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燕国の空 (2)

     (二)



 半ば伝説となっている聖人、文王・武王父子が周の王朝を開いたのは、およそ千年前。

 以来、周王は、諸侯の上に君臨してきた。軍事力による実効的な支配力は早くに失われ、諸侯国は各地で勝手に覇を競い合っていたが、天命を受けた王室としての権威は長く保持されてきた。

しかし、その権威もここ二百年の間にすっかり失墜してしまっている。


 昔は、王とは周の君主しか名乗れぬ称号だった。天王とも呼ばれる至尊の存在だった。ところが近頃では、あちこちに王が居る。しんせいも、このえんでも君主は王と号している。


 権力に次いで権威すら失った周王室が早晩滅びるだろうということは、誰の目にも明らかだった。しかし、秦の荘襄王そうじょうおうの手によって現実に周が滅ぼされたとき、それは、やはり衝撃であった。

――来るべき時が来た。

誰もがそう思った。そして諸侯国が相争う分裂の時代から、周を滅ぼした秦を中心に統一を模索する時代へと全てが動き始めた。

 荘襄王の息子、後に始皇帝となるせいが秦王に即位すると、そのうねりは激しさを増し、北の国燕をも確実に巻き込み始めていた。



 太子(たん)が秦より逃亡するという事件から、およそ一年が経った頃、燕の宮殿内では、国家を揺るがしかねない問題が密やかに持ち上がっていた。それを引き起こしたのは、またしても太子丹だった。鞠武きくぶは、その噂を知ったとき耳を疑った。それは、太子丹が秦から逃亡したと聞かされたときの衝撃に匹敵するほどの驚きだった。


 鞠武は、噂を耳にするなり、真っ直ぐ太子の居室へ向かった。太子は、近習を相手に寛いでいるところだったが、鞠武は構わなかった。

太子を真正面から見据えると、

「お人払いをお願い致します」

ときつい口調で言った。

 太子は、鞠武のただならぬ様子に少し嫌な顔をしたが、近習に向かって手を振って下がらせた。

太傅たいふよ。人払いまでさせて、いかなる用件か」

 太子は、冗談めかして、笑いながら話しかける。

 鞠武の方は、そのような太子の笑いに一切かまわず、無表情のまま問うた。

「単刀直入におうかがいいたします。太子様が、秦の将軍樊於期はんおきなる者を逗留させておられるという話は事実でございましょうか」

 太子は、不愉快そうな表情を浮かべると、

「そうだ」

と、ぶっきらぼうに答えた。

 鞠武は、足元の床が揺らぐような眩暈を感じた。しかし、先ずは事情を確かめねば何とも判断し難い。そう思い直すと、必死に怒りを抑えて訊ねた。

「秦の将軍である樊殿が、何の理由あって太子様の下に居られますか」

「うむ。樊将軍とは、先年、私が秦に遊んだときに知遇を得たのだがな。秦王は無道極まりない奴じゃ。それは、太傅も知っておろう」

 太子は、鞠武の表情を窺いながら続ける。

「樊将軍は、そんな秦王の、仁を軽んじ礼を無視するやり方を諌めようとしてな、それで怒りを買ってしもうての。暴虐な秦王のことゆえ、国内に残っていては命が危ういということで逃れてきたのじゃ。それ、諌言が容れられぬときには王族でもなければ、たとえ卿の位にあっても、国を見捨てて立ち去ると言うであろう。それで、樊将軍も秦を去られ、窮迫した末に、私を頼って来てくれたというわけじゃ」

「なりません!」

 鞠武は、太子の言葉が終わるのも待たなかった。その顔は、最早怒りを隠してはいない。

「敢えて言わせていただきます。先年、太子様は秦より無断でご帰国なされました。そのことが原因で、秦と趙に上谷じょうこく地方の城を三十も取られております。そして今なお、燕と秦の間の大きなしこりとなっております。それだけで、私共はどれほど肝を冷やしておることか。太子様には、充分その事はお解かりいただけていると存じておりました。それなのに、さらに秦王の勘気かんきを被った樊将軍を匿われるとは、何をお考えでございますか。俗諺にも、肉をみて餓虎のみちに当つ、と言うではございませぬか太子様のなさっておられることは、まさにそれですぞ。燕国を秦王という餓えた虎の通り道に餌として放り出すおつもりか。例え我が国に管仲かんちゅう晏嬰あんえいのような名宰相が居たとしても、どうにも救いようのない事態ですぞ」

「まあ、そう言うな。なに大丈夫じゃ。私は二十人以上の食客を召抱えているのだから、樊将軍一人増えたところで、そう目立つまい。秦に知られることなどなかろうよ」

 太子は、ことさら何気ない風を装って答える。

「何を仰いますか。現に私の耳に入っておるではありませんか。人の口に戸は立てられませんぞ。この宮中で噂になっておることが、秦に知られぬという保障はございません。むしろ知られると考えておいた方がよろしゅうございます」

 鞠武がそう言うと、太子は不機嫌そうに横を向いてしまった。それは、昔から太子が鞠武に良く見せていた仕草だった。幼くして父母から離れ、敵国で質子として暮らすことが多かった太子が、鞠武は不憫でならなかった。それゆえ、ぷいと横を向く太子の姿を見ると、どうしても徹底して叱る事ができなかった。

