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分割してほしいとのお言葉がありましたので、分割版も作りました。
小国マチェドニアの都マテリア。そこを見下ろせば城と城下町をくるりと囲む、三つの郭が目に入る。
どうやら城に近い郭の内側の方が、特権階級の人間たちの住居の様だ。何といっても住居に対する金額がばかにならないのが良く分かる。段違いなのだから当然だ。
面白いように、城に近いほど道は広く立派な造りに変わって行き、郭を一つ越えるごとに城下町は雑然とした雰囲気に包まれていく。だがやはり、共通して大通り以外の道は、とても複雑な入り組んだ造りをしている。
古来より道を複雑な物にするのが、城へ容易に攻め込まれないための備えだというのは常識だった。長い間広がってきた街だからだろうか。
この、迷路のようにも思える造りの道が多いというのは。
確かにこの街の外から、城へ進軍する場合はとても骨が折れるだろう。
それほど、街は入り組んでいた。
ちなみに城に一番近い郭を、いちのくるわ。二層目をにのくるわ。もっとも外側の郭であり城壁を、さんのくるわと呼ぶのがマテリアの住人たちの認識である。
そしてどの郭を眺めてみても、この夜が明けたのかいまだ夜の差中なのか、とてもあいまいなこの時刻に、立ち忙しく働く人間は、さんのくるわの夜警の兵士位な物だったが。
いちのくるわの中だが、距離的に言えばにのくるわに接しているくらいの場所にある一つの町屋敷の裏庭にある洗い場で、一人の少女がポンプ式の井戸をひっきりなしに動かし、たらいに水をためていた。
静まり返った街の中で、少女の少し荒い息遣いと水の音だけがその場に響いている。
その屋敷でも、起きだしているのはその娘位の様だった。
彼女はこの、早朝というにも早すぎる時間に、洗濯物をしているようだ。
それも途中まで済ませたようで、今はすすぎの段階に至っているらしい。
彼女の目は、洗剤液の残りを見逃さないと言わんばかりにたらいの中に注がれている。
……複数回、見直してしまう風貌の娘だった。暗い中でもまばゆいばかりの豪華な金の髪、しかし相反するような、沼のように濁った色彩の青緑の瞳。顔の造作は可もなく不可もなく、街中ですれ違ったとしても特定はできないだろう。
これと言った特別秀でた造作の整い方をしていない、そして特徴もない娘だった。
美白の観点から見ても、宮廷の婦人から街の女性からが気にする、色白を美とする基準の中で見ても、落第点をつけられそうな白くも黒くもない肌色。だがそれ以上に問題な、がさがさに荒れた肌。
体つきはどうだろう。骨格は生まれ持って行く分華奢な物らしい。重量のある洗濯物をそれなりに持っている筋力から判断して、そこそこの筋肉はあるようだが、やはり細い。
手首など、驚くほど細く見える当たりで、肉感的な女性をほめたたえる風潮から見た美の基準からも外れている。
がりがりに痩せているわけでもないのだが。細いな、と感じさせるものがそこにあるのは致し方がないだろう。
そんな彼女は、値段の高い染料を惜しげもなく使った分、日光に当たると色落ちをしやすい、誰か……おそらく屋敷の女主人の関係者たち……の立派なドレスやオーヴァードレスを慎重にすすぎ、慣れた手つきで、干している。
そこにも彼女の丁寧な仕事が見える。型崩れをしないように、大事そうに乾しているのだ。
女主人の物だから丁寧に、というよりは、まるでとても大事な相手の物だからそうする、と言った手つきだった。
少女はそれらを干した後に問題がないか、注意深く確かめてから、自分の仕事の出来具合に満足したようだ。
薄く微笑んだのである。ほのぼのとした笑顔は、美しくはないけれども人に、好意的な感情を抱かせる悪意のなさだった。
「今日も大丈夫だった。さあ、家じゅうの鎧戸を開けてこなくちゃ、こんな時間だもの」
彼女は独り言をつぶやきながら、服の腕まくりを直し、腰に下げられている今にも壊れそうな懐中時計を開いて時刻を、確認した。
洗濯に時間がかかったのだろう。そろそろ街の人々が動き始める、四時半になりつつあった。
彼女は昨夜のうちに出ただろう洗濯ものを、早くに起きだして洗っていたらしい。
先ほどの丁寧な作業から考えれば、時間がかかるだろう。
早くに起きだすのも道理だった。
彼女はたらいをもとあった位置に戻すや否や、パタパタと忙しなく動き始め、まずは一階の鎧戸を開け放ち始める。
そして全ての鎧戸を開けた後、女主人や屋敷の主人たち、そして小間使いの女性たちが寝泊まりしている二階の鎧戸を開けていく。
