7
一方の女王はと言えば、とても静かに彼女の言葉を待っている、取るに足らない出自の娘を見て疑問を抱いていた。
これが、この娘が、本当に他の令嬢に劣ると言えるのだろうか、という疑問だった。
噂はいくつも聞いている。どれも妃候補としては眉を顰めるだろう噂で、それが事実であれ虚構であれ、このような悪意のある噂が流れてしまうほど、隙のある娘を妃にはできないと女王は判断していたのだ。
だが目の前で、どの令嬢もやってのけなかった事をいとも容易く行って見せたこの令嬢からは、隙が見受けられなかった。
他の娘は、と女王はいくつかの顔を思い浮かべた。
他の娘たちは……それ以上に、この娘の双子の姉ですら女王に気に入られて、息子の后の座を手に入れるために有利になろうと、考えていた。そのために、印象に残ろうと作法を忘れ顔をあげ、じっとある意味無礼なまでに、女王を見ていたものだ。
女王は彼女たちを試していたので、それを咎めはしなかった。
だが非常に、残念だと思っていた。
誰もかれもがそんな事をしていたのだ。女王はこの候補者たちの誰もが、息子にはふさわしくないかもしれない、ガラスの靴の選定は間違いだったかと、考えてしまったほどだ。
だがこの娘はほかと違う。この娘は、内心で何を思っているのかまでは分からないが、誰よりも礼儀作法に忠実だ。真っ当と言ってもいいかもしれない。
ウィリアムがなぜこの娘の情報を集めているのか。少し理解できる気がした。
この娘はどういう顔をするだろう。
そんな思いから、女王は娘に興味が沸いた。
女王が女王であるがゆえに、この王宮で知らない事はなかった。聞こえない話はないと言っても間違いではないほど、女王は王宮のすべてを知っていた。
それゆえに、娘の言っていた事も知っていた。
この娘ならあるいは、もっとも相応しい相手かもしれないという気がしたのだ。
「クラウス、面を上げよ」
言われた言葉に上げられた顔は、平凡だ。
髪ばかりが輝くように光る金色。だが瞳の色は、澱みきった沼の緑青。お世辞にも美しいとは言えない色だ。
人はこの色を、汚い色だと思うだろう。そんな色をしている。
しかし、色がそんな色でも、瞳は澱んでいなかった。そこにはまっすぐな色が見受けられた。
そして何より、いつも笑っているという口元は女王の前でも柔らかい曲線を描いている。
好感の持てるさりげないほほ笑みだった。
大したものだ、このわらわの前でも笑えるなど。女王は彼女の度胸に少しばかり感心した。
さらに驚くべき事実として、娘の瞳からは野心という物が欠片も見いだせなかった。
警備の兵士たちがいるとはいえ、女王と二人きりという状況。邪魔者は誰もいない。
つまり自分を売り込む絶好の機会だ、と妃候補たちは考えているようだった。
その結果何をしたのかと言えば、自分がいかに妃として優れているかを熱弁したのだ。
娘によっては王子との純愛を訴え、王子の愛という“運命の恋”を核とした話をしてきた。
どのパターンにせよ、女王はその野心に辟易していた。
確かに貴族の階級も、妃としてはいいものだ。女王はそれを知っている。
しかし、家の権威にだけ頼る娘は、妃に相応しくない。
妃の地位は事実として、高位貴族の娘によく与えられている。
だがいかに家柄がよくとも、素行や教養、才知、人柄。そう言ったものに修復不可能な問題があれば正妃としては落第だと女王は考えていた。
つくづくお笑いだと女王が思ったのは、王子との“運命の恋”を訴えてくる娘たちだ。
“運命の恋”はそんな薄利多売なものではない。
たった一度、世界を敵に回してもいいと思うほどの覚悟を抱かせ、どんな終わり方をしたとしてもそれを幸せだと呼べる物が、“運命の恋”なのだ。
