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咸陽 (4)

 その日は、朝から抜けるような青空だった。きっちりと正装した荊軻たちは、先導役の役人数人にともなわれ、客殿を後にした。馬車は、咸陽宮へ向ってゆっくり進んでいく。荊軻は、既に迷いを封じ込めていた。


―― 私が、為すべき事を為さずにいるというのなら、田光先生に顔向けできぬ。しかし、為し得ることは全て為し、そのうえで、やはり亡ぶというのなら、それが燕の天命であろう。


 まだ早朝といってよい、この時間の空気は、ひんやりと冷たく、吸いこむ鼻の奥に、かすかな痛みを感じさせた。

 荊軻たちは、宮殿の大門に到着すると馬車を下り、咸陽宮本殿を目指して歩いた。誰一人喋る者はいない。大門から本殿へと続く道には、他に人影はなく、荊軻たちの足音しか聞こえない。


 やがて一行は、巨大な本殿の基壇の下にたどり着いた。そこから見上げる本殿は、真実巨大であった。基壇の周囲には、いかめしく武装した衛士たちが立っている。良く見れば、秦人しんひとだけではなく、楚人そひと韓人かんひとらしい顔立ちの者もいる。秦よりももっと西にある異国の出身らしい者さえいる。秦の実力を物語るこうした事の一つ一つも、最早、荊軻の心を揺さぶることはなかった。しかし、秦舞陽の方は、そうは行かないようだった。秦舞陽の目は不自然に見開かれ、口は固く結ばれ、肩に力が入っているのがはっきりわかった。


―― やはり、使い物にならぬか。


 荊軻は、心中ひとりつぶやくと、正面に目を転じ、本殿へと続く大階段を登りはじめた。


―― いよいよだ。


 荊軻は、腹に気を沈めて思った。


 大階段を登りきると、そこは本殿の外周をめぐる回廊になっていた。その正面に黒塗りの大きな扉があった。荊軻は、周囲を見回したが、人影は見当たらない。これほどの規模の宮殿が、しんと静まり返っているのは、いっそ不気味であった。

 先導してきた役人は、扉の前に立つと、

「この奥にて、謁見を賜ります」

と告げた。そして、再び扉へ向い何やら合図をしたようだった。扉は、ゆっくりと開きはじめる。


―― この三年近く、あれこれと思い描いた秦王本人に、いよいよ見える。


 そう思うと、荊軻の胸は高鳴り、我知らず息を詰めて、開きゆく扉の奥に目を凝らしていた。


 扉が開ききったとき、荊軻は、真っ黒い巨人たちの群れに見下ろされているのかと思った。一瞬のことだったが、謁見の間が、黒尽くめの巨人たちであふれているような錯覚に陥ったのだ。燕の使者の到来を告げる役人の声が、甲高く響き渡る。その声で、荊軻は、はっと我に返った。室内の両側には、秦の官吏たちが無数に並んでいる。数が多すぎて、いったい何人いるのか、見ただけではわからなかったが、みな普通の人間だった。秦の官服は黒が主体であったため、外の光に慣れた目には、それが黒尽くめに見えたのだろう。しかし、それが巨人の群れに見えたのは、一瞬とはいえ、気を飲まれた証拠だった。荊軻は、悔しさを押さえ、息を下腹に吸い込むと、口から細く吐き出し、そして室内へと進み入った。


 広い室内は薄暗い。正面奥、陛の上の壁には、窓が切ってある。その窓の前に置かれた大きなついたてに張られた朱色の絹を透して光が入ってくる。その朱い光を背に、漆黒の衣をまとった人物が座っていた。


―― これが秦王か。


 荊軻の心の中に、喜びに似た感情が湧き上がっていた。逆光の中の人影は、陛の上に座っている。遠くて、目鼻立ちまで判らないのがもどかしかった。秦王の背後にある朱の扆には、斧の縫い取りが施されていた。縦に四つ、横に三つ。計十二個の斧。それは、諸侯を討伐する天子の権威を象徴する。つまりは、その扆は、天子の背後にあるべきものだった。暗さに慣れてきた目に、秦王が身に付けている袞冕こんべんが見えてきた。体を包む袞衣こんえには、龍の縫い取りがある。頭にいただく冕冠べんかんには、珠を通した紐、つまりりゅうが垂れている。遠くて判然としないが、その旒が十二本あるような気がする。諸侯の旒は九本という決まりである。十二本なら天子の冠ということになる。


