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「静かな部屋だね」
クラウスは、自分と二人の義姉以外いないがゆえに、そう呟いた。
そう、その部屋はとても静かな部屋だったのだ。
音があまりにも遠いように感じ取れるそこは、まるで水の底のような雰囲気である。
ほかのどの部屋とも違うデザインの調度品は、それらどれもが統一感のある異国の風合いだ。
床は三食ほどのあおい石と、白い石で模様を描き、その上から同色の碧の絨毯を敷いている。
壁に掛けられた布地たちも、どうしてだろうか同じような色味だ。
ここはここだけで完成されている、とクラウスが感じ取るほどの物がそこにあった。
そこは客間としては間違いなく、最上級の空間に違いない。
調度品の数々の見事さと言い、それらが長年忘れ去られていたとは思えないほど、どの時代においても間違いなく立派と言えそうな当たりなど。
ここが自分の部屋になるのか、と思うととても信じられない部屋だ。
この半分もないような薄汚れた部屋にいたクラウスにとって、とても驚いてしまう。
物置だったのは、当主が役立たずは物置にでも寝泊まりしていろ、と彼女の荷物やなんやらをそこに放り込ませて、クラウスに命じた結果であるが。
一転したように立派な部屋を与えられて、何処か居心地が悪いかもしれない。
「ここは客間だったらしいのだけれど……私たちはそうは思えないの」
意外な事を言うセレディアに、クラウスは視線だけで疑問を投げた。
その根拠はいかに。
「ここ、一つとても立派な絵画がかけられているの。お客様にすばらしい物を、というのはわかるものだし常識だけれど、あれだけすばらしい絵画ならば、当主の部屋の一番いい所に掛けられているはずだもの」
「それは今どこに?」
「そこにあるわ。日に焼ける心配はないのだけれど、一応布で覆っているの」
セレディアが指さした方にあるのは、確かに布に覆われたものである。
それはクラウスほどの高さと、壁の半分を占めるほどの幅を持った絵画だろう。
「布地をとってもいい?」
「いいわよ」
クラウスは恐る恐る、その布地をとった。はらりと軽い布地は滑るように、そこから落ちる。
そしてそこに掛けられていた絵画は。
「なんていう、色」
少女がそれ以外の言葉を思いつけないような、そんな絵画だった。
それはどこかの風景画であり、見るからに沼を描いたものの様だった。
しかし、何処か淀んだような緑いろが主な色でありながら、その絵の美しさや迫力を感じ取らざるを得ない。
その絵画はどこか深い森の中の沼を描き、見た事のない植物たちが花を咲かせているという物だった。
獣一匹存在しない絵画の中で、飲み込まれそうな沼の力を強烈に感じる。
緑のあらゆるものがそこから湧き出すような、そんな沼がその絵の主役に間違いなかった。
そしてそれは同時に、この部屋でなくてはこの絵をかけてはいけないと、クラウスに何かが知らせる絵でもあった。
その絵の中で、不意に沼がさざ波だったように感じたクラウスは、一瞬驚いて後ろに下がった。
「わ、どうしたのクラウス」
「今、絵が動いたような気がして」
「気のせいだわ、私もカリーヌ姉様も一緒に見ていたけれど、動いていたなんてわからなかったもの」
そうだろう、きっと圧倒されたせいで見間違えたのだ。
クラウスはそう納得した後に、それじゃあ晩餐まで疲れた体を休めてちょうだい、そうしたらお話をしましょう、と言ってくれた義姉たちが去った後に、そこの寝台に寝転がった。
成人を迎えていない、社交界デビューをしていない彼女のドレスならば、バッスルがきいていないので可能な事だった。
「……お姉様たちはデビュタントのドレスの事に詳しいし、お義母様はそういうのにもっと精通してるし。わたしがそこそこに見てもらえるくらいの、わたしの立場に見合ったものを一緒に探してくれるよね」
クラウスはふと、真っ白なデビュタント用のドレスを思い浮かべた。
年頃の少女のあこがれの白いドレスだ。
誰しも一度や二度は、デビュタントで真っ白なドレスを着て、きれいな銀色の髪飾りを留めてみたいと思う物なのだ。
「夢のまた夢だと思っていたのにな」
親から子供だと認識されていない、家名を名乗らせてもらう事も出来ない、そんな自分はドレスなんて夢のまた夢、むなしいあこがれだと思っていたクラウスだったが。
