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燕国の空 (1)

ファンタジー要素無しの

『史記』刺客列伝に基づく歴史小説です。


中国戦国時代末期、天下統一を目指していた秦王政を暗殺しようとした

刺客・荊軻とその盟友で楽師の高漸離の物語です。


よろしくお願いします。

   燕国の空



     (一)


 

 高く高く広い広い秋の空が、茜色に染まろうとしていた。

(えん)の都薊城(けいじょう)の空は、刻一刻とその色を変えている。

もう、幾らもせずに夕焼けとなるだろう陽の光が、市場に射しかけ、

建物の影は通りに長く伸び始めている。

仕事を終えた男たちが多く通りを行きかっている。

彼らに飯や酒を振舞う店はこれから賑わいはじめる。


そんな店の一軒で、男が一人酒を飲んでいた。

店内はまだ閑散としたもので、他には数人の客が飯を食っているだけだった。

男は窓からの西日を避け、翳になった奥の席で、

見るとはなく他の客たちを眺めていた。

こんな店の客にしては妙に身なりが良い。

携えている剣も、華美ではないが拵えがしっかりしている。

年の頃は四十代半ばだろうか。中肉中背。

黒い口髭を綺麗に生やした風貌は、それなりに渋みがある。

しかし、今は、その顔に茫洋とした表情を浮かべ、

時おり思い出したように酒杯を含んでいた。


「ええ!」

 店の真ん中の席で飯を食っている二人の客のうちの一人が大きな声をあげた。

 口髭の男の視線が、そちらへ吸い寄せられた。

「太子様って、人質で秦に行ってたんだろう」

「そうそう。それが秦から逃げ出したってよ」

 もうひとりの客が、飯を頬張りながら答える。

「本当かよ、それ。本当なら、かなりまずいぞ」

「ああ、下手すりゃ、秦と戦だな」

「秦王って、すごく恐ろしいって噂だもんなあ。

絶対怒ってるよなあ。太子様も、なんだってそんなことしたんだ。

えらいことしてくれたなあ。はあ」

 ため息をついた拍子に、口髭の男の視線に気付くとびくりとし、

それからは、声を落として、ひそひそ話しになった。

翳の中で、男の目が光っていた。


 この男、名を荊軻(けいか)という。祖先は斉国の名族・慶氏であるらしい。

しかし、本人は無位無官。係累にも、高い地位にある者はいない。

若いころは斉にあって学問を修め剣を学んだ。それから衛国へ移った。

衛では、人並みに青雲の志を持ち、仕官の口を求めた。

一度は、衛の主君に直接会い、意見を述べる機会も得た。

小国の主君とはいえ、若い荊軻には心躍る経験だった。

しかし結局、仕官はかなうことはなかった。

そんな生活の中では、己というものが嫌でも見えてくる。


――官には向かんな。


 そう見極めた荊軻は、遊侠の世界に身を投じた。

そうなってみると、最初からそうしていればよかったと思うほど、

遊侠の水は身に馴染んだ。

以来、栄達を求めることもなく、あちらこちらを放浪し、

この燕国まで流れてきたのは数年前のことだった。

もう、ここより北は、蛮族匈奴の領域になってしまう。

そんな北辺の国に来るまでに、本当に色々な土地を巡り、様々な人と出会った。

