3
「それでさあ、色々大変なんだよ。あはは」
からから、とクラウスは降っていわいたような聞き役に、日々の大変な事を語る。
大変だ、と彼女は回りには決して言えなかった。
自分で決めたのだと固く決めつけ、家の誰にも大変だなんて、口が裂けても言えやしなかったのだから。
家の人たちには、いつも笑っている温和なクラウス、という人間でいたかったのだ。
彼女も人間だ、思うところは幾つもあったりするし、怒りをあらわにしたい事も、泣き出したい事もたくさんある。
それらすべてを、彼女は自分で決めた事だから、怒るのも泣くのも筋違い、と言い聞かせてきたのだ。
「砂糖の塊重いし。泥を洗うのだって毎日、時間がないのにやらなきゃ泥だらけの食事だもの。でもしょうがないよね、誰かがやらなかったら皆困るんだもの」
「……」
相手はどうして、そんな事を思いながら毎日過ごすのだ、と言いたげな表情をしている。
「世界は一人じゃ回らないんだもの。誰かと誰かが噛み合わさって、世界の歯車みたいなものが回って、一日が始まって終わるんだっておじいちゃんが話してた事があるの。だから、わたしがんばるんだ! わたしが欠けたら、歯車がおかしな風に回るかもしれないし、その後、わたしが修正しなきゃいけない事の方が、きっとたくさんあるんだよ」
「歯車を狂わせたいと、思った事はないのか」
クラウスがとうとうと語っていれば、プロ―ポスが問いかけてくる。
相手の言葉の意味が分からず、少女は隣に座る彼を見やる。
「時計は狂ったら、役立たずになっちゃうでしょう? 逃げ出した歯車は、ただのゴミ扱いされちゃうんだ」
少女の言葉の重さと深さに、彼が瞠目する。
彼女は自分が歯車の一つであり、逃げ出せばどこにも行き場のない、捨てられるだけのごみだと語っているも同じだったのだ。
本人はそれに、全く気が付いていない表情をしているのだが。
「それにさ、大変だって言ったって辛くなんてないんだよ。苦しいとも思わないんだ。家の事綺麗に守るのは、当主様に言いつけられた事だし、奥様の役に立てるのは嬉しいもの」
へらりと、痛みなんて何もないという調子でクラウスは笑った。
「この前なんてさ、お屋敷がきれいですねって王宮の使者の人に褒められたんだよ、うれしかったな、空いた時間見つけたら、頑張ってガラスを拭いて、壁を綺麗にして、屋根の雨と埃の汚れも落として、毎日毎日、夜中にがんばってたから、ほかの人に褒められるのすごくうれしかった」
クラウスは指折り数えて、普通の使用人が行わない事すら行っている自分を語る。
それがどれだけ大変な労力を使う物か、気付かない顔で。
普通は行ったりする事を、考えもしないのだと知らない表情で。
「褒められたら褒められた分だけ、お父様の言いつけを守れている気がするもの」
「……なぜ、そこまで、こだわるんだ」
あかぎれだらけの、血まみれ一歩手前の、とても痛々しい手をぐっと握りしめて、また決意を新たにしている少女に、青年が問いかけた。
娘は相手を見やり、そうだろうな、と理解した。
彼は結構自由な生き方をしているようなのだ。そのだらしない見た目から判断するだけだが。
そういう親の言う事も何処かで聞き流しながら生きている青年には、自分の、言いつけと約束にかじりついている生き方は、とても不思議な、面白みのない生活だろう、という事も。
目を輝かせて語る事ではない。
「だって、わたしの誇りだもの。どんなに他人から見て変な話でも」
誇る事ですらない。というのに彼女は、その言葉を違えない自分を誇るようだった。
火の眼の男が、その言葉に目を見開く。
彼にも何か覚えがあるのだろうか。そんな事を思わせる身じろぎをしたのだ。
「一日中、嫌な事が一つもない人生なんてとっても不幸だし、嫌な事があった方が、好きな事も余計に好きになれるでしょ? 人生はそういうのだと思うの」
彼の顔色に気付かないまま、彼女は自論を語り、ふと口を閉ざす。
彼女の伸ばした指先に、蛍がひらりとまた止まったのだ。
その光をじっと見つめた少女は、どこか遠い目をしていた。
「きっと、そうだもの」