それを着る事が出来ると思うと、なんだかくすぐったいほどうれしかった。
屋敷の使用人として、外で結婚する事も出来ないで飼い殺しされるだけの未来ばかり、実は心の中で描いていた少女は、降ってわいたようなこの幸運に、思う。
「これだけは、ガラスの靴が履けて良かったことかな」
どんなドレスを着させてもらえるだろう。デビュタントドレスだから、変に安っぽい品位を疑われる物は、絶対にない。
「……その後、女王陛下が相手を紹介してくれるって言ったし」
もしかしたら、デビュタント以上に無駄な夢だと思っていた、誰かと結婚して家族になって、子供を育てる事だってできるかもしれない。
義母や義姉たちは家族だと思っているけれども、血が一滴もつながっていない事や、家の中の誰の眼も届かない場所でのみ家族、という事は、頭では仕方がないと理解していても、何処かさみしいものだったので。
誰が見ても堂々と、家族と名乗れる相手ができかもしれない期待が、いささか果てしない位にうれしい少女であった。
晩餐の間も、見知った顔を一度も見ない。クラウスはそんな事を思いつつ問いかけた。
「奥様、一つよろしいでしょうか」
「発言を許します」
「当主様はいったいいつ頃おかえりに?」
「今日の夜中には帰ってくるはずよ。あの人はキララが選ばれたという事を聞いて、出来る限り急いで領地のよい絹を使うために動いているというから」
やっぱりお姉ちゃんだけしか、お父様の娘じゃないんだ、とクラウスは心のどこかで悲しい気がした。
淡い期待だったのだ。ガラスの靴に選ばれたのだから。もしかしたら家族の名乗りを上げる事も許されるかもしれないなんて。
実父を仕えるべき相手、と己に言い聞かせていた少女だったが、やはり家族のあこがれが捨てきれていなかったらしい。
「大丈夫よ、クラウス。お父様はあなたにもきちんとした衣装を用意するわ。あなたも妃候補なんだから」
カリーヌが慰める。それに笑顔を返す事も出来ず、クラウスは食事を続けた。
その間ずっと、キララは顔色悪く食事を続けていた。
お姉ちゃんどうしたんだろう、とクラウスからすれば心配でしかない。
「お姉ちゃん、調子が悪い?」
隣に聞けば、隣のキララは微笑む。
「まだ馬車に揺られていた感じが抜けなくって」
「食べられないなら、食べないで休んでいた方がいいんじゃないの?」
「そうね……お母様、私は部屋に戻ります……」
「そう。……マーニャ、サラ。二人ともキララを案内しなさい。あなた方はキララと長い事一緒の部屋にいたのだから、色々気心が知れているでしょう」
「はい、奥様!」
「はい、奥様!」
晩餐の間部屋の壁に立ち続けていた二人が、キララの手を取り優しく、彼女を連れて行った。
本当はクラウスも後を追いたかったのだが。
「クラウス、お前まで食事を中断すれば、料理長が嘆きますよ」
と言われてしまい、それも嫌だと思ってしまったため食事を続けた。
食べ慣れた温かい食事は、本当に心が休まるひと時だった。
実家に戻り数日、おかしいと思い出したのは早かった。
それは使用人たちの会話の中から、思った事だ。
その他にも、少女が知っている知識や経験値などからも、おかしいと思い出したのだ。
自分の採寸が行われないのだ。
おかしすぎる。
デビュタントのドレスはサイズなどもきちんとしなければ、白一色であるため大変にやぼったいものになり、見苦しく太った姿に見えてしまう。
白は膨張色なのだから。
当主は帰宅してすぐに顔を合わせた。その時の事をクラウスは思い出してみる。
……当主はキララと暖かな抱擁を行った後、妻に色々と話していた。
そして二人の義理の娘に飾り物の土産を渡した。
そして。
自分に近付き、二人にしか聞こえない声でこう告げたのだ。
「キララの邪魔になる事をするな」
たったそれだけを言った男は、何事もなかったように今度は、誰にも聞こえる声で言う。
「さて、デビュタントのドレスの採寸は急がなければならないな。白の絹はあまたに持ってきたが、それでも限りがあるのだから」
クラウスへの警告じみたものなど、なかったかのようで、しかしそれはあったのだ。
……やっぱりこうなる、とクラウスは心の中で苦笑いするしかなかったわけだった。
