そして街へ
5年後の話です
「ねえ知ってる?第一王子殿下のお姿が度々城下町で目撃されてるんだって!」
私はリディのとびきり明るい声に顔を上げた。
洗濯物を振り回し、うっとり空を見上げる彼女は名はリディ。宮廷の下女で、まだ入って日の浅い私の指導係にも任命された同僚である。
肩より少し下まで伸びた栗色の髪を今は邪魔にならないようきっちりと結い上げ、人懐っこい顔で笑う彼女は、実はかなりの情報通だ。
私は飛び散る水滴を迷惑そうに眺めながら、先ほどの言葉を反復する
「第一王子殿下?」
顔を思い浮かべようとするが、前世の記憶は未だ濃霧の向こうに漂ってる程度の私の記憶力ではメインヒーローの顔すらぼんやりだ。もちろん、新人下女の私がやんごとなき第一王子殿下のご尊顔を拝見する機会など一度もあろうはずもない。
というか、出会いたくもない。近づきたくもない。死にたくない。
どう回避しようかと思案しつつ洗濯を再開する私に気づかないまま、リディはうっとりと目を細める。
「そう!ミクトラントリ第一王子殿下よ!とっても美しい顔立ちでダンスパーティーでは眩暈を起こして倒れる女性が絶えないという噂の!」
きゃー!と黄色い悲鳴を上げて頬を染めつつ、リディは洗濯物をバサバサと振り回す。
「そんな危険人物、世に放っちゃダメでしょ」
不敬罪にも相当する言葉を返しながら、私はそんな高貴な方が一体何の用事で、と溜息をついた。
その間もリディの口は止まらない。聞くともなしに聞こえてくる情報によると、殿下はお忍びでの視察らしく本当にご本人かは断定できていないらしいこと。また下々の者にとってその素晴らしいらしいご尊顔はほとんど出回っておらず、一体どうして殿下だと判断したのかも疑問であること。3,4人ほどの少数で行動しているということなど聞けば聞くほどに真実味は薄いように感じられた。
「デマじゃないの?」
思わず零れてしまった本音にリディは憤慨するように顔を赤くする
「本当だったらどうするのよ!こんな機会滅多にないわ!とにかく大急ぎでこの洗濯を終わらせて、なんとしても休憩時間をもぎ取らなくちゃ!」
鼻息も荒く拳を握ると、持っていた洗濯物を擦り切れんばかりに力強く洗い始めた。
ほら、ティナも手伝って!
横に並べていた私の籠にどさどさと大量の洗濯物を移動させる様子を見ながらこれは城下にも付き合わされるな、と私は溜息をついた。
さてさて
自己紹介が遅れました。
私クリスティーナ=ラクシュマナフ。愛称はティナ。
元一国の王女だけど、今はヴィルシュタット王国の平民やってます!色々あって、王宮の下女として絶賛(?)勤労中なの!
五年前、前世の記憶が蘇ってここが乙女ゲーム【龍と精霊のセンクチュエール】略してセンクチュの世界だって気が付いたんだけど、私の役割はなんと!煮ても焼いても死ぬルートばっかりの悪役令嬢!ガッテム!
波乱万丈一攫千金コースより、平々凡々ローリスクローリターンコースの方が大好きな私は、そんなルートを消すべく日々奮闘中です!
