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まず始めに彼女が思ったのは、これは何の晴れの舞台だろう、という事であった。
というのも、そこにいる若い女性たちの誰もが着飾っていたからだ。
キララの服装など、この場ではとてもありきたりな見た目に写った。
それほどに、誰もが着飾っていたのだ。
そのまぶしさたるや、もう一度妃選びの舞踏会が始まりそうな勢いだ。
そんな光景に圧倒されつつ、クラウスは一番後ろの、人目に付かないだろうカーテンの陰の位置にたった。
こんな場所に自分ほど、庶民的な衣装を身にまとっている人間がいなかったせいで、とても気後れしてしまったのだ。
彼女でなくとも、ほかの誰もが美しい状態であるのに、自分だけ普通の格好であれば気後れするだろう。
実際にクラウスをちらりと見たほかの令嬢たちは、鼻で笑った。
いかにもそれは、取るに足らない敵にもならない、そんな相手に対する視線だった。
こんな場所は間違いだ、いいや、文字通りの場違いだと心底思いながらも、少女はここに集められたほかの女性たちと同じく、何か指示を出してくれる相手が来るのを待っていた。
クラウスが来てから十分ほど後に、これまた壮麗な衣装の女性が現れた。
彼女を見るや否や、あまたの候補の女性たちがその眼に敗北感をにじませた。
よほどの名家の女性なのだろう、と見えないながらも周りの反応から少女は察した。
すでに社交界に出ている女性たちの間から、声が聞こえてきた。
「モリアティ侯爵家のイザベラ様だわ」
「あの方も選定に選ばれたのですね……」
「よく、ガラスの靴に脚が入ったものですわ」
それは小声ながらもはっきりと聞こえ、あんまりな言いようではないかと少女は思った。
まるで侮蔑の対象のような声だったのだ。
侯爵家、それもモリアティという名前なら、今かなりの勢いの家ではないかと、少女は街で聞いた噂を頭から引き出す。
侯爵の弟が、将軍だったはずだ。
とても女王陛下の覚えがめでたい将軍だったような、と街の噂を思い出す。
そして侯爵自身もなかなか、女王の信頼が厚かったのではないだろうか。
クラウスは何とかもっと情報を集めようとしたが、ほかの令嬢たちが何か言う前に、りんとした声が響く。
「何かいいたい事がありますのならば、わたくしにむかってはっきりとおっしゃって欲しいわ」
その声の自信に満ちた音に、少女は、目を大きく開いた。なんてよく通る声の持ち主だろうか。
この声でりんと、放たれた音は強い力を持っていそうだ。
事実ほかの令嬢たちは押し黙り、くすりとその女性が笑うのが聞こえた。
「弱気な方々だわ。……自分の行為を正当化できないのに行うなんて、よろしくなくってよ」
これはかなりの気質の人だ、背中を追いかけたくなる系統だ。
何かの先頭に立つと、皆がそれの後を追いかけたくなってしまうだけの、吸引力を持っている人だろう。
姿は見えないながらもクラウスは、彼女の自信に満ちた力強い声に、心底感嘆した。
彼女が現れてから程なく、扉がまた開く。
しかしその扉は、外からのものではなく内側からの物であり、明らかに城の関係者が入ってくる扉だった。
そこから現れた女性は、ぴっちりと髪の毛をまとめ上げた女性である。
彼女の衣類の肩に留められたブローチは、王城でも滅多にお目にかからない印だ。
誰だろう、と思った少女だが、その女性が口を開いた事で疑問は解消された。
「皆様、ようこそ、王城へ。わたくしは女官長のセレニアと申します。皆様はガラスの靴に選ばれた女性たち。王室はあなた方の中から、妃を選定いたします」
とてもはっきりとした明瞭な声が、続ける。
「皆様には妃候補として、王城の春の宮で過ごしていただきます。その間に、皆様には同じだけの妃としての教育を施させていただきます。何故ならば、皆様の教育に隔たりがあるからです。それでは選ぶも何もありません。……同じ場所に立たせなければ、どれだけ素質を持っていても知識のある者に劣るという見方になるからです」
彼女は周囲を見回した。あまたの少女たちだ。
