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猜疑心と真心

解いても解いても終わらない問題集をひたすら解きながらも、平民ならば一生機会に恵まれることなどないであろう美味しいクッキーと紅茶という最上級のご褒美につい気持ちが絆される。甘い言葉さえなければそれなりに快適であった勉強会は、結局深夜にまで及んだ。

ふらふらとふらつく足取りで、仮眠室と呼ぶには立派すぎる寝室へと着いた時には既に日付はひとつ先へと進んでいた。




もうすっかり道順も覚えてしまったティナは、戸惑いなく部屋へ辿り着き、ドアを開けると首を傾げた。

室内は何故か、明るく暖かかったのだ。

見ると部屋には煌々と明かりが灯され、暖炉に火は入れられ、スプリングの効いた立派なベッドには


青銀髪の少年が我が物顔で寝転がっていた。


「げ。」

「あ、やっと帰って来た。遅かったね」

思わず一歩後ろへ下がるが、気にも留めずににこりと笑いかけるその相手は「寒いから早く中に入りなよ」と当然のような顔で入室を促す。

疲れた体をより重くしたティナは、けれど抵抗する元気もないとさっさと後ろ手にドアを閉めた。

もしかしたら気付かなかったけれど知らない間に寝てしまったのかもしれない、などと連日の悪夢に疲れた頭で考える。現実も夢も生活を追われて、この世の楽園を探す旅に出たいと脳が勝手に現実逃避を始めだした。


「えらく毎日追い回されてるみたいだね。ハルって蛇みたいにしつこいでしょ?諦めた方がいいよ。彼、狙った獲物は逃がしたことないから」

そんなティナの様子を面白そうに眺める相手は、外見年齢相応にカラカラと軽い笑い声をあげる。

「それ人のこと言えないからね。理不尽な権力者に毎日を脅かされて、こっちはすっごくすっごく困ってるの。どうしてこんなしがない庶民にどいつもこいつも無理難題を押し付けてくるの」

けれどそれを素直に可愛いと思えないティナは、取り繕うこともなく渇いた視線を投げるだけだ。


どいて、と声をかけようとして、ベッドに近づいたティナの手をそれより先にクレアが掴む。思わず掴まれたその手を見て、それからクレアの顔を見る。どういうつもりかと視線を鋭くすると、下から見上げてくる挑戦的に光る目とかち合った。

「教えてあげようか?」

「いらない!」

脊髄反射で断る。

クレアはそれに声をあげて笑いだすと、まぁ座りなよ、と体を寄せて自身の横にスペースを開けた。


「そんな危ない話じゃないよ。」

ほら、と手を引きながら彼はまだ話題を変えない。

促されるままにベッドに腰掛けたティナは「もう寝るから帰ってよ」と邪険に掴まれた手を払い退けた。

「聞かないと後悔すると思って教えに来てあげたのに」

面白そうに笑いながら親切心だといわんばかりに言い放つクレアは、払われた手を頬杖に変える。

「余計なお世話よ。聞いて後悔したことしかないから遠慮するわ。」

信用ならない相手の言葉など耳を貸す必要もないと、目を閉じて情報を遮断する。夜が明ければ、また早くから仕事が待っていると思うと少しでも早く眠りたい。どうしたら帰ってくれるのかと考えて、もう無視して寝てしまうのも良いかもしれないと

「ハルはティナが大事なのかな?気付かせない為に色々工作してるみたいだね」

「え?」

聞き流せない発言に思考を止めた。思わずクレアを凝視すると、満足したようにクレアは笑みを深くする。

「興味が出てきた?最近特に足しげく通ってるみたいだけど、仮にも国の第一王子が遊び歩く時間なんて、作ろうと思って作れるものでもないと思わない?多忙に追われるハルが、無理して時間を捻出してまでティナを拘束してる理由って何なんだろうね?」

言われてみれば、そうかもしれない。

今まで気にも留めなかったその事実に、疑問に思わなかったことこそに驚いて、焦燥がじわりと胸に広がる。

だって相手は本来視界に収めることすら許されない、雲の上に君臨されるような方なのだ。そんな高貴な人間の貴重な時間が、遥か下位に位置する下女の為に割かれているだなんて誰がどう考えたっておかしい。疑問に思わないわけがないのだ。