小さな呟きは、隣の男にも聞こえないかもしれないほど、弱い音だった。
それで彼女は、はっとした調子で腰の懐中時計を取り出した。
「そろそろ、帰らなきゃいけない時間だった」
慌てふためき、彼女は立ち上がる。
「今日はごめんね、わたしが愚痴を言ってばっかりで。そうだ、明日はあなたの愚痴を時間いっぱい聞こう! それでお相子になるでしょ? あ、でも、ここにまた来る?」
普段通りの明るい調子で少女が問いかけると、彼は目を瞬かせた。
蛍の明かりの中ですら、燃え盛るように赤くきらめく双眸を。
「……かならず、来るだろうか」
「来るよ、明日は絶対! だって明日来れなかったら、もう、見られないよ、蛍」
「約束だぞ。必ず来るんだぞ」
プロ―ポスはそういうと、立ち上がった。
そして彼女の手を握り、額に押し当てる。
「俺の図太さが、君に移るように」
「わたしも結構図太いよ」
「俺の方が太い」
「いいやわたし」
「いや、俺だ」
なぜか途中から、自分がいかに図太いかに走り出しそうな会話をし、二人そろって彼らは笑った。
笑うほかないだろう。そういうやり取りだった。
「それでは、また明日の夜。ここで。……クラウス」
「そうだね、必ず、プロ―ポス」
クラウスは立ち上がり、時計を見てから大急ぎで走り出した。
その背中を見送り、彼は呟いた。
「どれほど変でも、それが誇りになりうるのか」
その言葉が、彼の中で何か、大きなものに変わったようだった。
彼は少女の手を握った自分の手を、片手で包み込み、額に押しあてた。
「そういう、生き方もあるのか……だが、俺は」
何か後悔するような調子の後、彼は小さく言う。
「君はここに、また来てくれるのだろう、陸の星の君」
彼の唇が呟いた名前は、日の光の下では恐ろしく少女に不似合いな呼称だっただろう。
それも気付かないまま、彼は川辺に背中を向けて、靴を履きなおした。
その時だった。
「我が君」
不意に闇から声が響き、彼はそちらを見やりもしないで言う。
「……なんだ」
返答は少女に向けていた声よりもやや低い。
平素はその声なのだろう、と思わせる低温の音だ。
「そろそろお戻りになってください。影を動かすのも限度がありますゆえ」
「ああ、分かっている、今行くさ……」
姿の見えない声は、己の主が唇で笑っている事実に気付いたようだ。
「何か良い事が?」
「蛍を見られた。すこぶる、美しい陸の星だ」
「まことに。それはようございました。……お早く、我が君」
彼は目を細め、かたんと踵を鳴らしたと思えば、あまりにも速く走り始めた。
「クラウス! 王子様が踊ってくださったの。私を見つけてくださって、わたしを見つめてくださって、ずっと踊っていたのよ……」
十二時に帰ってきて。夢見心地でキララが語る。その声の大きさに、クラウスは慌てて口をふさぐ。
「お姉ちゃん、声が大きいよ! もっと静かに!」
「あっ……ごめんなさい、興奮しすぎて」
「お願いだからひやひやさせないで……誰もわからないって言ったって、それはあの場所だけの効力かもしれないんだよ? あちこちで喋ったら、お姉ちゃんだって気付かれて、お姉ちゃんがえらい目に合うかもしれないよ……」
そんな、お姉ちゃんが不幸になる結末は御免だよ、と言い切った妹に美少女は頷く。
「明日も頑張ろうね」
「そうね」
そんな会話をした朝からクラウスは、自分の頬を一度叩いて、仕事に向かうために、片手に長箒をもって動き始めた。
考えの足りない使用人が何人も辞めてしまったせいで、また彼女にしわ寄せがきていたのである。
足りなくとも手は手だ。動く体があり、役に立たないと言われようとも、多少は物事を動かす。
このあたりでは一番大きな町屋敷を美しく維持するためには、かなりの人数が必要であり、哀しい事に五人も辞められると支障が出るのだった。
「当主様は新しく、人を雇うだろうけれど……今回と同じだったら、教育がなってないって怒られるだろうなあ」
その場合、一番近くで教えるべきだった自分が怒られるのだろう、と少女はわかっていた。
「まあ、それはそうだし、次はちゃんと教えなきゃ」
彼女は自分にそういうが、本当は気が付いていた。