娘たちはそれを正しく理解していないらしく、自分こそウィリアムの“運命の恋”の相手だと言ってくる。
王宮の事ならほとんど知らない事はないと言ってもいい、この女王にとってはお笑いでしかないいい分だ。
この娘の主の娘も、そんな事を言っていたと女王はふと思い出した。
その娘の血はそれなりだ。だが高位貴族からして見れば低い物。この娘の姉が“運命の恋”を根拠にしようとしたのも頷けるが。
この娘はどう出るだろう。
ほかの娘と同じように、女王の許可なく無作法に話しかけてきて、自分の優位性を訴えかけてくるだろうか。
女王の予測は外れた。じっと娘は女王を見つめている。
女王の言葉を待っているのだ。そして驚いた事にその瞳の中に、女王に見惚れている色がうかがえた。
まさか見惚れているのだろうか。
女王はいたずら心を起こして、問いかけた。
「おぬし」
「はい」
「わらわに見惚れているのかえ?」
娘は、ぱっと顔を赤くした。図星だったらしい。
彼女は一度目を瞬かせてから、赤い顔を隠しもしないで答えた。
顔色以外、何も変わらない。
「とても整った方だと、見惚れておりました、無礼をお許しください」
女王は数秒黙ってから、思わず声をあげて笑った。
この素直さはなかなか好ましい。女王は素直な娘の方が好きだ。
野心に燃えている娘は、嫁姑問題が起きた時面倒くさい。これくらいの方が鍛えがいがあるかもしれないと、少し思った。
もっとも、これすら計算している娘だとしたら、逆に敬意を表せるかもしれない。
外交などの際に、国益になるように演技ができるという事なのだから。希代の女優として使える。
どうであれ、女王が求める妃の素質を、中々この娘は満たしている。
それでもまだ、この娘にほかの娘に問いかけた事を問いかけてはいない。全てはそこからだ。
女王は軽やかに笑った後、問いかけた。
「そうかそうか、かわいらしいのう。で、クラウス。一つ仮に問うてもよいか?」
娘は何を聞かれるのかと、不思議そうに眼を向けてきた。目は口ほどに物を言う。この娘はそれらしい。
女王は口を開いた。
「夫の条件を満たせば、おぬしは罪人であっても夫にするのかえ?」
クラウスはと言えば、ずっと妃としての素質を試されているのだろうと判断をしていた。
女王が自ら動くなど、ほかに考えようがなかったのだ。
息子の妻を見極めるのは、一人の女としても納得ができるし、女王としても納得ができる。
ウィリアム王子を愛しているのだろう、大事に思っているからこその行為だと思っていただ。
だからこそ、女王からの問いかけは想定外だった。
てっきり息子を愛しているのかとか、妃になる覚悟ができているのかとか、そういう事を問われると思っていたのだ。
それの答えに対しては、きっちりと答えが出ていて、速やかに答えられる自信があった。
しかし女王の問いかけは、それとはまったく違っている。
それでも。
クラウスは女王を見つめ、答えた。
「はい」
女王は面白がっているような顔をした。この娘はどう答えるのか。
この娘の真意は何か。
女王が口を開いた。
「醜い男でも、恐ろしい魔性でもかえ?」
「はい」
クラウスはじっくりも考えなかった。答えは大昔に、とっくに出ている事だったからだ。
遠い昔に、自分が召使同然になった頃に悟っていたのだから。
だがそれは女王にとって興味深い事だったらしい。
「何故かのう?」
「陛下は、仮にとおっしゃいましたから」
女王は一体何を試しているのだ。クラウスは見当がつかなかった。
王子が醜い魔性だというのだろうか。
あんなきれいな見た目の中身が、とんでもないという事なのだろうか。
そんな事を思いつつ、クラウスは続けた。
「仮のお話でしたら、理想に巡り合えば諾と答えてはいけませんか?」
「平凡で、そこそこ信用のできるそこそこの家柄の男性と、普通の結婚をするというという?」