そして、多くの知己と知識を得た。お

かげで、侠者の間では、荊軻の名前はそれなりに知られるようになった。

自分自身もそれなりの自負を持つようになっていた。


 そんな荊軻にとっても、秦王の(せい)という男は、何とはなしに気にかかる存在だった。

噂に拠れば、秦では、全てにわたって法が優先するらしい。

国中の誰をも法で縛り、全てを支配しようとする秦王政。

そんな王の下では恣に生きようとする侠者はとても暮らしてはいけまいと、

荊軻は思っている。

 侠者が倶に天を戴くことの出来ない王だ。

それだけなら関わらなければよい。

気にくわない男は、身分が高いほど多いものだ。

しかし、秦王政の場合、それでは済まないと思わせるものがあった。

 一国による天下の統一。

過去の聖王たちですら出来なかった、

或いは、思いつきもしなかったかもしれない偉業。

それをやろうとしているらしい。

王としては、侠者の敵だ。しかし、男としてはどうだ。

とてつもなく大きいのではないだろうか。そんな気がしないでもない。


秦王政の噂を聞くと、荊軻は、自分の中に何か熱いものが蠢くのを感じた。

天下を一国で統治する。全てを自らが支配する。

そんなことを本気で思い描いている男がいる。

そう思う。

焦りに似た痛み。憧れに似た熱さ。しかし、そのどれとも違う。

胸に浮かぶこの思いは何なのか。それが何かは解らない。

解らないものは、どうしようもない。どうしようもないから酒を飲んだ。


荊軻は、毎日のようにこの市場に来ては、知り合いを見つけて飲んだ。

ここ燕にあっても、土地の賢豪と言われる人物との交際は多く、

他人からは尊敬をこめて荊卿などと呼ばれている。

そのせいか、それとも、単にこんなご時世だからか、

市場で飲んだくれても咎め立てる者はいない。

酒に酔って、大いに笑い、大いに泣く。理由は何だって良い。

そのうち誰かが弾き始める楽器にあわせて歌う。

そんな、他愛のないことで、わけの解らぬ思いも、いっとき紛れるのだった。


それなのに、今日は生憎、まだ誰とも出くわしていない。

ひとり杯を傾けていた。

そんなところに、秦王の絡む噂話を耳にしてしまったのだ。

軻は、思わず知らず、男達を睨みつけるように見つめていた。


 荊軻は、また茫洋とした表情に戻って酒を飲んだ。

そうやってどれ程の時が経っただろうか。

「いかんなあ」

とつぶやいた。しばらくあって、また、ひとりごちた。

「一人で飲む酒はいかん。どこぞに、見知った顔は無いものか」

遠目に窓の外を見やる。

見やりながら考える。


――先日知り合った、あの男。

みな狗屠(くと)、狗屠とあだ名で呼んでおったが、

名はなんと言ったか……。

うむ、思い出せぬ。あだ名が狗屠なのだから、

犬の肉を捌くのが生業なんだろうなあ。

愉快な男であったが、あやつでも通りかかれば面白いのにのう。


そのようなことを考えながら何気なく店の入り口を見やって、

荊軻は思わずにやりとした。

ちょうど良く知る男が店に入ってくるところだった。

このところ一緒に飲むことの多い男だ。


名は高漸離(こうぜんり)

