高漸離 (1)
高漸離は、手にした鍬に体を預け、ほっと一息ついた。
「あれから、六年か」
良く晴れた北の空を、遠く眺めながら呟いた。その空は、遙か燕まで続いている。
「おい、お前! 手を休めるな。怠けてると日のあるうちに終わらんぞ」
近くで同じように畑を耕していた男の罵声が飛んできた。
「すみません」
高漸離は、謝ると畑仕事にもどった。
荊軻が死んで、既に六年が経つ。あの後、秦の軍勢は、大挙して燕に攻め寄せた。燕と代の軍は連携して、易水の西でこれを迎え撃ったが、衆寡敵せず。退却した燕軍を太子丹が率いて、必死に薊城を守った。しかし、ここも十ケ月で陥落してしまった。燕王喜と太子丹は、かろうじて薊城を抜け出し、遼東へ逃れた。しかし、秦王の怒りは激しく、秦軍の追撃は執拗だった。燕王も代王も追い詰められていた。
「秦王が怒って追っているのは、刺客を送った太子丹だ。太子丹の首を献上すれば、怒りは解けるのではないか」
それを言い出したのは、代王らしい。こともあろうに、父である燕王は、その話に乗ってしまった。そして、太子丹の首は、秦王へ送られた。それによって秦王は、追撃の手を緩めたのか、燕王は、その後五年近く、遼東の地に拠って王としてあることができた。しかし、最後には秦に滅ぼされてしまった。息子の首を差し出して、自らの命をわずか数年購ったに過ぎなかった。その翌年、秦は最後に残っていた斉をも滅ぼして天下を統一した。秦王は、この世で始めて皇帝の称号を定め、自ら始皇帝と号した。それが去年のことだった。
高漸離は、太子丹の最期を噂で聞いて、燕王喜らしいやり方だと、遣りきれなかった。鞠武の消息は聞こえてこなかったが、太子がそうなってしまったからには、鞠武も生きてはいまい。そういう男だ。痛ましくてならなかった。
しかし、高漸離も、他人を悼んでいる場合ではなかった。薊城が落ちると、秦王は、太子丹や荊軻の食客だった者を全て捕縛しようとした。高漸離は、かろうじて縛吏の手を逃れることができた。このとき助けてくれたのは、意外にも狗屠だった。
狗屠とは、荊軻を交えて幾度か飲んだことがある。その時の酒は、実に愉快だったことを覚えている。しかし、狗屠との関わりは、それだけだった。狗屠は、ただそれだけの関わりで、危険を冒してまで高漸離を薊城から逃がしてくれたのだった。高漸離は、その後名前を変え、数年の間あちこちを転々としながら逃げた。そして、ようやく燕国を抜け出すと、その南方、元は趙の領土だった宋子という土地にたどりつき、土地の豪族に雇われて畑仕事をするようになった。宋子は、その昔は、中山という国の町である。その中山を趙が滅ぼし、そして今また、秦が征服した。このような転変を経た土地であったから、家を失って流れてくる者に寛容で、高漸離にとっても都合がよかった。そうして、高漸離は、ようやく宋子に落ち着いた。
筑は、逃亡の途次も、必ず荷物に隠して持ち歩いた。だが、もう何年も筑を打っていない。手は、すっかり鋤鍬の豆だらけになってしまった。ずっと楽士として生きてきた高漸離にとって、四十を過ぎての始めての畑仕事は辛い。何をやっても人より遅く、先ほどのように怒鳴られるのは常のことだった。
高漸離は、腰の痛みをこらえて鍬を振るった。
「何やってんだ!」
遠くで、老人が怒鳴られている。この老人も、高漸離と同じく、にわか農夫に違いない。
秦が天下を統一すると、世の中が一変した。始皇帝は、諸侯王の存在を認めなかった。支配者は始皇帝一人。他は全て臣下。臣下の中には、官吏と官吏でない者がいる。それだけだった。それまで価値があるとされていたものが、一切否定され、新たな価値を始皇帝が法によって定めた。
そんな新しい支配体制からは、身分の高い者や年かさの者ほど弾き出された。それで、各地でにわか農夫が増え、安くこき使われている。高漸離のように、見るからに農夫ではないとわかる人間も、おかげで目立つことなく隠れていられた。
しかし、畑仕事は体に応える。高漸離は、毎日、努めて何も考えず何も聞かず、ただ単調に鍬を振るうようにした。腰が強張り、肩に痛みが走る。それに耐えながら、ひたすら鍬を振るった。日が傾く頃、ようやく畑仕事は終わる。夜、飯を食った後が、唯一心を休められる時間だった。お尋ね者の高漸離は、人との交わりを避け、夜はいつも使用人小屋の片隅で一人過ごしていた。