女王の耳は地獄耳。クラウスは町の小唄を思いだした。フィフラナでも真偽は定かではないと言葉を濁した小唄である。
理想を聞かれていたと、少し恥ずかしくなりながらも、クラウスは答えた。
「私は、ただの娘ですから、高望みは虚しいだけですから」
そう、家名すら名乗れない日陰者の娘なのだから。
それを聞いた女王は吹きだした。
「仮にも!」
女王はあまりの事に大笑いをしているらしい。クラウスは訳が分からないまま、相手を見つめていた。自分の言った事のどれが、女王の笑いのツボを刺激したのか見当がつかなったのだ。
当然だ。彼女は有体にありのまま、身の丈に合う言葉を言っただけだ。
これで笑われるとはいかに。
見つめているクラウスに、女王は言った。
「仮にも、運命のガラスの靴が選んだはずの、妃候補のいう事ではない!」
「運命のガラスの靴……?」
クラウスは女王のいい方が引っ掛かった。
運命のガラスの靴。それは一体どういう意味だろうか。
まるで前にもガラスの靴があったようではないか。
言葉に引っかかっているクラウスに、女王は笑いを押さえた声で言う。
「もしやおぬし、運命のガラスの靴を知らぬのかえ?」
「はい」
「おやおや。誰でも知っている建国当初の伝説だと思っていたよ」
「伝説……?」
クラウスは言葉の続きを待った。何か大事な事を言われる気がしたのだ。
女王はそんなクラウスにいう。
「この国の最初の国王の后は、ガラスの靴が導いた女性と言われているのだよ。后など要らない、跡継ぎは弟の息子でいいと言ってはばからず、妃争いがそれはもう激化した建国当初。体裁のために開いた舞踏会で、国王は美しい乙女に心を奪われた。その乙女が残したのがガラスの靴の片方。国王はこの女性こそ運命の女と、探し回り見つけた。そしてこの女性は賢く美しく、また優しく、妃の鏡ともいうべき女性だった。彼女との間に生まれた子供の血を引いているのが、今も続く王族なのだよ。この逸話から、ガラスの靴が呼び寄せるのは、国の繁栄を導く女性だと言われているのだよ」
「……それじゃあ、姉は間違いなく国を反映させる女性なのでしょう」
クラウスが思わず言った言葉に、女王が目を瞬かせた。
「おぬしはなんぞ、何か知っているのかえ?」
「はい」
クラウスはここで、舞踏会の夜に目の前で起きた奇跡の話をした。
女王はそれを聞き終わると、言った。
「なるほど。その名付け親の妖精とやらは、ずいぶん力のある妖精のようだのう。わらわもそれほどの奇跡を扱える妖精の名付け親など、古今東西聞いた事がない」
「じゃあ……」
クラウスは女王が、キララをお妃として選んでくれるのではないかと期待をした。
そうすれば自分は帰れるのだ。姉もいらない悪意を受けなくて済む。
そんな期待はすぐに裏切られた。
「だがのう。それでは周りは納得せぬわ。満月の夜にならば諦めが付く可能背の高い貴族の令嬢たちとて。わらわが急におぬしの姉を選んだと言えば、反発を招く。野心に燃えた親どもも不安の材料になりかねぬ。クラウス、覚えておくといい事がある」
「何でしょう……?」
「事実だから正しい道とは限らないという事じゃ。おぬしは事実を語っているかもしれない」
かもしれないじゃなく、語っているのだと思ったクラウスを、哀れな娘を見る顔で女王は見る。
「だがそれが、誰もを納得させられるかと言えば否というしかないのじゃ」
「……」
事実だと思ったクラウスに、追い打ちをかけるように女王が言う。
「わらわは女王、最高の権力を持っているように見えるかもしれぬのう。だが。国は人が集まってこその国。わらわが一人でなんでもできるわけではないのじゃ」
そこまで言った女王に、クラウスは膝を折って謝罪をした。
