激震 (5)
「それで、実際のところ、どうなのじゃ。噂は事実であるのか」
燕王の抑えた声には、怒気が含まれている。太子丹の体が、びくりと震える。太子の後ろに控えている鞠武には、その震えがはっきりとわかった。
王の前に跪き、面を伏せた太子は、震える声で答えた。
「噂は、真にございます。荊軻には、秦王暗殺を命じております」
「この!」
思わず声を荒げそうになった燕王は、慌てて言葉を飲み込んだ。王の自室には、王と太子と鞠武の三人しか居ない。それでも、大きな声で話せるような事ではなかった。
「それ程の国の大事を、王たる予の承諾も無しに決めたというのか。不忠の極みではないか」
息子である太子とよく似た王の顔は、怒りで真っ赤になっていた。
「滅相もございません。とんでもございません」
太子が慌てて否定する。
「刺客などという卑事を、王たる父君のお耳に入れては、それこそ不孝であろうと思いましたゆえ……」
「しかし、この国の行く末を左右する大事ではないか。それを予に相談もせぬとは、軽率の謗りを免れまいが」
「いや、それは、その……」
太子は口ごもる。太子の後ろに控えている鞠武には、太子の首筋に冷や汗がにじむのが見えた。
荊軻たちが出立して、その道行きも半ば以上を終えただろうと思われる頃、燕の王宮内に、ある噂が密やかに立ち始めた。
―― 荊軻は、秦王政への刺客だ。
そういう噂だった。
荊軻は出立する前に、親しい者たち数人にだけ、計画を打ち明けている。荊軻がわざわざ秘密を明かし、別れを惜しむ者たちなのだから、軽々しく噂話をするとも思えない。しかし、現実に噂は立った。あるいは、秦舞陽から漏れたのかもしれない。はたまた、誰かの当て推量が、たまたま真実を言い当てたのだろうか。
鞠武は、そうも考えてみたが、真相が解ろうはずもない。結局、出立の直前まで、全てを三人の秘密にしていたのは、賢明な判断だった。それが出来たのは、ひとえに田光の自刎の賜物だった。田光の命の重みは、特に太子の口を重く封じてきた。それでも、最後の最後で独断で秦舞陽を副使に選び、計画を洩らしている。もし、田光が自刎して果てたのは自分の軽率な言葉のためだという思いがなければ、太子は、もっと簡単に計画を洩らし、潰していたかもしれない。鞠武は、田光に申し訳ないと思いながらも感謝してきた。
刺客の噂は次第にひろがり、もはや王宮内のかなりの人が知るところとなった。そんな時、鞠武は、太子と共に、密かに燕王喜の私室に呼ばれたのだ。事の真相を問われるのは明白であった。
――荊軻が出立して、随分経つ。たとえ陛下が反対なさったとしても、もはや荊軻を阻止する使者は間に合わぬ。陛下には、正直に申し上げよう。ご不興の甚だしいときは、太子様に代わって、私が誅を受ければよい。
鞠武は、そう肚を決めた。太子は、王位を嗣ぐ立場にある。何かの罪を犯したとしても、簡単に罰するわけにはいかない。そういう場合、太子の教導を怠ったとして、守り役である傅の官にある者が、代わりに罰せられることがある。
――最悪でも、太子に罪は及ぶまい。
鞠武はそう考えて、王の私室に参上する前に、正直に話すことを太子に勧めていた。
「恐れながら」
鞠武は、返答に窮した太子を助けようと進み出た。
「何だ」
王は、鞠武をじろりと睨んだ。面差しは、息子である太子とよく似て整っていたが、その眼には、太子にはない酷薄な光がある。鞠武は、その光に耐え、言葉を継ぐ。
「確かに、陛下に御裁可願わなかったのは、申し訳なき仕儀でございました。しかしながら、天の命数は、人智では計り知れぬものでございます。臣等は、万全を期して事を進めてまいりましたが、万一の事もございます。その時に、陛下に類が及びませぬよう、あえて御裁可を頂戴しませなんだ。どうか、陛下には、太子様を御寛恕頂きますようお願い申し上げます」
それが理由の全てではないが、嘘でもない。嘘のつけない性分の鞠武には、精一杯の弁護だった。鞠武の話に、一応納得したのか、王の怒りの色は薄らいだ。鞠武の視界の端で、太子がほっとため息をつくのが見えた。
「まあ、汝がそこまで言うのであれば、この事は、今は問わぬことにしてもよい。だが、荊軻のことじゃ。本当に刺客が務まるような男なのか。拝送の儀では、副使の秦舞陽の方が、よほど勇士に見えたが。そもそも、講和の使者ゆえ、武勇より弁舌と思えばこそ、荊軻の正使を裁可したのだ。刺客ということなら、秦舞陽の方が適任ではなかったのか。今ひとつ、心もとないのう」
―― しまった!
