「さようなら、白雪姫」(2)
車を走らせ始めてから十分程で、二人は被害者のアパートへ到着した。野次馬や報道陣の波をかき分けて、周辺にいる刑事たちに軽く会釈などをしつつ、問題の部屋へ向かう。
アパートは木造鉄筋2階建てで、上下に各4部屋ずつ計8部屋がある。被害者の部屋は2階の、向かって左から2番目の部屋だった。室内はアパートにしては広く、小奇麗な1Kである。狭い玄関に置かれた姿見やパンプス、カメオのブローチのようなものがついた赤いベレー帽など、ここだけでも男性らしいものはまるで見当たらない。廊下に面したキッチン、独立したトイレ、それなりの広さの浴槽のある風呂場、そして彼女の主な居住空間であったはずのリビングも、一見すると若い女性の一人暮らしの部屋、という印象だった。部屋に溢れる小物や家具の色使いまで、女性のそれである。
その部屋の中央、白いカーペットをどす黒い茶色に染め上げて、茶色いショートカットヘアーの男が転がっていた。腹部には、包丁が刺さったままになっている。
「うっわ、もう本当凄い臭い・・・すみません!誰か窓開けて貰っていいですか」
部屋に入ってまず一声、口元を鼻までしっかり左手で覆った白石の指示で、窓際にいた新米刑事が窓を開ける。部屋に渦巻いていた何処か重苦しい空気が、吹き込む風に乗って出て行った。何とかむせ返る臭いがおさまった所で、白石はようやく口元を覆っていた手をどけた。それでもまだ鼻をツンと通り抜けていく香りに、白石は眉間に皺を寄せている。
「雪くんの鼻は難儀だねぇ」
そう言いながら、本郷は白いビニール手袋をはめると床に横たわる男を見つめた。律儀に遺体の前で両手を合わせて目を閉じてから、その身体に手を伸ばした。
「雪くん。この人が、被害者?写真と違うね」
「彼がこの部屋の住人、大槻カホです。写真の黒髪は、ウィッグ・・・カツラ、じゃないですか」
白石はそう言うと近くにいた刑事から一枚の紙切れを受け取り、本郷へ手渡した。遺書と思われるその紙はフリルのついた可愛らしいメモ帳で、
「もうつかれました カホ」
と、だけ書かれていた。
本郷が被害者を見ている間、白石は彼女の部屋のウォークインクローゼットを開けて、短い悲鳴を上げていた。備え付けだろうそこには、パッと見ただけではギョッとするほどの、マネキンの首だけが置いてあった。鎖骨あたりより上しかないその発泡スチロール製の首に、写真で見たような黒髪のウィッグが乗せてある。どうやら、白石の推理は見事的中したようだ。だがいささか心臓に悪い。白石は左胸に手をあてて大きく深呼吸して、呼吸を整えてから口を開いた。
「自殺・・・ですかね?」
白石がそう言って本郷を振り返ると、彼は腕を組み、上にした右手を口元に持っていっていた。本郷が考え事をする時のお決まりのポーズである。
「雪くん。今時自殺するのに、わざわざこんな死に方を選ぶと思う?」
くまなく遺体を見ていたはずなのに、遺体は元の通り寸分の狂いもなくそこに横たえられていた。服の皺ひとつ、乱れていないのではないだろうか。
「確かに、そうですね。でも衝動的に、って考えたらありえるんじゃないですか?」
「ご丁寧に遺書まで遺しているのに、衝動的か」
ぼそりとそう言いながら、本郷は一通り、グルリ、と部屋の中を物色して歩く。
それにしても、見れば見るほど男性らしいものが見当たらない部屋だ、と白石は思った。ピンク色に金色のハートの描かれたカーテン、薄いピンク色の布団カバーがされたベッド、折り畳み式のテーブルは天板がオレンジ色だが、細かな模様が描かれている。カーペットは今でこそ変色しているが、本来は純白と言えるほどに真っ白だ。部屋の隅には、折り畳み式のテーブルとは別に、学習机より少し小さな机と対の椅子が置かれている。その小さな机には雑貨屋においてありそうな小物が並べられており、机の中央を陣取っているノートパソコンの外装はシルバーとピンクだ。失敬して、衣装ケースの引き出しの中なども開けてみたが、もちろん男性らしい物は見られない。
この可愛らしい部屋に横たわっている凄惨な死体だけが、この部屋の主が男性であると告げていた。
「おっと、困ったね」
室外へ出ると、先ほどまでよりも多くのマスコミや野次馬がアパートの周りへ押し寄せていた。東京という大都会ならまだしも、ここはそのさらに北、東北の都会と言われる地である。こんな殺人かも自殺かもはっきりしない事件は、めったに起きるものではない。もちろん、ここまでの捜査では、白石はほぼ自殺ではないかと考えているのだが。
その野次馬たちの輪から少し離れたところ、アパートの外階段下辺りに一人の女性が立っていた。白石が、
「第一発見者の木ノ本瑞樹さん。被害者の親友で、今日の午後から一緒に街―――あっ、駅方面へ出かける予定だったそうです」