「おはよう、お姉ちゃん!」
彼女は一つの部屋に入ると、鎧戸を開け放ちながら陽気に声をかけた。
開け放たれた窓から差し込める光の中、そこそこの寝台に寝ていた少女が目をこする。
「おはよう、クラウス……」
「また夜遅くまでお勉強してたの? すごいね、でももうそろそろ時間だもの、起きてしたくしないと、お姉様たちに呼び鈴で呼ばれてしまうよ」
少女はクラウスというらしい。
クラウスは勉強道具の散らかった部屋の机を、手早く整えると、さっそくほかの小間使いたちも起こし始める。
「マーニャさん、起きてくださいよ。サラさんも! 今から三階の鎧戸を開けに行くんですよ。支度していてくださいな」
「……はあい」
身じろぎをした二人の小間使いが寝間着で起き上がり、そして伸びをする。
それを見届けたクラウスは、彼女たちがきちんと起きた事を確認した後に、また忙しなく部屋を出て行った。
「朝から元気なのね、クラウス……」
お姉ちゃんとクラウスに呼ばれていた少女が、伸びをしてから手際よく身支度を整え始める。彼女の金の髪はクラウスに負けないほどまばゆく、そしてその両目は見る誰もが絶賛するだろう煌く緑柱石のような緑をしていた。
そして肌色も恐ろしく白く、若干の肉付きの薄さも彼女の儚く可憐な風情を強調していた。
立派な令嬢の衣装を身にまとえば、これは一体どこの花……といわれそうな姿だった。
「お嬢様、お願いです背中の紐を引っ張ってくださいな」
マーニャとクラウスに呼び掛けられた、南国風の少女が言う。
キララは彼女の背中の、前掛けの紐を結んでやり、自分もそうした。
「さあ、今日も我儘なご令嬢様たちのご機嫌取りを頑張りましょう!」
サラという、穏やかな顔でずいぶんな事を言う少女の声にマーニャが頷き、キララが言う。
「お姉様たちをそういう風に言うのはやめてほしいわ」
キララがそう言いながら身支度をして、すらりと優雅に立ち上がる。
その仕草や物腰は、高名な貴族令嬢とそん色がないように見受けられた。
そんな美少女が足早に、呼び出される前にこの家の女主人のもとに向かうのを見送っていたサラとマーニャは顔を見合わせて、こういった。
「不思議よね」
「そうね。キララ様が、前の奥様の娘なのは一目瞭然だけれども」
「クラウスが、どうしてそのキララ様を、お姉ちゃんと親し気に呼ぶのかしらね」
「きっとあれよ。クラウスはずれているから、身分なんか頓着しなくって」
「うんうん」
「小間使いになってしまった、幼馴染のお嬢様に、精一杯の敬意を示しているのよね」
「キララお嬢様なんて言ったら、奥様達にぶたれてしまうものね」
言いながら、彼女たちも大急ぎで、部屋を出ながら自分の主の元へ向かう。この場合この屋敷に住む二人の令嬢の元へ向かう事だった。
その町屋式は、他の町屋敷にくらべるとずいぶんと大きく、一人でここを磨き上げるのは大変な労力だろう。手の届かない所も多いだろうに、不思議な程この屋敷は磨き上げられていて美しい。
クラウスは女主人たちの面倒を小間使いに任せると、すぐさまほかの仕事に取り掛かる。
家の女主人とその娘たちのために、食堂を掃除したのだ。掃除するや否や、夕べ洗濯したのだろうか、清潔な染み一つないテーブルクロスをかけて花を飾り、彼女たちの席に刺繍の美しいマットを敷く。
一連の動作に迷いはなく、それだけクラウスが何年も、そう言った事を行っている事実を現していた。
埃は一つも見られない、そんな状態まで食堂を整えるや否や、クラウスは、また忙しなく今度は厨房に走っていく。
厨房では一人の熟練の女シェフがおり、火を熾しパンを焼いていた。
「おはようございます、おばあちゃん」
早朝から元気のいい挨拶に、おばあちゃんと呼ばれた老年のシェフが顔を上げる。
「ああ、おはよう、クラウス」
「パン焼き窯の調子はどう? 薪は湿気ていなかった?」
「薪は少し湿気っていたから、火がなかなかつかなくって……ああ、また薪を拾いに行ったのかい。それともどこかの業者から買ったのかい。どちらにしても、あまり下町に出てはいけないよ。誰かに頼みなさい」
「だって、小間使いの皆さんにお使いを頼む余裕なんてないし、このお屋敷で一番動けるのは、わたしだけなんだもの」
言いながらクラウスも、朝食の支度を手伝い始める。幸いな事に朝食の基本はパンとカフェオレに卵料理にサラダという、贅沢ながらも品数の少ない物なので、楽だ。火を熾し、南の国から船に乗ってやってくるというコーヒー豆を専用の機械で人数分挽く。
コーヒー豆は高級品だ。それを毎朝飲むなんてもっと贅沢で、クラウスなどは一度も口にした事が無い。