人の倫理観など、高々こんな小娘一人が、正して教育し直すなど、出来やしないのだと。
出来たら奇跡なのだと。
彼女はそうして、今日も日々の雑事やルーチンワークをこなしていった、その時だ、目に留まったのは。
「お姉ちゃんったら、こんな所に教本置きっぱなしにしちゃダメなのに」
クラウスは、キララが置きっぱなしにしたらしい、貴族の礼儀作法の教本を手に取った。
最新版の物で、裏表紙の次のページに版数が書かれている。
中々売り上げのいい物らしく、第五版という文字が刻印されていた。
「ええっと、礼儀作法教本……どんな物なのかな」
少女は好奇心に駆られて、厨房と続きの部屋であるその使用人の部屋の椅子に座る事もなく、直ぐ、直ぐだからと言い訳をして、そのページを数枚めくった。
「……なにこれ」
少女はその本の書き込みや付箋の多さに、眼をみはった。
有得ないほど書き込まれており、分かりにくい所に注釈が付いたそれ。
それは姉の血と涙の結晶のような、努力の結果だったのである。
「お姉ちゃん……やっぱりすごいな、あんなに時間がないのに、こんなに一杯勉強してたんだ」
少女は記憶を探りながら、彼女の姉がこういう勉強の時間が取れない事を思い出す。
「やっぱりお姉ちゃんはすごいなあ、とても真似ができないや」
やっぱりお姉ちゃんが、一番すごい、尊敬するべき努力家だ、と少女は思い、うんうんと頷いた。
「こんなにがんばってるお姉ちゃんだもの、報われなくちゃね」
書き込みの中には、数枚の紙も挟まれており、そこには必要だと思われる貴族のあれそれこれ、が事細かに記載されていたのだ。
「お姉ちゃん、すごいな、家を継がなきゃいない重圧とか、お母様の求める段階とか、すごいと思うのに。負けないんだもの。すごいなあ」
少女は一人頷き、自分の姉の素晴らしい所が新たに見つかった、とうれしくなりながら本を閉ざし、また仕事に戻るためにモップと磨き粉の入ったバケツを片手に、使用人部屋を後にした。
今日は舞踏会の最終日で、蛍を見られるのは今日が最後、そしてあの炎の眼の人と会うのもこれっきり、なんだかそう思うと、今日はとても大事な日だなと、少女はまた思い、窓を磨く事に精を出した。
ようやく、忙しい中窓を磨く時間がとれたのだ。
鳥のふんが付着していて、数日前から気になっていた窓を磨き、クラウスは急いで夕飯の支度にも取り掛かる。
料理女中が何人も辞めてしまったので、人員を補充するまでは少女ががんばらなければならないのだ。
おばあちゃんは一生懸命だが、それでも人間のこなす事だ、限度がある。
ましてご老体なのだから当然、とクラウスは野菜の泥を落とし、骨付き肉をさばき、天火の温度を調節し、あらゆる料理の雑事をこなしていく。
「まったく、こんなにも料理に精通した人間がどうして、あたしの手元でかわいがれないのかねえ」
彼女の出自を知る老婆が、酷く残念そうにそんな事を言った。
「来るって言ったのに、来ないのかな」
クラウスは懐中時計を十分に一回の頻度で確認し、呟く。
再び訪れたいちのくるわの川辺である。そこで少女は、蛍を眺めながら時計を見ていた。
「プロ―ポスの身内は厳しくて、勝手に抜け出したのを怒ったのかな。きっとそうだろうな。衣装豪華だったもの」
少し彼に会えない事を残念だという調子で、少女は呟き、カップに水とコーディアルを注いだ。
そして少し舐めて、あ、と思う。
「間違えて、果実酒持ってきちゃった。……帰れる程度なら、誰も知らないから怒られないかな」
普通、デビュタント前の少女の飲酒はよい顔をされない。
だが、ただの水は味気ないな、と少女は感じる。
おそらく、プロ―ポスに友情のような物を感じていたがゆえに、来ない彼が寂しいのだと少女は結論付ける。
「……でも、やっぱり蛍が素敵だな……」
ほんの少しの果実酒、酒精もきりが知れているそれを二口程舐めた少女は、少し顔を赤らめた。
わずかばかり気分が浮上し、歌いだしたくなる気分になったのだ。
少女は軽く口を開いた後、心が赴くままに音を並べ始めた。
彼女が本当に少しだけとれる半休に、訪れる教会で聞いた讃美歌である。
