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燕国の空 (5)

 荊軻けいかが燕国の上卿になって、既に二年が経っていた。

 その間、荊軻の目から見ても、太子丹は良く辛抱している。時に、荊軻に対して物問いたげな表情が覗くことはあったが、それを言葉に出すことはない。田光の死が、太子を黙らせているとも言えた。その代わりに、荊軻への待遇は異常なほどに手厚かった。


 もともと、燕には士を厚く遇する気風がある。今でこそ弱小の国ではあるが、四代前の昭王の時代には、中原に覇を唱える強国だった。昭王は、「先ずかいより始めよ」の言葉で有名な郭隗かくかいの献策により、天下の士を集めて国を栄えさせた。六十年以上経って既に国力は衰えたものの、士を厚く遇する気風は未だに色濃く残っている。


 その燕国にあっても、太子のもてなし様は異常と言えた。荊軻に広壮な屋敷を与えたのは良くあることで、そのことは別段不思議ではないが、太子は、その荊軻の屋敷に三日に一度は訪れ、諸事荊軻の意に適うように取り計らっていた。そこには、田光の死への贖罪の気持ちも大きく働いていたのかもしれなかった。


 しかし、刺客のことは、太子と荊軻、それに鞠武しか知らぬこと。田光の家人にさえ、その死の理由は明かされていない。必然的に、これといった功績も無く上卿に迎えられ、常識はずれの厚遇を受ける荊軻には、非難や好奇の目が向けられるようになっていた。


 とある夏の午後、荊軻の屋敷には筑の音が流れていた。奏でているのは高漸離こうぜんり

 荊軻が上卿となり、この屋敷に住まうようになってから、高漸離は荊軻の食客として出入りしている。とはいえ、荊軻は、刺客の事を高漸離には打ち明けていない。田光が他言せぬと、命を以って証しした事を、例え高漸離であっても洩らすわけにはいかなかった。それに、高漸離は侠者ではなく、あくまで楽士である。


――秦へ旅立つその時まで、刺客などという血腥いことは、徒に知らせぬ方が親切というものだろう。


とも、荊軻は思っていた。


 無論、田光の死と、田光と親しかった荊軻の上卿就任という思いがけない出来事が立て続けに起きたのだから、高漸離とて不審に思わぬわけはなかっただろう。しかし、荊軻が自ら口にせぬことは、高漸離も敢えて聞こうとはしなかった。語らず、聞かず、それも友情だった。


 その日、室内には荊軻と高漸離の二人だけだった。太子から与えられた屋敷だけに、部屋は申し分なく広く、趣味の良い調度品も揃えられている。衝立ひとつとっても、その台座は金銀の象嵌をほどこしたりっぱな物だ。しょうといえば、その上に座ったり寝たりする言わば寝椅子のようなもので、貴族に限らず普通に使われる。しかし、いま荊軻が腰掛けているものは、精緻な彫刻が見事な一品だった。この部屋自体が庭に面していて、そこには大きな池が掘られている。夏の日を過ごすには、実に快適にできている。それで荊軻は、夏の間、ここで時を過ごすことが多かった。


 その部屋で、高漸離が筑を打ち、荊軻は弦の響きに聞き入っている。開け放した窓から風がそよいでくる。水の上を渡ってくる風は涼しい。窓の外は、初夏の光で草木が眩しく、広い室内が少し暗く感じられるほどだ。荊軻には、その暗がりが心地よかった。室内の柔らかな陰翳に、優しく弦が響く。それは、永久に続いて欲しいと願いたくなる時間だった。

 

 上卿とはいえ、荊軻が刺客として雇われたことには違いない。一たび刺客として秦へ発てば、万に一つも命はない。言ってしまえば、最高の待遇を受けている死刑囚のようなものだった。田光が見込んだ侠者であるだけに、荊軻がそれで音を上げるようなことはない。しかし、高漸離の筑が、そんな荊軻を大いに慰めていることも事実だった。もし、高漸離がいなければ、この優雅な囚人生活は、もっと辛いものになっていただろう。荊軻は、いつもそう思い、密かに感謝するのだった。


 やがて曲は終わり、高漸離はそっとばちを置いた。荊軻は、ほっと息をつくと、それまで腰掛けていた牀の上で、ごろりと仰向けになった。

「いつもながら高殿の筑は見事だな」

「ありがとうございます。しかし、荊卿の方は、近ごろ評判が悪いですね」

 高漸離は微笑みながら答えた。

「まあ、それは良くはあるまいよ」

 荊軻は苦笑した。

「最近、荊卿は市場へ行かなくなったでしょう。それで私も足が遠のいていたのですが、先日、久しぶりに行ってみたんですよ。そうしたら、馴染みの連中に、荊卿も偉くなって、市場の安酒なんか不味くて飲めないんだろうって、嫌味を言われてしまいました」