それもまた当たり前の事だと認識して、彼女は後はドリップするだけというところまで支度をして、銀のワゴンにそれらを乗せて、パンが焼きあがったのを確認しそれもバスケットに移すと。
厨房に吊り下げられた伝声管から、鋭い声が響いた。
「クラウス、朝食の用意はできていて?」
威厳に満ちた女性の声は、聴く人間の背筋が伸びる物だろう。事実少女の背中は伸び、すぐさま答える。
「ただいまお持ちします、奥様」
「呼ばれる前に用意を整えておくものですよ」
「はい!」
クラウスは言いながら、すぐさま身をひるがえし、ワゴンの中身をこぼさない程度に急ぎ、同じ階にある食堂に向かった。
そこではこの家の女主人、ギースウェンダル辺境伯婦人と、その二人の娘が座って待っていた。小間使いたちは、クラウスと入れ替わりに出て行く。
おそらく大急ぎで朝食をとりに行くのだ。その時間を稼がなければ、とクラウスは目算する。
「遅いわ、クラウス」
一人、眼のぱっちりとした美女が言う。
「ごめんなさい。義姉さま」
「窯の調子でも悪かったのかしら」
「集めた薪が湿っていて……ごめんなさい」
「いいのよ、あなただから」
穏やかな声で問いかけたのは、唇がひどく魅惑的な美女である。
彼女たちが言いながらも、真実クラウスを責めていない調子である事を確認し、クラウスはパンを切り分けて、すぐさま人数分のコーヒーを、ワゴンに乗せていた道具で淹れ始める。
丁寧な淹れ方で淹れるコーヒーはいつも好評で、もはや目分量でも彼女らの好みのカフェオレを作る事の出来るクラウスは、それらを丁寧に三人の前に運ぶ。
そして、いつでも用件が聞けるように脇に控えた。
女主人たちがちらりと彼女を見やる。
「クラウス」
「はい」
「お前も席に座ってお食べなさい。お前の食べる時間が無くなります」
「いつもありがとうございます、お義母さま」
女主人の言葉を聞いてすぐさま、クラウスは彼女らから少し離れた席に座り、パンと余ったカフェオレをボウルに移し、大急ぎで食べ始める。
「みっともない。もっと丁寧に食べなさい」
「クラウス、わたくしはもうお腹がいっぱいだわ。卵を食べてちょうだい」
「わたくしも、サラダまで入りませんの。お食べなさい」
もりもりと食べているクラウスに、次々と差し出される、食べかけの料理たち。
使用人は、主人たちの食べかけの物を食べる事に何ら抵抗がないのが、常識である。
そのためクラウスは、食べかけの物だろうが何だろうが、美味しくてお腹いっぱいになるなら遠慮はない。
女主人たちは、この後お茶をしたり、優雅に本日の予定の確認をするのだが、クラウスにそんな余裕はないのだ。
食べ終わると、クラウスは手早く食器を下げて、懐中時計を見やる。
もう、小間使いの誰もがゆっくりと食事を食べ終わっている時間だ。
呼んでも問題がないだろう。
彼女は呼び鈴を鳴らし、小間使いたちを呼び出してから、彼女たちと入れ替わりにワゴンとともに食堂を出た。
そして食器類を洗い、銀の食器を磨き上げて棚にしまう。棚の鍵は名誉な事にクラウスが所持しており、逆を言えば盗まれたらすべて彼女の責任である。
だがそんな恐ろしい状況になった事はないので、クラウスは腰からいくつもの鍵をぶら下げ、家じゅうをまた走り回る。
彼女は二階の掃除をするために階段を上がり、そして一つの肖像画の前に立つ。
「おはようございます、お母様。今日はいいお天気ですよ」
その肖像画の中では、一人のとても美しい、金髪緑目の女性が微笑んでいる。
彼女はどう見てもキララにそっくりで、クラウスとは血のつながりを感じさせない。
だがこの肖像画の中の女性こそ、クラウスの母親なのだ。
クラウス・クァルト・ギースウェンダル
それが、召使の中でも最も忙しく、そして汚れる仕事を行っている少女の名前だった。
クラウス・クァルト・ギースウェンダル。その名前から察する事ができる身分があった。
それはミドルネームのクァルト。そしてギースウェンダルという姓からだ。
クァルトは、一般的に四番目という意味を持つ。
そしてギースウェンダルというのは、この屋敷、ギースウェンダルそのものの綴りだ。
そこから彼女が、四番目のクラウスという名前だと推測が付く。
さらに、姓まで並べてしまえば一目瞭然、彼女はギースウェンダル家の四番目のクラウス、という身分だと分かってしまうのだ。
恐ろしい位に、この国では名前で身分から兄弟の序列からが分かってしまう。
特に、姓を持つ貴族という身分であればなおの事だ。
だがしかし。この、女主人たちが朝の散歩として、屋敷の小さいながら立派な庭園を散策している間に、彼女たちの寝室を磨き上げている娘が、何ゆえにそう言う事をするに至ったのかはわからないだろう。
