濃厚な大人の時間と逃げたい私
ラウリニス侯爵夫人は長い艶のある黒髪を結い上げ、贅沢で大胆にも大きく胸元の空いたラインの出るドレスを身に纏っていた。
白く美しい四肢はすらりと伸び、けれどその中央に置かれた胸とお尻は豊満に実っており色香が纏う。
細められた目は垂れ下がり、魅力的な唇はぷっくらと厚みがあった。呼吸ひとつでさえ、色づくように惑わせる。
直視できない色気に私は固まった。
流し目ひとつで男を落とせそうだ。けれど実際に流し目を向けられた男は、可愛げもなく笑うだけだった。相手が悪い。なんせ狸なのだから。
「マダム。夜分の訪問すまないね。よく歓迎してくれた。感謝するよ」
夫人はとんでもございませんわ、とハルの手を取った。そのまま指を絡ませると、彼の手の甲を自らの頬へと押し当てる。
「ようこそおいで下さいました、殿下。お会いしたくて、長い夜を寂しく過ごして参りましたのよ」
飲み込めない言葉があった気がしたが、いい加減学習した私は全力でもみ消した。
頬に当たるハルの手に、すり、と頬擦りをして夫人は妖艶に微笑む。
ハルはそれに微笑みひとつ浮かべると、夫人の手ごと自分のもとへと回収し、手を添える形へと握り変え、中指の付け根にそっと唇を落とした。
触れるか触れないかの距離でされる挨拶に、焦れるように夫人は恍惚とした表情を浮かべる。
「マダムのような美しい人に、そう言って頂けるとは光栄です」
ハルは上目遣いに微笑みを浮かべた。
…うわー。
強烈な光景にがっつりドン引きした私は、早くも逃げ場を探したくなる。
けれど、どうすることもできないので顔には出さずに黙して待った。
壁際に立つ涼しい表情の執事は慣れたものなのか身じろぎ一つしない。
プロって凄いな、と思いながら、選りすぐりの先鋭かぁ、と先の言葉を思い出す。
しばらく濃厚な大人の時間を強制的に見せられることになった私は、早々に今日の夕食はなんだろうかと思考を飛ばすことにした。
三日目の朝食辺りまで思考が飛んだ頃、ようやく「待たせてすまない」とハルの声がして着席を許される。
帰りたい。
何度思ったかわからない嘆きを今日一の強さでひたすら唱え続ける私は着席するのを躊躇した。
心中を完全に隠したままエスコートされて優雅に座ると、嫉妬に灼け焦げる侯爵夫人の鋭い視線が突き刺さった。
巻き込まないで欲しい。
なんだか先にこの空間から逃げ出したセリウスさえも憎くなってきて、どうして一緒に行かなかったんだと後悔の念が襲う。
いや、商人とのお話を命じられた私は残らない訳にはいかなかったんだと私は自分に言い聞かせた。
それから間もなくして、待ちに待った商人の男が部屋を訪れた。
商人はいくつか茶葉を並べると原産国や値段の説明をし始める。試飲もさせてくれると言うので、こうなったら紅茶だけでも楽しんでやると多くの種類をお願いした。
商人は嫌な顔ひとつせずにニコニコと茶器を取り出すと、手際よく紅茶を蒸し始める。
その間にもその商品を売り込み、流れるような動作で小さな試飲用のカップに紅茶を注ぎ、どうぞ、と丁寧な手つきで差し出した。
お熱いのでお気を付けください、と小さな気配りも見せる商人に、さすがだ、と内心拍手を送る。
周りの男達のろくでもなさが伺える。私はカップに口をつけた。
「!…これ。」
その中で、気になる茶葉があった。
幼い日を思い出す、少しクセのあるハーブティーだった。
「おや、お目が高い。それは王宮御用達の茶葉ですね。産地はここより南に位置しますフェルデセルのものです。農業な盛んな国で、暖かな気候が特徴です。ダージリンティーやアッサムなどが有名ですが、こちらは高級茶葉と厳選されたいくつかのハーブを独自の手法で混ぜ込んだ特注品となります。難点と言えば、輸入品なので少し値は張ることですかね。…自信を持って売り出せる当店自慢の品ですよ。」