ゲームの流れでは、5年前の戦争で、敗戦国の第一王女として捕虜となり入国を許された後、植民地を嫌ったヴィルシュタット国王陛下と皇后陛下の計らいにより、第一王子殿下との婚約が結ばれる。不平等な条件下だが、この婚約により同盟国としてカンターバラはヴィルシュタットの傘下となる。
それから8年後、ヒロインが攻略対象である第一王子殿下と結ばれていくルートにて悪役令嬢として見事活躍するわけだけれど(ちなみにその他のルートでも必要以上に現れては死ぬ)
そこは全力で逃げました。
死ぬからね。最後。
生きたい私は全力での回避を試みました。当然。
まあ、詳しい話はとっても長くなるので、また次の機会にでも。
とにかく逃げた私は無事に捕虜にはならず、身分を隠したまま難民として、ここヴィルシュタット王国へ入国することになった。
前世の記憶のおかげで平民としてなら暮らしていく自信があった私だけど、年齢に加え、カンターバラ難民というだけでなかなか仕事に恵まれなかった。
毎日毎日仕事を探してはを断られてを繰り返し、運が良い日には日銭が稼げてなんとか食べ物や寝る場所が確保できた。最初は支給されていた難民キャンプによる配給もあったが、やがてはなくなり本格的に生活に困るようになると人生初めての幻覚体験なんかも経験した。だけどある日、そんな生活が一変する。3日ほど水で過ごして行き倒れているところを、とある親切な女性が拾ってくれたのだ。
そんな私にとっては命の恩人で女神様のような女性の名はイザベラ=テクストスといった。
イザベラは豪快で、優しくて力強い笑い方をする女性だった。
年の頃は30代くらいだろうか。
「あんた、大丈夫かい?こんな雨の日にそんなとこで寝てたら風邪ひくよ。うちにおいで。温かいスープくらいならご馳走してやるよ」
久しぶりに聞いた、暖かい人の声だった。
それから私はイザベラの家に身を寄せた。とても親切にしてもらったけど、そうしてくれる理由がわからなかった。慣れない環境や張り詰めていた緊張、押し潰されそうな不安と、体力的なもの。色々限界だった私は、しばらく熱を出して寝込んだ。
落ち込んでいた私に、イザベラは寄り添ってくれた。眠れなくなった私のベッドの横でぽつぽつと話してくれたのは家族のことだった。夫の勤務地が遠方であること。そのため娘との二人暮らしが長かったこと。おっちょこちょいだけど元気が取り柄の女の子だったこと。……昨年の寒さの厳しい冬の日、大切な愛娘を大病で亡くしてしまったこと。
どれほどの絶望が彼女を襲ったことだろう。大切な人をなくす喪失感は筆舌に尽くしがたい。支えてくれるはずの夫も娘の葬儀を終えるとすぐに勤務地へ戻ってしまったそうだ。
「おやおや。なんでアンタが泣くんだい」
知らず零れていた涙をイザベラは拭ってくれた。
娘の面影を見たイザベラは私を拾った。だから毎日がまた楽しくなったのだと穏やかな顔をして教えてくれた。
涙の止まらない私の頭をいつまでも撫でてくれた。
私は最大級の敬意を込めて、彼女をイザベラお母様と呼んだ。イザベラお母様もそれを喜んでくれた。王妃であるお母様は私に愛をくれなかったが、前世のお母さんみたいな温もりがそこにはあった。
幸せな日々だった。
だけどイザベラお母様もけして裕福ではなかった。
ただただ食い扶ちを増やしてしまうことがどうしても耐えられなかった私は必死で仕事を探し続けた。紆余曲折を経て、そうしてようやく宮廷の下女となったわけだ。宮廷と言っても本邸ではなく敷地内にいくつか並ぶ別邸のひとつだが。
曲がりなりにも元第一王女である私は、それなりの知識や礼儀作法はあるし、当然文字もかける。実用性はないがダンスだって踊れるし高貴な趣味である刺繍だってできる。王女としての教育づけの日々をこんなに感謝した事はなかった。試験に一発合格して本当に良かった。
下女とはいえ、宮殿務めは割と高収入なのだ。手放すわけにはいかない。
私は詰みあがった洗濯を処理しつつ、割と満足している現状に感謝した。
大量の洗濯物の最後の一枚を干し終える頃には日が一番高いところに差し掛かっていた。
