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2.




 異世界『セプティマ』。ヒト族、獣人族、竜人族、人魚族、エルフ族、ドワーフ族、魔族の7つの種族が暮らす世界。当たり前のように魔法があって、街の外には理性の無い凶暴な魔獣がいて、それらを倒す冒険者がいたりする、ファンタジーな世界。


 それが私、黒宮紫苑ことシスネ・ディア・クロメンティールが存在する世界だ。


「うーん…わたし、たぶん"ははおやに"っぽいね?」


 現在、私は自室として与えられている部屋の、壁際に置いてある姿見の前にいた。


 鏡に映っているのは、白銀の真っ直ぐな長い髪と、大きな蒼色の瞳を持った美少女だった。


 …いや、違う。美少女ではなく、『美少女顔の少年』だ。先に述べた髪色と瞳の色、透きとおるような白い肌色とも相まって、まるで温度を感じさせない容姿である。


 着ている服は、白地に銀色と蒼色の糸で綺麗な刺繍が施された、丈の長いローブだ。革製のサンダルを履いてはいるものの、ローブの裾が長すぎて足元はすっかり隠れてしまっている。


 だがしかし、今の私は3歳である。


「さんさいじにきせるふくじゃないよね、これ…」


 丈が長すぎるせいで非常に歩きにくい上に、布の面積が多いせいか結構な重量がある。おかげで、目覚めたベッドから姿見の前に来るまでの短い距離で、2回も転んでしまった。幸い、部屋の床には分厚い絨毯が敷かれていたために怪我はなかったけれど。


「う~、うごきにくいうえに、したったらずだし…ていうか、もうつかれた…」


 ぽてり、とその場に座り込む。と、その時、部屋の外から控えめな足音が聞こえてきた。その足音が私の部屋の前で止まったので、とりあえず座ったまま扉の方に向き直ってみる。疲れていたので、立つのはもう嫌だった。


 コンコン、と軽いノックの音が聞こえた、と思ったら、すぐに扉が開かれた。静かに開かれた扉から室内へと身を滑り込ませたのは、ひとりの男性で。その姿を目にした途端、私はかなりの衝撃を受けた。


 年の頃は20代半ばから後半くらい。オールバックにした前髪に腰辺りまであるストレートロングの艶やかな黒髪と、切れ長で鋭い金色の瞳、白い肌…それらの色彩を持ったその男性は、びっくりするほど整った顔立ちをしていた。体格は決して女性的ではないが細身で引き締まった身体つきをしており、しっかり鍛えられているのが纏っている軍服っぽい黒い服の上からでもひと目で分かった。身長は185cmくらいだろうか。


 ひと言で言い表すなら、『魔王』。まさにそんな感じだった。そんな感想を抱いた私の脳内に、平淡な音声が響く。


『彼はシスネ・ディア・クロメンティールの実父、セヴェリス・ゼス・クロメンティール公爵です。魔族の国であるサリオラ王国の宰相でもあります。なお、貴方は「父上」と呼んでいました』


 …はい。どうやらこの魔王様、今生での私の父親らしかった。ちなみに今の脳内音声は、≪転生者≫の称号を持つ者のみが標準装備しているサポート機能だそうだ。当然、他人には聞こえない。


 魔王様こと父上は、姿見の前で座り込んでいる私を見て、驚いたような顔をした。


「シスネ、どうしてそんな所にいるんだ?」


 そう言いながら私の近くまで歩いてきた父上が、私を抱き上げて左腕に乗せるようにして抱え直す。


 ち、近いよイケメンの顔が!私、前世ではとことん男性に縁が無かったんだからいきなりの至近距離は困る!しかも声まで格好良いし…低くて艶やかな声とか…我が父親ながら恐ろしい。


 え、なんで男性に縁が無かったかって?それはまあ、小中高と通っていたのが共学校だったにも関わらず、数多の女の子達からモテまくっていたせいだ。私のファンを自称する女の子達に囲まれる→その女の子達のことを好きな男の子達から嫌がらせを受ける→私の周囲の女の子達が嫌がらせをしてきた男の子達に報復しようとするのを私が宥める→「紫苑さまお優しい!」とか言ってさらに周囲の女の子達が増える→嫉妬した男の子達に嫌がらせを受けるor遠巻きにされる…無限ループ。うう、説明してて悲しくなってきた。


