「さようなら、白雪姫」(8)
白石の愛車へと戻った二人は、次の目的地へ向かうために車に乗り込んだ。
今回の長澤への聴取は、本郷の予想通りの展開だった。抜け目ない医師の、抜け目ない行動。もしかしたら捜査に関わるのも、今回が初めてではないのかもしれない。
先に車に乗り込んだ白石は、車の扉の前でお決まりの右手で唇を弄ぶ仕草をしている本郷に気が付いてため息を吐いた。仕方なく一度車から降りて、彼に扉を開けて車に乗るよう促そうかと思った時だった。
本郷が、スーツの上着のポケットからスマートフォンを取り出しているのが見えた。
「ああ、もしもし。どちらさま?」
「えーっと・・・どっちのケージさん?あっ!あたし、柏木さち子」
その声に、本郷は器用に肩と頬の間にスマートフォンを挟んで、内ポケットからいつものノートを取り出した。車の屋根にノートを広げているのが見えて、白石は天を仰いでため息を吐いた。ドッサリ、と運転席の背もたれに寄りかかると、小さくため息を吐いてスマートフォンを取り出した。
「ああ、柏木さんでしたか。本郷です、と言って・・・区別出来ます?」
「うん。白髪の方のケージさんでしょ?第一声で一応は解ってたんだけど・・・ごめんなさい、確認だけしておきたくて」
小さくもう一度、ごめんなさい、と呟く声が聞こえて、本郷は薄っすらと口元に笑みを浮かべた。
「雪くん、また自分の名刺にぼくの連絡先も書いていたんでしょ?」
「ユキくん・・・って、この前一緒に来たケージさん?だったら、そうだと思うよ。名刺の裏に、『困ったことがあったら警部の本郷へ』って書いてあって、あなたの電話番号があったから」
クスクスと笑う柏木は、これから出勤なのだろう。いや出勤にはまだ早い時間だ。きっと客との同伴か、それか何か別の用事でもあるのだろう。電話の向こうの快活な笑い声は、夜の仕事をしている少女の艶やかさを纏っていなかった。
「そうですか。それで、ご用件は?」
ふふふ、と彼も小さく笑い声を返してからそう告げた。
「ああ、ごめんなさい。お仕事中よね」
「いいえ、構いませんよ」
「ありがとう。今度お店に来てよ。サービスするから」
「ええ、機会がありましたら、是非」
本郷の返しに、受話器の向こうから再び笑い声が聞こえた。
「社交辞令だ」
「そう思いますか?」
「うん、なんとなくだけど。職業病かな」
「ああ、そうかもしれないですよ。ぼくも相手の声色とか、微妙な表情の違いが気になるので」
本郷の言葉に、受話器越しの彼女は短く感嘆の声を漏らしていた。
「へぇ・・・ケージさんでも気になるのね」
「刑事だから、ですかね」
「そっか。確かにそうかも・・・。また、連絡してもいいですか?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。お仕事中にごめんなさい。それじゃあ」
そう言って受話器の向こうからの声が途絶え、代わりに電子音が響いた。
本郷は手帳を内ポケットへしまうと、ため息を吐きながら車に乗り込んだ。
「雪くん。みだりにぼくの電話番号を教えないでくれるかな」
「え?だって、俺より本郷さんが電話受けた方がいいですよ」
そう言いながら白石は車のエンジンをかけた。その言葉に、シートベルトをしめていた本郷が頬を膨らませる。
「そう言う問題じゃないんだ。雪くん、君だって電話応対くらい出来るじゃないか。署でやっているのを見たことあるよ」
「あー・・・いや、そうなんですけど、事件絡みだと独走するじゃないですか、俺」
「ああ、するね」
白石の言葉に、きっぱりと本郷はそう返した。白石もそう返ってくるのが解っていたのか、ウィンカーを出して本線の道路と合流するために、ハンドルに上半身を押し付けるようにして身を乗り出しながら再び口を開いた。
「だから、本郷さん宛てにしてるんですよ。俺だと、本郷さんに確認とらないで突っ走りますから」
「そうだね。それに雪くんは誰に対しても他人行儀だ」
「そういう事です。それに、俺のとこには俺に興味がある人がかけてくればいいじゃないですか」
警部よりも刑事が良いって人もいるんですよ、と歯を見せて笑いながら、白石はようやく駐車場から出て行った。
「それで、次はどちらへ?」
「木ノ本瑞樹のマンションへ行こう。確かめたいことがあるんだ」
本郷はそう言いながら、モゾモゾと助手席のリクライニングを倒していく。そういえば帰る間際に名刺を渡していたっけ、と思いながら本郷はため息を吐いた。
