「さようなら、白雪姫」(13)
その日、本郷は白石と共に長澤のいる留置場を訪れていた。数日前よりもくたびれた印象を受けるものの、そこにいる彼の顔はここに連れて来られた当初と変わらない。自分以外が犯人であるはずがないとでも言いたげな顔で、真っ直ぐに自分を見下ろす二人の刑事を見上げていた。
「お久しぶりです、刑事さん。わたしは犯人になりそうですか?」
その言葉に、白石は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。どうしてそんな清々しいまでの表情で、自分の無実を否定し続けるのだろうか。白石には、それがまるで理解出来なかった。
白石は呼吸を落ち着けてから、真っ直ぐに相手を見据えた。
「長澤栄徳。取調室で話を聞こう」
「ああ、ようやく犯人にしてもらえるんですか?待ちくたびれました」
そう言いながら立ち上がる長澤に、本郷が申し訳なさそうに言葉を続ける。
「違いますよ。貴方の行った犯行の内容について、お聞きしていなかったと思いまして」
「そうですか」
明らかに気落ちした声で、がっくりと彼は肩を落とした。
「とりあえず、話を聞きましょう。出てください」
本郷の言葉に、留置場の見張りをしていた警察官が鍵を開ける。すっかりくたびれてしまったスーツ姿とは裏腹に、彼は檻の向こうから出てくると、背筋をしゃんと伸ばした。本郷が白石を見上げて頷くと、白石も頷いて歩き出した。
取調室で椅子に腰を下ろした長澤は、前回同様机に肘を付くと組んだ手の上に顎を乗せた。白石が向かいの席に腰を下ろそうか思案していると、椅子に座った男は、クスリ、と口元に笑みを浮かべた。
「前回はすみません。大丈夫です。もうあんなことしませんから」
そう言いながら、どうぞ、と顎を離した手を翻して見せる。その姿はまるで自分がこの部屋の主であるかのようであった。
「それでは、今回はぼくが座らせてもらいます。話を始めてください」
そう言いながら本郷は内ポケットからいつものノートを取り出した。見開かれたページには、数行だけ記号が書かれていた。しかしその文字だけでなく、これから彼が何を問いかけようとしているのかも、白石には見当がつかなかった。
「あれは・・・まだ日が昇る前だったと思います。街灯も消えていたので、外は真夜中よりも暗く見えました」
饒舌な語り口調で口を開いて、長澤は思い出すように目を閉じた。
「アパートの常夜灯だけが、アパートを照らし出していました。アパートの外階段を上って、彼女の部屋の前まで行って、玄関のチャイムを鳴らしました」
「常夜灯があるとは言え、街灯が無ければそうとうに暗い時間ですよ。どうして、スムーズに階段を上れたのですか?」
本郷は長澤の発言に首を傾げながら、ノートにペンを走らせている。
その間、白石は出入り口の横の壁に寄りかかっていた。彼の視界に映る長澤は、診察室で見た温和な医師となんら変わらなかった。
「夜勤明けに彼女の元を訪ねている時と、なんら変わりありませんでしたから」
「大槻カホさんのアパートは、その時間によく尋ねられたのですか?」
「ええ。なので、もう慣れてしまいました」
話を続けても良いですか、と言いたげな苦笑を浮かべられて、本郷はわざとらしく両肩を上げて見せてから、どうぞ、と促した。
「その日も、いつも通りに彼女が出迎えてくれました。カホの、扉の向こう側に立っているのが私だった時のあの嬉しそうな顔が、私は大好きだったんです」
じゃあなんで殺したんだ、と言う言葉を、白石はなんとか飲み込んだ。今ここで割って入っては、本郷に怒られかねない。仕方なく、白石は壁に寄りかかったまま、二人の会話を見守ることにした。
「その時の時刻は覚えていますか?」
「時間・・・ですか?さあ、気にしていませんでした」
そうは言いつつも、本郷の問いかけに長澤はチラリと自分の腕を確認していた。そこに腕時計がないのを見て、そう言えば勾留中だったか、と言いたげな顔をして頷いていたのを、白石は見逃さなかった。
「そうですか。夜勤明けは、いつも必ず彼女の家に?」
「ええ、だいたいは。もちろん、彼女にも用事はありますし、私にもありますから、夜勤明けに必ずという事はありません」
「それでも、夜勤明けに彼女の家を訪れていた回数は多いですか?」
「多いですよ。夜勤明けに彼女の家に行って、彼女が作ってくれる簡単な朝食・・・と言えばいいのか、夜食と言えばいいのか・・・とにかく、それを食べて、彼女のベッドを借りて眠ることが多いです」
さらりと惚気も交えて告げられた言葉に、ふーん、と小さく本郷は鼻を鳴らした。手元の手帳には記号が錬成されていっている。
「その日も、部屋に入って彼女の手料理を?」
「いいえ。その日は・・・」
再び、長澤は思い出すように瞳を閉じた。
「その日も、いつも通り彼女はまず私に謝りました。仕事終わりにばかりで申し訳ない、と。それは私の方なのに、いつも彼女が謝るんですよ」
そう言いながら、長澤は自身の唇に触れてうっとりと目を細めた。
いったい何を思い出したと言うのだ。キスくらいにとどめてくれ、と思ったが、それはそれで気持ちが悪い、と思い直して白石は眉間に皺を寄せた。
「それから?」
「ああ・・・それから、彼女の家に入れてもらったので、彼女に上着を渡してハンガーにかけてもらいました」
「へぇ・・・今時珍しいですね、甲斐甲斐しいと言いますか」