「申し訳ありません……」
「よいよい。おぬしは今までの妃候補よりははるかにまともじゃ」
言葉の途中から聞こえなかったクラウスは、首を傾けた。
しかし女王に問い返す事も出来ないので、これはこのまま退室するのかと思った時だ。
女王は目を少し輝かせて、興身を示した色で問いかけてきた。
「先ほどの話の続きをしようかのう。理想の男ならば、どんな遠方にも嫁げるのかえ? たとえ罪びとでも?」
「私は、教会で教わりました。人は生まれた時から罪びとなのだと。つまりどのような人間であっても罪びとであることに変わりませんから、罪びとだという事は障害にはならないと思うのです。それに、遠方というのならば、父も遠方で働いており、会えないというならば今とあまり変わりません。それに、里帰りが許されれば会いに行けますでしょうし」
ただ家の事が気になるだろうな、とクラウスは内心で付け足した。
それとも、自分がどこかに嫁いだりしたら、継母も義姉たちも、自分の代わりの召使を見つけてくるのだろうか。
それはそれで寂しいけれども。
クラウスは自分の意見を述べた後、女王を観察した。
女王は表情が読めないが、何かを考えているのだけは伝わってきた。
一体女王は何を考えているのだろうか。
自分には全く分からない事を考えているのだろうか。
上位貴族の考えはクラウスには及ばない物がある。
そう思った矢先の問いかけは、思った以上に意外な物だった。
「もし、おぬしは我が息子には興味がないのかえ?」
「キララ様の思い人に懸想はしたくありません。それに妃になる理由もございませんので」
女王は面白そうに目を細めた。
「我が息子は凛々しかろう?」
「はい、一度も目にしたことがないほど、凛々しいお方でした」
「でも何とも思わぬのかえ?」
ここには警備兵以外誰もいない。言ってしまえとクラウスは思った。
「はい、決して侮辱をしているわけではないのですが、なぜか憧れる事すらできないのです。美しい、立派な方、凛々しいお方と感嘆する事は出来るのですが」
実はクラウス自身も、自分に対してそれはどうなのかと突っ込みたくなる部分の一つであった。
どうしてあれだけ見た目のいい人を、なんとも思えないのか。不思議すぎるのも事実だ。
姉のように思えないのは、姉のように彼の性格を知らないからなのだろうか。
それとも、よく似た火の眼の彼の方が、ずっとずっと好ましいからか。
そういう疑問もわいてくる部分があった。
女王の機嫌を損ねたらどうしよう、と内心であわて始めたクラウスに、女王は言う。
「よいよい。単純に、おぬしの運命の相手ではないだけじゃろうからのう」
女王は寛容だった。それに安堵しながら、退室を告げられたクラウスは翔鸞の間を出た。
クラウスがここまで自分の心の内を述べても、女王が彼女を罰さなかったのは、ほかの妃候補たちとは違う理由からだった。
確かに女王は、妃候補たちを試すために、二人きりの時間を作っていたし、その時のどれだけ無礼なふるまいをしても見逃してきたが。
クラウスが罰されなかったのは、その言葉が心からの言葉であり、また彼女が誠実だったからだ。
権力も富もあまり欲しくない、王子と結婚する気もないという野心のなさを、女王は見抜いたからだ。
女王はこの王宮では、あらゆる偽りを見抜く。それができない女王ではないのだから。
あの目をまた再び、見る事になろうとは。そんな事があるわけがないと思っていた。
血のつながりはないはずだというのに、全く同じ瞳をしていた。
「……惜しいのう」
彼女は小さく呟いた。
あの娘ならあるいは。可能かもしれない。だが、惜しい。我が息子にはあれくらいの娘を教育した方がいいかもしれないというのに。
女王は妃候補たちの情報を手に入れていた。その中でもクラウスの才知は抜きんでている。
