激震 (3)
「近々秦に行くことになったよ」
荊軻は、高漸離の杯に酒を満たしながら、ぽつりと言った。
灯火がゆらりと揺れると、壁に映る影も揺れた。荊軻の広い自室の隅や家具の脇には、灯火では払いきれぬ闇がわだかまっていた。
「急な話ですね。やはり国境に駐屯している秦軍の問題なのでしょうね」
「うむ」
高漸離の問いかけに、荊軻は頷いた。
「趙が滅ぼされてからは、明日は我が身でしょう。もし、この薊城が囲まれたらと思うと、私も生きた心地がしませんよ。無事に和睦が成ってくれれば良いのですが……。正使はどなたなのですか」
「正使は、俺だよ」
「……。荊卿がですか」
高漸離は、口元に運びかけていた杯を思わず止めた。
「上卿といっても、荊卿は新参の臣でしょう。この時期、秦への使者などという重要な役目は、生え抜きの重臣がやるのだと思っていたのですが……」
驚く高漸離を、荊軻は居住まいを正して、正面から見据えた。
「俺は、このときのために上卿になったんだ」
荊軻の言葉に、高漸離の表情がふと曇った。
「高殿も、俺がいきなり上卿に取り立てられて、不審に思っただろう」
「それは、まあ、そうです。こう言っては失礼ですが、一介の侠者がいきなり上卿なんて、普通ではあり得ませんから」
「秦は、強大になりすぎたんだ。一時の和平に意味は無い。燕は、いずれ滅ぼされるだろう。燕を救うには、誰かが刺客になって、秦王の野望を止めるしかないんだ。このことを、太子様が田光先生に相談され、先生は俺に託された。今、天の時が来たゆえ、先生との誓約を果たす。今日まで、高殿にも黙っていてすまなかった。それに、今日まで訊ねずにいてくれて有難かった。礼を言う」
荊軻は、深く頭を下げた。
「刺客ですか」
暫し茫然としていた高漸離は呟いた。
「何か事情があるのだろうとは思っていましたが、これ程の計画だったとは思いもよりませんでした」
また沈黙が落ちる。
高漸離は、思い出したように杯を口に運んだ。荊軻には、高漸離が驚きと戸惑いを飲み下そうとしているように見えた。
―― 無理もない。
荊軻も、黙ったまま杯を含む。
高漸離は、少しの間、杯を覗き込んでいたが、顔を上げると訊ねた。
「田光先生がお亡くなりになったことも、当然、関係しているのでしょうね」
「そうだ」
荊軻は頷いた。
「荊卿が、秦へ行こうというのも、田光先生のご意向が大きいのでしょうね」
「そうだ」
「ならば、お止めするわけにもいきませんね」
高漸離は、悲しげに笑った。
「そうだな」
荊軻も、小さく笑った。
二人は、どちらからともなく杯を掲げると、酒を煽った。
高漸離は、杯を干すと、少し心配げに訊ねた。
「太子様からのご依頼という話でしたが、国王陛下は、このことをご承知なのでしょうね」
「実は、陛下はご存知ない」
「なんと」
荊軻の答えに、高漸離は絶句してしまった。
「俺とても、これ程の国の大事を、陛下に内密に進めるのは気が咎める。しかし、陛下に申し上げることはできんのだ」
「それは、何故ですか」
「陛下は、利のために信義を軽んずるお方だ。しかも、その結果、即位以来、利さえ度々失ってこられた。いわば、利を好むがゆえに利を失われる。とうてい、共に事を成せるお方ではない。敢えて黙っておくことが、国のためであり、陛下ご本人の利にも合致するというものだ」
高漸離は溜息をついた。
「確かに、そう言われれば、一言もありません」
二人が、燕王喜をそのように評価するには、それ相応の理由があった。今から三十年ほど前、隣国の趙が秦に長平の戦いで大敗を喫し、大いに国力を弱めたことがあった。そこで趙は、それまで何かといがみ合ってきた燕と和平を結ぶ運びとなり、燕王喜は、栗腹という者を和平の使者として送った。ところが、この栗腹という男は、趙の弱体振りを見て帰ると、