と言うが早いか、本郷はもう階段の下に居た。
「すみません。木ノ本瑞樹さんですか?」
「あっ、はい・・・そう、です」
胸より少し下の長さの茶色い髪をゆるく巻いて、眉の上で切り揃えられた前髪もふんわりと巻かれている。白い七分丈のシフォンのシャツに、薄いサーモンピンクのキュロットスカート、上に羽織られているのはベージュのジャケットだ。足元は生足ではなくストッキングに守られ、足には茶色のブーティが履かれている。ジャケットにもブーティにも、付けられるところには付けておきました、と言わんばかりのレースのデザインが、ここぞとばかりに主張していた。
「大槻さんとのご関係は?」
「カホとは彼女の働いている店で出会ったんです。そこから趣味とか服の好みが合っていて、何度か一緒に買い物に行ったり、お互いの悩みを相談したりしていたんです。本当はお店で出会った人とは外であまり会っちゃいけないみたいなんですけど、私は特別だって・・・。それで最近、好きな人が出来たって言っていたんです。医療系の仕事をしている男性で、歳はカホより三つ上、それでえーっと、名前は・・・スミマセン。気が動転してしまって・・・」
落ち着いているように見えても人ひとりが、ましてや親友が亡くなったのである。冷静で居られるわけが無い。本郷の問いかけに対する彼女の言い分も、てんで支離滅裂であった。
「大丈夫ですよ。無理も無いです。思い出したら連絡をください」
白石がそう言って名刺を手渡す。彼女よりも二〇センチメートルは白石の背が高いため、見下ろすと言うよりも見下すような形になった。本郷もけして背が低いわけではないのだが、白石の隣にいるとどうしても低く見える。それでも一七〇センチメートル弱はあるのだ。
木ノ本は何度か名刺を落としそうになりながら受け取ると、足元へ視線を落として再び口を開いた。
「カホは・・・自殺、なんでしょうか?」
まあ確かにあんな死に方じゃあね、とは思ったが、白石はその言葉を飲み込んだ。チラリと上階を見上げたが、未だ現場検証が終わらないのか、大槻カホの部屋から遺体が出てくる気配はない。先ほどから刑事たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているだけだ。
「それはまだなんとも。木ノ本さんは、どうして今日はここへ?」
本郷が改めてそう問いかければ、彼女は相変わらず落ち着きない様子で、何度も口ごもりながら語りはじめた。
「カホと、駅へ行く約束をしていて・・・」
歯切れが悪く、会話もてんで続く気配がない。
「買い物ですか?」
「ええ、そう。買い物です・・・」
本郷が再び問いかけて、ようやくそこまでの話が聞き出せたが、それは先ほど白石が既に本郷に伝えた物とほぼ同じだった。
しびれを切らして口を開いたのは、白石だった。
「では、何故わざわざここまで?」
「あっ・・・待ち合わせの時間になっても、カホがこないから、その・・・心配になって・・・様子を見に・・・」
視線をあげずに、貰った名刺を手の中でいじりながら、木ノ本はそう告げた。
「心配に?でも、大槻さんは男性だ。もし強盗などにあっても太刀打ちできるんじゃないですか?」
「それは・・・そうなんですけど・・・」
白石の問いかけに、なんともあいまいな返答をして、木ノ本はまた俯いた。本郷は表紙が革張りの細長いノートにボールペンを走らせながら、ふむ、と小さく頷いた。
「待ち合わせ場所と時間はいつでしょう?」
「時間が、9時半で・・・場所は駅の改札前です・・・」
呟かれる言葉が、掠れてほとんど聞こえない。
「最寄りの地下鉄の駅、ですか?」
「はい・・・」
「えっ、そこから、わざわざここまで戻ってきたんですか?」
話の腰を折るんじゃないよ、と言いたげな視線が、本郷から白石へ送られる。白石は、べッ、と舌を出すと、肩をすくめて見せた。
「えっ・・・。あの、カホは、待ち合わせに遅れるような人じゃ、ないから。・・・だから、何かあったんじゃないかと、思って・・・」
相変わらず、なんとも歯切れの悪い返答である。おどおどしていると言うよりは、あまりにも慎重に言葉を選びすぎているように見えて、白石は無意識に眉間に皺を寄せていた。何か隠しているような雰囲気すら感じられる程だが、それなどお構いなしに本郷は質問を続けていく。
「それで、アパートに着いて彼女の部屋へ入ったのですか?」
「ええ。ここに来るまでの間に、何度も彼女に電話をしました。メールも送りました。でも、返事がなくて・・・だから、だんだん不安になって・・・ドアノブをまわしてみたら、開いて・・・そしたら!」
口元を覆うように持ち上げられた手が震えていた。紫色に変色している唇も、ワナワナと震えている。
「中に入ったのですね?」