それはあまたの貴族階級に属する娘たちだともいえる。
たしかに、男爵家の教育と、公爵家の教育では隔たりが大きいだろう、とクラウスはどこか遠い場所のように思った。
それ故に、同じだけの物を持つように学ばせるのだろう。
素質を見抜くためだ。
「過ごしていただくのは二ヶ月。満月の晩、……秋のデビュタントパーティの後の満月の晩に、皆様の中から四人の候補者を出させていただきます。候補者の皆様はその後自由に過ごしていただきますが、その中から正妃となる方が決まります」
全てが選定の判断基準なのだ、とクラウスは察した。
自由にといって、彼女たちの行動や性格のぼろが出るかどうかも計るのだろう。
とんでもないな、こんな魔窟からは早々に出ていけるようにしなければ。
だが、ここでまじめに勉強をしなかったら家の恥になるだろう。
勉強だけはまじめに行わなければならない。
だが。
クラウスはちらりと、まぶしいほどの金の髪の少女をみる。
自分など逆立ちしてもお姉ちゃんにはかなわない。
がんばってまじめに勉強をしても、キリがしれているだろう。
彼女はそう判断し、思ったよりも楽そうなのでほっとした。
女官長の話は続く。
「王子殿下は、皆に平等に訪れますのでご安心を」
それを聞いた少女はとても、王子に同情した。
彼だって自分の時間が欲しいだろう。多少なりとも。
その時間を全て費やさなければおそらく、この四十人を越える娘たちの顔を見る事など出来やしないはずだ。
王子様の妃選びだというのに、これでは王子様も嫌気がさしてしまうに違いない。
自分の所には来た振りでいいのだから、王子様には心休まる時間があった方がいいなあ、とお人好しの少女は思った。
春の宮には数多の部屋がある。
クラウスはそこの一室と、王宮付きの使用人を数名用意してもらう事になった。
妃候補は全員、王宮から使用人を用意してもらうらしい。
自分の事は自分でできるのに、と思いつつも彼女は、それに従った。
女官長が説明を終わらせた後が大変だった事から、彼女は精神的に疲れてしまい、自分は偶然から靴が履けたのだ、と説明しそびれてしまったのだ。
「おかしいですわ!」
あの後、そう女官長の説明の後に、声を上げたのは一人の高位貴族の令嬢だった。
彼女の名前は知らないし、単純に少女は見えた豪華な衣類から、そう言う風に判断したのだ。
「ガラスの靴が履けたのはわたくし! わたくし以外は皆偽物ですわ!」
彼女の言葉を皮切りに、ほかの令嬢たちも自分がそうだ、ほかは偽物だと騒ぎ始めたのだ。
それは、この部屋に集められていた娘の誰しもが抱いていた感情であるようで、一人が言い始めるともはや、収まりがつかなくなっていた。
女官長に詰め寄る複数の娘だが、女官長は海千山千の強者だったようだ。
「ガラスの靴は、すばらしい娘を複数集めますよ。皆が本物であり、偽物はおりません。王室は皆様にとても期待しております。……皆様がすばらしい妃候補になる事を、です」
言外に、この騒ぎ立てる調子は妃候補として減点だ、と匂わせた女官長の空気に少女たちは黙り込む。
彼女らとてすぐにわかったのだ。
選定はすでに始まっているのだ、と。
そして彼女らはさきほどの勢いがなかったように、次々と家名の順にメイドに連れられ、己が数ヶ月過ごす宮の部屋の一つに、去っていった。
クラウスもそれに習い、キララの後にそれに続く。小さく、娘たちが憎々しげにキララの事をしゃべるのが耳に入っていた。
「見てよ、同じ家から二人も」
「それにしても、落差の激しい二人だわ」
「美少女と凡才?」
「きっとすぐに選定からはずれてしまうでしょう」
クラウスはそんな事実を全く気にも留めなかった。
彼女の中では全てが全て、事実でしかなかったのだ。
美しいのは姉に義姉たち。中でもキララはとびきりで、髪の毛の色以外はとても地味な自分。
どう考えても落差しかない。
だが、クラウスという少女は劣等感など持ちやしないのだ。
次元が違いすぎる物に、人間は劣等感なんて抱けない。
美の女神に、人間の地味な女が劣等感を抱くだろうか?