その時の言葉からして、ドレスの採寸は急がなければならなかったはずで。
数日の間に、採寸の手はずくらいは整うはずなのだ。
だって自分は、二週間で義姉様たちのドレスの手はずを整えた事だってあったのだから。
だが、デビュタントのドレスなどという大作は、どれだけ急いで採寸して生地を選んでデザインを決めても、急ぎすぎな物ではない。
遅すぎる、自分の物はどうなった、とクラウスは疑問しかなかった。
その疑問に急かされるように、彼女は足早にその部屋に入った。
そこで見たものに、彼女は動けなくなる。
そこではキララが、ドレスの仮縫いをしていたのだ。
引きつるなんて、物じゃなかった。
採寸はキララも行われていないはずだ、と思っていたのだ。
使用人たちが、
「クラウスさんの採寸はいつ行われるのだろう」
「間に合わない」
と言っていたから。
キララもなのだろう、と思っていたのに、姉はドレスの仮縫いをしている。
それも見事な生地のドレスを。
……無理だ、絶対に無理だ、とクラウスの中のそろばんが、ドレスの値段をはじき出して結論付ける。
この家に、これだけのドレスを作るお金は、二人分はない。
さらに言えば。
これだけのドレスを作れば、もう一着デビュタントの特別なドレスを作る縫子を、確保できない。
目を見開くクラウスは、息ができないような気分になっていた。
当主様は、わたしをデビュタントさせるつもりがないのだ。
その事実が目の前に現れていて、言葉も息もできなくなりそうで。
「あら、クラウスどうしたの?」
ここの所、マーニャやサラと言った使用人たちに遠ざけられ、会話なんてしなかった姉が目を丸くするのを見て。
少女は初めて、思った。
この家にいたくない、もう、無理だ、無理だ。
その心は強烈に膨れ上がり、彼女はばっと身をひるがえして、与えられていた部屋に飛び込んだ。
泣くわけがないと思っていたのに、涙がとめどなくこぼれてくる、嗚咽がひどくて酷くて、泣き叫ぶ事もできやしなかった。
哀しくて悲しくてどうしようもない。
何をしても何を頑張っても認められない事をここで、悟ってしまったからだ。
当主が認めなければ、どんな正しい血筋の娘だって家族だとは認められない。
デビュタントすらできない娘を、普通の貴族の当主は娘にしない。
散々泣いた少女は、顔を上げた。
この家にいたくないならどこに行くか。
行く当てなんて何もない。
でも。
ここでどうしようもない、敵うわけもない夢を見るくらいなら。
立ち上がって二本の足で、歩いて歩いて逃げ出す方がましじゃないか。
と。
ぐいと涙をぬぐった少女は、自分がデビュタントできなくても、当主は言い訳に困らない事を知っていた。風邪をひいていた、寝込んでいた、調子が悪くなった、足をくじいて踊れない、娘を確認させなければ、使者をいかようにも丸め込めるのだと。
そして、王太子の妃選びの条件から外すつもりなのだろう。
キララの邪魔になるから!
こんな平凡顔の娘でも、頭数に入っていれば邪魔だから。
彼女は大したものも持っていないなか、鞄に荷物を詰め込み始めた。
その時である。
「クラウス、お話があります」
継母が現れて、鬼気迫る少女にぎょっとしたのは。
「どうしたの」
継母の言葉ももっともだ、まさか継子が荷物をまとめだしているとは思わないだろう、普通。
しかしクラウスは止まらない。動きを止める事なく、言い切った。
「ここから出ていくんです」
「どうして」
継母の言葉の中には、それを意外だと思わない空気が存在していた。彼女もこの光景を受け入れるつもりなのだ。その彼女に、少女は言い放つ。
「ここでは未来がないからです。いくらお母様たちが家族、みたいに扱ってくれていても。当主様がうんと言わなかったらどうにもならないでしょう。……あこがれを捨てる事にしたんです」
当主に認めてほしかったから、家を綺麗にした。整えておいた。誰が見ても問題がないように。
当主に、さすが私の娘だ、といってほしかったから、どんな無茶も頑張ったのだ。
だがそれは永遠に報われない。
今日見た光景でそれが明白になり、クラウスは絶望する前に動いていたのだ。
絶望に足をとられて、どこにも行けなくなる前に彼女は、逃げ出すという一番いい選択肢を選んだのだ。
「あなたがそのつもりなのね」
継母が彼女をじっと見つめて、頷く。
