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燕国の空 (4)

 荊軻けいかは庭に立ち、田光でんこうと並んでえんじゅの樹を見上げている。


 田光の来訪は、常にもなく突然だった。それで、たまたま庭にいた荊軻は、ここで田光を迎えることになった。塀を廻らした、周囲から隔絶されたような小さな庭であったから、槐もそれほど大きくはないが、夏には涼しげな緑陰を作ってくれる。


「ここに来る途中、もう柳が芽吹いておったが、この槐もそろそろじゃな」

 田光は、木を見上げたまま話しかけてきた。

「ええ、二、三日のうちには芽が出ましょう」

 荊軻も田光にならい、木を見上げて答えた。


 田光が荊軻を訪ねてくることは珍しい。薊城けいじょうの侠者の重鎮ともいえる田光は、来客を迎えることは多いが、自ら他家を訪れることはあまりない。それゆえ、前触れもない来訪に、荊軻は驚いた。同時に、何か重要な用件を抱えて来たのだろうということは推測できた。しかし、穏やかに槐を見上げる田光は、性急に用件を問う事が憚られるような、そんな雰囲気をまとっていた。それで、荊軻は、田光に従って槐を見上げているのだった。


 どれほどの時が過ぎただろうか。ただ槐を見上げていた田光が、ふいに語りかけてきた。

「荊卿。私と足下は、年齢は離れておるが、実に親しくして頂いておる。そのことは、燕国中に知らぬ者はおらぬだろうよ」

「はい」

 荊軻は、田光を顧みて答えた。荊軻を真っ直ぐに見つめるその表情からは、田光の意図は読み取れない。

「今日、私は太子様に召されてな、宮城へ参った。太子様は、燕と秦は両立し難いゆえ、私にその事に留意せよとの仰せだったよ。平たく言えば、秦王への刺客になれという話じゃな。国事に私を頼ってくれるとは、有難く光栄な仰せだが、私も年でな。太子様は、私が若くて血気盛んだった頃の話を聞かれたのだろう。私の体が、最早、荒事に耐えぬことをご存じなかった。そこでな、太子様には、足下を推薦させてもろうた。足下は迷惑に思うかもしれぬが、この燕国で私の代わりを頼めるほどの者は、足下をおいて他におらぬでな。どうか、宮城へ行って太子様に会ってはくれぬか」

 荊軻は、この来訪の理由が、ようやく腑に落ちた。そして、一瞬も迷わなかった。田光にそこまで言われて否やがあろうはずもない。

「承知しました。先生の仰るとおりに致しましょう」

 荊軻は、去年、市場で高漸離と交わした会話を思い出していた。あの時は、まさか秦から逃亡した太子と、侠者の自分が相会うとは思ってもいなかった。その太子が、自分に秦王への刺客を頼むという。不思議な巡りあわせだと感じていた。


 田光は、そんな荊軻を眺めて一つ頷くと、再び槐を見上げた。

「立派な人物というものは、何か事を為すにあたって、人に疑いを持たせないものじゃ。私は、そのように先輩諸兄から教えを受けてきた。今日、太子様は、私にこう仰った。申し上げましたことは、国の大事でございます。どうぞ、決して他言なされませぬようお願い致します、とな。つまりは、太子様は私に疑いを抱いたということ。そのような疑いを抱かせるようでは、とても節義を重んじる侠者とは言えぬ。何とも不明を恥じるしかない。それでな、私は、ここで死ぬことにしたよ」

 そう言うと、にこりと笑いかけてきた。

――なんと仰られた。

喉まで出かかった言葉を、荊軻はようやく飲み込んだ。

 侠者として生きる以上、死はいつも傍らにある。そのことは、荊軻も重々承知していた。それでも、田光の突然の言葉は、重い衝撃だった。

「足下の庭先を汚すのは本意ではないがな。拙宅に戻れば、また、その間に誰ぞに会わなかったか、何ぞ洩らさなかったかと、無用の疑いを受けるでな。それでは、私が死ぬ意味が無くなってしまう。そう思うて、宮城から太子様差し回しの馬車で、真っ直ぐここへ参ったのじゃ。足下は、その馬車ですぐに太子様を訪れて、田光は既に死にました。事が他へ洩れる心配は一切不要にございます、と申し上げてくれ」

 そう言うと、田光は荊軻から充分に離れ、腰の佩剣を抜いた。

 荊軻は、田光が好きだった。燕に流れてきた当初から、何くれとなく面倒を見てくれた。今の住いも田光の口利きだったのだが、そのようなことを抜きにしても、田光は、荊軻にとって特別な存在だった。


 荊軻は、幼いころ斉にあって学問と剣を修めた。その時の師父たちと、田光は、どこか似た雰囲気がある。田光は、いつも穏やかに笑うだけだったが、荊軻はその前に出ると、不思議に背筋が伸びる気持ちがした。幼少期への郷愁と師父への畏敬、そのようなものを感じていたのかもしれない。