答えは否でしかない。
彼女からすれば、自分と姉の顔の違いなんて、その世界なのだ。
クラウスは、女性たちの声など気にせず、退室する際にくるりと中に振り返り、そして。
一礼をした。礼を尽くした単純な一礼。
それは、使用人と同じ扱いが長かった少女にとって、当然の習慣だった。
退室する際は一礼を。中への人々の礼儀だ。
彼女が顔を上げると、なぜか女性たちは目を少し丸くしていた。
しかしそれに疑問を投げる前に、クラウスは案内人の女性に追いつくべく、少しあわてて去っていった。
「……身の程くらいはわかっているようですね」
誰かが小さく、そう言う事を呟いた。
そして連れられた春の宮の一室は、クラウスにとってはとても身に余るものであり、慣れたくないと思いつつも、これの中に二ヶ月もいたら、慣れてしまうだろうと推測ができる物だった。
環境の変化になれないままだと、いきものは生きていけない。
それ故に、生存本能が、自分が壊れないようにと環境に適応するのだ。
周りを見ながら、少女はそんな事をふと思い出し、呟く。
「慣れたくないな、ここの生活」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も」
つぶやきは、ありがたい事に誰も、聞いていないようだった。
少女は部屋のクロゼットを確認し、簡単に大きさが調整できる寝間着と、部屋着が老いてある事にほっとした。
それ以外の衣類が存在しないのは、何か理由があるのか。
中をしげしげと見ていた彼女に、背後から声がかけられた。
「あなたの採寸をして、ここでの暮らしに合った衣装が作られるのよ」
その声は明るく軽く、そして気の強い調子だ。
振り返った娘は、相手を見て目を丸くした。
「うわ、すごい美人」
「ありがとう! お世辞でもほめられるとうれしいわ。私フィフラナというの。公爵家の養女で、あなたの小間使いになるのよ」
相手のほめ言葉に気をよくしたのだろう、彼女は笑顔でクラウスに一礼をした。
それも、なんだか自分とは大きく違う、育ちの良さが現れた見事さだ、と少女は感じてしまう。
無遠慮かもしれないが、とクラウスは彼女をみる。
綺麗な艶のある、飴色の髪の毛を動きやすく髷にし、リボンで縛っている。
白い肌に少し赤みが差した頬がいきいきとしているから、おしろいなど必要ないし、頬紅もいらないだろう。
大粒の琥珀色の、頭の回転の良さも現れている瞳。それが日の光に好かすと金色の光をはじきそうだ。
体つきも、魅惑的と言っていいだろう。
簡単に言えば、ギースウェンダル家の女性たちのような、可憐さや清純さはないながらも、見事に美女と言っていい娘がいたのだ。
彼女の方が、絶対に妃候補としてふさわしいだろうな、とクラウスは思った。
「あなた、でも私はガラスの靴が履けなかったのよ」
手をひらひらと揺らし、彼女が言う。
少女はそこで、自分が思っていた事を口に出してしまっていた、と気づく。
気づいて少し、恥ずかしくて視線を逸らした。
「ごめんなさい、あまりにもあなたがすてきな女性だから……」
少女のまじめな本音に、女性フィフラナが吹き出した。
「やだあなた、そんなかしこまらないでよ。私の方があなたの小間使いで、あなたのお願いを聞く側なんだから」
「……でも、公爵家の養女の方でしょう? わたしの方が身分的にも立場的にも……」
「あのね? 妃候補がどうして、自分の家で修練を積まないか知ってる?」
「いいえ」
「ガラスの靴に選ばれた女性は、皆、平等にするためよ」
クラウスはそこで、女官長の言っていた事がそう言う意味だったのか、と気づかされた。
「自分の家で修練だったら、お金のあるなしで色々決まってしまうものね」