クラウスは、女主人たちが外に出ている間に、大急ぎでシーツなどを回収して、小走りになっている洗濯女中に声をかけた。
「おはようございます、それで寝具などは最後?」
「おはようクラウス。そうよ、最後なの! ああ、この家のお嬢様たちが妙齢でよかった! 前に働いていた屋敷では、やんちゃ坊主たちばっかりでそれはもう、寝具が泥まみれだったもの!」
声をかけた洗濯女中はそう言いながら、歩き去って行く。クラウスは自分も急ぎながら、まずは女主人の部屋に入った。
そこは上品に落ち着いておりながら、贅沢な部屋だ。おそらく新米の使用人では、ここの置物や飾り物の手入れの仕方などわからないだろう。
間違いなく何かしらを壊し、首になってしまう事請け合いだ。
それでもクラウスは、そんなへまはしない。いつでも手早く、そして丁寧に部屋を磨き上げてゆく。窓を開け放ち空気を入れ替え、見事なまでの手際の良さを発揮する。塵一つ落ちていない、窓には埃一つついていない。
そんな完璧な状態の部屋まで整えたクラウスは、片手に桶を、片手に掃除道具を持ち、忙しなく立ち上がる。
彼女の掃除をする場所はここだけではないのだから。
階段を三階まで上がり、今度は二人の令嬢の部屋に入る。
ここは女主人の部屋よりも散らかっているが、仕方がない。
おしゃれに余念のないうら若い女性たちと、ファッションセンスに長けた小間使いが今日のドレスを選びながら散らかしたのだろう。
それらを片付ける事から始めて、クラウスはここの部屋も整えていく。指紋一つ逃さないような徹底のしかたの癖に、速度は段違いで速いのだから、彼女の熟練度具合がうかがえた。これは一年二年で手に入る技量ではないだろう。
おおよそ五年以上は経験を積まなければならないに違いなかった。
少し化粧品の液体が散ってしまっている鏡台も磨き上げ、クラウスは自分の仕事に満足するや否や、古びた懐中時計を取り出し時刻を確認し、また部屋を出ると廊下を掃除し始める。女主人や二人の令嬢が行き交う廊下は、廊下の中でも一番に掃除する場所であり、クラウスは埃を集めてブラシで磨き、明り取りの窓を掃除する。
彼女が二階三階の主だった場所を掃除し終えると、ちょうどよく女主人とその二人の令嬢が散歩から戻ってきた。
「ああ、クラウス、ちょうどよかったわ」
女主人が微笑み、彼女に要件を言いつける。
「いつも通り今日は、一階のホールを掃除しなさい。それから衣替えをするので、それらを昼食までに終わらせて、わたくしの部屋に来なさい。その後はカリーヌとセレディアの部屋に行きなさい」
「はい!」
クラウスは朗らかに返事をし、一度頭を下げて仕事に戻っていく。豪華な見た目のホールは掃除が大変な場所の一つであり、掃除に慣れた少女でも時間がかかってしまう場所だった。
その背中を見送り、女主人は隣に控えている小間使い、キララを見やる。
「キララ。わたくしは少し汗をかいてしまったので、入浴します。浴室の準備をしなさい」
キララは入浴のために、二階へ何度もお湯を運ばなければならない手間と労力を考えて、幾分引きつったようだ。
しかし頭を下げて、その命令を受け取った。
「かしこまりました」
「よっくらせ」
クラウスは何回目かわからない、汚れた水を捨てて新しい水を桶にくむ。
大きなホールを磨き上げた彼女はしかしひがむでも文句を言うでもなく、立ち上がった。
「これでおしまい!」
その声は実に前向きで、仕事を当然の事としてこなす姿勢が見受けられた。
彼女はどんな仕事でも、当たり前だと笑って頷く、そんな雰囲気が漂っていた。
彼女は時計を再び確認し、昼食の手伝いに回る時間が迫っていると気付いて目を見張る。
「うわっ、時間かけ過ぎた!」
言いながらも立ち止まらず、ばたばたとホールの残りの部分を掃除し始めるのだから、彼女は時間が有限だとしっかり理解しているようだ。
それ程時間が足りなくとも、彼女は最後の最後まで手を抜かずに掃除を行い、昼食の用意を手伝いに行くべく、一度使用人のホールに入り、洗われた前掛けをつけ直した。
汚れた手もきちんと洗い、それから食堂に再び入る。
ここもまた整え、食器の銀色に曇りが存在しないかを入念に確認して配膳する。
そうして今度は、料理を並べるべく厨房まで向かって行く。彼女はいつどの時間に、何をすればいいのかがはっきりとわかっているのだ。
そこまでたどり着くのは古参になるまでの時間が必要で、それだけ彼女がこういった仕事をしていた事を現していた。