 まあ、女の子達が一途に私を慕ってくれる姿はとても可愛くて、"恋に恋してる"お年頃な彼女達の『王子様』ポジションというのは役得ではあったけれど。


 ちなみにこれ、ピアニストとして活動し始めてからもずっと続いていた。公式ファンクラブの男女比は1対9で、この稀少な1割の男性は心が女性な方々だったらしい。つまり事実上、私の周囲は女性しかいなかったのだ。


 それなのに、転生してすぐにこんな美丈夫(※実父)に抱っこされるなんて…心の準備が出来てないよ!


「どうした…?」

「ちちうえ、えっと、その…あるくれんしゅうを、していたのです。でも、つかれてしまって…」


 挙動不審な私の顔を覗き込んできた父上に、なんとか言葉を返す。すると父上は途端に心配そうな顔になって、空いている右手で私の頬をそっと撫でてきた。


「まだ無理してはいけないよ、シスネ。ようやっと熱が下がって目覚めたばかりなのだから」

「はい、わかりました」


 …きっと、元々の「シスネ」の魂は、高熱でおさらばしてしまったのだ。そこに、神様から転生させてもらった「黒宮紫苑」の魂が入った。あとたぶん、私の魂が入った時にこの身体はチート能力を得たのだと思う。そうじゃなかったら、そもそも高熱で死にかけたりはしないだろう。


 そんなことをつらつらと考えている内に、父上は私をベッドに下ろして布団を掛けてくれた。ぽんぽん、と優しく胸の辺りを撫でられていると、すぐに眠気がやってくる。


「おやしゅみなしゃい…」

「ああ、おやすみ」


 怪しい呂律でなんとか挨拶をした直後、私の意識は眠りに落ちていった。






 それから、何時間経ったのだろうか。次に目覚めた時、近くで静かな話し声が聞こえていた。


 ひとつは、先ほど聞いた父上の声だ。そしてもうひとつは、澄んだ女性の声。これはもしや…


『この声は、シスネの実母であるアルカエリス・エル・クロメンティール公爵夫人のものです。彼女はサリオラ王国魔術師団第1師団師団長でもあります。なお、貴方は「母上」と呼んでいました』


 やはり母上か。おそらく私は母上に似ていると思うのだけど、いったいどんな人なのだろうか?ちょっとドキドキしつつそっと瞼を上げて、声の方を見やる。そして、ベッド脇の椅子に座っていた女性を目にした途端、おお、と内心で歓声を上げてしまった。


 年の頃は20歳前後くらい。私と同じ白銀の真っ直ぐな髪を腰下辺りまで伸ばしており、前髪はワンレン。瞳も私と同じ蒼色で、その目元は涼やかだ。透きとおるような白い肌と薄く色づいた形の良い唇のコントラストが美しい。もちろん、顔立ちもとても美しくて、華奢な身体や纏う儚げな雰囲気とも相まって、お伽話の妖精や精霊を彷彿とさせる容姿だと思った。


 母上と、彼女の隣に寄せられたもうひとつの椅子に座っている父上は、ただ並んで座っているだけでとても絵になっていた。その光景を半ば呆然と見上げていたら、母上と目が合った。


 母上が、にっこりと微笑んで私の髪を優しく撫でる。


「おはよう、シスネ」

「おはようごじゃ…ございます」

「ふふ、可愛いわね。さすがセヴェリスと私の子だわ。聡明そうな瞳なんか、セヴェリスにそっくりよ」

「そうだな。顔立ちはアルカに似て美しいし…将来が楽しみだな」


 …もしや、父上と母上は子煩悩なのだろうか。二人の外見的には冷徹な魔王様と儚げな精霊、みたいな感じで、親バカ的なものとは無縁っぽいのだけど…まあ、大切にしてもらえるのならそれに越したことはないか。この件はあまり気にしないようにしよう。


