高漸離 (2)
目を潰すには、馬の糞を使う。馬の糞を燃やし、その煙で目を燻すのである。そうやって目を潰された高漸離は、昼夜を分かたず襲う目の痛みに苦しんだ。そして、己を闇の中に閉じ込めた始皇帝を激しく憎んだ。
ようやく痛みが引き、筑が打てるようになった頃、はじめて始皇帝に呼ばれた。おそらく深夜であったろう。呼ばれた場所がどこかも良く解らなかった。ただ、
「筑を打て」
と命ぜられた。高漸離は、歯を喰いしばって打った。
―― これは、祖国と友のために打つのだ。
そう念じながら打った。
それから度々呼ばれるようになった。いつしか、始皇帝ひとりの居室に呼ばれるようにもなった。いまでは、高漸離が控えている自室に、始皇帝自身が突然あらわれて、筑を打つように命じることさえある。ただ、高漸離にとっては、どこに呼ばれようと、どこで筑を打とうと、全ては同じ、一つ闇の中だった。その闇の奥から、時おり、言葉がぽろりと落ちてくる。それは、問わず語りにつぶやく始皇帝の言葉だった。
「汝は、籠の鳥だ」
闇の奥の始皇帝は言った。
―― そうだ。私は籠の鳥だ。この男は、風切り羽根を切るように、私の目を潰した。
黙したまま、高漸離の心は憎しみに燃える。
「籠の中までは、法を及ぼすまい」
始皇帝は、独り言のように言う。
―― 私の心に、お前の法は及ばない。
始皇帝の言葉を打ち消すように、高漸離は念じた。
「鳥よ。籠の中では自由に鳴くが良い。筑を打って自由に鳴くが良い。私もその間だけ、法の守護者であることをやめよう」
―― そうだ。もとより私の心は自由だ。ただ祖国と友のためだけに筑を打つ。お前がどうあろうと、関わりのない事だ。
高漸離は、黙して筑を打った。
それからも、ただ黙して筑を打ち続けた。いつも一人闇の中にいる高漸離は、眠っているとき、夢の中でだけ目が開いた。そして、懐かしい薊城の街を見た。
―― 何だ。薊城は滅んでいないじゃないか。
何度そう思ったことか。荊軻は、いつものように牀に寝転んで、
「筑を打ってくれよ」
と笑っていた。だが、目が覚めると、また闇の中だった。高漸離は、始皇帝への憎しみに歯噛みした。そうしながら、ただ筑を打ち続けた。
それが変わってきたのは、何時の頃からか。高漸離は覚えていない。
覚えてはいないが、起こった変化は、確かなものだった。目を潰されて以来、音に対する感覚が、前よりも格段に鋭敏になっている。視力を失って日が浅いため、生活するには苛立つことがあまりに多い。初めは絶望すら感じていた。しかし、だんだん耳が鋭くなるにしがたって、それまで気付かなかった音色の違いに気付くようになった。それと同時に、己の筑の音も、日に日に深まっていく。視力を失ったことは、人として不幸なことだ。しかし、音色の深まりに歓喜する楽士としての自分も、確かにそこにいた。
目が見えないことに苛立たないわけではない。目を潰した始皇帝を恨まないわけではない。それなのに、楽士としての喜びが日に日に大きくなる。いつしか、喜びが恨みを超えるのではないか。それが何より恐ろしかった。
耳が鋭くなって、もう一つ変わった事は、人の声の色がわかるようになったことだ。どれほど言葉を飾ろうと、声の色は、人の気持ちを正直に映す。怒りの色、悲しみの色、喜びの色、追従の色。人の声は、色彩に溢れている。それが、手に取るように解るようになった。そんな高漸離に届く始皇帝の声、闇の奥からこぼれくるその声は、ただ信念の色だった。その色が、始皇帝を恨もうとする高漸離の心を揺さぶる。
「人とは、裏切るものぞ」
ある夜、一言ぽつりと言ったその声にすら、人を恨む色も、裏切りに憤る色もなかった。ただ、人とはそうしたものだと、その事実をのみ受け入れた男の声だった。
―― ならば、なぜ。
と高漸離は問いたかった。恨みは持たぬ。にもかかわらず、始皇帝は、あまりに多くの人を殺した。戦でも戦以外でも多く殺した。
―― なぜだ!
