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燕国の空 (3)

 田光でんこうは、燕の侠者きょうしゃの間では、有名な人物である。

すでに還暦を幾らか越えており、若い頃のように剣を取っての荒事に関わることは、もうない。

黄色味を帯びた白髪をきっちりと結い、豊かな鬚を胸まで垂らし、

細い体にゆったりとした衣服を纏う姿は、侠者というより仙人を思わせた。

それでも、義侠心に富む高潔な人柄と高い見識で、多くの豪侠から慕われている。


「太子が先生にお会いしたいと申しておられます」


 そのような使者の言葉を聞いても、田光は特に喜ぶ様子も無く断った。

高潔を衒うつもりもなかったが、出世には全く興味がない。

むしろ、貴人に関わると不愉快な思いをすることが多いことを、

これまでの経験で知っていた。だから断った。

そうやって、ひと冬の間、招聘と謝絶が何度か繰り返された。


 田光が太子と会う気になったのは、ひとえに鞠武きくぶの人柄に動かされたからだった。使者による招聘を幾度か断ると、それからは鞠武が直接、田光を訪れるようになった。鞠武は、威を持って強要することもなく、時勢のことや様々なことを、淡々と語り合うと辞去した。そのような事が何度かあって、田光は鞠武の謹厳実直さに感じ、

――会わねばなるまい。

と思うようになった。そして、宮城まで出向く決心をした。


 そのような経緯があって、まだ春も浅いある日、田光は宮城の客となった。

 薊城けいじょうは、丘陵地に開かれた都で、なかでも宮城は、一番高い場所に営まれている。

 太子が差し回した馬車は、田光を乗せて、丘の上の宮城に続く緩やかな坂道を登っていった。宮城に着いても、馬車は大門で止まらず、そのまま城内を進んでいった。馬車を城内に乗り入れさせるというのは、かなり丁重な迎え方だ。大門で馬車を降ろされると思っていた田光は、少々驚いた。


 宮城に入った馬車は、高い塀に挟まれ整然と石が敷き詰められた道を進み、幾つもの門をくぐった。初めて訪れた田光には、まるで迷路のように思われた。そのうち、馬車は、ようやくある門の前で止まった。田光が、促されるままに馬車を降り、その門をくぐると、そこは宮殿の建つ広やかな場所だった。


 宮殿の入り口では、幾人かが出迎えている。田光がゆっくりと歩みだすと、出迎えのうちの一人が、小走りに駆け寄ってきた。太子丹だった。

「田光先生。ようこそ、ようこそ御出で下さいました。私が姫丹きたんでございます」

 太子は、顔を上気させながら姓名を名乗った。姫とは、燕の王族の姓である。

 田光は、太子自身の出迎えに、少なからず驚いた。一介の侠者に対して、宮城内まで馬車を乗り入れさせることすら驚きだったが、太子自ら外まで出迎えるとは、破格の扱いである。

――やれやれ、私に何を期待しているのやら。

 田光は、内心苦笑しながら、この歓待を受けていた。

 太子は、さらに、田光の手を取らぬばかりに客室まで案内し、自ら跪いて田光のために座席の塵を払った。無論、実際に塵が落ちているわけではなく、最上級の敬意を表す礼法である。


 これだけの歓迎を受けたにもかかわらず、田光は、太子の人物には平凡な印象しか受けなかった。太子として育てられてきただけに、教養はあり物腰も上品で、容貌も整っている。しかし、どこか物足りない。

――何かギラリとする部分があればなあ。

田光は、そう思う。

 これまでの人生を侠者として生きてきた田光は、激しく個性的な男達を多く見てきた。そういう男達は、どこか性格や生き方が破綻しているものだが、それだけに面白かった。彼らに比べれば、太子は、いかにも物足りない。


 一通りの挨拶の応酬が終わり、田光が太子との会話に退屈を感じてきた頃、太子は部屋に居た全ての人を下がらせた。仲介者である鞠武すら席を外したのは、全てを田光に委ねるという意思表示であろう。

――鞠武らしい誠意の示し方だ。

そう田光は思った。そして、静かに太子の言葉を待った。すると、太子は突然、自分の席から降り、田光の前に跪いた。そのまま拱手の礼をすると、神妙な面持ちで話し始めた。


「田光先生。先生もご存知のように、秦の脅威は日に日に東に迫っております。秦王は、国同士の礼を無視してはばかりません。その胸に天下統一の野望があることは、疑いようのない事実。秦王にそのような野望がある限り、最早、燕と秦は両立してゆくことはできません。この上は、なんとか燕国が立ち行きますよう、先生にご配慮願いたいのです」


 田光は、豊かに垂れた鬚をなでながら太子の話を聞いていた。


「はて。私は一介の侠徒に過ぎません。儒家のように天下国家の経綸けいりんを語ることは出来ません。兵家のように軍略を語ることも出来ません。一体、私に何を配慮せよと仰るのですかな」