この男とは燕に来てから知り合ったのだが、

筑という楽器の名手として薊城でも名が知れている。

筑とは、小型の琴に似ているが、横たえるのではなく、

体の前面に立てて構え、竹の撥で弦を打って奏でる楽器である。

今も、それを抱えているのが見える。


孔子の言に「詩に興こり、礼に立ち、楽に成る」というものがある。

人の徳は音楽によって完成されるというのだ。

孔子が没して二百と数十年。その音楽も随分下世話なものになった。

それでも、その道で名を馳せる高漸離は、かなりの教養人である。

年のころは荊軻より幾らか若いだけなのに、

年齢以上に若々しく、物腰には何とも言えぬ上品さがある。

それが、市井のこんな場所に好んで出入りする。

先日、荊軻が狗屠たちと騒いでいたときにもその場に居て、

楽しそうに筑を打っていた。やはり変わり者には違いない。

そんなところが馬が合うのだろうと、荊軻は考えていた。

荊軻が高漸離に気付くと同時に、

あちらのほうでも荊軻を見つけたらしい。

いつもの上品な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。そして、

「ご一緒してもよろしいですか」

というと、向かいの席にふわりと腰をおろした。

荊軻は不思議に愉快な気分になってきた。

先ほどまでの鬱屈が、嘘のように解けていく。

いつもそうだった。

春の水辺に遊ぶような、何故かいつもそんな気分にさせてくれる。

高漸離とは、不思議な男だった。


店の者が酒肴を調えて下がると、高漸離は早速切り出した。

「荊卿は、太子の(たん)様が、秦から帰っておられるのをご存知ですか」

「ああ、今しがた、他の客が噂しているのを耳にしたところだ」

「そうですか。あの……、戦になると思いますか」

高漸離は、心配そうな顔で尋ねた。

「なるだろうな」

 荊軻のあっさりした答えに、高漸離の顔は一層曇る。

「そりゃあ、そうですよね。戦をせぬための人質なんですから。それが逃げ帰ったとなれば……」

「太子は、一体何故帰ってきたんだい」

「なんでも、秦側の扱いが礼を欠くとかで腹を立てて飛び出したそうです」

「ふむ。そうか」

 荊軻は、杯をもてあそびながら、何やら考える風だった。

高漸離は、その様子を眺めながら話を続けた。


「まあ、太子様の気持ちも、解らなくはないんです。

ほら、今の秦王は、父親の荘襄王が趙で質子をしていたときに生ませた子でしょう。

うちの太子様も、ちょうどその頃、質子として趙に居られましたから、

幼い秦王面識があったそうです。

ところが、そのころの荘襄王は、大勢のご兄弟の中で影が薄くて、

まさか秦の王位を継ぐなんて、誰も思ってなかったんですよ。

その上、秦王を生んだ母親というのが、商人の妾あがりだったそうで、

親子共々、趙では随分蔑まれていたという話です。

太子様にとっては、そのころ見下していた相手が、

今や強国秦の王で、自分はそこへ質子として赴かなければならないんですから。

心中穏やかではなかったでしょうね」


 黙って聞いていた荊軻は、話が途切れると、

「まあ、それほど酷い事にはなるまいよ」

 と言った。

「酷い事って、戦がですか」

 そう問う高漸離へ、荊軻は頷く。

「どうして、そう言えるんですか」

 再び問う高漸離に、荊軻は答えた。

「燕と秦の間には趙があるだろう。

燕を滅ぼすほどの兵を出せば、秦の本国が手薄になる。

趙が間に居るのに、それは危険だろうな。

仮に、趙が一緒になって燕を攻め滅ぼしたとする。だ

とすれば、秦本国は安全だが、その場合、燕の隣にある趙の方が利益が大きい。

秦は、趙のために戦ってやるようなものだ。

普通に考えれば、そんな事はしないだろう。

そんな無謀な出兵をするとすれば、秦王が激怒して分別を無くしている場合だ。

しかし、俺は思うんだが、そんなに怒るくらいなら、

最初から太子様を逃がすわけがない。

秦王はそんなに甘い男ではなかろうよ。

本当のところは、太子様が質子として居ようが居まいが、

どうでも良かったんじゃないかね。

もしそうなら、太子様としては、それで軽んじられたと思ったのかもしれんな。

むしろ勘ぐれば、秦王は、いらなくなった質子を体良く追い払って、

その上燕を攻める口実を得たと疑えなくもないくらいだな」

「秦王は、そんなに切れ者なんですか」

「ああ、そう思うよ。

秦は、もともと法で全てを定める法家(ほうか)の術で国を治めてきた。

秦王は、その法家の中でも、韓非(かんぴ)の著した書物を愛読しているそうだ。

その内容というのがだな、人主の患いは人を信ずるにあり、というものらしい。

臣下を信じる君主は、権力を奪われる。

