「さようなら、白雪姫」(5)
地下鉄で7つほど行って、そこからさらに少し歩いたところにある大学病院、そこに件の男―――長澤栄徳はいる。医療関係者だけが通れる出入り口に立っている警備員に、警察手帳を見せると、彼は頷いて少しここで待つように促した。どうやらそろそろ帰宅する時間だったようで、間もなく件の男はここを通ると言うのだ。
「ちょうど良かったですね」
「ああ。やっぱり夜の病院はなんとなく嫌だからね、入らなくて済んでちょうどよかった」
白石の言葉に本郷が頷くと、恐らくは診察中と対照的だろう黒いスーツを着た件の男が、タイミングよく扉から出てきた。スーツと言うよりは、背広と言った方が見た目的にはあっているように思うほど、そのスーツは見目が良かった。後ろ見頃に入っている縦の切れ目も、真ん中に一つのタイプではなく、両サイドに切れ目が入っているタイプだった。それがより、背広というイメージを強くしているのかもしれない。手にはスマートフォンが握られているだけで、他に所持品らしきものは見当たらない。微かに彼のポケットの中で、鍵がこすれ合う音がしたくらいだ。
さて、2人のスーツ姿の男が突然目の前に立っていて、長澤は困惑の色をその顔に浮かべていた。それもそうだろう。仕立ての良いスーツを着た中肉中背の強面の男と、長身に広い肩幅を持つ男が現れれば、当然カタギの人間とは思わない。しかし、すぐに長澤はその表情を医師らしい温和なものへと変えた。
「刑事さんが僕に何の御用でしょうか?」
目の前に出された警察手帳に軽く頷きながら、彼はそう言った。
医療関係者はよくも悪くも、警察関係者の往来に慣れ過ぎている。彼もそれは同様で、黒い太いフレームに覆われた眼鏡の奥で、警戒心の強い瞳をぎらつかせていた。
「長澤栄徳さんですね。大槻カホさんとのご関係は?」
「カホ、ですか?周囲には、まだ仲の良いごく少数の人にしか伝えていないですが、恋人です」
「そうですか。いや、実は大槻カホさんが今朝、死体で発見されました」
白石の言葉に長澤栄徳は顔を片手で覆うと、関係者出入り口の壁に寄りかかった。よほどショックだったのだろうか。唇が微かに震えているように見える。
「今日・・・まだ彼女から連絡がなかったので、おかしいと思っていたんです」
震える唇が、静かにそう告げた。本郷はいつもの手帳を取り出すと、質問を投げかけた。
「毎日彼女とは連絡を取り合っているのですか?」
「ええ。ほぼ毎日とっています。恋人ですから、当然です・・・でも、今日は何度メールを送っても返事がなくて・・・」
虚ろな瞳が、眼鏡の奥で揺れ動いている。自分を守るように両腕で自分を抱きしめて、荒く呼吸を吐いていた。
「いつもなら、すぐ返事が来るのですか?」
「はい。私は仕事が仕事なので、休憩やちょっとした空き時間じゃないと返事も出来ませんが、彼女は私が送ったらすぐに連絡をくれました」
「それはまた・・・ずいぶんと甲斐甲斐しいですね」
本郷が口元に笑みを浮かべれば、長澤も頷いて引きつった笑みを浮かべた。頬を冷や汗が流れ落ちている。
「ええ、私もそう思いました。だから以前、彼女に言ったんです。あまり無理に返してくれなくても大丈夫だ、と。そしたら、ああ・・・。好きな人から連絡を待っている時間も楽しい、と。そう言ったんです。そう言われたら、私はもう何も言えませんよ」
無理矢理に作り上げた弱々しい笑顔が、二人の刑事を見上げた。
「・・・そうですか。死んでいたんですか」
眼鏡の奥の瞳が、ぼんやりと二人を見つめる。大槻カホに比べれば確かに、彼は男性らしい体躯をしていた。しかしそれも、普段頻繁に身体を動かさない男のそれである。本郷はまだしも、だいたい同世代の白石に比べればほっそりとしていた。
「・・・それにしても何故ですか?自殺、ですか?」
「何か思い当たる点でも?」
本郷の問いに長澤はゆっくりと壁から離れると、近くのベンチへ腰掛けた。今度は両手で顔を覆っている。器用に眼鏡の下に手を入れていた。眼鏡は量販店でよくみかけるデザインの物だった。もしかしたら、大槻カホからのプレゼントかもしれない。そう思うと、やるせない気持ちがこみ上げた。
「ええ。何か色々悩みがあると言っていました・・・。カホは男性の身体に女性の心を持っていましたから、きっと僕らには解らないような複雑な悩みがあったんでしょう」
「そうですか。いや実は、大槻カホの死に不可解な点があるんですよ」
「不可解とは?どういうことです?」
長澤の驚きに染まった瞳が、本郷を見つめる。
「他殺の可能性も考慮に入れて、捜査をしているということです」
「どういう・・・ことです?」
白石の突き放したような言葉に、長澤は明らかに怪訝の色を浮かべた。
「文字通りですよ。何かストーカーの被害にあっていたとか、聞いていますか?」
「いえ・・・何も・・・」
先ほどまでの饒舌な彼の姿は無く、明らかに何かを隠している雰囲気が漂っていた。それは白石も気が付いており、本郷とて見逃すわけがなかった。しかし、いつも通り他人には解読不能なメモをノートに綴っていた本郷は、そのままノートを閉じると笑顔を浮かべた。
「ご協力ありがとうございます。また、何かあったらお話を聞かせてください」
そう言うが早いか、くるり、と踵を返し、白石の運手する車へ向うと、助手席に腰掛けた。白石も上司の後を追いかけると、素早く運転席へ腰掛ける。エンジンをかけると、ゆっくり加速した車は、道路を駆け抜けていった。
「本郷さん、何か解ったんですか?」
急に質問やめちゃうから・・・、とぶつぶつ呟きながらハンドルをきる白石をよそに、本郷は手帳を開く。ページを繰る音をバックミュージックにするようにして、本郷は口を開いた。
「ぼくは一言も自殺だと言わなかった。なのに、彼は大槻カホの死は自殺だ、と最初から断定していた。何故だろうね?」
その言葉に、あー、と短く白石は声を発した。
「それは、本郷さんが来る前に誰かから聞いていたんじゃないですか?」
「だったらそう言う反応をすればいいとは思わないかい?」
「まあ・・・そうですね」
「彼の反応は明らかに、自殺である事を知っていた人間の反応だった」
本郷の言葉に白石のハンドルを握る手に力がこもる。
「つまり、彼も何か隠していると?」
「もしかしたら、大槻カホ殺しに関わっているのかもしれないね」
詳しいことはもう少し調べてみないと解らないけれどね、と付け加えて、彼はノートを閉じた。車はまもなく署へと到着する。