 その後。私は着替えたあと、再び父上に抱き上げられて両親と共に自室を出た。向かうは食堂で、どうやらこれから朝食とのことだった。


 だが朝食の席で、私は前世とのカルチャーショックをがっつり受けた。というのも、食卓に並べられたガラス製の小ぶりな器に盛られていたのが、どう見ても食用ではない色鮮やかな花々だったのだ。それ以外にあるものと言えば、綺麗に切り分けられて皿に盛られた数種類のフルーツと、飲み物くらい。


 え、もしかしてこれが朝食なの!?


『魔族の主な栄養源はマナです。植物、特に花びらや実の部分にはマナが多く含まれており、基本的に魔族は日に1食しか食事を摂りません。なおヒト族や獣人族などが摂取する肉や魚などの食物については、食べることはできますが栄養にはならないために嗜好品として扱われています』


 そ、そうなんだ。つまり私達魔族は草食、というかマナ食なのね。


 そんな感じで驚きつつ私も席に着いたところで、食事が始まる。


 というか、この花はどうやって食べるのだろうか。ふと疑問に思って、父上と母上の食べ方を参考にしようと二人にちらっと視線を向けると…彼らは片手に1輪の花を載せて、もう片方の手で1枚ずつ花びらを千切って口に入れていた。その仕草はゆったりとしていて優雅だ。いや、ほんとファンタジーだな、この光景。


 そんな両親に倣って、私も自分の器に盛られた花を1輪手に取り、花びらを1枚千切って恐る恐る口に入れてみる。苦かったりするのかな、なんて思っていたけれど、舌に触れた花びらは予想外に甘くて、しかも舌の上であっという間に溶けて液体になってしまった。その液体を飲み込むと、ふわりとした仄かな熱が身体中に行き渡るのが感じられた。


 なんというか、うん。とても心地好い、この感じ。そんな感覚をじっくりと味わっていたら、結果的に私も両親と同じようにゆったりと優雅に食事をしていた。




 さて、朝食にすっかり満足したあと、両親は仕事のために出掛けて行った。二人とも、行先はお城である。宰相と魔術師団長、という重要ポストにいる両親を見送ってから、私は私で本日の予定を消化すべく動き出した。


 朝食後、執事のクレインから教えてもらった今日の予定は、午前中が文字の読み書きや計算などの座学、休憩を挟んで午後から30分だけ魔法の訓練をして、お昼寝。その後にこれまた30分だけ武術の訓練をして終わり、というものだった。お昼寝がしっかり予定に組み込まれているのは、私が3歳児だからだろう。


 これらの予定をしっかり消化できれば夕方からは自由時間なので、私はそれを趣味の時間に充てようと考えていた。


 と、いうのも。この世界にも、前世で私が趣味兼仕事で触れていたピアノという楽器が存在するのである。クロメンティール公爵家のお屋敷には音楽室があって、そこにグランドピアノが置いてあるらしい。両親から聞いたところによると、執事のクレインは高レベルの調律スキルを所持しているとのことで、お屋敷のピアノの調律は彼が行っているとのことだった。


「では、シスネ様。さっそく文字の読み書きから参りましょうか」

「はい、よろしくおねがいします!」


 図書室にて。入口から入ってすぐ隣にあるテーブルに着いたところで、勉強の時間が始まった。とは言っても、此方の世界で目覚めた時点で文字の読み書きについては何故か脳内に記憶されていたので、すでに完璧だったりする。


 案の定、教材として与えられた本をすらすらと音読したことで、クレインはかなり驚いていた。だが流石プロというか何というか、彼はすぐに冷静になると読み書きの授業を切り上げて、計算の授業に移った。


 まあこれも、数字や計算方法とかが地球と全く同じだったので、さらっと流せてしまったのだが。


「シスネ様、いつの間にここまでお勉強なさったのですか?」

「んーと、ないしょ!」


 実は中身は25歳女子です、とは言えない私はそうはぐらかして、にっこりと微笑んでみせた。するとクレインも、端正な顔に優しげな微笑みを浮かべて「シスネ様はご立派ですね」、なんて褒めてくれた。