「あら、すぐにわかるのなら、問題ないでしょう」
フィフラナがそう言ってから、クラウスに言う。
「少し、あなたは疲れているようだから、お茶を用意したわ」
「それじゃあ」
クラウスは彼女をじっと見て、こう提案した。
「一緒に、席に座って、お話ししてくれますか? あなたと話したいんです」
その言葉を聞いた彼女が、弾けるような快活な笑顔で言った。
「ええ、もちろん」
二人はそこでお茶を飲み、他愛ない会話をした。はたからみれば、小間使いとその主というよりも、年の違う友人に見えた事だろう。
そこで、クラウスは、フィフラナの野望を知った。
「それじゃあ、王子様の衣装担当になって、玉の輿狙ってるの?」
「そうよ。以前、そういう経緯で側妃になった人がいるの。公爵家と縁がある人で、私もそれを目指そうかしらって思っていて」
「それじゃあ、フィフラナさんは、衣装のあれこれにとっても詳しいの?」
衣装のあれこれなど、季節にあった布地くらいしか知らない少女は、身を乗り出した。
「どうしたの、そんな眼をきらきらさせて」
「だって、フィフラナさんに服を選んでもらったら、絶対に間違いないんでしょう?」
「そこまで言われると張り切りたいけど……何がいいたいの?」
「フィフラナさん」
「何?」
「春の宮にいる間、わたしが不敬にならないように、衣装を選んでください!」
「……もしかしてあなた、衣装センスがすごく悪い?」
「そうじゃなくって、わたし、衣装のマナーも何も知らないの」
「本気で言っている? もしかして冠婚葬祭の全部?」
「全部、使用人の格好して、それの準備とか手続きとかしていたんだもの」
クラウスの、あっけらかんとした言葉に、彼女が黙る。
何か変な事を言っただろうか、と娘は彼女の顔をのぞき込む。
「フィフラナさん?」
「もしかしてあなたが、ギースウェンダル家の灰かぶり?」
「シンデレラ、なんて名前じゃないよ?」
「……あのね、ギースウェンダル家には、三人の娘がいて、二人の継娘と、当主の血を引く直系の娘が一人いるって言われているの」
「へえ、そうなんだ」
クラウスからすれば、分からない話ではなかった。
キララは継母の直々の小間使いで、跡取りとして教育されていた。
上の二人の義姉たちが、あの屋敷に継母とともにやってきたのも周知の事実だ。
しかし、世間がどう見ても、自分は娘として確認できないだろうとも。
当主にも、当主の前妻にも似ていない娘が、家の令嬢として認められている事が驚きだ。
クラウスにとって、自分が娘の頭数としてあげられていない事は、それで納得する物だった。
父から、家名を名乗る事、つまり貴族として、娘として認知されていないという事はそういう事だった。
その事実に気づいたあたりで、クラウスは父を父と呼びながら、父として認識する事ができなくなっていた。
あれは当主様。自分の働く屋敷の、当主様。
本当に、そういう認識になってしまったのだ。
おそらくそれは、父から愛されない少女が、自分の心を守るために行った自己防衛だった。
クラウスはそれで良かった。義母や義姉たちが、家族として扱ってくれる。
少女にとってそれで十分だったのだ。
彼女は父から、愛情をもらう事をとうの昔にあきらめたのだから。
愛情なんて数ではない。
血のつながりのない愛でも、愛は愛だ。
「それで、その一人の娘が、どうしたの?」
直系の娘が一人だと、勘定として合わないなと、すぐに気づいた少女はフィフラナに続きを促した。
そして、驚きの言葉を聞かされた。
「その、直系の娘が、継母にぼろ雑巾みたいに働かされていて、使用人のようだって」
「違う!」