息子や妃を信じる君主も、その隙に乗じられて、臣下に権力を奪われる。

君主たるもの、誰も信じてはならないんだそうだ」

「それはまた、極端な。たしか、儒家の言に、

信無くば立たずというのがあったはずですが、正反対ですね」

 高漸離は、ちょっと驚いた様子だった。

「ああ。しかも秦王は、己が信奉するその韓非を殺している。

韓非は、隣国韓の公子だったから、

そんな賢人が隣国にいては秦のためにならぬということだったらしい。

秦に招いた折に、そのまま殺してしまったんだ。

しかし、秦王の恐ろしいところは、そこじゃない。

普通、そんなに猜疑心の強い王なら、人望を失って国力が衰えるものなんだが、

秦は、逆に強くなっている。

秦王は、人を一切信じないはずなのに、何故か臣下は信服して国は栄えている。

そこが何とも、俺には不思議でしょうがない。

秦王の恐ろしさは、そこにあるような気がしてならないんだ。

まあ、結局、どんな王なのか、会ったことがないから正確には解らんのだがね。

いずれにせよ、大事な質子を逃がすような、

そんな間抜けでないことだけは間違いなかろうよ。

だから、太子様に腹を立てて燕を滅ぼそうなどとは思うまい。

まあ、国境付近の城を幾つか取られるくらいだろうな」

「そうですか……。国境付近の民には気の毒ですが、

燕国は、まだ当面大丈夫ということですね」

「あくまで当面だがな。五年先、十年先に、秦がどれほど力を付けているか……」


 不意に沈黙が落ちた。

それで、荊軻は、あらためて周囲の喧騒に気付いた。

話し込んでいるうちに、随分客が増えていたようだ。

「さあ、辛気臭い話はこれくらいにして、筑を打ってくれないか。

高殿の筑は、格別酒を美味くしてくれるからな」

 荊軻に促されて、高漸離は気軽に筑を打ちはじめた。

酔客たちの喧騒の間を、筑の音がたゆたう。

窓から漏れた灯りは、暗くなった通りを照らし、筑の音は屋根を越えて消えていく。

遙か遠く秦へとつづく西の空には、宵の明星、太白星がひとつ瞬いていた。


 同じ太白の星の下、太子太傅(たいしたいふ)鞠武(きくぶ)は、怒っていた。

太子太傅とは、太子を教え導くことを職掌とする官吏である。

室内には、その鞠武と燕国の太子丹の二人だけだった。

鞠武は、白髪白髯に囲まれた顔を真っ赤にして、太子丹を見据えていた。

謹厳実直な性格が、目にも引き結んだ口にもはっきりと現われている。

太子丹は、少しうんざりした様子で、鞠武の顔を視界の端で眺めている。


「太子様。秦王に刺客を送るという話、本気でございますか」

鞠武は、思わず大きくなりかけた声をぐっと抑えて問いかけた。

このような事を、万一にも他人に聞かれるわけにはいかなかった。

「いかにも、本気だ」

太子は、他所を向いたまま、嘯くように答えた。

「なりませぬ。どうかお止めください」

太子は、突然怒り出し、秀麗な眉根をきりきりと寄せて鞠武を睨みつけた。

「うるさい。やると言ったらやる。でなければ、私の面目が立たぬ」

「とは申せ、そのような無謀なこと……。どうぞご自重下さい」

(せい)のやつ、趙に居った頃は、乳離れもまだしておらぬような、

ほんの子供であったくせに、王位に即いた途端、私を見下しおって」

秦王政の顔を思い浮かべていたのだろう、

一時、宙を見据えていた目を、太子は、再び鞠武にむけた。


「お前もお前だ。太傅として仕えておりながら、

私への侮辱に、共に怒るどころか、報復を止めるとはどういう了見だ」

「私とて怒っておらぬはずはございません。

しかし、どうか冷静におなりになって、天下の形勢をよくよくお考え下さい。

秦は先年、南の雄国である()と戦って、これに勝ちを収めております。

秦の東隣の韓・()の国は、さらに悲惨な状態です。

魏は、楚との戦争に駆り出されたうえに、

土地を割いて秦に献上させられております。

韓は、先年の韓非の件にからんでひどく脅しつけられております。

趙のみが、唯一、李牧とうい将軍一人の力にすがって、

なんとか対抗しているという状況です。

(せい)に至っては、秦との間に韓・魏・(ちょう)という国がありながら、

秦に入朝するという体たらく。

嘗ては、天下の勢力を秦と二分して、

互いに東帝・西帝と号するほどでありましたのに」

鞠武は、首を振りながらため息をついた。

「父君も我ら臣下も、日夜頭を痛めているところでございます。

それなのに、秦と事を構えるようなことが、この燕に出来ましょうや」

「だからこそだ、太傅よ。

戦場で秦王を負かすことが難しいのは、残念ながら私も認めざるを得ない。

だからこそ、刺客を放つのだ。

秦王さえ亡き者にすれば、父君や汝等の愁眉も開くというもの。ちがうか」

「しかし……」