その夜も、高漸離は、いつもの場所にじっと座っていた。皆は、ちょっとした博打に興じている。今夜は珍しく酒が供されている。
―― 主家で何か祝い事でもあったのだろうか。
そんなことを、ぼんやり考えている高漸離に、老人が話しかけてきた。昼間怒鳴られていた老人だった。いくらか酒が入っているようで、顔が赤い。
「お前さんも、秦に弾き出された口じゃろう。以前は何をやっとったんじゃ。――いやいや、聞くまい、聞くまい」
高漸離の戸惑い顏に、老人は首を振った。
「すみません」
高漸離は、小さく謝った。
「よいよい。人それぞれ。語りたくない事もあるじゃろう。しかしな。今宵は、儂は語りたい。それも人それぞれのうちじゃろ。ほっほっ。聞いてくれるかの」
機嫌よさそうに笑う老人に、高漸離は親しみを感じ、
「はい。私で良ければ伺いましょう」
と答えた。
高漸離は、この老人の名前を知らない。聞いたとしても、それが本名か偽名かわかるはずもない。自分自身、偽名を使っているのに、互いに名乗ることに、どれ程の意味があるだろう。だから、あえて名前は尋ねなかった。
「儂は、秦が来る前は、儒学を修めて、田舎町で塾を開いておった。儒者には縦横家のように、諸侯の間を派手に遊説してまわる輩は少ないでの。戦乱の世では、口の悪い奴らには、世事に疎いのなんのとくさされることもあったよ。じゃが、真面目な官吏が育つでな。高望みさえしなければ、それなりの仕官の口もあって、弟子もそこそこ居ったよ」
「そうでしたか」
「ところが、秦は、お前さんも知っとるように、民間の学問をみな禁止しおった。学問がしたけりゃあ、秦の官吏について、秦の法律を学べと。それ以外は許さぬとぬかしおった。この儂に、今さら童子のように弟子入りしろと。訳の解らぬものを学べというのか。そんなものは、まっぴらじゃ」
老人は、だんだん興奮してきたようだった。
「しかし、儂の弟子じゃった若い者たちは、我先に秦の法律を学びはじめよった。今では、一人前の官吏面しておるわ。儂に言わせれば、学問の初歩も出来ておらん青二才がな」
「そうでしょうね」
高漸離は、他に言いようもなく、ただ相槌を打った。
「当然、塾など続けられんし、学問以外に何も知らん儂は、今はこうして雇われて畑を耕すはめになっておる」
老人は、すっと声を低めた。
「しかし、儂は儒学を捨てる気は毛頭ない。書物はみな取り上げられて焚かれてしもうたが、なに、全部覚えておる。書物は、全て儂の頭の中じゃ」
「それは凄いですね」
と答えながらも、同時に
―― そういえば、私もたくさんの旋律を覚えている。私にとっては普通だが、音楽を知らぬ者にしてみれば、それも驚くべきことなのかもしれん。とすれば、全て覚えているというのも、あながち大言壮語でもなかろうなあ。
と思っていた。
老人は、更に声を低める。灯火の光が揺らめき、影が老人の皺を黒く隈取る。
「いいか。秦は、いずれ滅びる。聖賢の学問を、これほどないがしろにして、国が立ち行くはずがない。天が許すまい」
―― それは、どうだろう。
という反論を、高漸離は飲み込んだ。
―― 老人は、議論がしたいんじゃないんだ。
高漸離は、自分に言い聞かせた。
「その時こそ、再び我らの出番じゃ。この頭の中の書物を竹簡や帛書に書き付け、世に書物を蘇らせるのじゃ」
老人の意気は軒昂だった。
高漸離は、内向的であるが、同時に外向的でもある。普段は、音の深みを求めて、内へ内へと沈み込むことを常としていた。しかし、独奏のみが音楽ではない。内に求めた音が外で響き合う心地よさを、楽士なら誰でも知っている。高漸離は、人と和すことの喜びを知っている。それゆえ、一人で過ごしたこの数年は、筑を打てないことと同じ程に、高漸離を苦しめていた。その苦しみは、久しぶりに老人の語りで弛んでいた。老人の意気につられるように心が浮き立っていた。
高漸離は、思わず、筑の胴を撫でる仕草をしようとした。長年染み付いた癖だった。しかし、そこに筑があるはずもなかった。
―― 何故、ここに筑が無い!