 高漸離は、張り詰めすぎた自分を弛めてくれる。そして、田光は、時に弛みすぎた自分を引き締めてくれる。弦は、程よく張ってこそ美しく響く。二人は、荊軻を美しく響かせてくれる得難い友だった。


 今、その田光が死のうとしている。ほんの数歩、歩み寄って剣を押さえれば止められるだろう。しかし、それは出来ぬことだった。数歩先の田光が、遙か遠くに立っているようだった。

 荊軻は、陽光にきらめく刃が、田光の首に添えられるのを見た。それから、田光はゆっくりと倒れ伏した。


 人は、あっけなく死ぬものだ。


 これまでも、荊軻の目の前で多くの人が、あっけなく死んだ。そして、田光の死さえ、あっけなかった。


――不意打ちを喰った。


 荊軻は、そう思った。そして、なかば呆然として、横たわる田光のもとへ歩み寄った。うつ伏せに倒れた田光の周りには、既に血溜まりが出来ている。荊軻は、袖を血で濡らしながら、ゆっくりと田光の体を仰向けにして手を取った。

「田先生。先生の御遺志、確かに受け取りました。先生の御言葉は、太子様へ伝えましょう」

 田光が、かすかに手を握り返してきたような気がした。どれほど、そうしていただろうか。荊軻は、はっと我に返った。


――時が移っては、先生の死を無駄にしてしまう。


 そっと手を下ろすと、決然と立ち上がった。荊軻は、血の付いた衣服をあらためると、田光が乗ってきた馬車で宮城へと急いだ。ガタガタと揺れる馬車の中で、黙然と前を見据える荊軻の脳裏には、田光の最後の様子が何度も浮かんでは消える。


 田光は太子を責めなかった。自らの不明を恥じると言った。そして、後事を荊軻に託した。太子を責めて、田光の死を汚してはならない。太子を恨んで、託された大事を仕損じるわけにはいかない。


―― 一切、太子を責めぬ。


 荊軻は、そう決心した。それでこそ侠者と、田光も認めてくれるに違いなかった。



「田先生は、自刎なされました」


 人払いがなされ太子と二人だけになった客室で、荊軻は、ようやくそう告げることができた。

 荊軻が宮城に到着すると、太子は、突然の来訪に驚きながらも自ら出迎えた。しかし、その場には、従者や護衛の者達も居合わせていた。荊軻は、田光の言葉を真っ先に伝えたかったが、秘事を守るための田光の自刎を、他人の面前で告げるわけにもいかなかった。それを今、ようやく告げることができた。


 荊軻の突然の言葉に、太子は、一瞬何を言われたのか理解できないといった顔をしている。

「あの、それは如何なることで……」

「先生より太子様への言伝が御座います。田光既に死せるからには、大事が洩れる心配は一切ございません。とのことで御座います」

 太子の顔から、みるみる血の気が引き、膝から崩れ落ちた。そして、床にうずくまったまま、声を上げて泣きはじめた。

「嗚呼、嗚呼……。そのような積もりでは、そのような積もりでは……」

 荊軻は、静かに太子を見下ろしていた。


 田光の死に関して、一切太子を責めぬことは、宮城に至るまでに誓っていた。しかし、侠者が肯うということの意味を、太子には、ここでしっかりと理解してもらわなければならない。侠者の一言には、命の重みがある。それを解ってもらわなければ、田光が託した仕事は遂げられないだろう。それゆえ、荊軻は慰めの言葉は口にしなかった。


「ただ、……大事を遂げたかった……それだけなのです。田先生が死ぬなど、……そのような事、望んではいなかったのに」

 自責の念に苦しみ泣き続ける太子を、荊軻は、ただ見下ろしていた。重い時間が過ぎていった。


 そして、太子の嗚咽がようやく小さくなった頃、

「太子様。国の大事です。お話をどうぞ」

と、荊軻は促した。太子は、はっと顔を上げると、床に伏して荊軻に頓首の礼を行った。


「田先生は、この不肖なる丹を、こうして足下にお引き合わせくださいました。これこそ、まさしく天が燕を哀れんで見捨てなかった証しにございましょう。今、秦には貪利の心があり、その欲には際限がございません。天下の地を全て征服し、海内の王を全て臣下としなければ満足しますまい。秦は既に韓王を虜にし、その国土を全て接収してしまいました。また、南はを伐ち、北はちょうを攻め、王翦おうせん将軍は数十万の兵を率いてしょうぎょう一帯へ至り、李信将軍は太原たいげん雲中うんちゅうまで進出しております。趙は秦兵の攻勢を支えることは出来ず、趙王は秦に臣従するでしょう。趙が降伏してしまえば、燕と秦の間に、もう他の国はありません。次は燕の番です。燕は弱小ゆえ、戦にはしばしば苦しめられてきました。今、国を挙げても秦に対することはできません。諸侯も秦に屈服してしまい、敢えて連合して秦に当たろうとはいたしません。そこで、丹は愚昧ぐまいではありますが、私なりに一計を案じました。もし天下の勇士を得て、秦への使者として立っていただき、大きな利益を見せて隙を窺えば、秦王は貪欲ですから、きっと上手くいくと思うのです。むかし曹沫そうかいが斉の桓公を脅して土地を返還させたように、秦王を脅して、諸侯の土地を返させられれば、これ以上の成果はございません」