鞠武は、思わず返答に窮した。


彼自身、これまで刺客の可能性を考えなかったわけではない。

しかし、ここで安易に太子に賛同するわけにもいかなかった。

長年、太子の側に仕えてきた鞠武は、その人となりを良く心得ている。

太子丹は、決して愚かではなかった。

むしろ、子供の頃から人並み以上と言えるような利発な言動を見せてきた。

そして、いかにも貴公子らしいその風貌ともあいまって、

周囲の大人に愛されていた。

そういう環境のせいもあるのだろう。少々我儘が過ぎるところがある。

さらに、趙で質子(ちし)として過ごした辛い経験が、

生来の性格に歪みを与えているようだった。

それで、秦から独断で逃亡するような思い切ったこともする。

しかし、かといって、その我儘を最後まで貫き通し、

有無を言わさず人を従わせるような強さは持ちあわせてはいない。

最後の最後で、ふっと弱気が差すのか、決断を他人に委ねてしまうところがある。

平和な時代であれば、これも優しさとして、支配者の美徳になりえたのかもしれない。

しかし、この戦乱の時代にあっては、鞠武にとって、非常に心もとない太子であった。

それだけに、秦王暗殺などという大事を、太子に任せるわけにはいかなかった。

これ以上、どんな災難を呼び込むか知れたものではない。鞠武は必死だった。


返答につまった鞠武を見て、太子は勢い付いた。

「既に密かに人材を探しているんだ」

と言いつのる。しかし、鞠武の渋い顔を見て慌てて、

「あくまで密かにだ。密かにだぞ。

食客として養っておる者たちにも、目的は明かしておらん」

と、付け加えた。


「では、その中に、大事を任せられるような人物はおられましたかな」

鞠武の反問に、今度は太子が窮した。


食客は、有力者の下に多く集まる。

強国の宰相などになると、千人二千人の数になることもある。

しかし、その有力者が失脚すれば、それだけいた食客も、潮が引くように、

あっという間にいなくなる。

燕の国力に陰りが見える以上、太子丹の下に人材が集まる可能性は、あまり無かった。

しかも、太子丹自身が、一部とはいえ、

その陰りの原因になっているとなれば尚更だった。

鞠武も、そのことを十分に承知している。

だからこそ、太子の意気を挫くための敢えての反問だった。


「太子様。秦は今や天下の最強国。

しかも、国内、宮殿内共に法が厳格に行われており、

法で許されておらぬ者は、秦王に近づく事すらかなわぬそうでございます。

これは、秦におられた太子様なら、よくお解かりでございましょう。

生半可な者を送りましても、成功はおぼつきますまい」

太子は、足元に視線を落とし、床に敷いた石の縁を目で追いながら

「うむ」

と答えた。

「しかも、直接秦王政の命を狙って失敗すれば、

秦との決定的な対決は避けられない情勢となります。

今や秦の版図は諸侯国中最大を誇っております。

さらに、北には甘泉(かんせん)谷口(こくこう)の堅固な地形があり、

南には、涇水(けいすい)渭水(いすい)のもたらす沃野があり、

巴漢(はかん)の豊かな産物を独占しています。

右には(ろう)(しょく)の山があり、

左には関・殽の険があって守りは万全。

民は多く、兵は強く、武器の類も有り余るほどだと聞きます。

もし、ひとたび秦がその気になれば、

燕の行く末がどうなるか、だれも保証できませんぞ」


俯いて黙ってしまった太子に向かって、鞠武はさらに言う。

「太子様も、それはお解かりのはず。

にも拘わらず、質子の責務を放擲して帰り、

あまつさえ秦王暗殺を企てるなどと。

無礼によって辱められたからといって、

龍の逆鱗を叩こうとするとは、何たることです」

もはや、太子の目には怒りの色は無く、

むしろ急に襲ってきた不安にうろたえている様子であった。

「太傅、太傅。まあ、そう怒るな。

私とて、独断で秦を出奔したことは、反省しておるのだ。

だからこそ、何とかしようとしたまで。

太傅がそこまで反対するのなら、ひとまず、この案は棚上げにしよう。

さあ、太傅よ、もう怒るな。では、ひとつ、汝の考えを聞かせてくれ。

この事態をどう乗り切ればよいと思う」

太子は、少し鞠武の機嫌を取るような調子で話しかけた。

それは、太子が子供の頃、鞠武に叱責されると時折見せていた態度だった。

鞠武は、ようやく太子の暴挙を諌めえた安堵感と共に、

予想通り最後は折れて自分に頼ってくる太子に、一抹の寂しさを感じた。

「太子様。これから、私と一緒に、慎重に検討いたしましょう」

と優しく答える鞠武の、白髪白髯に縁取られたその顔には、悲しみの色が浮かんでいた。

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