 ちなみにこのクレインという人物は、軽く後ろに撫でつけた白金色の髪と鮮やかな紅い瞳を持つ魔族の男性である。年の頃は20代半ば程と若そうだが、実年齢は3500歳くらいらしい。


 はい、もう一度言います。3500歳くらい、です。


 この世界『セプティマ』に存在する7つの種族は、それぞれ平均寿命が違う。まとめると以下の通りとなる。


 ヒト族・獣人族…平均100歳

 竜人族・人魚族…平均500歳

 エルフ族・ドワーフ族…平均1000歳

 魔族…平均5000歳


 …見てわかる通り、魔族の平均寿命は圧倒的に長い。それぞれ20代程に見えた両親も、父・セヴェリスは4000歳くらい、母・アルカエリスは3700歳くらいと、途方もない歳月を生きていた。


 だが、この世界の生命体は寿命が短いほど繁殖力が高く、寿命が長いほど繁殖力が低くなっているので、世界の総人口のバランスが崩れることはほとんどないらしい。


 なお総人口の比率は、ヒト族・獣人族50%、竜人族・人魚族30%、エルフ族・ドワーフ族15%、魔族5%、となっている。そして人口比率が少ない種族ほど自国から出ることが少ない。だが決して排他的であるとかそういったことはなく、種族差別などはないとのことだった。


 クレインにそんな話を聞かせてもらいながら、さらにこの世界についての理解を深めるべく色々と話を聞いてゆく。


 7つの種族それぞれが国家を形成している。過去には領地を巡る大規模な戦争があったものの、現在は和平の条約を結んでおり、ここ3000年ほどは戦争は起きていない。各国の国境沿いには貿易のための街が複数存在しており、一番大きな大陸の中心部には多種族からなる巨大な中立都市『イーリスラルヴァ』がある。


 ちなみに、各種族の国名は以下の通りとなっている。


 ヒト族…キサンドリア王国

 獣人族…エピカ王国

 竜人族…アナセマ王国

 人魚族…ルナティカ王国

 エルフ族…トリスタニア王国

 ドワーフ族…エントワイン王国

 魔族…サリオラ王国


 そしてここからが、この世界『セプティマ』に生きる者達にとっての"要"。


 それは、3000年前の和平条約締結の際に確立された『導師』システムである。


 『導師』とは、7つの種族、そのそれぞれに1人だけ存在する「特別な者」に与えられる称号である。よって『導師』は世界に7人しか存在しない。


 その選定基準は種族によって違うが、『導師』には「世界を平穏に保つ」という役割が与えられており、"調停役"とも呼ばれる。有事の際や、どこかの『導師』が代替わりした際などに7人で集まって会議を開くことになっており、この会議は中立都市で行われる。


 そして何より重要なのが、『導師』の会議で議決された事は、各国の王ですら覆すことはできないという事だ。これにより、大規模な戦争になりうる案件はその火種が生まれた時点で『導師』達によって掻き消され、結果として和平条約締結から現在までの3000年もの間、『セプティマ』では戦争が起きていないのだ。


 なお、魔族の国であるサリオラ王国の現在の『導師』は、なんと我が父上である。前述の通り魔族は長命なので、父上は2代目の『導師』だそうだ。


 ここまで教えてもらったところで、少し、というかだいぶ早いが本日の座学の授業はお終いとなった。理由を聞くと、「詰め込み過ぎるのは良くありませんから」、という言葉が返ってきた。


 思わぬ自由時間が出来たので、夕方以降に予定していた趣味の時間を繰り上げることにして、私はクレインに案内してもらって音楽室へと向かった。


 「シスネ」となってからは初めて音楽に触れるので、どうしても浮き立つ心が抑えきれない。しかし、軽やかな内心とは裏腹に足取りは重かった…物理的に。


「ねえクレイン。わたしのふくは、どうしてこんなにおもたいローブなの?」


 目覚めた当初に着ていたローブ――なんとあれが寝間着だった――もそうだが、現在着ているローブもまた、丈が長く重たい、非常に身動きが取りづらいものだった。しかも昨夜は気づかなかったが、ローブに施されている精緻な刺繍は、それを介して何らかの魔法を掛けるためのものらしく。おそらくこの刺繍に使われている糸も何か特別なもので、ローブの重量加算に加担しているだろうことは容易に予測できた。


