「さようなら、白雪姫」(11)
次の日の朝のことだ。白石は、にわかに捜査本部が慌ただしい事に気が付いて首を傾げた。本郷さんがまた突拍子も無い提案でもしたのかな、と思いながら、とりあえず自分の席へ向かう。
この日は少し肌寒い朝で、白石はネイビーのスーツの上に、白いトレンチコートを羽織っていた。そのコートを脱ごうかと襟に手をかけながら、室内を見回す。案の定と言えばいいのか、当然と言えばいいのか、上司の姿は見当たらなかった。
コートを脱ぎ始めたところで、白石はいつもとは違う上司に呼び止められた。
「白石!すまんが、本郷警部を探してきてくれないか」
そう告げてきたのは、本郷と同じで警部の役職に就いている人物だった。しかし本郷より年齢も若く、出世コースに乗っているようで、スーツも同じ一刑事とは思えない程に設えられている。仕立ての良いスーツを着ている本郷よりも、さらに上等な品だ。
いくら同じ警部と言うポジションになったとは言え、彼を呼び捨てにすることは憚られるのだろう。それが如実に解って、白石はすぐに言葉が出てこなかった。
「は、はあ・・・構いませんが、何かありましたか?」
「例の大槻カホ殺しの犯人が自首してきたんだ!・・・が、本郷とお前としか話さない、の一点張りだ。ったく・・・毎度毎度・・・」
本郷も一時期は出世コース間違いなしと思われるほどのスピードで、警部にまでなった男だ。きっと目の前の男よりも昇進のスピードは早かっただろう。それが釈然としないのか、それとも彼がずっと警部よりも上の役職に就かない事への苛立ちなのか、舌打ちをするように悪態を吐いた。
「あー・・・じゃあ、自分だけじゃダメですね。承りました。三〇分くらいかかると思うので、その事犯人に伝えておいてください」
白石はそう言うが早いか、急ぎいつものカフェへと車を走らせた。
「・・・と、言うわけで、警部。戻りますよ」
いつものカフェのお決まりの席で、本郷はミステリー小説をその手に広げていた。今日はスリーピーススーツで、色はブラウンと言うよりも濃い灰色に近い色だ。
白石が事の顛末を説明すると、まるで捨てられた子犬のような表情を浮かべた。
「おや、困ったなあ。まだ飲み物もきていないのに」
「ココアなら本部で俺が淹れますから!」
しびれを切らして語尾を強めれば、やれやれと言いたげな表情で本郷は小説を内ポケットへしまった。椅子の背もたれに掛けていたマフラーを手に取ると、首に巻き付ける。続いて、伝票を持って立ち上がると、気を利かせたカフェのいつもの店員が、特別ですよ、と彼のココアを、持ち帰り用の別な容器へ入れ直してくれていた。
「いやあ、良かった、良かった」
満足げな表情でココアを受け取った本郷は、車に乗り込むと署へと戻って行った。
「本郷さん、犯人の検討はついているんですか?」
「もちろん、解っているよ」
白石にそう返しながら、本郷はココアの入った紙のカップを傾ける。一度別な容器へ入れられていたために、いつも店で飲むよりもココアは少しばかり温かった。それがかえって、揺れる車内で飲むには適温に感じられた。
「君だって検討はついているんじゃないの?」
「ええ、俺たちを名指ししてくる相手は一人だけですから。長澤栄徳ですよね?」
「ああ、そうだね。ただぼくは、真犯人は別にいると思うんだ」
その言葉に白石は言葉を噤むと、深く息を吸い込んだ。吐き出すのと共に、口を開く。
「木ノ本、瑞樹ですか?」
「うん、きっとね。長澤栄徳と木ノ本瑞樹にどんな関係があるのかはまだ解らないけれど、華くんの科学の力では犯人はほぼ間違いなく女性だ。長澤栄徳であるはずがないんだよ」
本郷の言葉に、うーん、と唸りながら、白石はハンドルを切った。いつの間にやら、本郷は本来の仕事場へ戻って来ていた。まだカップの中のココアは半分以上も残っている。
「雪くん、君ならどうする?」
「どうするも何も・・・。カマ、かけてみるしかないじゃないですか」
器用に車をバックで駐車させながら、白石はそう言った。上手く白線と白線の間に車がおさまると、ニッ、と彼は口角を上げて上司に視線を送った。
本郷は顔全体を使って、仕方ないな、と微笑んだ。
「あんまり物騒なことはダメだよ。警部のぼくの権限が利く範囲で頼むよ」
「それはもちろん。迷惑はおかけしませんよ、本郷警部」