抜き出すぎていて、何の冗談なのだと思いたくなるくらいだ。女王自身、妃候補が複雑な地形や高等数学、歴史学者も脱帽するだけの専門知識、経済を転がす術を学ぶとは思わなかったのだ。
一度目に聞いた時は耳を疑った。そんな馬鹿なと思ったし、そんな嘘を言ってまでこの娘に注目してほしいのかと思った。
そして、我儘に見えるほどの家族への思い。女王は聞いた事がない。
『キララ様の思い人に懸想はしない』
そこまで言い切る、主人の家への思い。相手は王子で、普通の令嬢ならばしまいであろうとも蹴落とすだろうこの妃候補の選抜で。それを言い切る心は、女王の知らないものだ。
他の娘と一線を画している娘。
その癖拍子抜けするくらいに、求めている物が地味だ。あれだけの知識があれば簡単に手に入るかもしれない、どんな地位もいらないらしい。ただ老成した幸せを望み、この小国の娘がこぞって憧れる運命の恋などは欲さない。
だからこそ、息子には相応しかったのだ。浮気だろうが跡継ぎ争いだろうが、あの娘は終結できる。
女王は惜しいと心底思っていた。あの娘の中に、誰よりも妃としての素質を見いだしているというのに、もっと懸案事項が目の前に転がっているのだから。
女王はその懸案事項のために、鈴を鳴らして宰相を呼ぶように伝えた。
「これ、シャネットを呼んでまいれ」
「何を試したかったのか」
クラウスは要点と思われる部分を指で折り数え、考えた。后としての何なのか、それとも息子への愛情からくるだろう性質の測定か。
考えてみても、会話の内容を思いだせる限り思い出してみても。答えは一向に出てこない。
出なさすぎた。
思考を放棄したくなるほど、回答が出てこない。
それは自分が情報を知らないからだろうと、そういう見方もできる。クラウスは家の事しかしてこなかった。お伽噺は好きでも、建国当初の逸話はあまり興味が沸かなかった。
それもあって、ガラスの靴の話も知らなかった。
今日は遅いという事もあって、フィフラナは詳しい事情はまた明日聞かせてもらうと言っていた。
もしかしたら、フィフラナに聞いてもらえば何か、分かるかもしれない。
寝台の上で豪奢な天蓋を眺め、クラウスは寝間着で考える。
あの面会の理解ができなかった。
それとも、女王は時間を見つけて、妃候補全員と会話をしているのだろうか。
そうだとしたらきっと妃としての素質を図る気がするのに、なぜか自分との会話はそれとはどこか離れている気がして仕方がない。
目的がさらに分からなくなった。それでも眠気は訪れて、クラウスは目を閉じた。
そしてとうとう、王子と会う順番にもならずに何日も過ぎ去ったある日。
宿題を終わらせていたクラウスは、のんびりとフィフラナとお茶を飲んでいた。
年上の友人がもたらす、様々な話を聞いていると扉が叩かれたのだ。
「誰かしら」
フィフラナが素早く身支度を整え、そしてクラウスも鏡を素早く見た。
問題なし、と二人で目配せをすれば、またノックの音が聞こえてくる。
宮廷夫人は一度目のノックで応対するのは、何処かはしたないと言われてしまうのだ。
そのため、基本は二度目のノックで対応する。
それは、急な相手の来訪により、見苦しい姿で来客に対応しないようにするためともいえる。
少女が頷き、フィフラナが応対にでる。
「お待たせいたしました」
「いいえ、安心なさってください。そんなに待っておりませんよ」
微笑んだのは女官の一人である。その衣類のスタイルから、彼女の階級が分かった。女官服の中でも、高級な緋色を袖口にあしらった姿は、女官長直属の女性たちのしるしだ。
そんな女性が一体どうしたのだろう、などとクラウスは思いつつ、ゆったりと頸をそちらに向けた。
