「さようなら、白雪姫」(6)
次の日、本郷はいつものカフェ―――ではなく、白石の運転する乗用車の助手席にいた。向っているのは大槻カホが死んでいたアパートである。本郷は前回調べた内容をノートのページを捲りながら思い出しているところだった。
空はまだ、秋の日の出の遅さのせいか暗く、対向車線の車のライトが眩しく光っている。白石は眠気をかみ殺すようにガムを噛むと、隣でリズム良くノートのページをめくる本郷に声をかけた。
「何でこんな朝早くに現場へ?」
「犯人がどんな経路で逃げたのか気になってね」
署の最寄りの地下鉄駅から少し離れただけで、街灯の数はぐっと減る。住宅地ほどではないが、大通りから一本裏道へ入ると、もう歩行者からは車のライトが眩しく感じられる程だ。明け方ということもあり、夜間よりはだいぶ明るいが、それでも昼間ほどではない。
目的地のアパートは、さらにそこから一本入っていることもあり、少々暗い。アパートの前の通りには、たった一本道路の向こう側に街灯が立っているだけだ。そのため、車のライトが目障りなほどに狭い路地を照らしている。
白石は現場に着くと、足早にアパートへ消えていく本郷の後を追った。本郷の今日のスーツは、ブラウンの三つボタンのダブルスーツ。年相応に落ち着いて見えるが、ネクタイはベージュ地に臙脂と白でペイズリー柄が描かれている。今日も前をきっちり閉じているのは、やはり内ポケットの左に警察手帳、右に文庫のミステリー小説と手帳を入れているせいであろう。前方へ型崩れしているスーツから、物が零れ落ちないようにするためだ。
一方で白石は今日もネイビーのシングルスーツであるが、今日はストライプが入っている。シルバーのネクタイは、今日もネクタイピンで押さえられていた。ベルトはもちろんアルマーニだが、今日はバックルがブランドロゴになっているタイプのようである。少し肌寒いのか、車の後部座先に乗せていたベージュのトレンチコートを羽織っていた。
「これじゃあ、目撃者は期待できませんね・・・」
車のライトを消すと、アパートの前の通りを照らすのは登り始めた朝日と、申し訳程度にアパートの外廊下を照らす常夜灯だけになった。街灯の灯りは、もうついていなかった。
「そうだねぇ。監視カメラもないし、事件当日アパートの外に居る人間なんていないだろうからね。困ったね」
そう言う本郷の声は、どう聞いても“困っている”ようには聞こえない。
「ちょっと、邪魔よ」
唐突に背後から聞こえた声に、二人は勢いよくそちらを振り返った。視界に低めの身長をヒールの高い靴でかさましした、風俗嬢のような見た目の少女が入った。金色に染め上げられた髪を巻き上げて、そんなにも肩を露出して、足を覆っているドレスを着るのは、キャバクラ嬢くらいだ。秋の明け方は冷えるのか、ショールに覆われた腕を小さく擦っていた。
「失礼だけど、貴女は?」
「そこの角の部屋の住人。おじさんたちこそ、誰?ヤーさん?とりたてなら静かにやってよね」
今から寝るのよ、と続けて、少女は件のアパートの一階の右奥へと歩いていく。
「おじっ・・・!」
白石はおじさんと言われた現実を受け入れられないのか、目を白黒させてからため息交じりに天を仰いだ。
「ああ、待って、待って。ちょっとお話良いですか?」
そう言いながら本郷は少女の後を追いかけると、警察手帳を開いた。
少女は、ああなんだそういうことか、と言った表情を浮かべると、自室の玄関扉を全開にした。
「どうぞ。入ったら、おじさん達。寒いでしょ?秋の明け方は特別冷えるの」
先ほどまでとは打って変わって屈託のない表情で笑う少女の言葉に、本郷は笑顔を、白石は複雑な表情を浮かべて室内へ入った。
少女の部屋は大槻カホの部屋と同じ間取りだというのに、あまりにも雑然としていた。汚いといえば汚いが、整理されているといえばされている。見せる収納にしているわけでもなく、壁際に整然と並べられた衣装ケースには無造作に服が詰め込んであり、上にも物が積まれるように置かれていた。床に物が散らばっているというわけではないが、その部屋は生活感に溢れていた。
それも、気ままな一人暮らしと言ってしまえば、それまでである。
「適当に座ってよ。あたしは着替えても?」