「そうしてくれると嬉しいよ」
車から降りた二人は、拳を突き合わせると取調室へ向かった。
「お久しぶりですね、長澤栄徳さん」
そこに手錠をかけられて座っている人物に、白石は目を見開いた。もちろん、驚いているように相手に見せるためだ。
本郷が告げた名前通り、長澤栄徳が机を挟んだ奥側に座っていた。白衣こそ羽織っておらず、スーツ姿ではあるが、そこに座る彼はまるで診察室にいるかのように微笑んでいた。スーツも前回までとは異なり、スリーピーススーツを着ている。黒一色ではあるが、前を開けたジャケットの隙間から見えるベストは、背面が灰色になっているようだ。ノーネクタイだと言うのに、ラフに見えないのは、髪形までしっかり整えられているせいだろう。
「長澤さんが・・・大槻カホを・・・?」
「薄々は雪くんも気が付いていただろう?白々しいよ」
その言葉に盛大なため息を吐いて頭を掻くと、白石は長澤の目の前の椅子に勢いよく腰を下ろした。いつも本郷の後ろで大人しく彼を宥めている表情とは、まるで正反対の表情で、白石は長澤を見つめる。
「何で殺した?」
そのあまりにも威圧的な態度に、今度は本郷がため息を吐く番だった。これではどっちが犯人だか解った物ではない。どちらかと言えば温和な顔立ちをしているのだから、よくドラマであるような温和な刑事を演じればいいじゃないかしら、と本郷は常日頃から思っていた。しかし本来、白石は温和な性格ではない。本郷が相手だから、大人しいだけなのだ。
「何で、も何も・・・。本郷警部、でしたっけ?貴方は最初から私を疑っていたじゃないですか」
白石の背後に立っている本郷を覗き込みながら、長澤はそう告げた。
「うん、ぼくはずっとあなたが犯人だと思っていたよ。でもどうして急に、自首を?」
本郷の言葉に、長澤はチラリと視線を動かした。しかしすぐに視線を戻すと、にっこり微笑んだ。
「逮捕されるより、自首する方が罪も軽いと聞いたことがあったので。・・・お二人が診察室に訪ねて来た時に、もう逃げられない、と思いましたよ」
「人一人殺しておいて、罪が減るわけないだろ。それより、破れた白衣はどうした」
「ああ。ええ、そのことでもお話がありまして」
そう言いながら、長澤は足元に置かれた紙袋を、ガサガサ、と鳴らした。
「すみません、両手が塞がっていまして」
「ええ、失礼しますよ」
本郷はそう言いながら彼の足元の紙袋を拾い上げた。中から出て来たのは、真っ白な白衣だった。ただの白衣か、と白石は気怠い表情でそちらを見ると、表情を強張らせた。
「もう業者が回収していると思っていたんですけどね、まだありました」
本郷が紙袋から取り出した白衣は、無残にも裾が切り裂かれていた。
「捨てたと言ったじゃないか」
「だからわざわざこうして探してきたんですよ」
語気を強めて紡がれた白石の言葉にも、へらり、と微笑んで長澤はそう答えた。今にも椅子から立ち上がって掴みかかりそうな白石を、本郷がなだめるように口を開いた。
「まあ、これが本当に彼の物かは調べてみれば解ることだよ」
「そうは言っても・・・」
白石が本郷を振り返ると、彼は目を閉じながらゆっくり頷いた。その姿に、白石は再び長澤に向き直る。
「じゃあ何故、あの時白状しなかった。それに、夜も病院で勤務していたと言ったじゃないか」
「ええ。確かに言いましたね」
「勤務表によると、次の日は・・・ああ、午後からなんですね。そう言う場合って、病院に泊まるんですか?それとも、一度帰宅を?」
白石は用意されていた捜査資料を捲って勤務表を見つけると、長澤に視線を投げながらそう言った。敵意を剥き出しにしたその視線に、長澤は頬を掻いた。
「そうですね・・・。確かその日は、明け方に病院を出ました。なので、病院には泊まっていませんよ」
敵意を殺すほどの笑顔で返して、長澤は机に肘を付くと手を組んでそこに顎を乗せた。カシャリ、と鉄同士が擦れる乾いた音が、彼の手首から響く。
「警部さん。カホの死亡推定時刻はいつですか?」
今度は本郷に視線を送る事なく、長澤はそう言った。
目を瞑って、口元に笑みを浮かべているその姿は、既に勝利を確信しているギャンブラーに見えた。
「大槻カホの死亡推定時刻は、彼女が親友の木ノ本瑞樹さんと無料通話アプリでのやり取りを終えた時間と、木ノ本瑞樹さんが彼女を発見した時間の間と考えられています」