「シスネ様のお召し物には全て、魔法糸を使った刺繍によって増強された付与魔法が掛けられています。型がローブなのは、刺繍を多く入れるのに最も適しているからですね」

「まぞくのこどもがこれをきるのは、ふつうのことなの?」

「…いいえ。魔法糸自体が特殊な製法で作成されるものですから、それを用いて作られたローブは大変稀少かつ高価なもので…通常は、王家の方々が式典の時などにお召しになるようなものです」


 クレインに詳しく話を聞いてみると、私に与えられているローブは、高位の魔術師である母上がひと針ひと針魔力を込めつつ刺繍して作り上げたものなのだとか。というのも、「シスネ」は生まれた時から身体が弱く、しょっちゅう体調を崩しては寝込んでいたらしい(これはサポート機能に聞いた)。それを心配した両親が取った対策が、≪生命力強化≫や≪体力回復≫などの魔法を付与したローブを常に着用させることだったのだという。


 まあそれでも、「シスネ」の魂が離れてしまうような高熱は抑え込めなかったのだけど。そのことは、神様と私しか知らないことだし、今後誰にも言うつもりは無い。そんなことは両親だって想定外だろうし、なにより私には、彼らの愛情にケチをつけるつもりは毛頭無いのだから。


「シスネ様のお召し物は、旦那様や奥様のお心そのものなのです。ですのでシスネ様におかれましては、通常の価値などお気になさらず健やかにお過ごしください」


 そう優しく微笑まれて、私は「わかった」、と深く頷いた。


 …それはそれとして。


「でもおもたいのはじじつだから、てをひいてくれる?このままだと、おんがくしつにたどりつけないとおもうの」


 主に基礎体力とかの関係で、音楽室に入る前に力尽きる自信がある。そんな思いが顔に出ていたのか、一瞬だけきょとん、とした表情をみせたクレインは、すぐに恭しく私の左手を取ると、「かしこまりました」、と私の手を引いて歩き出した。




 お屋敷の端に位置する音楽室の前に着き、防音のためなのだろう重厚な扉をクレインがゆっくりと押し開く。待ち切れなくて扉の隙間から中へと身を滑り込ませた私は、目の前に広がる光景に歓声を上げた。


 音楽室の内観は、簡単に言い表すと『教会』だった。全体的に石造りで、天井は高く吹き抜けている。高い位置にある縦長の窓は全てステンドグラスのようで、色鮮やかなガラスを通して陽の光が柔らかく屋内に降り注いでいた。


 入口の扉から真っ直ぐに伸びる通路にはダークレッドのカーペットが敷かれており、通路の両側には木製だが重厚感のあるベンチが整然と並んでいる。そして通路の終わり、つまり入口の対面には一段高くなっているエリアがあってそこにもカーペットが敷かれており、教会ならば祭壇があるだろうその場所には、黒いグランドピアノが設置されていた。


「ふわあ…ピアノだぁ…」


 呆けたような声が口から零れる。そんな私の手を引いて、クレインはピアノの傍まで連れて行ってくれた。それどころか、ピアノの前に置かれていた紅いビロードが張られた椅子に私を座らせてくれたので、思わず「いいの?」とクレインの顔を見上げてしまった。そんな私に微笑みを返した彼は、丁寧な手付きでピアノの鍵盤に掛けられていた布を取り去ると、いつもよりも3割増しくらい柔らかい声で言った。


「シスネ様。繊細な楽器ですので、どうか優しく触れてくださいね?」

「…うん、わかった」


 きっと、クレインにとってこのピアノは大切なものなのだろう。この様子では、ただ命じられているから調律をしている、というのではなさそうだ。そんなことを考えつつ軽く手指の体操をした私は、両手をそっと鍵盤の上に載せた。