休憩にしましょう、という上女中の合図で私たちは休憩に入った
下女の休憩は食事時間も合わせて約一刻ほどとなっている。
日によっては午後からも小休憩をもらえたりもするが、基本的には一日一回しかない貴重な休憩時間である。
懐中時計を片手に街への往復時間を計算しようとして、どんなに急いでも無理だ。考えるまでもなくそう思う。街への往復だけでもギリギリである。王子を探す時間なんて捻出できないし、そもそも王子に会いたくもない。(私の平穏な日々の確立のために最重要達成目標はとにかく攻略対象に合わないことなのだから!)今日は食堂で過ごそう。休みの日に改めてリディ一人で行くのが最適だと思う。
という私の訴えをまるっと無視してリディは私の手をひっぱり街へ降りていた。足りない休憩時間を補填するべく、必殺裏技の誰も来ない別邸裏の草むしりを買って出るという手を使ったのだ。
居なくてもバレないが、戻ってから全力で草をむしらないと間に合わない過酷な仕事である。範囲も広大で体力を根こそぎ持っていかれる重労働は当然誰もやりたがらない。我こそはと手を挙げたリディに他の下女達が拍手した。私を巻き込まないで下さい。助けて。
指導役チェンジでお願いします!という私の渾身の願いは誰にも届かず、ただただドナドナされていく私の耳に、よろしくねー!と明るい下女の声が響いた。
そうしてとうとう街についてしまった。
リジィが荷運びの商人の馬車をヒッチハイクしてくれたおかげでだいぶ時間は稼げたけれど、素直に感謝も喜びもできない私である。
しかし。
正直、どこで仕入れた情報かはわからないがその真偽は怪しい。もし万が一にも真実であったにせよこんな広い城下に広がる市場で見つける可能性なんてゼロに近いはず。つまり市場を散策して、楽しんで帰ればまぁ、そんな悪い話でもない、はず。
賑わう市場を歩きながら、ついつい誘われてしまう美味しそうな匂いに、買い食いしようかと露店を眺め、無理やりにでもポジティブ思考に持っていこうとしていた時が私にもありました。
「ちょっと、離して下さい!」
悲鳴にも似た大きな声が聞こえるまでは。
…うん、なんかそうだと思ってた。自分の不幸体質を認めない上でなんとなく悟っていた私は遠い目になる。
いやいや目を向けると、若い女性を囲うようにして複数の男が群がっていた。男の一人は6歳くらいの子供の手を掴んでいて、子供が暴れて逃げようとしているのを難なく止めていた。
「このガキが俺にぶつかってきたんじゃねえか。俺は被害者だぜ?」
「うるさい!こんな狭い道の真ん中をぞろぞろ歩いてたらぶつかるに決まってるだろ!」
「あぁ!?俺が悪かったって言いてえのか!?」
「他の誰が悪いんだよ!」
子供は果敢にも男に食い掛っていたが連れの女性―母親だろうか―は顔を真っ青にして頭を下げている。
「ご、ごめんなさい。その子の非礼も謝ります。どうか見逃して下さい」
震える声で許しを乞う女性の顔を今度は他の男がぐいっと持ち上げ
「お、これは結構上玉じゃねえか。兄貴、こいつ貰ってもいいか?」
「きゃあ!やめてください!はなして!」
女性の悲鳴がして、男たちの下衆いた笑いが響いた。
なんというテンプレート(涙)
あんまりにもベタベタな展開に思わずくらりと眩暈が襲ってくる
そんな私を置き去りにして、更にいちゃもんをつける男たち。
そして
「何してんのよ!変な言いがかりはやめてくれる!?」
と、別方向から参入した新たな聞き馴染みのある声に今度こそ私は止まった。
リディ~!!!!
漫画だったらガーン!っていう効果音が付きそうなショックを受けて、私は心中で名前を呼んだ。
あぁ!?なんっだてめえ!関係ねえだろ!
いや待て、こいつもこれで中々じゃねえか?
お姉さんが俺たちと遊んでくれるの?
いや待て、生意気な娘は少しいたぶってからにしねえと
あぁ、なんというテンプレ以下略。
どんどんと続く不穏当な会話があんまり脳を介さず右から左へと流れてく。下衆いた笑いが響き、悲鳴と怒号が行き交い、私は
腹をくくった(涙)