「道案内はしてくださいよ?」
白石の言葉に、本郷は紙切れを一枚手渡した。住所と木ノ本瑞樹の名が書かれている。白石は車を路肩へ寄せると、カーナビへ住所を入力した。ここからさほど遠くない、JRと地下鉄の駅のある利便性の良い立地にその住所はあった。
車を走らせること十数分。利便性とイコールか、それ以上の価値があるだろう豪華なマンションがそこにはあった。
白石が車を停めている間に、本郷は入り口へ向う。オートロックでしっかりと監視カメラも設置してある。被害者の親友の女性が住んでいる部屋は、マンションの最上階の二つ下のようだ。本郷が試しにオートロックで呼び出しを押してみたが、反応は無い。
「・・・留守、ですかね?」
「見慣れない男が居たら普通警戒するよ。管理人か、そうだね、マンションの住人でも出てきてくれると―――」
本郷が言い終わるより早く、住人の子供であろう小学生くらいの男女数人がエレベーターを降りてオートロックで閉じられている扉を、“内側から”開けてくれた。
「おじさんたち、こんにちは」
「はい、こんにちは」
本郷がそう返すと、子供たちは何事も無かったかのように外へと飛び出していった。
「オートロックはこれが危ない。ロック解除できなくても、中に入れてしまう」
自動ドアを潜りながら、本郷はそう言った。その言葉に、白石も頷きながら後に続く。
「ええ、うちもオートロックですから、そこら辺は気をつけていますよ。ちゃんと玄関に鍵をかけて、チェーンもしています」
その言葉に、本郷は目を丸くして口をすぼめた。
「意外だな。雪くん、そこまでしていたの?」
「鍵がちょっとゆるいんですよ、俺の部屋。チェーンしていないと誰なりかんだり入れるんです」
白石がそう言うと、ちょうどエレベーターが再び降りてきた。先ほどとは別の年齢の子供たちが、エレベーターから飛び出してくる。
「おじちゃん、ありがとう」
「はい、気を付けてね」
「はーい!いってきます」
このマンションはよほど隣人同士―――いやファミリー家庭同士だけかもしれないが―――の関係が密なのだろう。本郷は、今時珍しい、と思いながらエレベーターに乗り込むと扉を閉めて、目的の階数を押した。まもなくして、エレベーターが上昇し始めるのに合わせるようにして、白石が盛大にため息を吐いた。
「本郷さん・・・俺ってもうおぢさんなんですかね?」
「し」に濁点、と言うよりは「ち」に濁点、に近い発音で白石はそう言って、再びため息を吐いた。その姿に、本郷が喉の奥で笑う。
「あのくらいの年齢の子は、父親くらいの年齢の人は“おじさん”って呼ぶんだよ。なんだ、雪くん。この間から気にしていたのかい?」
「まあ、まだ若い気でいましたから」
「おじさんならいいじゃないか。ぼくなんて、いつおじいちゃんって言われるか―――あっ、着いたね」
そう言うと、いつもの調子で本郷はエレベーターを降りて行った。白石はその後を追いながら、なんだこの人でも年齢のことを気にするのか、とちょっと嬉しくなって口元を緩ませた。
「ああ、ここだね」
目的の部屋は、廊下のど真ん中にあった。左右どちらを向いても、同じだけの長さの廊下が伸びている。
本郷が玄関にあるチャイムを鳴らすと、
「はい?」
という怪訝な声がして、ドアがチェーンの分だけ開く。
「あの、何か・・・?」
いぶかしげな声で、家主と思われる女性はそう言った。
「あっ、木ノ本さん?大槻カホの件でお話が―――」
「帰って!!お願い!!帰ってください!!!」
喚くようにそう言われては、流石に本郷も白石も面食らって顔を見合わせた。物凄い音を響かせて扉が閉まると、勢いよく鍵をかける音も聞こえた。余りにも大きな音に、白石は思わず両手を肩の高さまであげていた。伸ばしかけた手が、一緒に挟まれかねない勢いだったからだ。
「こうなったらどうにもできないねぇ。困ったね」
そう言いながら本郷は踵を返すと、再びエレベーターへ向かった。エレベーターの下向きの三角形のボタンを押すと、滑車を滑るワイヤーが軋むような音が聞こえてきた。見た目の割に、マンション自体は古い物のようだ。
「本郷さん、いいんですか?」
「だって仕方がないじゃないか。あそこで騒がれたら、逆にぼくたちが警察を呼ばれてしまうよ」
呑気にそう返しながら、本郷はやってきたエレベーターへ乗り込んだ。白石も後に続くと、本郷の後に着いて駐車場まで向かった。