商人は茶葉の説明をした後、よろしければとサンプルを手渡してくれる。
嬉しくなってつい表情を緩めかけて、はっと顔面の力を入れ直す。
「ありがとう。とても美味しく頂けました。今後どれを購入するかについては、少し相談をしたく存じます。書面にて返送させて頂こうかと思いますけれど、ご都合はいかがかしら?」
商人は大丈夫ですと力強く頷くと、茶器を洗うため一度中座させてもらいますと言って部屋を出た。
終わった、と一つ息をついて、向こうの首尾はと視線を移すが、絡み付くように寄り添う夫人とそれをやんわりといなしながら談笑するハルの姿が映り、げんなりする。
自分ばかりがハズレくじを引いてるんではないだろうか。
さっさと用事をすませようと、すっと立ち上がり部屋の脇に控えていた執事に声をかける。
退席を伝えると、案内してくれるとランタンを準備し始めたので、どうにか丁重にお断りして行き方とランタンを拝借した。
少し化粧直しもしたいので遅くなるかもしれませんと言い置いて、私はそこから退室した。
廊下に出ると気温が下がりひんやりとする。
ドレスは袖の長いものであったが、ふんだんにあしらわれたレースは風をよく通すので正直寒い。
身震いする体に喝を入れ、背筋をピンと伸ばすと高いヒールをふらつかせることなく静かに歩く。
絨毯の敷かれた廊下はヒールの靴音を吸収してくれる。
頭に叩き込んだ見取り図を頼りに書斎と思わしき部屋まで辿り着いた私は、ドアに手をかけようとして、
「あなた、お客様?」
突然呼び止められた。
思わず漏れそうな声を飲み込んで、ゆっくりと自然な動作を心がけて振り替える。
同い年くらいの令嬢が、私を大きな目で見つめていた。
にっこり令嬢に笑いかけると、スカートを持ち上げると軽く膝を曲げて挨拶をする。
「ごきげんよう。ラウリニス侯爵令嬢様であらせられますか?私はクリスティーナ=チャルチシュヴァラと申します。本日はラウリニス侯爵夫人のご招待でお伺いさせて頂いております。お会いできて幸栄です」
咄嗟に出てきた嘘とバレないであろう高貴な人物として、思わず悪魔の名前を借りてしまった。
悔やむに悔やみきれない激しい後悔が胸中に嵐を巻き起こす。
向かい合う令嬢は、私の話を聞き終えると、ぷっくり頬っぺたを膨らませる。
「まあ!お母様ったらやっぱり嘘をついたのね!」
そして声を荒げて憤った。
びっくりして目を見開くと、すぐに我に返った令嬢が頬を赤く染めて
「ご、ごめんなさい。私はリリル=ラウリニスですわ。はしたないところを見せてしまってお恥ずかしいですわ。…実はね?お母様、今日は一日ご機嫌なご様子で、湯浴みやらお化粧やら張り切ってるものだからお尋ねしたの。誰かお客様がいらっしゃるの?って」
彼女は赤く染まった顔で唇を突き出す。拗ねたような表情はまだ幼さを残していて、母親とは違って親しみやすそうだ。
「そしたら誰も来ない、今日は早くに寝ておきなさいなんていうもんだから、ますます怪しいと思いませんこと?きっと最近お母様が熱をお上げになっている殿下がいらっしゃるのだと思っていたの。ねえそうでしょう?貴方は殿下のお友達かしら?殿下の婚約者や恋人のお話は伺っていないから、きっとそうでしょう?」
リリルはマシンガントークのようで、口を開くと止まらない。
その勢いに押されながら、再度聞こえてきた不穏な単語が脳にひっかかる。
頑張って聞き流していた私だが、あまりの連発にいい加減突っ込まないと駄目だろうかと観念する。
リリルのマシンガンはまだまだ止まらないようで熱心に話を続けているが、正直頭に入らない。
聞き流しながら、私は頭に浮かぶたった3文字の言葉を反芻する。
…………でんか?