ここで全身をそちらに向けると、どこか下町の小娘の様でよろしくない、と教師に教えてもらっていたために、そういう対応になったわけである。
女官は微笑んだまま、フィフラナを見やり、それからクラウスを見る。
「クラウス様、あなたは一か月後のデビュタントパーティで、デビュタントなさいますよね」
「はい。そうです」
デビュタントもできない身分の娘を、妃候補として置いておくわけにはいかないから、強制参加と言ってもよかった。
「そのためのドレスのご用意のために、一度ご実家に戻ることになっているとは知っていますか?」
クラウスは一瞬言われた事が分からなかったが、それをすぐさま理解して目を大きく開いた。
驚きを隠せなかったのだ。
そんな少女も無理はないだろう。妃候補として、妃が決まるまで屋敷に帰れないのだと思っていた少女にとってそれは、驚きだったのだ。
「知らなかったようですね。意外と知られていない物なのですが、このたびの妃候補たちの中にあまりにも、デビュタント前の少女が多いために、このような措置をとる事を陛下が決定いたしました」
きちんと、議会を通して決定しましたが、ご存じありませんか?
少し意外そうに、ちらとフィフラナを見ての言葉である。
それをみた少女は、フィフラナが何か知っているはずだったのだろう、と推測できた。
それは後で問いかければいいだけの話。
いまは女官の話をきちんと聞いておこうと決めて、クラウスは言葉の続きを促した。
「この度のデビュタントパーティに参加する少女たちは、皆実家に戻り、ドレスなどを用意する事になったのです。クラウス様はご実家というよりも、お仕えしていたお屋敷であるギースウェンダル家に戻る形ですが。あそこのご婦人はそう言った事にとても手慣れていますから、きっと力を貸してくれますよ」
女官の言い方は、クラウスがギースウェンダル家の使用人であり、こう言った事を何も知らないというような調子だが、それは仕方のない事だろう。
あのお屋敷で、そういう風に見られることをしていたのだから。
「お屋敷に一度戻れるのですか?」
しかし、何か都合のいい事のように聞こえてしまった少女は確認した。
それを聞いて女官が頷く。
「はい。そちらでドレスや装身具などを一式用意していただきます。むろん、クラウス様にも」
「わたしもですか?」
「ええ、公平ではなくなってしまいますからね」
デビュタントすらできないなんて、大変な不名誉なのだから。
王族はメンチだか面子だかを潰されるわけにはいかない、とどこかで聞いた事までふっと頭に蘇ってきたりした少女は納得した。
「女王陛下は、ウィリアム殿下の事をよく考えていらっしゃるのですね」
「妃候補の少女たちが、選定から漏れた後の事も、よく考えていらっしゃいますよ」
女官がまた嬉しそうに笑ったので、彼女がどれだけ女王に心酔しているかがうかがえるものだ。
「帰省の日程は明日からデビュタントパーティの数日後までです。ご準備はできますよね」
「はい」
明日何て急だと思いつつも、自分はそんなに持ち物もないのだし、大丈夫だろうと少女は考えていた。
「エスコートする男性の事なのですが、男性はご実家で手配していただく事になっております。すでどの令嬢のご実家にも連絡してあります。クラウス様の働いていたお屋敷にもですよ」
女官はその後の連絡を済ませて、退室した。
そして残されたクラウスは、年上の頼りになる侍女に問いかける。
「フィフラナさんが何か知っているはず、みたいな顔をしていたね」
「ごめんなさい、クラウス様」
フィフラナが頭を下げてきた辺りで、少女は相手にも諸事情があり、言いたくとも言えない事があったのだろうとわかった。
「まあ、実害がないから大丈夫。荷造りして、朝一番にでも出られるようにしておこう」