鞠武は、内心舌打ちをする思いだった。刺客の話をするのに、万一失敗した場合のことから入ってしまった。これでは、誰でも先ず不安を抱くだろう。まして、甘い話を好む燕王に対しては、不味いやり方だった。ひとり後悔する鞠武をよそに、太子が弁護を始めた。
「いえ、それは大丈夫です、父上。あの荊軻という男、確かに見た目は、それほどの勇士とも思えぬかもしれません。しかし、侠者の間では、この燕はもとより、斉や趙や衞などの国々においても、神勇の人と称えられ、尊敬されている男なのです。荊軻ならば、必ずややり遂げるものと信じております。もっと上首尾ですと、曹沫のように、秦が奪った諸侯の土地をみな取り返してくるやもしれません」
太子は、自分さえ一時疑ったにもかかわらず、大仰に言いつのる。そんな太子を疑わしそうに見た王は、鞠武に向って問うた。
「汝はどうじゃ。荊軻は、絶対に為遂げると思うか」
鞠武は困った。太子のように安請け合いをすれば、王は喜ぶだろう。それは解っている。しかし、鞠武には、それが出来ない。
「私のような愚物には、とうてい事の成否は予見することかないませぬ」
ようやく、そう答えたが、王は許さなかった。
「まあ、そう言わずに、存念を申してみよ」
「はっ……。恐れながら申し上げます。事を成し遂げる者が居るとすれば、それは荊軻の他には居りますまい。今、我々は、その荊軻を送り出しました。あとは天命に従うのみでございます」
鞠武は、何とか答えを搾り出した。もっと耳ざわりの良い返答を期待していたのだろう。王は、不満気だった。しかし、それ以上追求してこなかった。元来、利は好んでも、面倒ごとは嫌う性質である。
「よかろう。このことは、全て汝ら二人に任す。下がってよいぞ」
王は、そう言うと立ち上がり、最早二人の存在は念頭に無いかのように、さっさと部屋から出て行った。取り残された太子と鞠武は、期せずして同時に溜め息をついた。
「ひとまずは、ようござりましたな。太子様。さあ、退出いたしましょう」
鞠武は、太子を労うと、共に部屋を出た。いつの間にか鞠武も汗をかいていたらしい。廊下に出ると、汗が肌に冷たかった。
そもそも、鞠武は、燕王喜が苦手だった。鞠武は、節侠を自認した田光にも認められた男だ。利を得られるならば、信義もないがしろにする燕王と馬が合うわけがない。しかし、謹直な鞠武は、燕国の臣として、燕王を嫌うということを己に許すことが出来なかった。かといって、直接面を犯して諌めることも出来なかった。なぜなら、太子太傅の役目は、太子を教え導くことであり、王への直諌は、鞠武には、職責を越えた行為に思われたからだった。そうして、嫌うもならず、諌めるもならず。鞠武は、苦手ということで、己を納得させてきた。
幸いなことに、太子に対しては、そのような感情の縺れはない。確かに、太子には、育ちの良さから来るお人好しなところがある。性格の歪みもある。しかも、それらは浅慮という欠点と表裏一体になっている。だが、それをも含めて、何となく人に許されてしまう人徳を、太子は備えていた。それが燕王には無いところだった。燕王も浅慮だが、燕王の浅慮は、利と欲に結びついており、人を不快にさせ、不幸にさせるものだった。まだ太子は、鞠武たち臣下が盛り立てて行けば、燕国の命脈を保つ君主になれるかもしれない。鞠武にとって、それだけが一筋の光明だった。