出来上がった昼食は、朝と比べてもあまり大差のない物だが、食後のデザートがついているあたりが違うだろうか。パンとスープに、肉料理と野菜、それから食後の紅茶の支度まで完全だと確認し、クラウスはそれらをワゴンに乗せて運ぶ。
美しく並べられた皿に揺れがないように、しかし料理が冷めないように、細心の注意を払った彼女の努力は報われ、今度は呼び出される事なく、ちょうど席に座った女性たちにそれらを並べていく。
そこで再び、小間使いたちが自分の食事をとるために出て行き、配膳や紅茶を注ぐ役割はクラウスに回ってくる。
そして昼食でもまたいわれるのだ。
「あなたも席に座って食べなさい」
働きづめの少女もかなりの空腹であるが、そう言われない限り同じ席に座らない分別があるあたりに、娘のきちんとした教育が感じられた。
それと同時に、このクラウスという娘が、不思議な立ち位置だという事もだ。
貴族の常識として、同じテーブルで食事をするのは同等の身分お呼び客人、家族という物が存在する。クラウスは間違いなく使用人の仕事を行っておりながら、同じテーブルに着席する事を許される。
彼女は使用人でありながら使用人ではなく、このギースウェンダル家の家族であって家族ではないとでもいうのだろうか。
しかし、同じテーブルに座る事を許されているという、その事実は大きく、彼女が女主人やその令嬢たちに家族と認識されている事を示していた。
それは、小間使いとして女主人に付き添っている同腹の姉たるキララよりも、尊重されているという事を現すのだ。
実に奇妙な話である。
この屋敷にある当主の妻の肖像画の中の、金髪の美女はキララと瓜二つだ。
だが現在のこの屋敷の女主人は、その肖像画の女性とは全く異なる風貌であり、彼女が後妻だという事は明白である。
そして、その女性とよく似た面差しの美女二人が、彼女の実の娘だという事も、キララもクラウスも彼女の娘ではない事も。
同じ前妻の娘を自分の娘だと認識しているならば、クラウスもキララも同じテーブルにつかなければおかしい。たとえキララが小間使いであろうとも。
古来より小間使いはただの使用人とは決定的に違う立ち位置だ。彼女たちは幾分格の低い良家の子女たちの場合が多く、継子を小間使いにするのはまったくない話ではない。
それも女主人の出自が、その継子の母親よりも格がはるかに上となれば、珍しくもない話であり汚点でも何でもない。
行儀見習いの側面を持ち、様々な場面に付き添う事も可能な、小間使いという立ち位置は貴族社会に間接的に触れる事も多い。
また高雅な趣味を持つ女主人たちであれば、その素晴らしい側面に触れ、自身を磨く事も可能である。それを自分の今後に生かす事もだ。
ましてや、令嬢の小間使いではなく女主人の小間使いと来れば、その格は令嬢に付く小間使いなど比べ物にならない。それだけ信頼され、立場も上の存在なのだ。
そう言った文化や歴史、暗黙の了解があるからこそ、クラウスという下働きの娘が同じテーブルに着くのに、女主人の小間使いたるキララが同じテーブルに着けないのは奇妙なのだ。
そこに、女主人の線引きがよく表れていると言ってもいいだろう。
美しく賢い、努力家の継子はあくまでも小間使い。
平凡であり、明るくのんきで、物事の裏を考えない単純な継子は家族。
彼女らの中では、クラウスを家族だと思っていても、キララを家族だとは考えていないのかもしれなかった。
たしかに、何の打算もなしに、お母様、お姉様と慕うクラウスは馬鹿なほどかわいい典型のように思える。
だが裏まで読み、打算や利益を考えて動くキララは扱いにくく、情がわかないのかもしれない。
人間のごく普通の心理が働いた結果なのかもしれなかった。
ここで、かわいく思えるクラウスが下働きの仕事をしている理由は何故か。
格上の小間使いではないのは何ゆえか。
それは無論、彼女の顔面がかかわっている。小間使いの条件として、美醜がかかわってくるのだ。醜い小間使いはそれだけで、他の家から馬鹿にされる要因になる。
小間使いはえり抜きの部分があるため、美しい小間使いも雇えないというだけで、他の貴族から失笑されてしまうのだ。
それは貴族の中でも、とりわけ上位の公爵家に生まれたこの女主人にとって、致命的な失敗になってしまう。許されざる失敗だ。
「あなたはもっときちんとした格好をして、教育を受けてもいいのに」
今日も義姉たちの食事のおこぼれにもありついていた娘に、かけられた声には幾分憐憫が含まれている。
そこには、彼女たちとてこの娘を積極的に、下働きにしたくないという姿勢がうかがえた。
もしかしたら、この娘が同じテーブルについて食事をとれるのは、それも一因なのやもしれない。