前向きに言った彼女に、娘が笑った。
「時々、あなたの方がずっと大人に見える事があるわ」
「お姉ちゃん、痩せた? 大丈夫?」
クラウスは、別の馬車で屋敷に戻ってきた姉の顔を見て、開口一番そう言う。
「大丈夫。痩せているように見えるだけよ。何日もあなたと顔を合わせていないから」
言ったキララは輝くように美しいのだが、何処か陰りがあるのは否めない。
美貌の少女であるが故の悩みが、あるのだろうか。
クラウスは、何とか実家にいる間は栄養のある消化器官に優しい物を用意しよう、と心に決めた。
玄関前のホールはどこか薄汚れた印象が否めず、かすかながら決定的な違いに眉をひそめてしまう。
だがそれも、階段を下りてきた二人の美女の前には飛んでいく。
「クラウス、キララ、お帰りなさい」
二人の美女はにこりと微笑む。その微笑みを見て、どうしてかキララがびくりと体を震わせた。
この二人が何かをした事など、ないはずなのだ。
何かしていれば、一番に気が付けるし、使用人たちだってキララに何かされていれば黙っていないだろう。
この優しい義姉たちが、何かするとも思えない。
「待っていたのよ」
「二人ともどうしているかしらって、友達に手紙を書いてみたり」
「友達から、話を聞こうとしてみたり」
矢継ぎ早に話しかけてくる二人は、宮廷の暮らしにも興味があるようだ。
とてもきらきらとした瞳の二人だというのに、キララはびくりと怯えた調子になる。
「あの、お姉ちゃんがとても疲れているみたいなので、休ませてもらえませんか」
見ていられないほどなので、クラウスはするりとキララの前に立ちお願いする。
「そうなの? 宮廷生活って苦労も多そうだものね、そうだ、二人とも寝室を新しくしたわ。使っていない二階の部屋なの。二人とも一人部屋よ」
「わたしも?」
お姉ちゃんをもう、小間使いたちと同室にできないことはわかっても、己も妃候補、もっと下の物置に入れる事は出来ないという事実に、頭の回らないのんきな少女である。
おそらく彼女にとって、その物置も快適であったが故だろう。
「お父様が、前妻様のお部屋だからと、なかなか開けてくれなかったお部屋がキララのお部屋。クラウスのお部屋は来客用の物よ」
どちらも開かずの間だったはずだ。
驚いてしまうのは本日二度目で、叫びかけてしまう。
「あの、開かずの間を? 当主様しか鍵を持っていないお部屋だったはずですよね」
「お母様が、二人のために鍵師を呼んで合い鍵を作ったのよ」
茶目っ気たっぷりなセレディアであった。
「それじゃあ、あなた、キララを案内してちょうだい」
カリーヌが優雅な仕草で、見覚えのない使用人に頼む。
「はい、かしこまりましたお嬢様」
その使用人は実に物慣れた仕草と、所作が指折りの見事さである。
何処から引っ張ってきたのだろうか。
こんなふうな人、と感心してしまうのは、その使用人が美しいとは言えない姿なのに、それら全てを上品にしてしまう対応であるが故だ。
お手本にしたい人だ。
そして彼女はおそらく、当主様が雇った使用人ではない。
その直感は正しく、義姉たち自らクラウスを部屋に案内する時に教えてくれた。
「見ない顔が何人もいるでしょう? 皆お母様が、実家を通してここに雇った人たちなの」
「懐かしい顔も多くて、昔に戻ったみたいな気分になったりもするわ」
そうか、義母の家……たしか公爵家……に仲介してもらった使用人たちであり、もしかしたら義母や義姉に仕えていた事もある人達かもしれない。
「皆、素敵な人たちよ。あなたもいろいろ聞いてみたい事があったら聞いて大丈夫」
「はい」
そんな会話をいくつかしている間に、開かずの間と呼ばれていたその部屋に着く。
一体どんな部屋だったのか。
クラウスは緊張しながら、その扉を開いた。