激震 (2)
樊於期の首と秦に割譲する督亢の地図は揃った。秦の軍勢が国境に迫る今の状況は、これらの大きな貢物を差し出しても何ら不自然ではない。三年近くの歳月を経て、いよいよ機は熟したと言える。
ところが、ここにきて荊軻と太子丹との思いのずれが大きくなってきていた。その原因の一つは、今、荊軻の居室の卓上にある。一振りの短剣。それを作った刀工の名を冠して、「徐夫人の匕首」と呼ばれているらしい。太子が持参したものだ。それを見るたびに、荊軻は割り切れぬ思いにとらわれる。
「徐夫人と申しましても、女ではございません。姓が徐、名が夫人。変わった名ですが、隠れた名工です」
太子は、そう言って自慢していた。今回の計画のために、かねてから最高の切れ味の短剣を探して、ようやく百金という大金でこの匕首を手に入れたということだった。柄の長さは、一握り余り。刀身は二握り程であろうか。細身で小振りであったが、精巧な細工が施された見事な短剣だった。切れ味も素晴らしいというので、荊軻は、美しい刀身を想像していた。ところが、太子が鞘を払うと、鈍色の濁った光を反射する刀身が現れた。どことなく禍々しい印象を受ける光だった。工人を使って、刀身に毒を焼き付けさせたのだという。そして、太子は、こう説明した。
「実際、人で試してみましたところ、細糸ほどの血しか流れぬような傷であっても、皆たちどころに死んでしまいました。足下がこれを使えば、必ずや秦王を討ち果たすことができるでしょう」
毒の威力を試すために、人を殺したことを、太子は平然と語ったのだ。ほんの数日前、樊於期の骸に取りすがって泣いた人間とは思えぬ無関心ぶりだった。それが、荊軻には、腹立たしくて仕方がなかった。
荊軻自身、遊侠の徒に過ぎない。道徳を振り回して、太子を非難しようとは思わない。殺された者たちも、恐らく罪人だったのだろう。ならば、車裂きや腰斬にされるよりは、あっけない死は幸運だったとさえ言えるかもしれない。しかし、樊於期の死をあれだけ悲しんだ直後だっただけに、荊軻には、その態度の落差が異様にくっきりと感じられた。
――もし、太子が樊於期をも平然と犠牲にするような人間だったなら、冷徹と言うことで一本筋が通っている。それはそれで納得がいく。むしろ、これほどの腹立ちは覚えなかったかもしれぬ。
荊軻には、そう思われた。徐夫人の匕首は、太子の人格の欠落した部分を見せつけているようで腹立たしかった。
もうひとつ、荊軻には気にくわない事がある。それは、太子が、副使として秦舞陽という男を任命したことだった。秦舞陽は、太子の食客の一人で、勇士として名が通っている。十三歳のときに、既に人を殺したとのもっぱらの噂で、自分でも吹聴しているらしい。その体躯は樊将軍に並ぶほどで、鬚まみれの風貌はいかにも荒々しく、誰もが眼を合わせたくないような、そんな種類の男だった。
荊軻も面識はあるが、実のところ、全く評価していない。腕力は確かに強そうだったが、荊軻に言わせれば、その勇は虚勢、その行は粗暴。共に大事を行うような相手ではなかった。荊軻は、太子がそんな男を、自分に相談も無しに副使に選んだことに腹を立てていた。
たとえ介添えではあっても、秦王への刺客となるには変わりない。それが務まるような人材は、おいそれと見つかるものではない。まず、真の勇気があり、冷静沈着でなければならない。さらに、命を捨ててかかるのだから、迷惑を被るような係累があってはならない。例えば老母を一人で養っているような男には、声を掛けるわけにはいかない。