讃美歌は神の唄であり、なかなか音律を整えるのが難しい。
そのため少女の声は転調したり、テンポやリズムが狂ったりしながら、もはや歌詞だけが同じものとなり果て始める。
しかし、いい気分の少女はお構いなしである。
人気のない川辺、誰も聞く人間がいない、というのもその警戒心の薄さの理由だった。
しばし歌っていた時だ。
「……もはや別の歌だ」
がさり、と裸足で草をかき分ける音がしたのちに、そんな笑いを含んだ声が彼女の耳に届いた。
「プロ―ポス! 来てくれたんだ!」
彼女はばっと立ち上がった。
それにつられた蛍が、一面飛び立つ。
突如の蛍の大乱舞に、相手は眩し気に目を細めた。
「……必ず来る、と言った相手を待たせるのはよくない」
やや沈黙の後に言われた言葉に、少女は頷く。
「でも、お家の人に怒られなかった? あの後怒られたんじゃないかなって思ってて」
こっちこっち、と少女はクッションを敷いて男を手招く。
男はそこに座り、少女のかすかに赤らんだ顔に気付く。
「酒の匂いがするんだが」
「コーディアルと間違えて持ってきちゃって。私お酒そんな得意じゃなかったみたいで、果実酒なのにおいしくなくて。飲む?」
「たしかに、昨日のエルダーフラワーの物と同じ匂いだ。間違えるのも無理はないだろうな」
彼は彼女が二口しか飲まなかったカップの香りを嗅いで、そんな事を言った。
「しかし、素朴ながらとても美味だと思う」
「やっぱりお酒が飲める人は、そういう風に言うんだね。さ、今日はあなたの愚痴を聞く日だよ、聞いてもわたしには縁のない事だろうから、話しちゃいけない企業秘密以外はどんどん喋っていいよ」
「かなり酔っているだろう。大丈夫か」
「歩いて門限までに帰れれば、問題ないんだよ。二口くらいだもの、走ってもふらつかないし」
クラウスが手をひらひらと振ってそんな事を言えば、男はそんな物かと納得したらしい。
彼女がもう口をつけない、という意思表示をしているのも納得の理由らしかった。
「……では、ひとつふたつ」
彼はカップの中身を数回注ぎ直しながら、彼の日々の愚痴を積もらせていく。
群がる女性関係に、制限されてばかりの日常。
どれだけ努力をしても、父の息子だから当たり前、と目される日々の重さ。
何をしても何をやっても、立派だったという父の肩書と同等に見られ、自分がひどく矮小な物に見えてくる事。
クラウスは、何とかわかる事をつないでそう、判断した。
「……立派な家の人って大変なんだね。わたしそういうのからものすごく遠いから、よく分からないけれど。そうだな」
ほんの少しの言葉で語られる、クラウスから見ても重圧にすぎる物たちだ。少女は隣の彼を元気づけたいのに、何も言葉が出てこなくなってしまって、両手を伸ばした。
そしてわしわしと、その整った短髪を撫でまわした。
「っ!?」
少女の行動が意外過ぎたのだろう。
男は目を見開き、凝視する。
「……うちの、もう何年も前に死んじゃった犬の話で悪いんだけれどね、うちの犬、怒られて落ち込んでる時にこうやって、頭撫でまわしてあげると、ちょっと元気出るみたいだったから。あ、ごめんね、犬扱いはいけないか」
喋りながら、相手に対して失礼すぎると気付いた少女が手を離そうとした時だ。
彼がその手首をつかんだ。
「……」
何も語らない唇なのに、その瞳がまだそうしていて欲しい、と訴えかけてくるので、少女は彼の望むまま、頭を撫でまわし続けた。
「……デビュタント前、と言っていたな、まだなのだろうか」
「今年の秋かな? うまくいけば」
数分のそれらの後に、だしぬけにプロ―ポスがそんな事を言ってくる。
少女はそれに頷き、それも怪しいと軽く語った。
「家の都合が色々あるの。まあ、出られなくっても生きていけるから大丈夫」
少女は家の事情を語らず、へらへらと笑った。
すると青年は彼女の腕を掴み、やや強引に立ち上がらせた。
「?」
彼は片手の靴を手放し、その手を自分の胸に当て、彼女の前に跪いた。
そして彼女のあかぎれの痕だらけの、がさがさとした手を取り、こういった。
「この、奇跡の一夜に、俺と踊っていただけますか、うら若きレディ」
