争っていると、ゴーンゴーンと遠くで音が聞こえた。一刻ごとに鳴らされる、時報代わりの鐘の音だ。つまりそれは、休憩時間の終わりを指す。
まずい。もう戻らないと!
慌てた私は
「悪いんだけど私もう行かないと!話はまた今度にしましょう!」
と次の約束もなしに走り出す。あわよくば逃げたいとか思ってないよ!
「はあ?君、自分の立場わかってんの?」
という呆れた声と、下から掬い上げるような突風が吹き、足が浮いた。
ひっくり返る!
息を飲んだ時には私は少年の腕の中に居た。
距離の近さに目を見開いて、遅れて自覚した温もりに顔が熱くなる。
何を、というより先にすぐ近くから響く、すこし高いシルキーボイス。
「送ってあげる」
耳に馴染む、あどけなさの残る声だった。先ほどまで恐怖しか感じなかった声だ。なのに。
果たして私はその時の感情を正しく図り知ることは出来なかった。
ただ疼くような焦げ付きだけがいつまでも胸に残ったまま、気づけば王宮の傍の死角となる大きな木の根元に一人佇んでいた。