 そして、音を確かめるように、1音ずつゆっくりと音を鳴らしていく。…うん、地球のものと全く変わりないな。あとクレインは本当に腕の良い調律師のようだ。音に歪みが無い。


 さて、何を弾こうかな。手が小さいから難易度の高い曲は無理だし、そもそもこの身体は初めてピアノを触ったのだから、たぶん指もスムーズに動かないだろう。となると、うーん…。


 …まあ、今日は何も考えないで、好きな曲を弾こう。もちろん、難易度はがっつり下げるけどね。そう決めて、さっそく私は指を鍵盤に滑らせた。






*






~第三者視点~



 先ほどまでひとつずつピアノの音を確かめていたシスネが、すっと背筋を伸ばす。途端、彼の纏う雰囲気がガラリと変わったことに、クレインは思わず息を呑んだ。


 まだ3歳の幼児でしかないはずのシスネ。だがピアノに向き合う彼の眼は、静かに凪いでいるようなのに真剣で。そんな姿にまず驚いていたのに、彼が鍵盤に載せた手を動かし始めた時にクレインはさらに驚いた。


 本日初めてピアノに触れたとは思えないほどに、自然に奏でられる音。たどたどしさなど一切無いその動きは美しく、洗練されていた。


 きっと、シスネが奏でている曲は、音の重なりも少なく簡単な部類の曲なのだろう。それはクレインにも分かる。だがそれでも、クレインはピアノを奏でるシスネの姿から目が離せないでいた。


 実際のところ、シスネは手指の小ささから簡単な曲を選んでいるだけであって、彼の持ちうる技巧は損なわれてはいなかった。つまりは、『世界的に有名なピアニスト』の黒宮紫苑であった時と基本的には同じなのだ。


 どうして年若い彼女がそこまで有名になったのかと言うと、ひと言で言えばその身に宿していた天賦の才と、弛まぬ努力があったからだ。ただし、この場合の天賦の才は『100年にひとり現れるかどうか』という類の才能であり、これによって紫苑は他の追随を許さぬような天才ピアニストとなった。


 彼女自身は「運が良かったなー」、くらいにしか考えていなかったが。


 ともかく、そんな紫苑…シスネが、手指の小ささ以外になんの制約も無く自由に曲を奏でている今。傍に立ち尽くしたまま音色に聴き入っていたクレインはもちろん、音楽室から漏れ出た小さな音色に惹きつけられてやって来た他の使用人達も、みな一様にシスネの奏でる音色に陶然と聴き惚れていた。


 やがて、曲が終盤へと移行していって、最後の1音が儚げに響き渡る。その余韻をゆったりと楽しんだあと、シスネはふ、と表情を弛めた。それだけで、彼が纏っていた神秘的な空気が霧散する。


 だがその直後に呟かれたシスネの言葉に、クレインは己の耳を疑った。


「うーん。やっぱりてがちいさいと、おもうままに、ってわけにはいかないか…」


 こればっかりはしかたないよね、なんて舌っ足らずに言い放ったシスネは、そこでようやく、自分とクレイン以外の者達が室内にいることに気がついた。だがそれについてクレインや使用人達が何か言う前に、頬を真っ赤に染めてあわあわと言葉を紡ぐ。


「も、もしかしていまのきいてたの!?うわぁ、はずかしいっ!!」

「…恐れながらシスネ様。いまお聞かせいただいた演奏で、どこが『恥ずかしい』のか皆目見当もつかないのですが?」

「うう…だって、いまのはちょっとためしにひいてみただけだもの。はずかしいにきまってるでしょう?」


 その発言に、ざわり、と使用人達が動揺を露わにする。そこかしこで、「今のがお試し?」、「嘘だろう?」、なんて囁きが聞こえてきたが、そんな彼らをクレインは柏手ひとつでさっさとこの場から退散させた。


 それから、未だに羞恥に真っ赤になりながら小さな頭を抱えているシスネを優しげな瞳で見やると、彼にお昼の休憩を申し出たのだった。






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