ワンルームに通された二人が、さてどこに座ろうかと思っていると、既に少女は仕事用に着ていたピンクのロングドレスを脱いで、下着姿で部屋着を探していた。今まで着ていた服は、既にウォークインクローゼットの中に吊るされている。ウォークインクローゼットの中は仕事用のドレスで埋まっているようで、似たようなロングドレスが何枚もそこには吊るされていた。
「これですか?」
本郷は床に置いてあった上下セットの灰色のスウェットを拾い上げると、少女へ手渡した。
「あっ、ありがとう」
そう言うが早いか、少女は受け取った衣服を瞬時に身にまとい、低いベッドへと腰掛けた。少女が手でどうぞ、と座るよう促すので、二人はようやく小さいテーブルを囲むようにして床へ腰を下ろした。
「それじゃあ本題に入ってもいいですか?」
本郷はそう言うと、いつものノートを開いた。
「お名前は?」
「わたし?柏木さち子。さちはひらがな、子は子どもの子。めずらしいでしょ?」
そう言って歯を見せて笑う少女は、後は化粧を落として髪の毛も解いてしまえば年相応の少女のそれだ。
本当に風俗嬢として働いて大丈夫な年齢なのか、と思いながら、今度は白石が口を開いた。
「そうですね。で、昨日はどこに?」
「事件の時間のことでしょう?ちょうど仕事から帰ってきた頃だったの。カホちゃんの部屋からだったのか解んないけど、二階から急いで男の人が降りてきたの。その人、物凄い勢いで降りてきたのよ。凄く急いでいたみたいで、白いコートみたいなのを階段の端にひっかけていたわ。でも、気にしてなかったみたい」
そう言いながら、ファーッと少女は盛大にあくびをして上へ伸び上がった。
「ああ、すみませんね。お仕事終わりに失礼しました」
「いーえ。カホちゃん殺されたんでしょ?」
本郷が手帳をしまいながら告げた言葉に、柏木はそう返した。その言葉に、白石は勢いよく彼女に詰め寄った。
「なんで、他殺だと!?」
「ちょっと、おじさん!近い!!仕事以外ではサービスしない主義!!」
だから離れてよ、とつっけんどんに押し返されて、白石は頭を掻きながら本郷を見た。雪くんが悪いよ、と言いたげな苦笑とも微笑ともとれる表情に見返されて、白石はため息を吐いた。
「どうしてそう思うんですか?」
「カホちゃん、別にストーカーとかされてなかったし。カホちゃんの店には、カホちゃんより女の子みたいな子結構いたし、カホちゃんどっちかって言うと男にモテる顔じゃなくて、女にモテる顔だったから。それじゃあ早く犯人捕まえてね、ケージさんたち」
少女はそう言いながら、二人を部屋の外まで見送ると、勢いよく扉を閉めた。鼻が高かったら掠め取られていたかもしれないが、あいにくと二人とも生粋の日本人顔である。そんな心配はなかったが、心臓に悪いのは事実だ。
肩で息を吐くと、白石は本郷を振り返った。
「仲良しだったんですかね?」
「ああ、聞くのを忘れたね。まあ、いいか。それより、この時間だと流石にもう明るいね」
よくはないだろう、と思いつつ、白石はアパートの外階段を見つめた。既に本郷はそこへ歩み寄って、階段に引っかかりそうな箇所があるか確認していた。
「あります?」
「うん、あるにはあるんだけど・・・これ、だいぶ前からだろうね」
そう言って、本郷は外階段の一部を指差した。ちょうど踊り場になっている部分の柵のつなぎ目が、一部腐食して金属が毛羽立ったようになっていた。確かに勢いよく階段を下りて来てコートを翻せば、引っかかるかもしれない。
「雪くん、試しにやってみてくれる?」
「嫌です!俺が怪我するならまだしも、コートは労災下りないんですよ」
「そう?経費なら落ちるかもしれないよ」
「落ちませんよ。警部の肩書でも無理ですからね」
白石がそう言ってもまだ納得できないのか、いつものポーズで唇を弄んでいる。
「さあ、そろそろ署に行きましょう。たまには朝一からいるのも、悪くないですよ」
「ああ・・・」
そう呟いて、本郷は明らかに落胆の表情を浮かべた。
「雪くんが、珍しく早朝の捜査に乗り気だったから、おかしいと思ったんだ」
「警部殿をちゃんと仕事させるのも、俺の仕事なんですよ」
さあ乗ってください、と言いながら恭しく車の助手席の扉を開ける部下に、本郷は苦笑を浮かべて車に乗り込んだ。その表情に、今日は俺の勝ちですね、と笑顔を返して白石も車に乗り込む。
空はもう、だいぶ明るくなってきていた。