―― 我は天子である。


 秦王は、無言のうちに、そう示していた。


 王をまじまじと見つめるわけにもいかない。荊軻たちは、礼法に従って小走りで進み、中央で再拝稽首さいはいけいしゅした。そこからは、諸侯の使者を迎える儀式が執り行われた。複雑な手順を踏んで、儀礼用の玉器を秦王に捧げる。燕を見下しているのか、それとも、それが秦でのやり方なのか、通常の礼法とは異なって、秦王は一言も発さなかった。時間は、じりじりと過ぎてゆく。秦王は、室の奥、陛の上にいる。荊軻は、そのはるか手前、室の中央あたりにいる。


―― ここから駆け寄っても、秦王にたどりつく前に、取り押さえられるだろう。もっと近付かなければ。


 荊軻は、密かに距離を測りながら、そう思った。最大の好機は、樊於期はんおきの首と督亢とくこうの地図を献上する時だと踏んでいた。


―― その時、どれだけ近づけるか。それが勝負だ。


と、荊軻は、肚を括っている。

 儀式は、遅滞なく粛々と進んでいく。そこに漂う緊張感は、燕の宮殿の比ではなかった。君主と臣下の間にある緊張感に、格段の差があった。秦王の威令がどれほど行き渡っているのか、これを見れば、はっきり解る。


―― これは、国力に差がつくはずだ。しかし、だからこそ、俺がここに居るのだ。


 そう、荊軻は思った。

 儀式は、燕王の願意を荊軻が奏上する段に進んでいた。荊軻は、先日蒙嘉に告げたとおりの事を奏上していった。その内容は、充分に知れ渡っているようで、荊軻の言葉を聞いても、居並ぶ臣下の間にこれといった反応は起こらない。

「―― 恐れかしこつつしみて申し上げます」

 荊軻は奏上を締めくくり、深く頭を下げて待つ。ここで、秦王から何らかの意思表示があるのではないか。荊軻は、そう思って待った。しかし、何の言葉もなかった。許すとも許さぬとも言わぬ。荊軻は、まだ秦王の声すら聞いていなかった。

 そして、いよいよ、樊於期の首と督亢の地図を披露する段に至った。荊軻は、首を納めた函を持ち、秦舞陽が地図を納めた細長い箱を持ってその後に続いた。二人が陛の下まで進んだとき、声が降ってきた。

「地図が見たい」

 荊軻は、はっとした。はじめて聞く秦王の声。高くもなく、低くもなく、それでいて腹に響く声だった。荊軻が、地図の箱を持つ秦舞陽を顧みると、顔を真っ青にしてがたがた震えていた。

 当初、地図は、荊軻が首を献上した後、あらためて秦舞陽から荊軻に手渡され、披露される手順になっていた。それが、秦王のひと言で変わってしまった。


―― まずい。


 荊軻は、内心焦りを覚えていた。地図を納めた細長い箱が、遠くから見てはっきりわかるほど震えている。それに気付いた者達が、訝しんでざわめきはじめた。

 荊軻は、咄嗟に進み出た。

「この舞陽は、北方蛮族の田舎者にございます。未だ嘗て天子様に拝謁したことがございません。それゆえ、あまりの畏れ多さに、このように震えておるのでございます。どうぞ、私が御用を務めさせていただけますようお許しください」

 少しの間を置いて秦王は、

「では、汝が持ってまいれ」

 と答えた。

「はは」

 荊軻は、秦王を拝してから、秦舞陽の方に向きなおる。先ほどの荊軻の悪し様な言葉に怒って正気を取り戻してはいないかと少し期待していたが、秦舞陽の顔色は真っ青なままだった。視線も定まらず、溺れる者が木片にしがみつくように、地図の箱をしっかりと抱えていた。