クラウスは、自分で思っても見ないほど、強い響きの声で言った。
「違う、違う! 義母様はそんな事する人じゃない! わたしが当主様から言われて、やってるんだ! それに、お姉ちゃんは名誉ある義母様の小間使いだよ、時期女当主として学ぶためには、そこが一番いいって」
自分でも感情が振り切れ、何を言っているか支離滅裂な彼女だったが。
その状態の娘を見て、フィフラナは何か悟ったらしい。
「クラウスさま。……よければ、いくつか順を追って説明してもらった方がいいわ。あなたの身を守るためにも」
声ははっきりとしており、娘よりも社交界の陰の部分を知っているフィフラナが、少女を案じているのがわかるものだった。
そして、クラウスの話を一通り聞き終わったフィフラナが告げた。
「あなたは、あの家の四番目の娘なのね。それも父親から認めてもらっていない」
「うん」
「……これは大変な話だわ。いい、クラウス様。あなたはその事実を、他人に喋ってはいけないわ」
「何で?」
「あなたの話を、事実だと思えないからよ。あなたの話を聞いて、だいたいの人は継母をかばって、父親を悪く言っているのだ、と認識するわ。辺境伯はそこそこの人だと言う評価だから。それに、通りがいいのも、理解が早いのも、継子いじめの方なのよ。古今東西、どこにでも転がっている話だから」
フィフラナの指摘に、クラウスは呟く。
「お義母様はそんな事しないのに……」
「でも、世間はそういう風に見ているの。それで、そういう風に噂ができあがっているの。それを覆すのは難しいわ。だからあなたは、継母や義姉たちを守るためにも、あなたが父にないがしろにされていたという話をしてはいけないでしょうね。混乱させるし、いらない詮索を招くわ。下手したらあなたが脅迫されているっていうふうに思うかも……ただ」
「ただ?」
「……なんでもないわ。ただの予測でしかないもの。ええ、そう」
「……フィフラナさんが考えている事はわたしには、わからないよ」
「そうね」
クラウスは彼女の笑顔の中に、何ともいえない何かを感じたのだが、それをあえて追求はしなかった。
使用人は追求が許される立場ではなかったのだ。
それ故に彼女は問いかけもしなかった。
一つ笑うばかりで。
その後も色々と会話をした後、クラウスは彼女が背後に回ったので、怪訝な顔になった。
「どうしたのですか?」
「……あなた何よこれ、ばさばさの髪の毛じゃない! これはいくら何でもひどいわ、髪の表面がはげて、色が抜け落ちちゃっているじゃない、艶も何も、あったものじゃないわ」
「そうかな」
「あなた今まで何で髪の毛洗ってきたの」
「洗濯用の石鹸」
クラウスのあっさりとした声に、フィフラナがしゃがみ込んだ。
洗濯用の、シミや油を落とすためにとても強い石鹸は、少し使うだけでも手が著しく荒れる。
その石鹸で髪などを洗ったりすれば、ろくな髪の毛にならない事は間違いなかった。
その事を考え、受け入れがたい事実にフィフラナがしゃがみ込むのも仕方のない事であった。
「どうしたの?」
まさか自分の言った事で、そこまで理解不能の物があるとは思ってもみない少女の問いに、娘が立ち上がる。
「今日は髪の毛の洗い方から教えてあげますよ。……人目があるし、あなたの色々な物に関わるから、二人でいる時以外は、私も丁寧に話すわ」
「お願いします」
にこにこと笑った少女を見て、娘はこれはなかなか大変なところから、貴族のあれそれを教えなければならないかもしれない、とうっすら感じ取っていた。
「こんなにたくさんの種類の物で、髪の毛を洗うの?」
クラウスは泡の浮いた風呂にはいりながら、目を丸くしていた。