唇をかんだ。
夢は、語り合うことで育まれていく。語り続けることによって、生き続ける。そうしていれば、いつか花は開くかもしれない。だが語られなくなった夢は死んでしまう。ひとりの老人の夢に、そっと命を吹き込む、そんな夜語り。これほど、音楽が相応しい時があろうか。だが、筑はそこに無かった。
その夜以来、筑を打ちたいという高漸離の思いは、ますます募っていった。そんな折、ふと通りかかった主家の客間から、筑の音が漏れ聞こえてきた。幾人かの客が、筑を打って興じているようだ。高漸離は、どうしても立ち去りがたく、いつの間にか聞き入って、
「これは、なかなか上手い。ああ、これは下手な打ち手だ」
などと、独り言を呟いていた。それが、高漸離の運命を始皇帝と結びつけてしまうことになった。
高漸離の独り言は、偶々聞いていた使用人を通して、主人の耳に入った。
―― 筑を打つ農夫。宴の座興に面白い。
そう思った主人は、筑を打たせた。筑に触れたことで、高漸離の決意は固まった。一度宴を退席すると、行李の下に隠していた衣服と愛用の筑を取り出しす。そして、衣服をあらためると、主人の宴席にもどり一心に筑を打った。高漸離は、名こそ明かさなかったが、その音の冴はあっという間に近郷の評判となり、その評判は始皇帝の朝廷にまで届いてしまった。
朝廷からの招聘を受けたとき、高漸離に迷いはなかった。もちろん、死にたくはない。しかし、
―― 筑を打たずに、喰って寝るだけの、そんな生にしがみついていたいのか。
と己に問うたとき、全身が「嫌だ!」と叫んでいた。踵も尾骶骨も、頭の天辺も「嫌だ!」と鳴いていた。だから、高漸離は始皇帝の前に出た。死にたくはない。だが、筑を打つためには仕方ない。だから、迷わなかった。
それは、その場所だった。高漸離は知らない。だが、六年前、荊軻が命を落とした、その謁見の間に高漸離は立っていた。
「宋子に名高き、筑の名手にございます。皇帝陛下の命により参上いたしました」
高漸離を紹介する官吏の甲高い声が宙を渡る。高漸離は進み出ると、陛の方へ跪拝した。衣擦れが響く静寂の中で、たくさんの視線が高漸離に注がれる。
「打て」
陛の上から声が降ってきた。
「曲は」
高漸離が問う。
「任せる」
「はい」
高漸離は、頭を上げて正面を見た。朱い扆を背にした始皇帝の影が、陛の上にあった。ふいに激しい感情が突き上げてくる。
―― この男が、祖国を滅ぼした。この男が荊卿を殺した。私が戦士なら、戦場でこの男と戦おう。侠者なら、この場で斬りかかろう。しかし、私は楽士だ。だから、この男の前で、国を想い友を想って筑を打つ。決してこの男のためには打たん。誰のために打つかは、私の心が決めるのだ。
高漸離は、筑を打ちはじめた。弦から低くこぼれた音は、広い室内を隅々まで満たしていく。高く放たれた音は、天井へ飛ぶ。そこで跳ね返り、新たな音と出会って響き合う。高漸離は、一心に筑を打った。いつしか始皇帝も廷臣も消え、閉じた瞼には、懐かしい薊城が映っていた。燕の山河が映っていた。荊軻の顏、太子の顔、鞠武の顏、市場で酒を飲んだ仲間の顔。それらが浮かんでは消える。次々に入れ替わるように、浮かんでは消え、浮かんでは消え、その果てに何も映らなくなったとき、曲は終わっていた。高漸離は、ゆっくりと目を開いた。
室内には、暫し沈黙がつづき、誰かが、ため息をついた。それをきっかけに、賞賛のささやきが、あちらこちらで起こった。
「以後、咸陽宮に留まれ」
陛の上の声が命じる。その時、一人の官吏が進み出た。
「お待ちください。この者は、高漸離です。」
そこここに、戸惑いのざわめきがおきる。官吏は、さらに続けた。
「先年、陛下に誅された荊軻の食客だった男です。私は以前、使者として薊城に下向したことがございます。その折に、燕国一の筑の名手高漸離を見ております。多少面変りはしておりますが、間違いございません」
室内を、再び沈黙が覆った。
「それは、真か」
宰相らしい男が詰問するのに、高漸離は静かに答えた。
「真にございます。始皇帝に国を滅ぼされ、友を殺された高漸離に相違ございません」
どよめきが広がる。
「即刻、処刑すべきです」
と宰相らしい男が陛の上へ向って進言した。
ややあって、
「才が惜しい。殺すな」
という答えがあった。
「しかし」
と食い下がろうとする宰相へ、
「目を潰せ。しかる後に宮殿内に部屋を与えよ」
というと、階の上の人影は、さっと立ち上がった。そして、居並ぶ臣下が一斉に平伏するなか、退出していった。高漸離ひとりが、身を起こしたままその姿を見送っていた。