この条件を満たす男は、荊軻の友人の中にも一人しかいなかった。名を薄索という。荊軻は、この薄索を副使にという心積もりをしていた。ところが、なまじ身軽な境涯であるだけに、この二年あまりの間、どこにいるのかさえ解らなかった。元来、貴顕を嫌う男であったから、或いは上卿に栄達してしまった荊軻を避けていたのかもしれない。事が事だけに、用件を秘密にしたまま、行方を捜さなければならないことが、もどかしかった。
それでも荊軻は、四方の知人を通じて探し続け、この頃ようやくその消息が掴めたところだった。直接会って話をすれば、二つ返事で協力してくれる。そのことは、荊軻は確信していた。だから、一日も早く薄索が燕に来てくれることを願っていた。その矢先の秦舞陽の任命だった。
当然、荊軻は、太子に異を唱えたのだが、何を言うにも肝心の薄索がいない。一日も早い決行を望む太子は、薄索の到着を待つという荊軻の言葉に難色を示した。
―― 何故、秦舞陽の底が見抜けぬのか。何故、副使の人選を俺に任せぬのか。ここまで俺を信じて待ってきたではないか。何故、あと少しが待てぬのか。
一日一日と、何とか出発を引き伸ばす荊軻の胸の内には、苛立ちが募っていく。それは、太子にとっても苛立たしい日々であった。荊軻が出発を一日延ばすごとに、太子の苛立ちも募る。そして疑心暗鬼が太子を苦しめた。
同じころ、太子は自室の中をうろうろと歩きながら考えていた。
――荊卿はどうしたのだ。もう準備は全て整ったではないか。樊将軍さえ犠牲にしておいて。私があれ程反対したにもかかわらず……。なのに未だに出発せぬとは、どういう積もりだ。
突き上げてくる疑いに、いつの間にか足は止まっていた。俯いて頤に右手を添え、なおも考え続ける。
――もしや、今になって怖気付いたのではあるまいな。いやあ、それはあり得るぞ。荊卿は、剣や博打で争いになりそうになると、すぐに居なくなるというではないか。田光先生は、だからこそ神勇の人だと褒めていたが。本当にそうなのだろうか……。いやいや、田光先生が、推挙された人物なんだ。間違いがあろうはずがない。
そう思い直して、また歩き出す。
――田光先生が命を捨てて推挙した人物なのだから、信じて大丈夫なはずだ。今さら怖気付くなんて、あるはずがない……。しかし……。荊卿が勇を振るった所を誰も見たことが無い。荊卿は、本当に勇士なのか。田光先生は、騙されていたのではないか。
太子は、また立ち止まった。
――何やら旧友を待っているなどと申していたが、秦舞陽の何が不服というのだ。秦舞陽は、すぐに出発しても良いと申し出てくれたぞ。荊卿より、よほど勇士らしいではないか。まことに侠者などというものは、扱いにくくてかなわぬ。しかし、一体どうしたものか。早く出発するよう、もう一度荊卿に言ってみるか。しかし、友人がまだ来ぬと言って、また断ってくるかもしれぬ。もし本当に行く気が無いとしたら、とんだ時間の無駄だ。そんなことをしていて、秦軍が攻めてきてら全てはお仕舞いだ。
太子は、牀の上に座りこんだ。
―― 一体どうすれば良いのか。とにかく、荊卿の言いなりに先延ばしにするわけにはいかぬ。かといって荊卿をすぐに出発させることも出来ぬし。
太子は、堂々巡りに疲れて天上を見上げた。その時、ひとつの考えが浮かんだ。
―― そうだ。秦舞陽は、すぐにでも出発すると言っているのだから、先に出発させれば良いではないか。それで秦舞陽が成功すれば良し。万一失敗しても、その時こそ荊卿を説き伏せて、二の矢として送り出せば良いではないか。そうすれば、荊卿も嫌がっている秦舞陽を副使としなくて済むのだから文句はあるまい。どうして、こんな事に気付かなかったのか。よしよし。早速荊卿の所に行って承知させよう。ついでに、本当に怖気付いていないかどうか、この眼で確かめてやることにしよう。
太子は大声で、隣室に控えている近習を呼んだ。
「おい。外出するぞ。馬車の用意をせよ」
慌てて顔を見せた近習は、