 とぼけるように、田光は答える。

「はい。燕と秦を比べますに、秦は広大な領土を有し、豊かな産物に恵まれ、国力は燕を圧倒しております。秦の兵は多く、兵士は強く、誠に残念ながら戦場で秦を打ち破ることは不可能な情勢なのです。しかしながら、座視して祖国を滅ぼされるわけにはまいりません。戦で勝てぬのなら、それ以外の手段で、なんとか秦の侵略を止めねばなりません。そこで、先生のお力をお借りしたいと思い、本日はお越し願った次第なのです」


 田光は、

――面白い。

と思った。太子の人物に対する不満など消し飛んだ。戦以外の手段というが、侠者である田光に外交交渉を頼むわけもない。つまりは、秦王への刺客となってくれというのが、太子の依頼であることは明白だった。

 今、天下は秦を中心に動いている。もし、秦王が倒れれば、天下の動きが一変するかもしれない。それゆえ、刺客として秦に乗り込むことは、天下の動きに一個の人間が立ち向かうに等しい。そのような事を頼まれて、心の動かぬ侠者はいない。

 田光の心は奮い立った。しかし、同時に、還暦を越えた自分には、遠い西の秦へ行き刺客として働くことは不可能なことも解っていた。

――ならば、自分が見込んだ人物に、この大役をやり遂げさせたい。

そう思った。


「太子殿。駿馬は若く盛んな折には、一日に千里を駆け抜けることも出来ます。しかし、老い衰えては、駄馬にすら後れを取るようになるものです。太子様は、鞠武殿より、私の若い頃の話を聞かされておいでなのでしょう。既に私も老い衰えてしまいました。太子様のご期待には応えられますまい」

 太子は跪いたまま、必死の面持ちで懇願した。

「先生。燕をお見捨てくださいますな。老いたなどと仰らず、何とぞお力添えをお願いいたします」

「まあ、まあ。ご安心下さい。他ならぬ国事の御下問ゆえ、私も知らぬ顔はいたしませぬ。私の知己に荊軻けいかというお方がおられます。私ども仲間内では、尊敬を込めて荊卿けいけいとお呼びしておるのですが、この方こそ太子様の願いに応えられる人物です」

 太子の表情に、かすかに安堵の色がさす。

「ああ、先生。ならば、その荊卿というお方にお引き合わせ願えますでしょうか」

「もちろん。謹んでお引き受けいたしましょう。さあ、太子様、席に戻られよ」

 田光が、そう声を掛けると、太子はほっとした様子で何度も礼を言いながら席に戻った。

 ややあって、太子はようやく人心地がついた様子で尋ねた。

「田光先生。先生が、それほど信頼しておられるのですから、その荊卿というお方は、よほどの勇士なのでしょうね」

「ふむ。それはもちろん。私がこれまでお会いした中で、第一等の勇士でございます」

田光は、そう答えると、鬚をなでながら瞑目した。

――恐らくは、太子様は真の勇士というものを知らぬであろう。このまま引き合わせても、太子様には荊卿の力量が解るまい。それでは荊卿の迷惑というもの。ここは一つ釘を刺しておかねばなるまいな。

そう考えると、おもむろに口を開いた。


「一口に勇士と申しましても、その在り様は一つではございません。太子様は、ご存知でありましょうか」

「はあ、左様ですか。いや、私は存じませんでした。是非、先生にご教授を願いたい」

 腑に落ちぬ様子で問う太子に、田光は噛んで含めるように語りだした。

「太子様。勇士には、まず血勇の人と申すべき者がおります。この種の者は、血に蔵された力が強く、自らの血の力に衝き動かされて勇を振るいます。そのような者が怒れば、その面は真っ赤になるものです。次に、脈勇の人と申すべき者がおります。これは、全身に力強い気脈が巡っておるゆえ、あまり恐れを感じません。怒れば、その面は青ざめます。さらに骨勇の人と申すべき者がおります。体の芯に骨力が漲っており、あらゆる困難を乗り越えようとします。怒れば、その面は白くなります。この三者は、先天のうちに体に授けられた力によって勇を為す者たちです。こういう勇士ならば、太子様の食客の中にも居られるでしょう。如何ですかな」

「はい。片手の指にも足りませんが、確かに、そのような勇士も居らぬわけではありません」

 些かの誇りもあり、とはいえ満腔の自信も無いといった太子の答えに、田光は、ゆっくり頷く。

「世に言う勇士とは、ほとんどが、この種の男達でしょう。しかし、私に言わせれば、それは凡庸な騎手が悍馬を押さえられぬようなもの。血・気・骨という天より与えられた力を己が意志によって押さえきれず、むしろその力に動かされて勇を振るう者たちです。そうした勇は目立ちますゆえ、世間に勇士と持て囃されます。しかし、本人の意思のままになりませぬゆえ、ともすれば、ただの乱暴に堕してしまいます。逆に、思わぬところで勇気が萎むこともございましょう。このような者には、とてもこの度のような大役は任せられませぬ」