高漸離には、不可解だった。
理解は、人を許しへ導く。高漸離は、始皇帝を理解しようとしてはいけなかったのかもしれない。しかし、湧き上がる疑念に、尋ねずにはいられなかった。
「恨んでおらぬ者たちを、なぜ殺すのですか」
「国を裏切らぬためだ」
須臾の間もおかずに答えた始皇帝の声は、やはり信念の色だった。
「朕が情に引かれれば、法が弛む。法が弛めば国が傾く。国が傾けば民が苦しむ。民は国ぞ。国は民ぞ」
高漸離は、返す言葉を持たなかった。
「朕は国を裏切らぬ。決して傾けぬ。朕が生きてあるうちは……」
最後の一言に、高漸離は始めて不安の色をみた。
高漸離は、それ以来、気が付くと始皇帝の事を考えるようになっていた。
―― 始皇帝は、人を信じないのではない。ただ理解しているのだ。人の心は、あまりに移ろいやすい。実の母や弟でさえも、始皇帝を裏切った。愛や忠誠は、いつも揺らいでいる。だが、始皇帝は、恨まない。怒るかもしれない。悲しむかもしれない。しかし、恨まない。ただ、深く理解しているのだ。
乱れる心に、荊軻の言葉が思い出される。
「王族の矜持と質子だった逆境が、上手く作用していれば、ひとかどの人物になれたと思うんだが」
かつて穏やかだったあの日、荊軻は、太子丹についてそう語っていた。
―― 考えてみれば、太子様と始皇帝は、生い立ちが似ている。太子様は、太子としてうまれ、質子を経験して育った。それが太子様を歪めてしまった。始皇帝は、質子の子として生まれ、十三歳で即位し、王として育った。太子様に災いした矜持と逆境は、始皇帝をひとかど以上の人物にしたのだろうか。それとも、……。
考えれば考えるほど、始皇帝を憎もうとする気持ちが、揺さぶられていく。幾晩も幾晩も、始皇帝のことを考え続けていた高漸離は、ひとつのことに気付いた。
―― 燕の民は、今や、始皇帝の民だ。始皇帝は、己の民を決して裏切らない。たとえ、始皇帝の法を犯さぬ限りという条件があったとしても……。
始皇帝の声の色をみた高漸離には、それは疑いようのない事実だった。始皇帝を恨むための、心の城壁が崩れていく。
瞼の裏に、荊軻の顔が浮かぶ。太子丹や鞠武の顔が浮かぶ。
―― みな、燕のために命を落とした。彼らは、始皇帝を許すだろうか。
宋子で、共に畑を耕した老人の顔が浮かぶ。
―― 学問の復権を信じて、今日も畑を耕しているだろう。彼は始皇帝の行いを認めるだろうか。
―― 狗屠は、どう思っているのだろう。燕の王族など、会ったこともないだろう。狗屠には、王など誰でも良いのだろうか。それとも、気骨の男だから、征服者を善しとはしないだろうか。
高漸離は慄いた。
「荊卿。これは、私の裏切りなのでしょうか」
思わず声が漏れていた。
夜が明けると、高漸離は、居室に工人を呼んだ。工人は、宮中の什器や家具調度を作り整える役人である。
「工人殿。実は、筑の響きを変えてみたいのです。それで、試みに筑の端に少し鉛を詰めてみてもらえませんか」
日頃、什器を鋳造している工人にとって、金属を扱うのはお手の物である。
「承知致しました」
始皇帝お気に入りの楽士の頼みを、工人は快く引き受けた。
「それで、どれほど詰めたら宜しいでしょうか」
「そうですねえ。あまり重くても、かえって響きが悪くなるでしょうから、片手で持てるほど。十斤程度が良いでしょう。なるべく早くお願いいたしますよ」
そうして、工人によって大切に持ち去られた筑は、数日のうちに鉛を詰められて戻ってきた。高漸離は、その筑を持ち上げて重さを試し、爪弾いて響きを試し、始皇帝の呼び出しをじっと待った。
それほど日を置くこともなく、高漸離は呼ばれた。高漸離は、筑を大事そうに抱えて始皇帝の居室へ手を引かれて向った。
始皇帝は、いつものように、
「打て」
と、一言命じるのみだった。
高漸離は、命に従って筑を打った。涙が後から後から流れて止まらない。
「漸離よ、なぜ泣く。今宵の筑は、響きが違うようだ」
始皇帝の声は、やはり闇の奥で、つぶやくように聞こえる。
「筑が私の心を映しているからでしょう」
高漸離は、静かに答えた。
「汝の心とは」
始皇帝が問う。
「それは――」
高漸離は、手にしていた筑を、思い切り振り下ろした。始皇帝の声のする方へ。しかし、筑は始皇帝に届かず、激しく床を打って砕けた。砕けた胴から鉛の塊が落ちる。ゴトリ、と音がした。
―― 失敗したか。
と、高漸離は安堵した。
「衛士!」
始皇帝の鋭い声が飛ぶ。周囲が騒がしくなってきた。衞士が入ってきたのだろう。何人かの人間に体を押さえられ、縛り上げられる。しかし、高漸離には、全てが遠くで起こっているように感じられていた。体に食い込む縄目の痛みさえ、自分のものではないような気がしていた。
翌日、高漸離は刑場に引き出された。あの後、始皇帝が「なぜだ」と問うことは、とうとうなかった。
―― 始皇帝は、どう思っているのだろう。
刑場に引き据えられながら、ぼんやりと考えた。
―― 振り上げた筑は、結局私の上に落ちてくる。それは仕方ない。仕方のない事だ。いずれにせよ、もはや私の心は、始皇帝に捕らえられることはない。私は自由だ。
安堵の想いが、全身にしみわたる。同時に悲しみが溢れてきた。
―― 始皇帝はどうするのだろう。国が保たれ民の生活が潤えば、始皇帝は報われるのだろうか。籠の鳥すら失った始皇帝は、絶対の孤独の中を、どう生きていくのだろう。ああ、荊卿。やはり、始皇帝のために、悲しんでやることは許してください。
刑場を一陣の勁風が吹き過ぎていった。
その年、始皇帝は、かねて造営中であった宮殿から、信宮の名を取り去った。新しい名は、天極になぞらえた極廟であった。