しかしクラウスは顔を上げ、にこにことほほ笑んだ。
「お父様がこの屋敷にいた頃からやっていた事だもの。お父様はわたしを見るたびに、家を立派にしておけって、いつもそればかり言ってたよ? 死んだ母様に全然似ていない、きれいでも可愛くもないわたしだもの。頭もあんまりよくないし、わたしよりもお姉ちゃんを優先してよ」
お父様がいた頃からやっていた。
この継母が、義姉たちが、クラウスを下働き同然で働かせてしまう理由の、決定的な物はそれに違いなかった。当主の命令を覆す事はとても難しい。
娘の裁量権というものは、基本的に父親が有している。
その父親が、クラウスを下働きとして扱う以上、この誰もが抗えないのだ。
クラウスの、あっけらかんとした事実を言う声は止まらない。
「お父様は、義姉様たちとお姉ちゃんは娘として見ているけれど、わたしはそうじゃないもの。お母さまもお義姉様たちも、わたしがちゃんと名前を言うのを禁じられているの知ってるでしょう?」
三人とも苦い顔になる。そうだ。それも事実だったのだ。
末娘は、己の身分や姉妹の中での立ち位置を示すそのミドルネームも、ファミリーネームも名乗る事を許されていないのである。
「だからわたしは、こうしてお母様とお義姉様たちが、一緒のテーブルで食事をしてくれるので、十分なの」
父親に家族として認めてもらえずとも、義理の家族にそうみてもらうだけで十分だと笑う。
「あなたは底抜けに馬鹿だわ、クラウス」
継母の言葉に、彼女は頷いて同意する。
だが考えを改めるつもりは、ないようだった。
そんな義母たちが小間使いを従えて朝の散歩に行っている間に、クラウスは食器類を片付けて洗う。洗う時間は長く、それの理由は当然のものだった。
上流階級の食器は磨き上げられていなければならないのだ。曇りなどあってはならないし、茶渋なんてものがついていたらそれだけで、鞭うたれてしまうほどの問題だ。
たとえ女主人たちがそんな事を、しなくても常識である。
彼女は何よりもそれを理解していたし、事実彼女以外が食器を洗って、銀の食器が曇ってさらに酸化して真っ黒に変わり、そして白い事が上等の証である茶器に茶渋がついていたために、容赦なく当主に鞭うたれている現場に遭遇した事もある。
鞭うたれた召使の女性はどうしたかと言えば、その翌日に出奔した。
紹介状すら書かれる事なく、身勝手にやめたのでその後の仕事はお先真っ暗だっただろう。
見た目は申し分ない女性で、父が面接して雇い入れた女性だったのだが。
その女性がその後どうしたのかは、クラウスも知らない。
食器を美しく磨いておくように、と言われていたのにそれを守れなかった時点で仕事をさぼったも同じ事で、あの当時はまだたくさんの使用人がいたのだから、時間がなくてできなかったという言い訳はできるわけもない物だった。
どこの家でも、あまりにひどい場合には鞭で打たれるのが常識だというのに、あの女性はそんな事もわからなかったのだろうか。
クラウスはそんな昔を思い出しながら、一点の曇りなどないように銀の食器類を磨き上げて、つやつやになるまで確認し、それをしっかりと棚にしまって鍵をかけた。
この鍵はクラウスの誇りだった。この屋敷でとても大事にされている、値打ち物の食器の管理を任されている、という誇りと、継母の信頼。
それらを裏切る事は、彼女にはとてもやれない事なので、クラウスは絶対に肌身離さずこの鍵を持っていた。
それからほかの召使の女性たちが新たに掃除をし直しただろう、食堂を確認する。
確認は慣れたものだったのだが、食堂はいまいち綺麗ではない。
父が直々に雇い入れた使用人たちは、見た目は申し分ないのに実力はお粗末な部分があるのだ。
だが彼女はそれらのフォローに回る。
家をきちんとしておけ、と父が命じたのだから、己は家が整っている状態にしなくてはならないと決めているのだ。
そういう思いも相まって、彼女は食堂もきちんと整えて、さらに様々な場所を整え、さて家のあちこちに季節の花を飾ろうと決める。
今日は義姉の一人、カリーヌの友人たちが集まるお茶会が開かれるのだ。
しかし季節の花と限定されても、これは家の女主人の見事なセンスがものを言う部分であるがゆえに、彼女は勝手に花を飾ったりはしない。
そしてそろそろ、義母たちが散歩から戻ってくる頃あいだ。
クラウスはととと、と軽い足取りで、庭から屋内へ戻ってきた女性たちに近付き、一礼をしてこう問いかけた。
「奥様、今日はいかがいたしましょう?」
その言葉遣いを聞いた義母の目の中に、浮かばないように気を付けていてもわずかに現れる、痛々しい物を見る色。