 曹沫とは、四百五十年ほど昔の人物である。の国の将軍であったが、斉との戦に三度敗れた。魯は遂邑という土地を献上して斉と和睦することになった。そして、斉国内のという地で斉と魯の君主が会い、和睦の儀式が行われることになった。その儀式の、まさに最中に、曹沫は匕首あいくちを斉の桓公かんこうに突きつけて、魯から奪った土地を全て返還することを約束させたのだった。太子は、荊軻に同じ事をやれというのである。


――無茶なことを言う。


と荊軻は苦笑する思いだった。曹沫の無謀な行動が成功したのは、斉の側に管仲かんちゅうという名宰相がいて、たとえ匕首で脅されたとはいえ一旦約束したことは違えてはならないと桓公を諌めたからだ。秦王を脅したとて、秦王が管仲と同じ見識を持っていなければ意味がない。


 太子は、さらに後を続けた。

「曹沫のようなことが無理でも、そのまま秦王を刺し殺してしまえば秦国は乱れます。秦国の将軍たちは、国外で大軍を率いておりますから、一旦、国内が乱れれば、互いに猜疑心に駆られるでしょう。その間に諸侯の連合が成れば、必ず秦を打ち破ることが出来ます。これが丹の願いなのです。しかし、この使命を委ねられる勇士を見出せずにおりました。どうか荊卿には、このことをご配慮いただきますよう、伏してお願い申し上げます」


 太子は、跪いたまま荊軻の返事を待っている。


――後の方が本音であろうな。まあ、曹沫のように生き残るのは、まず無理ということだ。


 荊軻は、そう思った。そして、暫らく間を置くと、

「これは国の大事です。私のような愚鈍な者では、恐らくはその任に堪えますまい」

と答えた。無論、田光が、その一命によって託した仕事である。荊軻には、断るという選択は無かった。しかし、三辞三譲さんじさんじょうということがある。礼の定めでは、どんなことも一度の懇請では請けないことになっている。確かに二つ返事で引き受けては、返って事を軽んじることになりかねない。しかし、それも形式に過ぎない。


――侠者として肩肘を張り、一言に命を懸ける者が、こんな形式に従うというのも可笑しな話よ。


 自嘲気味の思いが過ぎる。


――田光先生の死で、少し感傷的になったか。


 とも思った。

 そんな荊軻の心中を、太子は知る由もない。進み出て、再び頓首すると

「どうかどうか、お断り下さいますな」

と懇願した。

「宜しゅうございます。お引き受けいたしましょう」

 荊軻は、さらに二度辞する手間を省き答えた。そして、さらに面を引き締めると

「ただし、それには条件がございます」

と続けた。


「このこと、すぐに実行するわけにはまいりません。何よりも、それをご承知いただかなければなりません。ご存知のように、秦では全てが法で定められております。ただ王に近づくことすら法で制限されていて、並大抵のことではないと漏れ聞いております。これは、秦に居られた太子様の方が、よくお解かりでしょう」

 太子は、黙って頷いた。

「使者として秦王に近づくには、それに相応しい上卿の位が必要になります。しかも、急に上卿に召抱えられた者が使者に立ったのでは、秦王の方でも警戒するやもしれません。少なくとも、私が燕国の上卿として充分に名を知られるまで、実行はできません。さらに、使者を側近くまで召そうという気になるくらい秦王を喜ばせるには、かなり大きな利益を与えなければなりません。例えば広大な土地を割譲するといったものですな。しかし、それだけ大きな利益を与えるとなると、逆に時期が難しい。燕が大きく譲歩しても可笑しくないと、秦王がそう思わなければ、いたずらに使者に立っても、こちらの腹を探られるのがおちでしょう。大きな利益を与えても可笑しくないような状況が訪れるまで、何年でも待ち続けなければなりません。その間、太子様には、私を信じて辛抱していただかねばなりません。そのお約束、戴けましょうや」

「承知致しました。本音を申し上げれば、足下には明日にも秦へ立っていただきたい。それほど、秦王への恨みは強く、燕国を憂える気持ちは大きいのです。しかし、仰るとおり、時期を失って失敗しては悔やんでも悔やみきれません。足下が良しとご判断なされるまで待つとお約束いたします。その上で、足下を上卿としてお迎えいたしましょう」

 気迫を込めた目で迫った荊軻に、太子は三度頓首して誓った。

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