 田光は、ここで一息つき、太子をぐっと見据えた。


「これに対して、神勇の人と申すべき者がおります。体に備わった先天の力は、先の三者と比べても勿論申し分ございません。さらに、その力を精神が見事に統御しております。それゆえ、怒っても顔色が変わりません。荊卿こそが、その神勇の人なのです」

 田光の威に飲まれたように、太子は、ただ話しに聞き入っていた。

「この神勇の人とは、いわば、騎馬の名手が悍馬を完全に乗りこなしているようなものでございます。ですから、いかにも勇士という振る舞いはいたしません。

 嘗て、荊卿は諸国を歴遊しておりました。その折、楡次ゆじという土地で、蓋聶こうじょうという者と、剣について論じたことがあるそうです。そこで意見が合わず、蓋聶は凄んで睨みつけたのですが、荊卿は黙って立ち去ったそうです。

 また、斉の都、邯鄲かんたんに遊んだ折には、魯句践ろこうせんという者と博打のやり方が違うと議論になったそうです。博打などというものは、名前は同じでも、土地ごとに決め事が違うものですからな。それで怒った魯句践が怒鳴りつけると、荊卿は黙って立ち去ったそうです。太子様。これをどう思われますかな」


 田光の話に聞き入っていた太子は、急に問いかけられて戸惑ったようだった。


「はあ。私の考えておりました勇士とは、少々異なっておりますようで」

 田光は、そこで大きく頷いた。

「左様。つまりは、太子様がこれまでに会われた勇士は、みな神勇の人ではなかったのです。世間では、意地を張って喧嘩で引かぬものを勇士と持て囃しますが、それは小節に拘った、つまらぬ勇です。そのような者に、大役はとても任せられません。神勇の人とて、木石ではありませんから、怒りもすれば泣きもします。むしろ、普段は、普通の者以上に、喜怒哀楽を自由に表します。しかし、決して小節に拘って、つまらぬ意地を張るようなことは致しません。それは、一見惰弱に見えるものですが、真に大事を任せられるのは、むしろ、そういう神勇の人なのです。そして、荊卿こそが、その人です。この事を決してお忘れになりませんよう、この田光、伏してお願い申し上げます」

「承知致しました。先生の御教え、決して忘れません」

 拱手して深く頭を垂れる田光に、太子は強く肯った。

「では、私は早速、荊卿を訪ねることにいたしましょう」

充分に納得した様子の太子の答えに、田光は満足して席を立った。


 田光の退出に際しても、太子は丁重な態度を崩さず、見送りに出た。

 二人が門の所に来たとき、太子はふと思い出したように、

「今日、申し上げましたことは、国の大事でございます。どうぞ、決して他言なされませぬようお願い致します」

と念を押した。田光は、つと面を伏せると、

「承知致しました」

と答えた。伏せられた顔には、小さな笑みが浮かんでいた。


 宮城の大門を出ると、田光は、馬車をゆっくりと進めさせ。

 沿道の柳の枝が薄い緑色の芽を沢山つけていた。馬車に早春の柔らかな光が降り注ぎ、田光の背中をほんのりと暖める。


――侠者に向かって口止めとはな。

 田光は、先ほどの太子の言葉を思い出して苦笑した。

――思いがけず、太子の一言で、我が命数も定まった。


 侠者は、信義を貫くことを身上としている。秘密を軽々しく漏らすなど、最も信義に反する。田光が、そのようなことをするはずもなかった。田光は、これまでの人生で、そのような疑いをかけられ侮辱されれば、剣にかけて自らの信義を証し立ててきた。しかし、今回はそうはいかない。まさか、祖国の太子を切り捨てるわけにもいかぬ。さらに、既に太子の頼みを引き受けた身でもある。ならば、太子に向けることの出来ぬ剣は、自分に向けるしかなかった。

――窮屈な生き方よ。

と自嘲はしても、太子への怒りは無かった。もとより、一国の太子として育った者に、侠者の生き方が解ろうはずもない。己の生き方を理解せぬ者に怒りをぶつけるほど、田光はもう若くはなかった。ただ静かに、己が生き方を貫くだけだった。

――それに、荊卿としては、仕事は面白うても、太子の器量に不足を感じるかも知れぬからな。私の命を添えれば、きっと納得してくれよう。そもそも秦へ死にに行ってくれというような頼みだ。老いぼれの命ひとつでは釣り合わぬかもしれぬが、これまでの誼で、荊卿も勘弁してくれるだろうさ。


 春風が田光の頬を撫でて追い抜いていく。

――それにしても、太子の無思慮な言葉が、二人の侠者に、またと無い死に場所を与えたわけだ。人を導くのは、何も賢者に限らぬということか。むしろ、多くは巡り合わせにこそ導かれるのであろうな。

 柳の細い枝が、風に揺れていた。

――さて、こうなれば一刻も早く荊卿に会わねばならん。

 田光が促すと、馬車は軽やかに速度を上げて走り出した。

 田光は、そのまま春風と共に、どこへでも自由に吹き渡って行けるような、そんな気持ちがした。


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