「ならば方法があります。……この手紙を持って、この屋敷に行きなさい。出来る限り誰にも気付かれないように。急いで。この屋敷の人間に見つからないように。当主側の人間に見つからないように」
渡された手紙にはしっかりと封がしてあり、そして大事な物に違いなかった。
少女はこくりと頷き、大好きな継母に言った。
「今までありがとうございます、娘でいられて幸せでした」
その言葉に、継母が動けなくなる。娘でいられて幸せだった、とこの少女が本気で言っているせいだ。
おもてだって家族として扱えず、いつもいらない苦労をさせてばかりで、手を傷だらけにさせて。
どんなに当主をいさめても、何一つ変わらず。いさめ続ければ当主は命令を上書きしないまま領地に引きこもり。
大変な事ばかり押し付ける事になっていた子供が、幸せだった、と。
彼女の中の罪悪感のような物とそれから、言葉にならない物が入り混じり、動けなくなったのだ。
その脇を抜けながら、大したものも入っていない小さな鞄を持った継子が、言う。
「さようなら、おかあさん」
……泣き崩れる事は、継母の色々な物が許さなかった。
だがそれでも強く思う事があり。
「幸せにおなりなさい、あなたはそれを目指す事を、誰にも止められない」
小さな声で返す事で、精一杯だった。
クラウスは音を立てず、この屋敷の死角のような場所を動き続け、誰にも気付かれる事なく外に出た。
外は薄闇の色をしており、意外と荷造りに時間がかかっていた事を示していた。
いちのくるわの端である屋敷から、クラウスは継母の渡してくれた手紙の宛先を見る。
そこは。
「お母さんの実家の名前だ」
流麗な、見とれる筆記で書かれているあて名はどう見ても、継母の実家だったのだ。
大事にされているんだな、とクラウスはここでも思った。
手紙を先に用意していたという事は、クラウスが路頭に迷う事が無いようにと手を打ってくれたという事なのだから。
少女はそのまま、徒歩でしかし大急ぎで、その屋敷を目指し始めた。
道の街灯はやや暗く、馬車に乗っていれば問題のない暗さでも、徒歩の人間には致命的な時間がやがて訪れる。
その前に、この家に行かなければ。
クラウスは迷うことなく、歩き続ける。
誰も少女を気にしない。どこにでも見受けられる衣装の、ありふれた顔立ちの娘。
鞄片手という事もあり、新しい使用人が遅れて到着した、と見られていたようだった。
そんな時だ。
「ここで何を?」
一度誰かとすれ違うや否や、背後から声がかけられた。
その声は覚えのある物だ。
ばっと、クラウスも振り返る。そこには赤々と燃え盛る赤色の瞳を持つ、美しい男。
「プロ―ポス……」
見るのはずいぶん久しぶりなのに、やはり肩の力が抜ける。
友人相手に笑いながら、彼女は時間を気にした。
「ごめんね、今急いでいるの、行かなきゃいけない場所があって」
「どこに? 家は違うだろう」
「違わないよ、行かなきゃいけない場所がある」
クラウスはそれを、なぜかも言わない。
いうだけややこしく、もしかしたら継母に泥を塗るような思い込みをされるかもしれないと思ったのだ。
彼女が何も情報を口にしないと察したらしい。
プロ―ポスは近付き、彼女の脇に立った。
「こんな時間に女子供の一人歩きは危険だ、そこまで送っていく」
「え、ありがとう」
それを拒絶するほど、少女は相手を嫌ってもいなければ、遠ざけたいとも思っていなかった。
それどころか、並んで歩ける事を内心でとても、喜んでいた。
同じ時間を共有する事だけでも、心が弾む事だったのだ。
そして別段、行く家がどこか知られても、口止めすれば大丈夫、と信じていた。
プロ―ポスは信じていい。
彼女の妙な信頼だった。
プロ―ポスが彼女の脇に立つ。それも馬車が通るほうを自分の位置と決めたらしい。
「そっちは危ないよ」
「危ない方を歩かせる性質は、あいにく持っていないんだ」
心配した少女に、からかうように笑う声。
「背が高い方が目立つ。馬車の人間も、あなたより俺の方が目立って安全だ」
「そうかもしれないね、でももっとこっちに寄りなよ」
クラウスが建物側に少しずれれば、プロ―ポスがその分近付く。
いいや、それ以上に近付いた。
手も触れあうような距離だ。
「近いよね」
「さあ」
またくつくつと笑う音。プロ―ポスは意外と笑いやすい性質の様だ。
