激震 (4)
国外への使者は、国境を越える前に、慣例として祖の祭りを行う。祖とは、道の神の名である。荊軻の一行が、祖の祭りを行ったのは、薊城から南西に二、三日といったところの易水という河のほとりであった。
荊軻を正式な使者として任命する拝送の儀は、すでに薊城で執り行われている。形式的には、そこで、燕王喜から、督亢の地図と樊於期の首が、荊軻に預けられている。それゆえ、燕王喜以下の重臣たちは、易水のほとりまでは来ていない。おかげで、祖祭に参列する者を、今回の計画を知る、荊軻に近しい者に限ることができた。荊軻にとっては、計画の漏洩を気にすることなく、別れを惜しむことができて有難いことだった。
その日の空は、紗の幕がかかったようで、白っぽい太陽の光には力が無かった。易水の両岸には、広大な平原がひろがっている。遙か西には、山並みが果てしなく連なっているのが見える。近づけば、さぞや巍巍たる山の連なりであろう。しかし、その山々もあまりに遠く、周囲をさえぎるものとて何もない。時おり冷たい風が強く吹き付けて衣服をばたばたとはためかせ、体の熱を奪っていく。
荊軻の一行は、易水のほとりに土を盛り、祖祭のための壇を作った。その壇の上に立てた茅が、道の神を降ろす依り代となる。それらの準備が整うと、随行してきた楽士たちが、道の神を招く楽を奏ではじめた。
全ての祭りは、神を降ろさなければ始まらない。そして、楽と歌こそが、神を降ろす手段だった。しかし、大河のほとりの平原では、わずかな人数が奏でる楽の音も歌の声も、風に吹き千切られていく。
―― この楽は、神に届くのだろうか。
荊軻は、普段なら決して考えないような詮無いことを、つい考えてしまっていた。
今日、この場に臨んだ者たちは、皆、白の冠と装束、つまりは喪服を身に付けている。厳寒に向かう時期に、遠い秦を目指す旅の困難さを思う。無事に秦の都咸陽にたどり着けたとしても、そこから秦王との謁見に漕ぎ付ける困難さを思う。正使であるとはいえ、燕と秦の国力に絶望的な差がある今、門前払いされても不思議ではない。それなのに、秦王の間近まで行き、事を遂げようというのだ。喪服は、その困難に立ち向かう決意の表れだった。しかし、同時に、理屈ぬきで神に縋る思いも、抑えがたく湧いてくる。
―― 楽よ歌よ、天に届け。道の神よ、この壇に降り給え。
荊軻は、そう願わずにはいられなかった。
楽が終わると、司祭が祭文を読み上げる。祖の神を讃え、旅の安全を祈願する内容だった。取り立てて変わりばえのない、型どおりの祭文である。それでも、荊軻の心には切に迫るものがあった。太子も鞠武も高漸離も同じ気持ちなのだろう。秦舞陽でさえ、神妙な面持ちだった。形から見れば、王宮での拝送の儀の方が、圧倒的に厳かであった。しかし、この質素な祭りに臨んだ人々の内なる祈りは、熱く真摯だった。
祭文を読み終えると、次には、土壇を山に見立てて、その上を車で轢いて通る。これは、峻険な山々を車が易く越えていくという形を先取りして実現することで、現実の道行きを安全ならしめようとする呪法である。
その次は、犠牲の羊を、これも車で轢く。犬を使う場合もある。犠牲の血には、霊力が宿っていると信じられている。祭器を新しく鋳造したとき、犠牲の血で清めるように、道中の災いを血の霊力で祓うための儀式である。
荊軻たちは、一つ一つの所作に祈りを込めて祖の祭りを終えると、最後に別れを惜しむための饗応へと移った。随行の者たちを遠ざけた、事を知る者だけによる別離の宴だった。薊城から遠い易水のほとりであったから、粗菜と酒のみの、質素な饗応である。言葉少なく沈みがちの宴に、高漸離は筑を打った。聞き慣れた美しい調べが響く。皆の心の裡に感応するのか、筑は、物悲しい調べを紡ぎだす。
―― ああ、この筑を聞けるのも、これが最後か。
これまで、前途の困難を思っていた荊軻に、別離の寂しさが押し寄せてきた。
―― 高殿、何故、そのように悲しい曲を奏でるのか。
荊軻は知らぬ間に泣いていた。そして宴に集う者たちを眺めた。
―― ああ、皆が無事であるように……。燕が無事に立ち行くようにしてやりたいものだ。
胸の奥から、急にその思いが湧き上がってきた。あらためて太子を見やると、太子も目を真っ赤にしていた。
―― 本当に俺は、太子様を弟のように思っていたのだな。だからこそ、罪人とはいえ、人の命を軽んじたことに腹が立ったのだ。そうだったのだな。
数日前の、あのわだかまりが、筑の音に慰撫されて嘘のように溶けて行く。これで、さっぱりとした気持ちで命を捨てることができる。節義に生きる侠者として、何よりも有難いことだった。
―― 高殿の筑が、また俺を救ってくれたなあ。
この三年、己を慰めてくれた筑の音に、あらためて感謝の想いをかみしめた。
高漸離が曲を終えたとき、その場に居る者は皆、頬を涙で濡らし、目を真っ赤にしていた。荊軻は、この得難い友に、一言言葉をかけたかった。しかし、何も出てこない。思いを何一つ言葉にすることが出来ない。荊軻は、思わず高漸離の手を取った。その手には、筑を打つための固いたこが出来ていた。
―― まさしく、筑一筋に生きてきた男の手だ。
荊軻は、その手を通して、高漸離という男の生きてきた人生を感じた。
―― 剣と侠に生きた俺の人生は、伝わっただろうか。それは解らぬ。しかし、田光先生と高殿。二人の友を得て、何を惜しむことがあろう。太子の期待を受け、燕の行く末を担って、何の惜しむべき命があろうか。士は己を知る者のために死すというが、己が知る者のために死するも、また良し。
荊軻の心は奮い立った。高漸離の手を離すと、胸を張って天を仰ぐ。歌が、荊軻の口を衝いて出た。
「風蕭蕭として易水寒く
壮士ひとたび去って復た還らず」
烈しい歌だった。高漸離が、その歌を小さく繰り返した。その目から、また涙がこぼれる。高漸離は、筑を打ち始めた。激しさの中にも哀しみを湛えた調べだった。
荊軻は、高漸離の伴奏を得て、再び歌った。
「風蕭蕭として――」
荊軻の声が、筑の音に乗って朗々と響き渡る。
「易水寒く――」
太子が、鞠武が、秦舞陽が、そこにいる男たちが、次々と和して歌いだした。
「壮士ひとたびさって
復た還らず」
涙は、後から後から溢れ出る。
「風蕭蕭として易水寒く
壮士ひとたび去って復た還らず」
男たちの歌は三度繰り返された。その悲壮な歌声は、筑の音をまとって響き、易水を渡る風に吹き上げられ、天へと登っていった。