「確かにそうですね。いつもそうしてくれていたので、忘れていました」
思い出を噛みしめるように笑いながら、長澤は再び口を開いた。
「その間に・・・彼女がわたしの服をハンガーにかけてくれている間に、台所の流し台の下から包丁を取り出しました」
「凶器の包丁ですね。なるほど、なるほど。それなら当然、貴方の指紋があってもおかしくはないですね」
本郷が頷きながら手帳に文字を並べると、スッと真剣な眼差しで相手を見つめた。
「それで・・・どうやって彼女を殺したのですか?」
その問いが聞こえて、白石はようやく壁際から離れた。あまりにも殺人犯にしては人情味溢れる話が多すぎて、正直嫌悪感で吐き気を催していたところだった。そろそろ確信に触れる話が出ないかと思っていた頃だったこともあり、白石はホッと胸を撫で下ろしていた。
「ええと・・・確か・・・彼女を後ろから抱きしめたんです。ちょうど頭ひとつ分くらい身長が違いましたから、私の腕がちょうどよく彼女の喉元にくるんです。そこから、徐々に力を入れて行きました。苦しいという声も、聞こえませんでした。抵抗もしてこなかったので、なおさらゆっくり・・・彼女がわたしの手の中で事切れていくのを感じていました」
淡々と語られたその言葉は、今までの饒舌な彼の物とは異なっていた。大袈裟な表現などなく、ただ実際にあった事実をツラツラと彼の唇が紡いでいく。その言葉があまりにも冷静で、落ち着きを払いすぎていることに、白石は背中を冷たい物が流れていくのを感じた。それは本郷も同じだったようで、パイプ椅子の背もたれに身体を預けて唇を歪めている。
「その後、私に寄りかかるような形で彼女を座らせ、持っていた包丁を突き刺しました。以上です」
そう言って、彼は笑顔を浮かべた。
白石は、本郷の隣に歩み寄ると机に手をついた。向かい側の男を睨むように顔を近づけると、しっかりと相手の目を見据えて口を開いた。
「どうやって、他殺に見せかけるように刺したのか、教えてくれ」
「ああ、簡単ですよ。私を座椅子のようにして、彼女を私に寄りかからせるんです。彼女の背中を私の胸に預けるようにするんですよ。そうすると、包丁を自分に向けて突き立てやすいでしょう」
まるで手術方法を提案しているかのような明朗な口調で、長澤は逆手に包丁を持つように握り拳を作ると、自分の腹部へ引き寄せた。それが事件の全てだと言いたげに、口元にはうっすらと笑みさえも浮かべていた。
「もしそれが本当なら、貴方にも大槻カホの血液が付着したのでは?」
「私は医者ですよ。どのくらいで彼女の血液が侵食してくるかくらい解ります。それより先に彼女を床に横たわらせればいいだけの話ですよ」
「その後、部屋を出てコートを引っ掛けた・・・という事でよろしいですか?」
「そうですね。外はまだ暗かったですし、カホの部屋は明るかったですからね。再び外に出た時に目がまだ慣れ切らなくて、感覚でだいたいは解っていたのですが・・・失敗しました」
少し照れたような笑顔を浮かべて、長澤は頬を掻いた。
本郷はノートを閉じると、内ポケットにしまいながら立ち上がった。部屋の入口の前に立っていた刑事に後を任せると、本郷は署内の自動販売機へ向かった。その後を追いかけて、白石も部屋を出ていく。
「どうしました?」
自動販売機に小銭を放り込んでいる本郷に、白石は問いかけた。
紙カップに注がれるタイプのココアが淹れられるのを待ちながら、本郷は腕を組んで唇を弄んでいる。
「彼は本当に犯人なのかもしれない」
その言葉に、彼の隣で何を飲むか考えていた白石は、ギョッ、として彼を振り返った。
「え?どうしたんですか?突然」
「彼の供述に嘘は見られない」
唇をつまむようにしてねじりながら言う本郷に、白石はガシガシと頭を掻いた。
「例えそうだったとしても、証拠不十分で逮捕するの、嫌なんですよ」
「うん、それはぼくも同じだ。あくまでもひとつの可能性、と言う話だよ」
「そうですね。仮説は多くても困りませんから。はい、ココア出来ていますよ」
白石はそう言いながら自動販売機についている小さな扉を開けた。プラスチックの扉の向こうには、湯気を上げる紙カップがあった。それを取り出して本郷に手渡すと、自身も同じ自動販売機に小銭を入れた。白石は自動販売機に表示されている砂糖の量やミルクの量を調節するボタンをいじると、コーヒーを選択した。砂糖もミルクも入っていない。これで完璧なブラックコーヒーが出てくるはずだ。
「そうだね。仮説は多ければ多いほど捜査方針はブレるけれど、ひとつの仮説に固執して捜査方針を見失うよりはましだ」
「そうですね。あー・・・この後、どうするんですか?まさか、カフェに行くんですか?」
とげのある言葉に、本郷は目を泳がせた。まだ熱いココアの紙カップで口元を隠しているが、明らかに口をへの字に曲げていることが解った。
「駄目ですよ。今はこっちの事件を解決してください。他に何か不可解な点とかありましたか?」
渋々近くの長椅子へ腰を下ろした本郷に、白石は自動販売機からコーヒーを取り出しながら問いかけた。
「雪くんは真面目なんだから」
「普通ですよ。警部殿がちょっとイレギュラーなんです」
さあ早くすませましょう、と促す部下にせっつかれて、本郷はココアの入った紙カップを彼に手渡した。彼がそれを受け取ると、内ポケットから暗号が羅列されたノートを取り出す。そこに表記されている内容と先ほどの話を思い出しながら、本郷と白石は二人だけの会議を開始した。