そのまま彼は、手と手が触れ合ったほんの一瞬を利用し、彼女の手を握った。
「この方が、路地の隙間からさらわれなくて済む」
「いちのくるわはそんな危険な場所じゃないのに」
「意外と違う。いい所の人間を狙って、厄介な人間が闇の中に潜む事もあるんだ」
彼の、ここを熟知しているような言い方を聞き、やっぱり彼はいいところの次男坊とか三男坊なんだな、と認識を新たにした少女だった。
それに。
とってもいい所ならば、王族との結婚もあるだろう。……血の濃さによっては、王太子にそっくりな男児が生まれるかもしれない。
プロ―ポスはきっとそういう星の巡りで生まれたんだろう……と彼女は変に納得した。
だが。
手が握られると、相手の手の大きさや剣だこらしき固いものや、女の人の手とは大違いに厚い手の皮の感触だとかが、よく分かった。
そしてそれを感じれば感じるほど、自分の中のぐるぐるする意味の分からない感情が、走り出すのも。
しかしそれで、手を放してほしいとはちっとも思えない。手は繋いでいたい、でもこのぐるぐるは変過ぎる。
そんな事を考えていた彼女は、もうじき目的の屋敷だと気付く。妃教育の中で、いちのくるわの大まかな屋敷の場所は教えられていたのだ。
「あ……もうすぐだから」
「手を放してほしいのか」
言った彼が、名残惜しさもなさそうに手を放す。
するりと指先が最後まで、少女の指先をなぞって離れる。
「ここなら、外の門番も見えている、ここで送るのは終わりにしよう」
「っ、ここでさよなら?」
もう少しだけ一緒にいたいな、と滅多にない事を思う少女に、彼が笑う。
「今日は。……デビュタント、楽しみにしている」
本当に瞬間的に、彼女の手を取った彼の唇が指の付け根をかすめて、彼は闇の中に去って行った。
それを呆然と見送る前に、我に返ってしまった彼女は、足早に門番の所に向かった。
「すみません、ここはドルヴォルザード公爵家のお屋敷ですよね、わたしは、お母様に言われてこの家の人を訪ねてきました、こう言う手紙を持っています」
門番は、夕闇の中いきなり現れた娘に驚きながらも、その手紙の筆記と差出人を見て、顔色を変えた。
「こちらへ」
そしてすぐに門の中に入れてくれて、玄関ホールまで案内してくれた。
継母の手紙は威力が絶大だったようだ。
宛名だけでこれなのだから、中身はどれだけすごい力があるのか。
そんな事を思うほど、門番の対応は丁寧な物だった。
これが本物の上流貴族の家のしつけか、と思うとすごすぎて感心しかできない彼女だった。
立ったまま数分が経過して、女性の使用人が現れる。おそらく屋敷の主人についている侍女の一人だ。その後に執事も現れる。
「こちらへ、当主様たちがお待ちです」
「はい」
少し居住まいを正して、少女はその後に続く。奥に行くほど屋敷の歴史の長さと、趣味の良さが際立ち、これが本物、貴族の中の貴族、と感動してしまう。
しかし行儀の悪い事は出来ないので、ちらちらと視線を少し動かすだけにとどめた。
お母様の手紙は、相当らしい。まあ、この家の自慢の娘だったことは聞いているので、可愛い自慢の娘からの手紙、となれば動くものもあるだろう。
少し他人事のような気分だ。
見事な廊下を歩き、階段を一つのぼればやや私的な客間に到着する。
「旦那様、大旦那様。奥様、大奥様。失礼いたします」
この屋敷の階級の最上位の人たちが勢ぞろいだ。
少し緊張しながら中に入れば、そこでは確かに、四人の人が待っていた。
あ、確かにお母様の家族だ。
少女は彼らの顔ぶれを見て思った。
雰囲気が似ているし、顔も似たところがいくつもある。
血のつながりがそこにはあり、家族と血のつながりが見いだせない少女にはうらやましいものがある。
「あなたが、シャリアの義理の娘かしら」
シャリア。継母の名前だった。
「……」
クラウスは口を開き、だが己は父から家名を名乗る事も許されていないと思う心が止めにかかる。
「手紙を読んだだろう、ギネビア。この子は名乗りすら許されていない。本物の義理の娘だ」
壮年の女性の言葉に続く、男性の言葉。女性はギネビアというらしい。
あ、試されていた。
たったそれだけのやり取りからも、何か情報が手に入ってしまう物なのか。