彼女が見ているのは、繊細なガラスの瓶に入れられている物たちだ。
少女が見た事がないそれらの瓶は、ラベルが金字で刻印されている。
それらを一読すれば、それらが髪を洗う石鹸の高級品だと気がつくだろう。
クラウスも、そのラベルを見てすぐにそれが、自分の手には届かない物たちだと見抜いてはいた。
ただし、知っていてもそれで自分の髪の毛を洗うとなれば、話は大違いだ。
こんなにたくさんの物で、髪の毛を洗うのか、という疑問になる。
彼女からすれば、洗濯石鹸でも清潔に髪の毛を洗えるのにどうして、こんなにたくさんの高級品を使うのか、という物なのだ。
確かに彼女も、こういう物があると知っているし、こう言うものの商人が屋敷を訪れ、女主人たちが買い求める光景も見ていた。
だが、自分には無縁の世界、というのが少女の認識だったのだ。
いきなりこんな物を見せられて、あなたに使うのよといわれても、うまく結びつかないわけだ。
「そうですよ、こちらは貴族令嬢ならば一般的に使う、薔薇の香りのする石鹸、こちらは少し高級品の、石鹸の後につけて洗い流すつや出しの物。でもあなたはそれ以前の問題で、髪の毛の表面がはげたものを少しでも治さなければいけませんから、こちらを用意していただきました」
「いらないと思うのに」
いいながらも、少女は小間使いを見やる。
「これも妃候補として恥にならないようにっていう物の一つですか?」
「ええそうですよ。妃候補が見た目も最悪なんて言う噂が流れてしまったら、王室の大問題に発展しますからね」
どうやら、自分はこの高級品たちに慣れなければならない、とクラウスは察した。
そうしなければならないだろう、と。
王室の問題になれば、実家のギースウェンダルにも何か差し障りがでる事程度は、彼女でもすぐにわかったのだから。
「あなたはここにいる間は、きちんと身なりを整えた状態でなければいけないのですよ」
「そうみたいですね」
少女はいい、こう続けた。
「それでは、フィフラナさん、お願いします」
「任せて。これでも小間使いとしてここにあがる時に、侍女たちに鍛えてもらったのですよ」
にこっと魅力的なほほえみを見せたフィフラナに、クラウスはすべてを任せる事にした。
髪の毛を三回も洗うという時点で、彼女の想像を超えていたのだが。
「クラウス様の髪の毛は、どうやら痛みすぎて色が抜け落ちている状態のようですね。きらきらの金の髪の毛と言うよりは、濃い色のようです」
髪を洗ったフィフラナは、女官長にそう告げた。
彼女もここで働いている身の上である。
彼女は公爵の養女であるが、元の出自が低いので一度、ここで行儀見習いをこなすべきだと養父が判断したのだ。
そして彼女も、一応女官長に従う身の上である。
そのため、今夜の事で、何か気になる事は報告するべし、という通達にのっとったのだ。
「髪の色が金ではなさそう?」
「なにやら、もっと青みがかった色のようなものだと見受けられました。彼女の髪の毛がきらきらと輝く金の髪というのは、色のほとんどが抜け落ちているからだと」
「染めている結果ではなく?」
「あの、手触りのひどすぎる髪で、あれだけ色を抜く場合、髪の毛じたいがちぎれてろくな物になりません」
「そうですか」
女官長は、それを何かの帳面に書き付けた。
「彼女の生活がかなりひどいものもしくは、目も当てられないものだったのは、間違いないでしょう。手を見ればすぐにわかります」
「荒れていましたか」
「ぼろぼろでした。よくまあ、手の指が落ちないのだな、と思うほど荒れていました」
「それほど……」
「洗濯用の石鹸を使い、食器洗いのための強力な石鹸を使い、皿に磨き粉のような手に悪いものを常にしようしているからだ、と思います」