「わたし、下手だよ」
「君がデビュタントにも出られないかもしれないならば……俺はあなたの初めてのダンスの相手になりたいのだ」
少女は彼の言葉に首を傾けたのち、大した事にもならないだろうと快く了承する。
「足、踏まないようにがんばるから、あなたは踏まれないように察知したら逃げてよ?」
「ああ」
彼がその、燃え盛る瞳を細めた。
二人は手を取り、ゆっくり、ゆっくりとした速度で踊り始めた。
ここで疑問があるだろう、何ゆえにクラウスが下手とはいえ踊れるのか。
その答えは簡単な物だ。
義母が、暇を見つけて自ら、少女のダンスの相手になっていたからである。
義母は少女が万が一の奇跡で、デビュタントパーティに出席できた日のために、少女に時間が許すかぎり自分のそれを教えたのだ。
まあそれは、ほとんどないに等しい時間を使った物であり、少女は間違いなく練習不足だったが。
「……筋はいいようだ」
「本当? だといいな」
彼が楽し気に目を細め、クラウスは邪気のない顔で笑う。
その時だ、りん、と少女の耳に何かとても小さな音が聞こえ、普段はいている木靴が奇妙な感触に変わった。
「わっ!?」
いきなり何かが変わったせいで、少女は思い切りバランスを崩した。
そして、その崩した体勢のまま、男の胸に倒れ込んだ。
「っ!」
少女は男にしがみつく格好となり、青年は抱きとめる形となる。
二人は少し、そのまま膠着していた。
そういうよりも、クラウスが真っ赤な顔のまま動けなくなっていたのだ。
彼の着崩した衣装のせいで、彼の直の胸板と少女の耳が触れ合ってしまったせいだ。
ばくばくとすごい速さで脈打っているのは、本当に自分の心臓の音だろうか。
クラウスは訳が分からなくなり、強烈に羞恥心が沸き起こった。
逃げたい、とこんなに思うのは初めてな程で、彼女はそろ、と青年を見上げた。
そうすると青年が、少女よりもかなり背丈が高い事が分かる。
彼の眼と、そうやって見つめあった瞬間に羞恥心が頂点に達したのだろう。
「時間だ! わたし、帰らなきゃ!!」
口から出まかせ、というのが正しいが、少女はばっと彼の腕から飛び出し、腰の懐中時計を見やって声を張り上げた。
「ごめん、ごめんね! これで最後だけど、さよなら!!」
訳が分からなくなりながらも、しっかりとバスケットに荷物をしまった少女は、青年が引き留める間もなく走り出した。
途中で見事に転び、しかしすぐさま立ち上がり、脱兎のごとく逃げて行ったが。
見送る青年は、自分の胸に手を当て、それから少女が転んだ場所に落ちている、煌くものに気が付いた。
「……これは?」
彼が手に取ったのは……
運命が変わる、その瞬間はまさにそれだった。
クラウスはひょいと新しい木靴を取り出し、それに足を突っ込んだ。
そして溜息を一つ吐き出す。
「靴、どこに行っちゃったんだろう……片足だけなんて」
昨晩、ぎりぎり日付が変わる前だったので、昨晩と言える時刻。
少女は今まで使っていた靴をどこかにやってしまっていたのだ。
屋敷に帰ってから彼女は、その事実に気が付いた。
気付くのが随分と遅いのであるが、それ位昨晩の彼女は動揺していた、とも言えよう。
彼女はその結果、使用人に支給するために用意してあった、新たな木靴を使う事になっていた。
真新しい靴は少し足に馴染まず、今まで長年使っていたものと比べると、なんとなくおさまりが悪いようだ。
「もっとひどいのは、懐中時計まで落としてきちゃったって辺りか……」
彼女はがっくりとうなだれた。普段そこまで落ち込まない少女が、ここまで落ち込むほどの懐中時計だ。
高価な物だったのか。
「絶対にあの時転んだからだよね……探しに行けば見つかるかな……それとも、時計はぼろでも、そこそこお小遣いになるくらいの値段だから、誰かが拾って売っちゃったかな……」
その時計がよほど大事だったのか、少女は深く溜息を吐いた後に、顔をあげて首を振る。
「今は仕事しなきゃ。お義姉様たちもゆっくり休んでるから、ちょっと色々遅れがちでも、昼までに取り戻せていれば問題ないし。……それにしても忙しいな。新しい人はいつになったら雇えるのかな……当主様の面接、当主様がいないとできないから、あと……何か月も先になるんだよね……」