―― 役に立たぬとは予想していたが。


 荊軻は、軽い失望を覚えながら、地図の箱をもぎ取る。


―― もう、ここでじっとしておれよ。何もするなよ。


 そう思いながら、首の函を押し付ける。秦舞陽は、今度は首の函を必死にかき抱いた。荊軻は、それを見届けると、正面に向きなおり、陛を登りはじめた。


―― ここで焦っては水の泡だ。


 荊軻は、駆け上がってしまいたい衝動を抑えて、礼法に従い、一段一段丁寧に登った。果てしないかとも思われた段がようやく尽き、陛の上にたどり着くと、目線は未だ伏せたまま、秦王の前に進み出た。荊軻は、箱を開くと、木簡を革紐で綴った巻子を取り出した。これに地図が描かれている。荊軻は、秦王の前にある几の上に、巻子をそっと置いた。秦王が身を乗り出してくる気配がする。面を伏せて几上を見ている荊軻の視界に、秦王の手が入ってきた。その手は巻子の端を押さえると、巻かれた部分を転がしながら開いていく。巻子が転がって、全てが開ききったとき、そこに鈍色に光る匕首が横たわっていた。

 荊軻は、弾かれたように立ち上がり、右手に匕首を掴んだ。左手は、秦王の袖に伸びる。

 はじめて目が合った。

 瞬間、


―― この男は、嘘をつかぬ。


 荊軻を確信が貫いた。曹沫そうかいの名が浮かぶ。太子丹の顔が浮かぶ。


―― 殺すか、脅すか。


 須臾の間、荊軻は迷った。迷いながらも右手は匕首を突き出している。秦王が、驚いて立ち上がる。

 全てが現実感を失う。時の流れが重くなる。

 逃れようとする秦王の袖が裂けていく。匕首は僅かに届かない。

 立ち上がった秦王が、長剣を抜こうとする。長すぎて抜けない。

 そこへ荊軻が迫る。秦王は柱を回って逃れた。


 群臣は、茫然と見ていた。殿上では、誰も武器を持ってはならない。武器を持った兵は、王命がなければ殿上に上がれない。命令無しに殿上に上がれば、例え王を助けたとしても罰される。それが秦の法だ。しかし、逃げまわる秦王には、命令を下す暇がない。

 その時、側にいた侍医が、持っていた薬籠を荊軻に投げつけた。誰かが叫ぶ。

「王よ。剣を背負いたまえ」

 秦王は、剣を背負った。長剣がするりと抜ける。秦王は、そのまま斬りかかった。

 荊軻は、左足に何かがぶつかったように感じて倒れた。時の流れが、急に戻ってきた。左足を見ると、ぱっくり割れた肉の間から、血がみるみる溢れてくる。体が思うように動かない。


―― まだだ。


 荊軻は思った。一筋でも傷を付ければ毒が効く。荊軻は、左手で必死に体を支えると、匕首を秦王に投げつけた。匕首は、僅かに逸れて柱に突き立った。武器を失った荊軻に、秦王は激しく斬り掛かる。怒りをぶつけるように斬り付けてくるのを、荊軻は何となく数えていた。衝撃は感じるが、痛みはもうあまり感じなかった。荊軻が、八回まで数えたところで、秦王は、大きく息をついて距離をとった。


―― ああ、しくじったか。


 荊軻には、怒りも悔しさもなかった。手近な柱にもたれると、足を投げ出して笑い出した。かすむ視界に秦王が見える。肩で大きく息をしている。

「捕まえようとして、剣先が鈍ってしもうた。太子様に良い報告が出来ると思うて、欲をかいたわ」

 荊軻は、大声でそう言うと、目をつぶった。

 衛士を呼び寄せる秦王の声が聞こえる。


―― よもや、あの瞬間に迷うとは思わなんだ。俺を迷わせたのも、秦王の天運であろうか。昊天上帝こうてんじょうていは、やはり秦王を選んだのかもしれんなあ。……田光でんこう先生。太子様。申し訳ありません。……我が力、秦王の天運に及びませなんだ。……ああ、蒙嘉殿は罰せられるだろうなあ。……あまり酷い目にあわねば……良いが……。


 ようやく駆けつけた衛士の剣が、荊軻の心臓を貫いた。

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