「そりゃあ、ここの酒の方が美味いさ」

 冗談で返した荊軻だった。


 田光の遺志を託された身としては、つまらぬ争い事に巻き込まれて、万一にも怪我をするわけにはいかない。だから外で酒を飲むことは、極力避けていた。普通の遊侠の徒なら、考えすぎだ、臆病だと笑うかもしれない。しかし、荊軻は、それこそが侠者としての節義だと信じている。しかし、刺客の事を知らない高漸離に、それを説明するわけにもいかず、荊軻は冗談にするしかなかった。


 高漸離の方は、そんな荊軻の気持ちを知ってか知らずか、

「その後、荊卿についての噂も教えてもらいましたよ」

と面白そうに言い出した。

「ほう。一体、どんなもんだい」

 荊軻は興味をそそられ、片肘をついて、高漸離の方に向きなおった。

「そうですね。先ず、太子が大事に飼っていた千里馬の肝を食べてしまったというのがありましたよ」

 荊軻は、それを聞くと

「美味かった」

と答えて、にやっと笑った。

「えっ! 本当に食べたんですか」

 てっきり根も葉も無い噂だと思っていたようで、高漸離はびっくりして聞き返した。

「まあな。しかし、俺から喰わせろと言ったわけじゃないよ。太子様と話をしていたら、たまたま千里馬の話になってな。一日に千里も走る馬というのは、肝も並みの馬と違って、もっと美味いのかもしれませんねなんていう他愛も無いことを何気なく言っただけさ。喰わせろなんていう積もりは、全く無かったんだけどなあ。ところが、その日のうちに、太子様からでございますって、千里馬の肝が届けられたんだよ。俺も驚いたんだけど、もう馬も死んでるしな。喰ってやらなけりゃ、せっかく死んだ甲斐が無いだろうってことで喰ったよ」

「喰ったよって……」

 高漸離は、あきれた様子だった。

「いや、千里馬というだけあって、実に美味かった。高殿にも喰わせてやりたかったな」

荊軻は、そう言うと、またにやっと笑った。

「そんな話を聞くと、他の二つの噂も、もしかしたら本当かと思ってしまいますね」

 高漸離は、胡乱そうな目で荊軻を見ながら言った。

「なんだ、他にもあるのかい。是非、教えてくれよ」

「はいはい、わかりました。ええ、何でも、荊卿が、池の亀だかなんだかに石を投げて遊んでいたら、太子が黄金のつぶてを盆一杯に盛ってきて、これをお使い下さいと仰ったそうで。それで、荊卿が鷹揚に受け取って、一頻り亀に投げつけて遊んだそうです。それで、やめるときには、太子様のために金を惜しむんじゃない。肘が痛むのでやめるんだと言ったそうですよ」

 高漸離が、わざと真剣そうな表情で言うもので、可笑しくなってしまった荊軻は

「言ったそうですよって、本人の俺に言われてもなあ」

と、吹き出した。

「貴族の間では、小鳥や小動物に礫をぶつけて狩る遊びがあるんだが、裕福な者は、純金の礫を使うらしい。それを金玉きんぎょくと言うそうだ。多分、そんな話がもとになっているんだろうな」

「ということは、この噂は、本当ではないんですね」

「ああ、そりゃあ、嘘だ」

荊軻は、笑いながら答えた。

「しかし、金玉ですか。貴族は、変な凝り方をしますね」

「そうだな。それで、もう一つの噂というのは」

「これが極め付きですよ。ある日、華陽台で太子様が宴席を設けられて。……華陽台って具体的に場所まで決まってるのがもっともらしいでしょ」

高漸離は、そう言ってくすくす笑う。

「その華陽台での宴席に、荊卿も居たのです。……本人に向かって、居たのですと言うのも変な話ですがね」

高漸離は、また笑い出してしまった。

「おいおい、可笑しいのはわかるが、早く先を教えてくれよ」

 荊軻も、つられて苦笑しながら催促した。

「はいはい。それで、太子様が、その宴席にことの上手な美人を侍らせましたところ、荊卿が大変気に入りまして、美しい奏者だと褒めたそうです。そこで、太子様が、側使いにお宅へお連れになったら如何いかがですかと勧めました。ところが荊卿は、いやいや、箏を奏でる手が美しいと褒めたのですと答えました。すると、太子様は即座に、その美女の手を切り落として、玉の盆に載せて荊卿に奉ったというのです。どうです。お心当たりがおありですか」

と高漸離はからかった。

「お心当たりって、手首なんかもらってどうするんだ。飾っておくわけにもいくまいし。無茶苦茶な話だな」

「そうは言っても、荊卿を知らない人が、こんな話を聞くと、何となく信じてしまうんですよね。酒も入っていますしね。それで、荊軻って野郎は、怪しからん奴だっていうことになって、荊卿の評判は、ますます悪くなるというわけです」

「まあ、そうかもなあ。しかし、美食に浪費に美人に流血か。庶民が面白がりそうな話が綺麗に揃ったもんだ。本当に噂ってのは不思議だな。誰か作者が居るんじゃないかと疑いたくなるくらい良く出来ているな」