「あなたも出自は下の方でしたね」
「ええ。下町で掃除女をしているのが母でしたが、何か問題が?」
「いいえ、何もありませんよ、あなたの働きは見事なものですからね。そして、あなたは彼女に親切にしてやりたいと?」
「はい、私個人の見解でしたら、親切にして幸せに笑っていて欲しいと思います」
フィフラナの報告に、女官長がうなずき、言う。
「あなたは報告を怠らなければ、あの子にどれだけ親切にしてもかまいません。あなたは賢明ですから」
「お褒めに与り恐縮です」
言ったフィフラナが退室する。
そして数人、他の妃候補の事で報告にあがる小間使いや女中たち。
彼女たちの報告を確認し、女官長は言う。
「今回の妃選定は、大嵐になりそうですね」
それは実に的を得た未来の予測だった。
「もうあなたに教える事はありません」
授業の終わりに、頭を下げられて言われたクラウスは、またなのかと内心で思い、そして問いかけた。
「わたしは問題がありますか?」
「いいえ、ありませんよ。次の段階の教師を急ぎ、手配させていただきたく思います。もう私の教えられる範囲を飛び越えそうなので」
「そうですか、今までありがとうございました、次もがんばりますね」
なんだ、また一段お勉強の段階があがり、ほかの令嬢たちに近づくのか、などと考えた少女は笑顔に変わった。
一つ一つ、階段を上るように勉強の段階があがってゆき、物を考え、教師と意見を交わし、教えてもらうのはクラウスにとってとても、有意義な物だった。
初歩の読み書きくらいは出来たクラウスだが、算数の足し算引き算を越えるともう、手に負えなかった。
それ以上の勉強をする時間もなければ、教えてくれる相手もいなかったのだ。
そのため、妃候補似ふさわしい教育を施す教師たちが、こうして部屋に訪れ、彼女に色々な事を教えてくれるのは楽しかったのだ。
知らない事が知っている事に代わり、自分の体の中に何かが満ちていくような、その感覚は少女にとって楽しい物だったのだ。
そのため、彼女は段階があがるたびに、楽しい事がさらに楽しくなるのだと、期待に胸を弾ませる。
古典芸能、古典文学、古代文字、歴史、数学、医術、地理学、経済学、妃としての教養、とにかくクラウスが覚えなければならない物は多岐に渡り、彼女はとにかく頭を使った。
彼女はそのあたりの基礎の教養が何もなかったので、そこから教えなければならない、と王室は判断したらしい。
ほかの令嬢たちも、足りない部分はびしびしと教えられている、と言うのが情報に詳しく、ほかの妃候補の使用人たちと連絡を取り合うフィフラナの話である。
娘は別段、自分だけ劣っていても大して気にしなかっただろう。
だが、それでも他の人も、というあたりを聞くと共感してしまう部分はある。
そしてほかの、自分よりも覚える事が少ない令嬢たちが、優雅にお茶会をしていると聞かされると、これをとっくに覚えているのか、と尊敬してしまう。
「あなた、お茶会に出席したいとかはないの?」
「準備は得意だよ、お茶のタイミングとか、すごく読むのうまいって言われる」
フィフラナの疑問に、こうしてずれた答えを返すのももはや日常だ。
彼女ははじめ、何も自分で整えない環境に慣れなかったのだが、最近はそれにも慣れてきた。
少なくとも、自分でお茶を入れようと厨房に行こうとする姿勢はなくなった。
これだけでも、フィフラナのつっこみが減ったほどだ。
あまりにも使用人根性がありすぎる、というのが、フィフラナの判断である。
「あなた、妃候補からはずれたら、私の屋敷に私の小間使いとして入らない? 縁談もいいのを用意できるわ」