少女は手際よくあたりを掃除しつつ、庭師の持ってきた花をあちこちに活けつつ、指を折って数える。
「……結局、今年の春の社交界には、当主様戻ってこなかったけれど……どうもあっちでもめごとがいくつもあったみたいだから、仕方がないかな。お姉ちゃんのデビュタントパーティの付き添いがあるから、秋には絶対に帰ってくるわけだし」
指を折って数えて、それからいくつかの想定をする。
日々のあれそれを行いつつ、彼女はおそらく五人分ほどの働きで働いていた。
当然めまぐるしく、食事の時間など取れないような物だ。
ほかの使用人が昼食にありつき、仲間たちと歓談している間も、少女は休みなく働くのだ。
それが当主の言いつけなのだから。
そして、少女の責任感の強さの結果だった。
「お腹空いたな……朝にあんなに食べたのに、もうお腹が空くの」
独り言を漏らしながら、少女は階段まで磨き終えた。
時計が手元にないので良く分からないのだが、と少女はポールルームの大時計を見やる。
「お昼はとっくに超えたんだね。そろそろ皆仕事に戻ってくるはずだから……その間に何かお腹に入れておかないと」
彼女がそう呟いた時だ。
「おやまあ、お嬢。昼餉は口にしたのかい」
庭師が扉を開けて入ってきた。その扉は使用人のための扉であり、無論家の人々の使う物ではない。
そこから入ってきた庭師の老爺は、少女が掃除道具を片付けているのを見て問いかける。
「まだ。……どうしたの、そんなにすごいお知らせが外から届いたの? 小鳥とかが教えてくれるって言っていたけれど」
「この年にもなると、いろいろな事が出来るようになるんだよ。さて、すごいお知らせがあるから急ぎ、奥様方に知らせなければと遅い足を引きずってきたのだが」
「伝言するよ、何?」
少女の問いかけに、庭師が言う。
「昨晩の舞踏会で、謎の美少女がガラスの靴を落したらしい。殿下はそのガラスの靴が履けた娘を、妃候補として迎え入れる、との仰せだとか。ガラスの靴を持った使者たちが、白に近い屋敷から順々に回っているそうだ。この屋敷は最後だろうけれど、その時にだらしない恰好は出来ないはずだから、奥様方に準備した方がいいと知らせてほしい」
「うん、わかった。すぐ、奥様達に知らせて来るね」
これは急ぎの用件だ、と少女は頷いた。
「教えてくれてありがとう! 行かなきゃ」
言った彼女はすぐさま掃除道具をしまい、節度のある速度で階段を上り始めた。
節度のある速度と言っても、なかなか素早い物だったが。
また屋敷は、大騒ぎに近い状態になってしまった。
もしかしたら、妃候補として迎え入れられるかもしれない、となればみっともない恰好は出来ない。
そのために義姉たちが、自分を品よく美しい状態で見せられるように動き始めたのだ。
「こんな事が本当にあるのね、サラ、それじゃないわ、その隣の物を持ってきてちょうだい」
「マーニャ、あなたはさっきから焦りすぎているわ、もう少し深呼吸してから行動してちょうだい」
義姉たちも小間使いもてんやわんやで、その準備をしている。
クラウスは手伝うわけにもいかず、家の事を何とか間に合わせ、ほかの使用人たちに指示をした後でやっと、遅い昼食にありついていた。
もりもりと日ごろの残り物を食べまくっている少女は、いかにも食べる事が幸せだという顔をしている。
「本当に、あんたには残り物ばっかり食べさせているねえ、あたしは」
そんな彼女を見ながら、つかの間の休憩をしている老婆が言う。
「おいしいよ?」
「この家の直系に、どうしてあたしは残り物しか食べさせられないんだか。あんたほど、あの方に似た子はいないのに」
「あの方?」
「……それはそれは大昔にいた、誰よりもあたしが敬愛している人さ。ふふ、内緒だよ。どうひっくり返しても恋愛じゃないんだけれど、あれだけあたしが愛した人はいないのさ。たくさん食べる方でね、料理人としてはひよこだったあたしに、言いたい放題してて。でも上達すると必ず褒めてくれる、そんな方がいたんだよ」