荊軻は、感心してしまった。それと同時に、


――俺が市場に行けば、遊侠気取りの軽薄な輩が、佞臣を懲らしめてやるとかなんとかで喧嘩を売ってくるだろうな。大事を控えた身だ。ますます、市場に近寄れなくなったなあ。


とも思った。本来、そういう場所が好きなだけに残念だったが、仕方のないことでもあった。


 一方、高漸離の方は、急に真面目な顔になると

「手首の噂は、明らかに行き過ぎと解るとしても、……」

と、少し言いよどんだ。

「そういう類の噂話が、何となく信憑性を帯びてしまうというのは、何も荊卿ばかりの責任ではなくて、太子様にも原因があるのではないですか。あの太子様なら、それくらいやりかねないというような。何となく、そんな感じがするんですよね。皆もそうなんじゃないかなあ」

「ああ、それはそうかもしれんな」

 荊軻の同意に勇気を得たように、高漸離は続けた。

「太子様は、決して暗愚ではないとは思うんです。だけど、何か複雑な感じのするお方ですね」

 荊軻は、再び仰向けになった。天井には、池に反射した陽光が差し込んで、ゆらゆらと映っていた。

 荊軻は、天井に映る光を眺めながら

「太子様は、心が幼いんだ」

と、ぽつりとつぶやいた。

「心が幼いとは、どういう事なんでしょう」

「うむ。俺がこの二年、太子様と共に過ごして感じたことなんだが……。高殿も燕人だ。燕国の開祖が周王朝創建の功臣だとか、昭王の時代に栄えたとか、そういうことを誇りに思うだろう」

「それは、そうですね」

 高漸離は頷く。

「ましてや、太子様は直系の子孫で、王位を継ぐ太子なんだ。周りの大人たちも、そういう人として育てただろう。当然、太子様の矜持は、高殿の比じゃなかったと思う。燕は素晴らしい国だ。自分は、その燕国の太子だとね。それが、ちょう質子ちしとして送られた途端、弱小国からきた人質扱いだ。そういうのは、世間の悪意の恰好の的だからなあ。太子様の矜持は、いたく傷付いたと思うよ。それまで、偉大な王のご子孫ございますと教育されて育っていたのが、急に弱小国の人質として蔑まれるんだから、子供にとっては訳がわからず混乱して当然だな。それで、太子様は、傷付けられた矜持を必死に守ろうとしたんだと思う。それはそれで、健気な話だが、そういう心の癖というものは、一旦付いてしまうと、大人になっても改まらんようでな。結局、太子様は、子供の頃の傷付いた矜持を、今も抱え込んだまま必死に守っているんだと思う」

「なるほどね。そう考えると、太子様が秦から逃亡されたのも頷けますね。秦王の侮辱から矜持を守るには、逃げるしかなかったのですね」

 高漸離は、そう言って嘆息した。

「そうだと思う。樊於期将軍を匿っていることにしても、秦王に追われて天下に居場所の無い将軍が自分を頼ってきたという、そのことが太子様の矜持をくすぐるのだろうな。侠者が、理屈を超えて命を託しあうのとは、少し違うようだ」

「どんな環境であろうと、どう育つかは、結局、本人の責任でしかないかもしれませんが、太子様の場合は、いささか同情してしまいますよ」

 楽士らしく情緒的なことを言う高漸離に、荊軻は相槌を打つ。

「ああ、まあそうだな。普通、子供は親の庇護の下でゆっくり世間に慣れるもんだ。貧しくて親が無い子供も大勢いるが、それでも太子のように、持ち上げられたり落とされたりの落差は経験しないからな」


 そのまま、二人は、なんとなく黙り込んでしまった。高漸離は、目の前の卓に置いた筑をなで、荊軻は、寝転んだまま、天井に映る光を眺めていた。ややあって、荊軻は口を開いた。

「王族の矜持と質子だった逆境が、上手く作用していれば、ひとかどの人物になれたと思うんだが。太子様の場合、両方が裏目に出たようだ。それが、本人のためにも国のためにも惜しまれる。でもな、俺の世話なんかは一所懸命にやってくれて、誠意が感じられるし、根は素直なんだと思う。それで、なんとなく憎めなくてな。こう言っては不遜の極みだが、ちょっと心配な弟ができた気分だよ」

 荊軻は、ちょっと照れた様子だった。

「心配な弟ですか」

高漸離は笑った。

「さすが荊卿ですね。畏れ多くも太子様の事をそんな風に言った侠者も食客も、他にいないでしょうね。しかし、そりゃあ、言い得て妙だ」

 そう言って、また笑い出した。そんな高漸離を見て、荊軻は、

「おいおい。こんな事、他所で言うなよ。鞠武殿あたりの耳に入ったら、五月蝿そうだ」

とぼやいた。

「楽士殿。笑いが収まったら、もう一曲頼むよ。こんどは、楽しげなのがいいな」

 と促す荊軻に、高漸離は、

「はいはい、わかりました。上卿様の仰せのままに」

 と答えると、まだ笑いながら撥を手に取った。

やがて室内には、陽気な旋律が流れ出した。


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