それをクラウスは見ない事にしている。どうしてそういう目をされてしまうのか、理解の外側であるからだ。
彼女は彼女の義務をきちんと行っているまでの事であり、父が人前で彼女を母と呼ぶなと命じたのだからそれを、忠実に守っているだけなのだ。
にこにこと今日の仕事の命令を待っている彼女に、義母は言う。
「今日はカリーヌの友人たちがお茶会に来ます。今の季節の花を飾りますので、庭師に見ごろの花を確認してきなさい、それらをあとでわたくしの所まで知らせに来なさい。そこで今日のお茶会に飾る花を選びます。それとお茶会用の軽食の支度の段取りをもう一度確認して、ほかの者たちに通達なさい。おそらくお前ではない者たちが、お茶会の席に様々ものを運び入れますからね」
「はい」
姿勢を正し、クラウスはまた一礼をする。
「それが終わったら、衣替えのために手伝いに来なさい。装身具類の微調整もあります。場合によっては商人を呼びますので、そのために出かける支度がすぐできるようにもしておきなさい」
「はい」
「掃除はいつも通りに執り行う事。お茶会に使う温室のガラスが曇っていない事を夕べも確かめたと思いますが、もう一度確認しておきなさい。……あなたがもっとも美しい状態にしておけますからね」
「はい」
クラウスは褒められたという顔をして、顔を輝かせる。
義母にそう言われるとやはり、自分がきちんと家を綺麗にしていると実感できるのだ。
ただしそれを見て、ほかの召使たちがほっと胸をなでおろしているのまでは、背後に目を持たない少女にはわからない事の一つだった。
しかし継母は気が付いているようだ。すうと視線を細めて、そこに隠れていた使用人を呼びつける。
「そこのあなた」
「は、はい!」
一人が見つかってしまった以上、しぶしぶ……表面上はすぐさま近付いてくる。
「何ですかお前の仕事は」
「はい……?」
「お前の仕事を拝見しましたよ。なんなんですか。あの床の掃除の具合は。床は鏡のように艶やかでなくてはならないのですよ。昨日お前に直接任せた仕事だったと思ったのだけれども。お前が庭で、何処かの使用人とおしゃべりにかまけていたのは知っていますのよ。……仕事を怠けて碌な事をしないのであれば。こちらにも考えがありますよ。床の磨き方も知らないのですか」
「き……」
きちんと行いました、と彼女は言おうとしたのだろう。
しかし女主人の曇りのない、そして仕事に関しては油断も手加減もしないその目がぎろりと彼女を見据える。
元公爵令嬢の視線はそれだけで、召使程度ならば硬直させられるのだ。
そして。
「お前、仕事もきちんとしないで、わたくしに口答えなんてするつもりかしら? ……身の程を知りなさい」
女主人の言葉は矢のように鋭いが、それはこの召使にとってとても大事な忠告でもあった。
それを忠告として受け入れられればの話、だが。
この屋敷の女主人はまだ優しいので、この程度の言葉で済んでいる。
だがもっと厳しく、またヒステリックな女主人であれば言い訳など許さず、何より反抗する視線だけで鞭うたれているのだ。
名門の公爵家令嬢であった女主人は、むやみやたらに弱者に暴力などは振るわない。
そういう育ちの良さが見えている発言も、分かっていない召使にはいたぶるように聞こえただろう。
事実召使は視線に凍り付いたのち、女主人の言葉の鋭さに涙を浮かべて頭を下げ、裏返った声を発する。
「す、直ぐやり直します!」
そして慌ただしく、逃げ出すように走りだすので、女主人がまた口を開く。
「そんなみっともない走り方で屋敷を走ってはなりません。お前には品という物がないのですか」
「クラウスの走り方はいいのですか、お母様」
「クラウスはあんなに逃げ出すような走り方はしません。お前たちも、走るならばクラウスのように美しく走りなさい。あの子は人前以外では知りませんが、人前ではそれはもう整った走り方をしますからね」
「はい、お母様」
「奥様、仕事はほかにはございませんか?」
女主たちの会話が終わってから、クラウスは行儀よく問いかける。
上の身分の人々が喋っている間に口を開くなど、みっともない使用人のレッテルを張られてしまうのだから当然、である。
この娘はそういう物が分かっていて、そしてなにより自分の立場を理解していた。
理解すると同時に、どこまでを自分で行い、義母にお伺いを立てて彼女の顔を立てるかを常に考えていた。
貴族の婦人は、全ての家事を使用人に任せきりと思う人間も多いだろう。
だが女主人ともなれば、家を切り回し、支配し、家を預かる身の上として取り仕切るものなのだ。
使用人に好き勝手させるのは、女主人としては落第点なのである。