老婆の瞳が煌く。
その時の、昔の事を思い出す彼女の瞳の色は朝焼けのような光をしており、その過去は今でも色あせないのだろう、とわかるものだった。
「そんなに、素敵な人がいたんだ。どこかに嫁いでしまったの?」
「いつの間にか、もうここには帰ってこなくなってしまった人さ。どうしているんだか。音沙汰も何もありゃしない」
しんみりとした空気が流れかけたが、老婆はあ、と小さな声を漏らした。
「おや、困った。バターを切らしてしまっていたよ。御用聞きは昨日来てしまったし、バターがないんじゃ味が決まらない」
「じゃあ、わたし今日時間が空いていたら、買いに行ってくるね。奥様にちゃんと確認して」
「いいのかい?」
「うん、皆に仕事はできる分しか振り分けなかったし、今日終わらせなくちゃいけない物は終わらせたんだもの。問題ないよ。それに、にのくるわのいつものミルク売りの人の所に行けばいいんでしょ?」
「そうだね、長年の付き合いだし、信頼のおける奴だからね」
「ちょっと聞いてくるね、おばあちゃんのご飯に必要な物だもの、直ぐに買ってくる!」
クラウスは今日の仕事の進み具合を頭の中で確認し、それが可能だと判断して立ち上がる。
そしてすぐさま義母に確認をする。
「失礼します、奥様。お時間よろしいですか?」
「どうしたのかしら、大急ぎのようだけれど」
「おばあちゃんがバターを切らしてしまっていて。ちょっとにのくるわまで走って買ってきていいですか?」
「仕事の進み具合は大丈夫かしら? 今日はなんだかキララが浮ついていて、色々失敗しているのよ」
「お姉ちゃんが?」
継母のため息交じりの言葉に、少女は何となく察しがついていた。
きっと、王子様が美少女を探しているというあたりで、自分が選ばれるかもしれないと期待をしているのだ。
でも、あの場所にいたと証明できなかったら、ガラスの靴を履けないのではないだろうか、と少し疑問になるのだが。
お姉ちゃんは決定的な何かを持っているのだろう。
「いつにない調子だわ、熱でもあるのではないか、と心配なのだけれど、キララは私たちにはそういう事を言わない子だから。以前あなたの前で倒れたでしょう。その時も何も言わなかったから」
「……一回お姉ちゃんの様子を見ますか?」
「お願いできる? それで問題がなさそうだったら、そのまま急いでお使いに行ってきていいわよ。そうだ、途中で宝石商のおじさまに会ったら、この前修理を頼んだネックレスの調子をうかがってきてね」
「はい」
言われた事を確認し、少女はぱたぱたと実の姉を探しに行く。
実の姉は珍しく、手紙の仕訳を行っていた。
普段はほかの使用人に任せる事なのだが、珍しい。
それとも何か、手紙を待っているのだろうか。
クラウスはその疑問を脇に置いて、姉に話しかけた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
「……あ……クラウス」
何処か夢見がちな、潤んだ美しい瞳を瞬かせた姉が言う。
「どうしましょう、私……お城に迎えてもらえるかもしれないわ」
「どうして? ……まさかお姉ちゃん、ガラスの靴でも落としたの?」
「そのまさかなの。階段にタールが塗られていて、そこに靴を片方落してしまっていて。それで、庭師の人が知らせて来てくれたでしょう? きっと王子様が私を迎えに来てくださるのよ」
声を二人で一段落とし、二人はそんなやり取りをする。
「そっか、それじゃあお姉ちゃんとはこれっきりのお別れかもしれないんだね……」
ガラスの靴を落した張本人が彼女ならば、彼女が迎え入れられないわけがない。
そのためクラウスは、もうこの姉に会えないのかもしれないとうなだれた。
「さみしくなるなあ」
「大丈夫よ、その時はあなたにも一緒に来てもらうから」
「あ、そっか。身の回りの事を手伝うのって、割と妹の事もあるもんね」
そこまで頭が回った少女はでも、と言った。
「でもそうしたら、家の事心配で眠れなくなっちゃうかもしれないし、お姉ちゃんの事だったらいくらでも、手伝ってあげたいっていういい人達がいると思うよ。熱とかじゃないんだね、体の具合が悪いわけでもないんだよね?」