「シャリア姉様の手紙から大体は知った。……君は父から認知されていない娘なのだと。虐げられているとも。今度のデビュタントパーティすら、妨害されている事も」
それだけ知られていれば、十分知られている気がする。
継母に似た、やや若い男性がそこで笑いかけてくれた。
継母の笑顔によく似た、美しい百合の花の笑顔だった。
「シャリア姉様が娘だと思っている君を」
一呼吸置き、男性が続けた言葉は想定外だった。
「弟である私の養女にしても、かまわないだろうか?」
「あなた、なんて気が早いのかしら」
「シャリア姉様が、この子を幸せにしたいと手紙にすら書くんだぞ、マッリーア。ならばこの子の立ち位置をしっかりと盤石の物にするのが一番先だ。足元が揺れていたら、生きるのに苦労するんだ」
「そうだけれど、養女なんて」
「私たちには娘が育たなかっただろう、息子は色々強烈だし。それに私は、一目見てこの子を娘にするのが一番だと、判断したんだ」
「また野生の勘に頼って」
男性とその奥方の会話を聞きながら、壮年の男女が笑いあう。
「決まりだな」
「決まりですね。あとは本人の気持ち次第かしら」
「え……」
戸惑ったクラウスに、おそらく継母の母親が言う。
「あなたが、今までの家も家族も捨てたという事も書いてありましたから。……わたくしたちが、あなたの新しい家族になってもいいなら、この申し出を受けてくれないかしら」
「……それは、妃候補の娘がいると、何かと都合がいいからですか」
とっさに思ったのは、それを利用したいのだという考え方だった。しかし母親が否定する。
「いいえ? そんなものに頼らなくても、我が家はまだまだ揺らぎませんもの。単純に、あなたを見てあなたのふるまいを見て、言うの」
「いつ、わたしの振る舞いを見たのでしょう」
「シャリアのご機嫌伺いの時に、いつも誰に対しても丁寧な、嫌味のない受け答えをしていたあなたを、わたくしたちは話だけでは何回も」
「あなたの話を何度も聞いていたし、こうして会ってみてなんだか、孫みたいに思うんですもの。どうかしら、そこの息子の娘に、なんて」
当主や前当主、その奥方たちからの打診だ。
日陰に隠される事なんて、絶対にない。
家族として、一緒にいさせてもらえる。
その魅力と、それからここを出て行ってもあてがない事実。
少女が頷くには十分な理由だったのだ。
家族、にしてもらえるのだから。
使用人としての商家異常かもしれないと思っていただけあって。
「でも」
ためらいがちな声で問いかけてしまう。
「わたしみたいな地味な女の子を、養女に」
「あなた意外と馬鹿なのね」
微笑む女性陣と、思わず笑っている男性陣。
「あなただからいいのよ」
「そう、君だから養女にしてもいいと判断したのさ」
その言葉を聞いた瞬間の事だった。
眼から涙がこぼれだし、はたはたと落ちたのは。
今日は涙腺が緩いらしい。とっさに手の甲で拭った彼女に、四方向から差し出されるハンカチ。
それだけでもう、十分なくらいうれしかった。
「……」
唇を一回噛んだ後、クラウスは頭を下げた。
それは使用人としての一礼ではなく、一人の少女が家族に下げる角度と、見事な程の仕草だった。
「これから、よろしくお願いします、父様、母様、おじい様、おばあ様」
「やっぱりかわいいわ!」
彼女の下げた頭に、突如抱きしめられる。相手からいい匂いがして柔らかい。これから母と呼ぶ人が抱きしめてきたのだ。
「フィフラナちゃんの情報に誤りはなかったわね!」
「え、あの、フィフラナさんとお知り合いで?」
「あの子は実の父の所に行くまでは、ここで母親と一緒に私の侍女をしていたの。その時からの縁でよく手紙をもらっていて、あなたの事もちょくちょく話題になっていたの」
あの気難しいのが、友達って断言するくらいだから。
「いい子だって言うのは知っていたの。でも実際に会ってみたらもっといい子で、かわいくて、シャリアが可愛がっていたかったのもよくわかるわ!」
ああ。
思っていたよりもわたしは、いろんな人に好きでいてもらえていたらしい。
フィフラナさんが、友達と断言してくれていたのも、うれしくて。
優しい抱擁に返したいのに、腕が硬直したように動けない。
だが。
「こら嫁さん。娘が困っているよ、今日は疲れただろうから、ゆっくり休ませなさい」
父と呼べる人が、笑いながらたしなめて抱擁は終わった。