これ漢字変換したらヤバいやつだよね。
だめだ。やっぱり突っ込んだらおしまいな気がする。
あれはハルとか言う名前のチャルチシュヴァラ卿のお友達。それだけ。気にしない。
そもそもこのご令嬢がハルを殿下と勘違いしているだけかもしれないし。そうに違いない。
この件はこれで終わりと思考にコンマで見切りをつけると、目の前の令嬢が私の肩を揺さぶった。
「ねえ!お願い!私もそこへ連れて行って下さらないかしら!?」
「ええ!?」
なんか話がややこしいことになっていた。
「いえ、あの…ラウリニス侯爵夫人がお怒りになりませんか?お招き頂いたご夫人に、ご迷惑をおかけすることはできません。どうかご容赦下さいませ。」
全力で断るとリリルはぐっと押し黙り、
「……それなら、殿下のお話をして欲しいわ。それで、殿下とまたお茶が出来るように取り計らって下さらない?お茶の用意はこちらでも王宮へお招き下さってもかまいません。もし御足労頂けるのなら、とっておきのリボンのたくさん付いた極上のドレスと最高の茶葉でお招きいたしますわ!そうと決まればさっそく準備に取り掛からねばなりませんわね!」
また盛り上がる。終わりの見えない会話に私は無礼だと思いながらも口を挟ませてもらうことにする。
「…リリカ様落ち着いてください。私も是非そうして差し上げたく存じます。けれど、申し訳ございません。もう宵も更けております。そろそろ私共もお暇させていただく時間になります。どうか、ご理解下さいませ」
そうして綺麗に頭を下げるとそれきりリリルは黙り込んでしまった。
しばらく返事を待ってみたが、悔しそうに俯くリリルの沈黙は続き、廊下を漂う冷気だけがそこにある。
根負けしたように私は溜息を吐くと
「…わかりました。少しだけお話を致しましょう。けれどここは冷えます。リリル様の格好では風邪をお召しになってしまいますわ。…けれど時間も差し迫っております。もしよろしければ、こちらのお部屋をお借りしてもよろしいでしょうか?」
そうしてちょうど目の前にある――書斎の扉を指し示す。リリルはそこは、と戸惑ってみせたが私が急いでいる様子を見るとわかったわ、と扉を開けた。
けれど、この部屋に入ったことは絶対に内緒にしてね、と懇願されるので頷く。
私としてもありがたい提案だった。
パチン、と魔法石を嵌めると明かりが灯った。
書斎は狭く、本棚と机と椅子が置かれていてそれだけでもういっぱいであった。
リリルは行儀悪く机に座ると机に置かれていた書類が一枚落ちる。
大丈夫なんですか?と聞くとリリルはいいのいいの、と軽い調子で答えた。
「どうせ、ほとんど使ってない部屋なんだから」
そうなのだろうか。落ちた書類を拾って机に返すついでに、ちらりと中身を盗み見る。
日付が半年も前のサインがあった。
「この部屋は書斎ではございませんか?私の父はよく書斎に籠ってお仕事をなさっておいででした。ラウリニス侯爵は普段どこでお仕事をなさっておりますの?」
聞くとリリルは顔を顰める。
「知らないですわ。いっつもどこかへ出かけてばかりで。最近では帰ってきても離れに籠って出てきませんの。最近お会いしたのはもう何日前だったかしら?」
なんと。これはハズレかもしれない。
「まあ、そんなお話はよろしいですわ。それより、殿下のお話を聞かせて下さる約束ですわ!」
「え?…ええ。そうですね。私も殿下とそんなに親しくさせて頂いてはおりませんが、知ってる範囲でよろしければ」
むしろ何ひとつ知りませんが。そもそも一緒に居るの殿下じゃないはずだし。
今まで身を守るために避けてきた詮索が、逆に首を絞める結果となろうとは。
冷や汗をかきながら私はしばらく彼女の話に付き合うことにした。