屋敷の最大権力者は、もしかしたら奥方かもしれないという話もあるほど、彼女たちは実権を持たなければならない存在であり、舐められてはいけないのだ。
しかしこの屋敷では、当主がクラウスに家を管理しておけと命令を下している。
それは自分の妻を相当馬鹿にしたと言ってもいい言葉であり、妻の仕事を放棄させる事でもある。
クラウスが言われた通りに、屋敷を管理すればそれは、女主人の権威を失墜させる事に他ならない。
公爵家令嬢であった、厳しい教育を受けてきた義母にそのレッテルを張れば、それは実家の公爵家の教育すら馬鹿にする事になる。
辺境伯家であるギースウェンダル家だが、公爵家を敵に回したらすぐさま落ちぶれるだろう事は明白で、そんな事を望んでいないクラウスは頭を働かせ、父の言う事も義母の権威も守るという方向で生きている。
家をきちんとしておけ、というのだから家じゅうを磨き上げ、客人の誰もが文句を言わない物にしておく。
そして毎日、義母に習慣ではない仕事を確認して執り行う。
その二つをきっちり守っているがゆえに、彼女は誰にも文句のいわれない家を保つ事に成功していたのだった。
そしてその方針を義母も義姉もわかっていて、クラウスの気遣いにいたわりの言葉をかける事もしばしばあったわけだ。
「ああ、クラウス、急いで、でもきちんと行いなさい。カリーヌのお友達たちの中には花にとても詳しい方もいるそうだから、花言葉などにも気を使ってちょうだい」
「本を片手に調べてみます」
クラウスは頷いて、すぐさま言われた仕事に取り掛かるべく、あまりにもなめらかな、急いでいる事も感じさせない動作で走って行った。
「あれを軽やかな身のこなし、というのですよ」
クラウスのそれを示しながら、義母が娘たちに説明をしていた。
「あればかりは訓練ですからね。……キララ、お前はわたくしとともに、衣装替えのための準備をしますよ」
「はい、お義母様」
キララは目を伏せ、目を合わせる事も出来ない調子で頷いてから、義母の後に続いた。
その背中とは反対の方角に歩き出した、二人の義姉たちが口々に言う。
「キララは何を考えているのかわからないわ」
「眼を合わせる事も出来ないって問題だわ。あの子、社交界に出られないわよ」
「その前に、あの子の十五の誕生日は何時かしらね」
「そこからなの、セレディア」
「そこからだわ、カリーヌ。お母様がちっとも、娘のデビュタントパーティの手配をしないから」
「仕方がないわ」
二人の義姉たちの言葉を聞いていた、二人の小間使いは後ろで目を合わせた。
どちらも、キララというこの家の直系の娘がないがしろにされているという風に見えるこの状況を許せなかったのであった。
裕福な商家から、この屋敷に小間使いとしてあがったこの二人は、奥様付きの小間使いがとても名誉で、行儀見習いとしては申し分なく、場合によっては令嬢教育としても大変いい物だと知らないのだ。
同じ小間使いという職種だと思っているが故の、勘違いである。
そう、小間使いという物を単なる職種だと思ってしまっている、成金の商家の娘にありがちな勘違いだった。
しかし彼女たちを雇い入れたのはこの家の当主であり、二人の義姉たちは彼女たちがそういう認識をしているとは、まさか思ってもみなかった。
実の父親が他界してしばらく、公爵家に戻っていた彼女たちの認識とここまで食い違いが起きているとは、やはり誰も思ってないのだろう。
身分による認識の食い違いだ。
面倒な物である。
そして二人の義姉たちは、この小間使いたちが知らない事実を知っていた。
母が、デビュタントパーティの支度を行えないのは、父がどんなドレスを手配しようとしても、うんと言わないせいだと。
そして、同じ娘であるクラウスのデビュタントに至っては、放置なのか何なのか、まるで成人する事も許さない姿勢のせいで、母も思うところができてしまっているせいだと。
「さあ、カリーヌのお友達の皆様と、ドレスが似たものにならないようにしなくってはね」
「そうね、セレディア。サラ、マーニャ、見立てるのを手伝ってちょうだい」
義姉たちの会話に、表面上は笑顔で小間使いたちは頷く。
ここで趣味の悪いドレスにすれば、こちらの仕事の不手際とされてしまうので、嫌がらせとしてそのようなドレスを着せられない事を呪いながら。
「はい、かしこまりました」
「うんと素敵にさせていただきます」
そして、仕事をきちんと行うのならば、そこまでヒステリックな状態にならなくていいという認識の二人の義姉たちは、ほほ笑む。
それが上流の中でも、ほんの一握りの上流の階級の令嬢が見せる、度量の広さだと無意識に理解しているのだから。