「ただいまご用意いたします」
と答えると、すぐに退出していった。急いで知らせに行ったのだろう。廊下を走っていく足音が聞こえる。太子は、ゆっくりと自室を出ると、廊下を歩き出した。
―― 秦舞陽を行かせれば良かったのだ。荊卿の機嫌を気にして、私が神経をすり減らす必要などないのだ。うむうむ。
太子は頷きながら歩いた。何やら急に全てが上手くいくような気がして、自然に歩みも大股になる。秦軍が国境に迫って以来、初めて胸のつかえが取れ、自信が戻ったようだった。
太子の来訪が告げられたとき、荊軻は、未だ割り切れぬ感情を抱えたままだった。しかし、太子を追い返すわけにもいかず、
―― 仕方ない。
という気分で迎えた。部屋に入ってきた太子は妙に上機嫌で、荊軻は、
―― これは、碌な事にならぬな。
と密かに思う。しかし、そのような気持ちは噯気にも出さなかった。
「太子様。今日は、如何なるご用件でございましょう」
太子が座に着くと、荊軻は何事も無いかのように切り出した。
「用件も何も、他ならぬ秦への使者のことです」
荊軻のとぼけた問いかけに、太子も余裕を見せて返した。
「秦軍が国境に迫って、もう随分日が経っております。一日も早く秦王へ使者を送らねば間に合わなくなります。一旦戦が始まってしまえば、使者を送る間も無く、燕国はすり潰されてしまうかもしれません。しかしながら、荊卿には何やらご思案がおありのようですね」
太子の口元に、少し皮肉そうな笑みが浮かぶのを、荊軻は無表情に眺めていた。太子は、軽く咳払いをした。
「そこで、私は考えたのですが、秦舞陽を先に派遣しては如何でしょう。足下がご友人を待っておられる間に、まず、秦舞陽に試みさせるのが上策だと愚考いたします」
荊軻は、かっと眼を見開いた。太子は、びくっと体を震わせながら、それでも何とか言葉を続けようとする。
「今日は、そのことをご承知していただこうと参った――」
「秦舞陽を派遣するとは何事ですか!」
荊軻は、太子の言葉にかぶせるように怒鳴りつけた。太子は、急に冷水をかぶったように驚いてすくみあがっていた。
―― ここで釘を刺しておかねば、下手をすると全てが水の泡だ。
そう見て、荊軻は語気を強めて太子に迫る。
「太子様。秦舞陽など、一人で派遣しても、必ず失敗いたします。間違いございません。一度失敗すれば、二度目はございませんぞ。どれほどの手土産を持って行こうとも、秦王は警戒して、決して使者を近付けなくなるでしょう。機会は一度きりなのです。そのことを肝に銘じてください」
太子は、言葉も無く、ただこくこくと頷くだけだった。
―― これ以上、引き伸ばすのは無理であろうな。次に辛抱できなくなった時は、俺に言わずに秦舞陽を送り出すかもしれぬ。そんなことになるよりは、今出発した方が良かろう。薄索が間に合わぬのは、いかにも残念だが、致し方あるまい。
荊軻は腹をくくった。
「太子様。たった一本の匕首を持って、何が起こるかわからぬ強国秦へ赴くのです。だからこそ私は、確実に目的を遂げられるよう、頼むに足る友を待っていたのです。しかし、太子が遅いと思われるのでしたら仕方ございません。出発いたしましょう。秦舞陽も居らぬよりはましかもしれません。副使として連れて行きましょう」
「ええ、ええ」
太子は、盛んに瞬きをくりかえして答えた。
「荊卿が行ってくださるのなら、これ以上のことはございません。私に異存がございましょうや。是非ともお願いいたします」
太子は、頭を下げた。荊軻は、太子の礼を受けながら、別のことを考えていた。
――まあ、これでようやく高殿に事情を話せるというものだ。高殿に黙っているのは、なかなかに気持ちの悪いことだからな。これだけは有難い。今夜あたり、酒を飲みながら、ゆっくり話をするか。