「趙軍の主力は、みな戦死しており、若い新兵ばかりです。今攻めれば、必ず勝てます」
と、燕王喜を焚きつけた。和平の盟約を結んだ直後に攻め込むなど、信義に悖る行為である。当然、反対する重臣もあったが、燕王は、反対を押し切って挙兵した。ところが、趙は、廉頗・楽乗という名将の力によって、燕軍を撃破すると、逆に燕の首都薊城を包囲してしまった。燕は、趙の指名した人物を宰相にするという屈辱的な条件を飲んで、ようやく和平を取り付けることができた。
この時、燕王が趙の弱みに付け込むような事をせず、信義を重んじていれば、燕と趙は連合して秦を押さえることが出来たかもしれない。そうすれば、今の苦境はなかっただろう。欲に目がくらんだ燕王の失策だった。
しかし、燕王はこれで懲りなかった。それから八年後、名将廉頗が趙を出奔するという事件がおこった。その時、劇辛という男が趙から亡命して、燕に来ていた。この男が、
「私に軍をお授けくだされば、廉頗なき趙など、簡単に負かしてみせましょう」
と、燕王をそそのかした。燕王は再び甘言に乗せられて、趙の弱みに付け込む形で兵を挙げた。そして、やはり大敗して、二万人の兵を失った。こうして、秦が漁夫の利を得ることになった。
刺客を送らなければならないほど秦が強大になり、燕が存亡の危機に瀕している原因の、その幾らかは燕王の身から出た錆といえる。目前の欲に負けず、先を見通して趙と盟約を結んでおけば、随分違っていたはずなのだ。そして、その燕王の性質は、今もって改まっていない。こういう事情があったため、高漸離も荊軻の言葉に納得せざるを得なかった。
「さあ、高殿。せっかくの酒だ。陛下の事をあげつらっていてもつまらん。もっと面白い話を肴にして飲もうぞ」
「それも、そうですね」
高漸離は、にこりと笑った。その笑顔が、三年近く胸に支えていたものをすっと流してくれたようで、荊軻は、何やら安堵感のようなものが胸の裡に広がるのを感じた。
その夜、二人は遅くまで酒を酌み交わした。高漸離がようやく荊軻の部屋を出たのは、深夜のことであった。高漸離は、用意された部屋に戻る前に、ひとり庭へ出てみた。冷たい夜気が、酔った頬に心地よい。そこここの暗闇から、庭の樹々がぬっと立ち上がり、枝葉を青白く輝やかせていた。冴えた月が、中天に懸かって光を放っている。高漸離は、月を見上げた。
「生きて帰れるのですか」
荊軻には、ついに言えなかった言葉を呟いていた。
それから、日を置かずに、拝送の儀が燕の宗廟で執り行われた。荊軻と秦舞陽を、正式に使者として送り出す儀式である。
燕は弱小国とはいえ、古い歴史と文化を誇っている。首都の薊城には下水道さえ備えている。その歴代の王を祭る宗廟は、さすがに調度も装飾も重厚で、国家の威厳を感じさせる場所だった。
室内には、楽士達が奏でる、儀式の為の楽が厳かに流れている。そこに朝服で正装した重臣達が居並び、奥には、燕王喜が座していた。たとえ、それが国を傾けた暗愚な王であるとしても、そこにそうして座っているかぎり、その姿は、偉観であった。
―― これこそ、礼楽の力というものだろうな。
荊軻は、燕王の人間性を知っているだけに、それが偉く見えてしまう儀式の威力というものに、妙に感心してしまった。
この儀式において、秦への使者に荊軻と秦舞陽を任命する旨の文書が読み上げられ、督亢の地図と樊於期の首を納めた箱が授けられた。形式上、どちらも燕王から預かって、秦王へ献上するのである。督亢は、確かに燕王が支配する領土だが、樊於期の死は、燕王の与り知らぬこと。樊於期の首は、荊軻自身が用意したものだ。だから、こうした形式も、茶番といってしまえば、そうなのだが、秦王政の前にたどり着くには、絶対に欠くことのできない茶番だった。こうして、荊軻の準備は整った。