――それがいけなかったのか。

と、年々そう思うことが増えてきている。太子が秦から逃亡してからは、特にそう思う。

 しかし、今は国家の命運がかかっている。中途半端なところで有耶無耶にするわけにはいかない。鞠武は、袖の中でそっと拳を握りしめて、太子に語りかけた。

「太子様。樊将軍は出来るだけ速やかに匈奴きょうどへ送り出してください。そうやって樊将軍が燕に居たという証拠を消すのです。どうかお願い申し上げます。その後、西方ではかんちょうの三国と盟約を結び、南方ではせいと連合し、北方で匈奴の単于ぜんうと講和するのです。それが出来て始めて秦と事を構えることが可能になります」

 この言葉を聞いて鞠武のほうに向きなおった太子の目には、激しい怒りが表れていた。そして、怒りのままに鞠武へ言葉を投げつけた。

「太傅の計略は、至極もっともだ。それが出来れば最も安全であろうな。しかし、それには一体何十年かかるというのだ。そもそも、往年の遊説家が説いたそんな同盟策が実際に成功するのか怪しいものだ。私はな、秦での生活を思い出すたびにはらわたが煮える思いがして、どうにも耐え難いのだ。そんな、出来るか出来ぬかもわからぬような同盟策を悠長に待つなど、とても考えられぬ。それにな、かの樊将軍は、この広い天下のどこにも身の置き所が無い。そんな時に、この丹を頼って来てくれた。今や秦王政の暴虐から樊将軍を助けてやれるのは、私だけなのだ。それなのに、秦の軍が恐ろしいからといって、苦境にある友を見捨てるようなことが出来るものか。私は、そんな卑怯者ではないぞ。樊将軍を匈奴の地へ送る時が来るとすれば、それは私が死ぬ時だと思え」

 そこまで言うと、太子も興奮が治まってきたらしい。しばらく息を整えると、声を和らげた。

「太傅よ。樊将軍を匈奴へ送ることは許さん。どうか、それ以外で、あらためて策を考えてくれぬか」

 生来の上品さと気の弱さから、太子が鞠武に対して、これほど荒々しい言葉をぶつけることは珍しい。それだけ秦王に対する怒りが大きいのだろう。しかし、鞠武にしても、ここで引くわけにはいかない。

「つい先年知り合ったばかりの人間のために、唯一無二の祖国を大きな危険に曝すというのですか。秦が本気になれば、我が国など、一片の羽毛が炭火の上で燃え尽きるようなもの。あっという間に消えてしまいますぞ。太子様がやっておられることは、自ら危険を冒しながら安全を求め、災いの元を作っておきながら幸福でありたいと願うようなものです。申し上げにくいことながら、計略があまりに浅い!結果として、燕秦両国の怨恨はますます深まりましょう」

 鞠武は、必死の思いで説得した。しかし、その言葉は、どうしても太子の心の奥に響いていかなかった。それほどに、太子の秦王に対する恨みは深かい。そして、その秦王の下から逃れてきた樊将軍が己を頼ってきたという事実は、秦王によって傷付けられた太子の自尊心を、幾許いくばくかは癒しているのだろう。そのことには、鞠武も気付いていた。


――太子は、樊将軍に執着して離すまい。ましてや匈奴などという蛮族の地へ送り出すなど、決して許さぬだろうなあ。


鞠武は、深いため息をついた。


――樊将軍が我が国にいることを知った秦王政が将軍の身柄を要求してきたら、太子様はどうなされるか?戦ではとうてい秦にはかなわぬ。身柄は渡せぬ。戦もできぬ。となれば、秦王へ刺客を放つくらいしかできることはない。しかし、太子様が集めた食客の中に、秦王の命を取れるほどの傑物は残念ながら居らん。誰かを無理に刺客に仕立てたとしても、失敗は目に見えている。それは、燕に更なる危機を招くことにしかならないではないか。


鞠武としても、戦場で秦に勝てぬ以上、刺客の可能性に賭けてみたい思いもあった。だが、それを太子だけに委ねるのは、あまりにも無謀だった。心底途方に暮れた鞠武だったが、その脳裏に天啓のようにある人物の名が浮かんだ。

「太子様。この燕に田光でんこう先生という方がおられます。仕官したことはなく野に居られるお方ですし、太子様は他国で暮らされることが多ございましたので、ご存じないかもしれませんが、ひとかどの人物でございます。非常に深い叡智をお持ちの上に、勇敢で冷静沈着なお人柄。共に国事を謀ることが出来るお方です」

 鞠武の言葉に、太子は勢い込んだ。

「おお。そのような優れた人物が、我が国に居られたのか。嬉しいことだ。まことに嬉しいことだ。太傅よ。その田光先生に、是非お会いしてみたい。仲介を頼めるか」

「よろしゅうございます」

と、太子を安心させるように力強く答えた鞠武だった。だが、その心の内は、燕の未来に射す僅かな光が消えぬようにと祈るばかりであった。


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