「ええ、調子はいいわ」
「うん、それじゃあよかった。わたしこれから、またお使いなの。お姉ちゃんの幸運を祈るね、それじゃあ!」
クラウスは寂しい気持ちを紛らわすために、声を少し大きくしてにのくるわに行くべく、したくをして屋敷を出た。
「あ、王宮の馬車だ」
にのくるわまで大急ぎで行き来をした少女は、片手の買い物かごにバターの塊を入れて呟く。
急いでも、徒歩なのだから限度が知れている。
少女ががんばって急いだとしても、相当な時間がかかるのだ。
そのため、ギースウェンダル家の屋敷の前に使者の馬車が来ていてもおかしくはない。
「……ガラスの靴ってどんな靴かな」
少女はふと呟いた。好奇心に駆られたのだ。
お姉ちゃんの運命を大きく変えるだろうガラスの靴、その素晴らしい物は一体どんな形をしていて、デザインで、なのか。
気になるとどうしても気になってしまい、少女は物陰から見守っていれば怒られないと判断し、厨房にバターを置いてから小走りで、使者がいるだろうポールルームの物陰まで向かった。
物陰には使用人たちがそこそこ立っており、クラウスは別の物陰に隠れた。
使者たちは義姉たちの足に靴を合わせている。
どうも大きさがしっくりこないらしい。残念がる義姉たち。
その時だ。
「まだ、使者の方々はいらしている? クラウス」
背後から声をかけられた少女は、いきなりの事だったせいで悲鳴を上げ、無様に倒れ込んだ。
その物音に気付いた使者たち、そして義姉たちが彼女の方を見る。
「おや、まだ娘がいらしたのですね」
使者たちは、外に出かけるために使用人の格好ではなかったクラウスを見て、そう言った。
「ええ、末の娘ですの。デビュタントも前の至らない子で……人前に出るのはまだ先の話なのですけれど」
少女の見た目が、ちょっとおめかしをした格好だからだろう。
継母が落ち着いた声で返す。
ここで、使用人扱いされているなどとは口にも出さない。
家の恥につながるからだ。
たとえ当主命令で少女が働いていても、継子をいじめる継母の方が認識しやすいのだ。
「そうですか。……そこのお嬢さん、よかったらあなたもこの靴を履いてみませんか? さっきから目がきらきらと輝いていらっしゃる」
「末の娘は美しい物も大好きなのですよ」
「そうでしたか。来なさいな」
クラウスは、言われたままに彼らに近付く。
そうすると、シンプルながらとても凝ったガラスの靴を、よりはっきりと見る事が出来る。
「すごい、きれい、わあ……!」
きらきらと目を輝かせて、きれいな物を純粋に賞賛する瞳の娘に、使者が言う。
「ほら、一生の思い出になるかもしれないから、どうぞ」
それは使者の単純な好意だったに違いない。
お伽噺の中の物のような、素晴らしい物を試してみるという夢物語を、この娘にも味合わせてやろうという心意気だ。
「いいんですか? それじゃあ」
クラウスは木靴を脱ぎ、そのガラスの靴に足を滑り込ませた。
そして。
「あ」
「え?」
「ええっ!?」
「なんとっ!??」
「まさか、ここでも!」
ガラスの靴は、まるで少女の足にあつらえたかのようにぴったりと、収まった。
「なんであなたなの!」
さすがに突っ込みたくなったカリーヌが、どうしてかはしゃいだ声で少女を抱きしめる。
「悔しいわ! あなたが選ばれるなんて!」
心底そう思っている、という声でセレディアが、少女に抱きつく。
両側から、大好きな義姉たちに抱きしめてもらって、つい顔がにこにことしてしまった少女は、事の重大さに目を見張った。
「えーっと……そんなばかな」
最初の驚きが、義姉たちの抱擁で一度飛び、再び驚いたらしい。
「あなたも選ばれたのよ、クラウス、本当に腹立たしいけれどおめでとう!」
義姉たちがやけにはしゃぐ中、飛び込んできたのはキララである。
「待ってください、私、この靴の片方を持っているのです!」
キララが差し出したのは、その靴と同じガラスの靴の片割れだった。
美少女の悲鳴のような声に、あたりは一瞬静まり返った。
とても面倒な事になる予感が、クラウスの中に押し寄せてきていた。