けれどそれは、だってハルは。

ティナは混乱する頭で、官職試験を受けさせようとする彼の姿を思い浮かべる。

「官職試験?そうだね。素直なティナは、それを信じちゃってるんだよね」

クレアは嘲笑するように、唇の端をいびつに持ち上げた。

ティナはそんなクレアの迫力呑まれ、瞬きひとつすら自由にならない。

違うとでも言いたげな発言だ。けれど本当にそれが違うとして、だとしたら一体何の意図があって

「本当に可愛いよね。抵抗してるつもりで翻弄されるままに転がされてることにも気付きもしないなんて」

侮辱するような物言いだ。けれどそれは、ただ素直に思ったことを口にした、というような無邪気な声音だった。

部屋は暖かいはずなのに、体の芯が凍ったように冷たくなる。周囲の音が遠くなって、心臓の音だけがまるで耳元で鳴ってるみたいに大きく響く。

「だって、チャルチシュヴァラ卿だって外務部を調査をしろって」

声を出すのだって気を張らないとすぐに震えて消え入ってしまう。意識してお腹に力を込めると少し動揺が落ち着いた気がした。

「もちろん、魔法石のゴタゴタを解決するためには官職に就いて雑用をしながら不審点を探すのはかなり有効な手段だよ」

「だったら」

「ティナに良いこと教えてあげる」


ぐっと肩を押されると簡単に体はベッドに沈んだ。押し倒される形でクレアの両腕に閉じ込められて、楽しそうに見下ろしてくる顔は、影が落ちて少し見にくい。

「人が動くのには目的がある。良心には裏があって、良い話には落とし穴がある。目の前に見える真実があるとして、そこには必ず誰かの思惑が絡んでいると考えていい。そこに潜む陰謀を疑え。そこに隠れる悪意を探れ。人は嘘をつける生き物なんだ」

けれど目だけはギラギラと光を反射する。重みの感じない口調なのに、それが真実だと、否定を許さない強さを放つ。

「官吏なんていくらでも居るのにどうして新たに、経験も知識も、乗り気すらないティナを配属させないといけないワケ?」



けれど。


「…そうかしら?」

クレアの言葉に、ティナこそが純粋な疑問だという顔で聞き返す。

「え?」

まさかそんな返事がくるとは思ってなかったのだろう。クレアはきょとんと邪気を柔らげる。

「ハルがどうして私を官吏にしようとしてるのかなんてわからない。それに裏があるかもしれない。でも」

クレアの顔はすぐ近くにある。そっと伸ばすだけで、その頬に手が届く。からん、と腕輪が音を立てた。

きめ細かな、滑りの良い肌が弾力を持って手に吸い付く。まるで赤ん坊のような肌触りが心地よかった。

「ハルの行動にふたつの結果があるとして、それが必ずしも悪意であるとは限らない。私が掌で踊らされているとして、それが牙を剥くとは限らないわ」

ティナは自覚もないまま笑みを浮かべる。クレアの目が信じられないものを見るように見開かれた。

「目的が2つ以上と言ったわね。そうかもしれない。それで悪い結果があるかもしれない。けれどそれが、本当に遂げたかった目的かはわからないわ。人を思う結果こそが真の目的なのかもしれない。」

驚愕に見開かれた目は、揺れながらも逸らされない。瞬きすらせずティナを見つめる。

「…可哀想にね、チャルチシュヴァラ卿。貴方は愛を知らずに生きてきたのね。私は知ってる。人の暖かさを。雨の日にそっと傘を差し出してくれる、優しい手の温もりを」


愛をくれた優しい微笑みを私は生涯忘れることなど出来はしない。


「貴方が愛を知らないのなら、私が貴方を信じてあげる。あんまり人を馬鹿にしない方が良いわ。今に吠え面をかかせられるから。」


そうしてクレアに見せる笑みがどんな種類のものなのか、ティナは自覚もないままにそれを向ける。


まるで子供のようにあどけない少年は、眩しいものを見るように、その目を細めてそれを見返した。


以前欲しいと舌舐めずりをした、粘度の高い執着とは違う。それよりももっとさらりとしていて、けれど離れ難い、確かな熱を胸に感じて。


得体の知れない感情は、まるで初めて空へ飛び立つ雛鳥のような、無垢さと心細さとそれよりも遥かに大きな、空に焦がれる胸を焼くほどの熱情に溢れていた。


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