本郷の問いかけに、木ノ本は深く頷いた。頷いたまま、彼女は顔を上げなかった。手だけではなく、全身が震えていた。
「ああ、大丈夫ですか?無理しなくていいですよ」
「すみませ・・・」
両手で顔を覆って崩れ落ちそうになる木ノ本を、白石が近くにいた女性刑事へ受け渡す。そのまま、彼女は近くのパトカーの後部座席に座らされていた。女性刑事が一言二言話題を持ちかけているようだが、やはり会話は続かないようである。白石はぼりぼりと短く切り揃えられた髪を掻くと、視線を本郷に戻した。
白石が女性警察官に木ノ本を預けている間に、本郷は再び階段を登っていっていた。
「ああ、本郷さん。すぐ右の部屋は空き部屋ですよ。で、左は旅行中みたいです。大家さんの情報なので、ほぼ間違いないと思います。後、被害者の下の部屋の住人は朝帰りみたいです。これも本人の証言がとれています」
本郷の後を追いかけながら、白石は彼の背中にそう声をかけた。被害者の部屋の前で立ち止まった本郷は、いつものポーズで彼を振り返った。
「ふーん。つまり目撃者がいないってこと?困ったね」
「そう言うことみたいです。これだけ古いと、防犯カメラもありませんし」
「困ったねぇ」
二度もそう言った本郷の顔は、どこにも“困っている”ようなところはなかった。割合に長い付き合いの白石も、この警部の考えの一を聞いて十も二十も把握するのは不可能だった。
「彼女のスマホの通知履歴って見られる?」
被害者の部屋を覗き込んで本郷が問いかけると、室内の刑事たちが慌ただしく動き始めた。流石は警部である。素行はいざ知らず、その肩書だけで言えば簡単に人の首も飛ばせるのだ。
「ああ、ありがとう。えーっと・・・」
「貸してください。うわ、不用心だな。ロックかかってない」
本郷から半ば奪い取るようにしてスマートフォンを受け取った白石は、そう言いながら画面の脇にある小さな突起を押した。パッと画面が明るくなると、スラスラと画面を操作していく。
「ロックなら今、雪くんが解除したんじゃないの?」
「違いますよ。いや、違わないんですけど・・・何て言うか、こういうスライドするだけじゃなくて、四桁の数字を入力するとか、液晶を記憶させた通りになぞるとか、色々あるんですよ」
白石の言葉に、うんうん、と本郷は何度も頷いている。本郷とてスマートフォンを持っていないわけではないのだが、それは彼の年齢相応シニア層を対象としたスマートフォンなのだ。なので、こういった一般的なタイプは扱ったことがないのである。
「あっ、ありました。通話履歴ですが、確かに木ノ本瑞樹の供述通り、着信がありますね。無料通話アプリも同様です」
そう言ってスマートフォンに内蔵されている電話の履歴を表示した後に、すぐに無料通話アプリ開いた。一分ごとに可愛いのだか気持ち悪いのだかよく解らないイラストが送信されて、たまに思い出したように短い文章が送られている。
「うわあ、凄いね。スタンプ、だっけ?そればっかりだ」
「今時の若い子ってだいたいそうですよ。ほら、これみたいに、スタンプと一緒に文字が付いている物なんかもあるんで。俺にも結構そう言うのばっかり届きますから」
スマホに表示されている画像の一つを指差しながら、白石はそう言った。可愛らしい画像には
「りょうかいで~す」
と言う文字が、そのキャラクターを一周するように書かれている。
「へぇ・・・後輩たちから?」
「え?そうですよ」
「でも雪くんは、ぼくにはそう言うのくれないよね」
「いやいや、本郷さん。歳、年齢を考えてくださいよ。俺のお父さんじゃないんだから、そんな軽々しく送れませんよ」
本郷は通話時間や着信時間をノートにメモしながら、白石へ問いかけた。親しければ親しい間柄になるほど、スタンプを送り合う率や頻度は上がるが、本郷と白石ではあまりにも年齢が離れすぎている。白石の言う通り本郷が彼の父親ならばまだしも、ただの職場の上司のアラフィフの男にそんな物を送るようなタイプでは、白石はないのだ。もちろん、彼は父親にもそんな物を送ったことはない。
「では、またあらためることにしようか。雪くん、検死の結果が出るまでどこかカフェにでも行かない?」
パタンと本郷がノートを閉じたので、白石は被害者のスマートフォンの画面を消すと、彼女の部屋でまだ作業中の刑事へ手渡した。
「あー、俺腹減っちゃったんで、何か飯食べられるところにしてくださいね」
「君はあれを見てもまだ食欲がわくの?凄いね」
「伊達に一〇年も刑事やっていませんよ。それに、本郷さんも平気でしょう?」
「そうだね。じゃあ、行こうか」
シルバーの乗用車の運転席に白石が腰掛け、助手席には本郷が腰掛けた。シートベルトを締めると、ゆっくりと車が走り出す。マスコミや野次馬をうまくかきわけて、車は道路へ出て行った。