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咸陽 (3)

 荊軻けいかは、考え続けた。蒙嘉もうかの屋敷から戻って以来、まぶしい朝日の中でも考えた。したたるような夜闇の中でも考えた。考えて考えて、それでも答えは見つからなかった。どうしても燕が救われる道が見えてこなかった。


 最初は、秦王さえ倒せば、秦の侵攻は止まると考えていた。燕でも趙でも、秦王政の暴虐な振る舞いが派手に取り沙汰されていた。秦国よりも、秦王政個人が目立っていた。そのため、だれもが、秦は王によって振り回されている国なのだと思うようになっていた。だから、秦の侵攻は、秦王個人の野望であると、秦王さえ暗殺すれば、秦は止まると、太子丹も鞠武きくぶも思っていた。荊軻自身も、そう思っていた。


 ところが、実際に秦に来て、その民に接する間に、それは間違いではないかと思えてきた。ひとり秦王政を暗殺したからといって、秦は止まらないのではないか。そう思えてきた。そして、その疑いは、蒙嘉との話の中で、確信に変わった。


―― 秦の侵攻は、決して秦王ひとりの野望ではない。それは、秦人しんひとが祖先から代々受け継いできた東への憧れだ。共有する夢だ。秦王政とは、その夢を叶えるために、秦が自ら生み出した王だ。ならば、その王を殺されたとき、秦は、東へ向うことを諦めて止まるのか。いや、止まりはしない。たとえ頭を落とされたとしても、秦という龍は、再び蘇るだろう。その時、真っ先に屠られるのは、間違いなく王を殺した燕だ。


 荊軻は、そう結論付けるしかなった。


 秦王政が死ねば、継嗣を争って混乱するのではないかとも考えてみた。しかし、秦王は、実権を握る過程で、弟の叛乱や母の愛人の叛乱を鎮め、最大の権力者だった宰相の呂不韋も服毒自殺に追い込んでいる。国内に、継嗣を立てて反目しあうような勢力は、まだ育っていないようだった。国外にいる将軍たちにしても、蒙嘉の話では、兵を自由に動かせるわけではないという。それならば、後継が決まるまで、一年とはかかるまい。結局、命を賭して秦王を暗殺しても、長くても二、三年、燕の滅亡を先延ばしにするだけということになる。

 かといって、暗殺を実行しなくても、燕は滅ぶ。むしろ、滅亡は早まるだろう。樊於期の首と督亢の地図で、一旦は矛を収めても、一年とは保つまい。咸陽の勢いを見ていると、それが良くわかる。


 荊軻は、太子が最初に言っていた曹沫そうかいのことを思い出していた。確かに、曹沫が斉の桓公を匕首ひしゅで脅し、魯から奪った土地を返還する約束を取り付けたようにできれば言うことはない。秦王が約束を守る限り、十年でも二十年でも燕の命脈を保つことができる。その間に斉・楚と結んで、状況を逆転するという可能性も皆無ではない。


―― しかし、その望みは薄い。


 荊軻は、暗澹たる気分で思う。秦王を捕まえて脅し、約束を取り付けることは出来るだろう。が、どうやって、秦王に約束を守らせるのか。その方策が無かった。斉の桓公が、曹沫との約束を守って占領地を返還したのは、諸外国を憚ってのことだった。脅されてのこととはいえ、一度交わした約束を反古にしては、他国に対する信用まで失うと考えたからこそだった。

 ところが、秦王は、その他国を全て征服しようとしているのだ。他国の信用など、はじめから問題にもならない。たとえ脅して約束をさせても、秦王を開放した途端、荊軻は殺され、約束など最初から無かったことになるだろう。


―― 何か手立ては無いのか。


 同じ事を何度も考えているうちに、王宮の使いが書状を携えてやってきた。謁見を許す旨を伝える内容であった。蒙嘉が、約束を果たしたのだ。


 その夜、荊軻は、客殿の庭に出て、星を見上げた。西辺の夜空は乾いている。無数の星々が、澄んだ光をくるめかせて咸陽の街を覆っていた。客殿の庭から北を見れば、咸陽宮の巨大な屋根が、黒く夜空に浮かんでいた。その上には北極星が輝いている。衆星を従えて天の中心で輝く北極星。それは、紫微宮しびきゅう。天界を統べる昊天上帝こうてんじょうていの住まう宮。またの名を天極と言う。


―― 昊天上帝よ。あなたは、秦王政を望まれるのか。長く打ち続く戦乱の世を厭われるか。祖国を想う小さき人の願いは、取るに足りぬのか。天を知ろしめし、太古よりの長き時をけみするあなたの御心には、燕の興亡など、須臾の出来事なのか。


 咸陽宮の上にあって守護するが若き北極星に語りかけるほどに、静かな悲しみが滲みとおってくる。

「正使殿は、元気がありませんな」

 背後から野太い声がした。秦舞陽だった。荊軻は、ゆっくりと振り向くと、軽く会釈した。秦舞陽は、こわそうな鬚をしごきながら荊軻を見下ろしている。

「正使殿は、ここの所、顔色が優れませんな。もしや、いよいよとなって怖気づかれたか。正使の役が気重なら、いつでも交代して差し上げますぞ」

 そういう秦舞陽の目には、侮蔑の色がありありと浮かんでいた。荊軻は、にこりと笑って、首を振った。

「ご心配には及びません。来るべき時には、貴君にも働いてもらわねばなりません。それまでは、充分に鋭気を養っておいてください」

「何! 言われるまでもないわ」

 秦舞陽は、急に怒りを露にして目を見開いた。しかし、そのまま踵をかえすと、屋内へと立ち去っていった。取り残された形の荊軻は、ひとり苦笑した。


―― 他愛のない会話で急に怒り出すとは、奴は奴で、だいぶ参っているようだな。恐怖と不安を怒りで紛らわすか。当日は、あまり当てにならんと思った方が良さそうだ。まあ、邪魔をしなければそれで良しとすべきか。


 荊軻は、再び北極星を見上げた。


―― 結局、やってもやらなくても、燕は亡ぶ。だが、やれば、二、三年は延命できる。それで、良しとせねばならぬか。田光先生には、黄泉で詫びるしかあるまい。それにしても、せめて太子様が生きてある間は、国を保てるようにしてやりたかった。

 荊軻の溜め息は、白く凍てついた。

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