などと、半ば本気で言いだした公爵家の養女に、彼女の答えは笑える物だった。
「おうちでがんばるの。屋敷の事、たくさんやらなきゃ! お義母様たちいるんだもの」
おそらく、その継母や義姉たちはあなたを屋敷に戻したくないわ、とフィフラナは言いそびれている。
彼女は、数多の屋敷に使用人の知り合いやつてがあり、そこからギースウェンダルの家の女主人が、毎夜継娘がこの屋敷に戻ってこない事を祈っている、と知っていたからだ。
情報戦で言えば、彼女の実家の公爵家の右にでる家はない、とこっそり言われているほどの家の中でも、指折りの実力者が養女の彼女だった。
閑話休題。
言うにいえないとはまさにこの事、とフィフラナは思ってしまうわけだ。
クラウスが目に見えて落ち込みそうだからである。
妃候補の精神状態を整えるのも、小間使いの仕事なのであった。
「ねえ、フィフラナさん、次は何を教えてもらえるんでしょうね、古典はこの前言われたもの全部読んでしまったよ、……そうだ、わたし、この次の授業が今日はないんです、わたしやっとこの王城の庭園に行けます、フィフラナさん、案内してください! 本当にたくさんの噴水があるんですか? 薔薇園は迷路なんですか?」
「クラウス様、身を乗り出しすぎですよ。確かに、昨日の教師が教える事は終わった、次の教師の手配のために二、三日は夕方の授業がないと言っていましたね」
クラウスが期待に満ちた、沼の緑の瞳で訴えれば、小間使いたるフィフラナは叶えるものだ。
そして彼女の願いはささやかすぎるので、すぐ請け負ってしまう。
「では、お支度をして行きましょう。王城の中ですから、少しは飾らなければならないですから、こちらで準備しますね」
「わーい!」
子供のように手を挙げて喜ぶ彼女の、邪気のない笑顔だった。
「本当に、このあたりはすごいですね、フィフラナさん」
「たしか……この時期はこの種類の花が見頃だったはずですね」
フィフラナは通り際におほほとあざ笑っていった女たちをちらりとみやる。
実に憎々しげな目線だ。
「あの年増に仕えている女たちの顔は覚えたわ、次からはもう情報なんて流してやるもんですか。なにが地味な候補の隣は育ちが悪そうな小間使いですわね、よ」
彼女のぼそりとした声に、クラウスも声を落とす。
「フィフラナさん声、どすが利いてる。ついでに誰が見てるかもわからないから、もっと穏やかに」
自分はいいのだが、ここでフィフラナの評価を落とすのはよろしくない、とクラウスは止めていた。
「あなたが外だと冷静というか穏やかで理性的だから、私本当にありがたいですわ」
「怒るまでに時間がかかるんですよね」
のんびりと告げた少女は、不意に足を止めた。
「フィフラナさん、いま王子様がなんとかって聞こえた。……誰かの足音がする、女の人の足音じゃないよ」
「それなら王子殿下だわ! クラウス様、どちらかわかりますか? ここ一ヶ月以上、順番とはいえ殿下に一度たりとも、会っていらっしゃらないじゃないですか」
言うやいなや、彼女も行動が早い。クラウスの手をつかみ、走り出す。
「どちらですか?」
「こっち!」
言いつつも、娘は会わなくてもいいんだけれどな、と思っていた。
王子様に会わなくとも、妃候補として隠れていれば、そのうち忘れ去られたようにどうにかなる、と思っていたのだ。
妃候補として、王子からも気に留められる事がなければ、目立たないのだと。
一ヶ月後の満月の晩の公式の発表で、四人に絞られる時に外れればいいのだと。
思っていたのだ。
そして屋敷に帰り、また、手をぼろぼろにして、くたくたに疲れるが、大好きな家族と毎日を過ごせれば、と。
”彼”に出会うまでは。