「カホの友人が彼女を見つけたのは、何時ごろですか」
「午前一〇時過ぎですね」
「もう少し死亡推定時刻は狭められるでしょう」
「ええ、もちろんですよ。大槻カホの死亡推定時刻は、死後硬直の仕方から木ノ本瑞樹が彼女の死体を発見する5~6時間前、つまり・・・午前4~6時の間です」
「ちょうど、長澤さんが病院を出られた頃なのでは?」
本郷の言葉に白石が続けると、長澤はスッと瞳を開けた。その言葉を待っていた、と言わんばかりの表情で、彼は口を開いた。
「ええ。だから私が犯人だと、そう言っているじゃないですか」
その言葉に、白石は再び本郷を振り返った。本郷はギュッと唇を結ぶと、素っ気なく頷いて見せた。その姿に、白石は椅子から立ち上がった。
「そうですか。・・・でもね。残念ながら状況証拠だけでは、貴方を犯人にすることは出来ないんです」
本郷の言葉に、二人の目の前の男の態度が、明らかに変わったのが解った。彼が勢いよく椅子から立ち上がったために、机が白石の座っていた方へ前進したほどだ。座っていたら、と思うとゾッとするほどのスピードである。思わず白石は自分の腹部を擦っていた。
「何でだ!俺が犯人なのは間違いないだろう!!カホを殺したのは俺だ!」
「解りました。そこまでおっしゃるなら、こちらももう一度証拠を探しましょう」
本郷はそう言うが早いか、部屋を出て行った。白石もその後を追いかけて部屋を出ていくと、まだ二人を説得しようとしているのか、何かを喚いている長澤の声と、それを制止する刑事の声が背後から聞こえてきた。
てっきり本郷が駐車場へ向かうと思っていた白石は、彼が鑑識の部屋を訪れているのに驚いた。
「ここで、何を?」
「大槻カホの遺書はここにあるよね?」
「はい!こちらです」
白石の言葉に返事をするかわりに、本郷はそう鑑識の女性へ問いかけた。いくら普段が普段な本郷でも、立場は警部である。部屋の空気がわずかに緊張したのが解って、白石は少しばかり彼女に同情した。
「ああ、これだね。ありがとう」
「それ、どうするんですか?」
「うん、筆跡鑑定に使おうと思ってね」
そう言いながら、本郷はいつもの手帳の間にその紙きれの入った袋を挟んだ。そのままプラプラと部屋から出ていく本郷の代わりに、白石が鑑識の部屋の住人達へ軽く会釈をしていく。
「あれ証拠としては微妙じゃないですか?」
「しかたないよ。他に証拠らしい証拠がないんだから。凶器には確かに彼の指紋があったけど、恋人なんだから彼女の家で料理をすることくらいあっただろうからね」
廊下を歩きながら、二人は駐車場へ歩みを進めていく。
「あー・・・確かに。はあ・・・恋人に殺されるのって嫌ですね」
「え?雪くんそれで恋人作らないの?」
「そういうわけじゃないですよ。タイミングです、タイミング」
駐車場に辿り着いた二人は、いつものように運転席へ白石が、助手席に本郷が腰を下ろした。
「目的地は・・・大槻カホのアパートでいいですか?」
「構わないよ。それともうひとつ、確かめたいことがあるんだ」
そう言われるがまま、白石は車を走らせた。日中とは言え、道路はそれほど混雑してはいなかった。
車に置いていったココアは、朝に買ったこともありすっかり冷えていた。いくら本郷でも最早それを飲む気にはなれなかったようで、眉間に皺を寄せて持ち上げた紙カップを元の位置へ戻していた。
「ねえ、雪くん。きみは本当に彼が犯人だと思う?」
「それなんですけど・・・。俺はやっぱり本人の自供が一番信用できると思うんですよ。していないことを、した、って言う人間は早々いないじゃないですか」
「そうなんだけれどねぇ」
何かが腑に落ちない、とでも言いたげな表情で、本郷は助手席のリクライニングを倒した。倒してから十数分後、本郷と白石は大槻カホのアパートへとやってきていた。
「で、本郷さん何を探すんですか?」
「うん。彼女の日記とか、そう言うのないかなと思ってね」
そう言いながらアパートの前に見張りで立っていた警官に敬礼を一つして、本郷は室内へ入った。季節は秋も終盤に差し掛かったとは言え、まだ暑い日もある。血生臭さが沸騰したような、こもった臭いが鼻を突く。扉の前に立っていた警官も扉を開けることはないために、部屋は事件当日のままの臭いをそこに残していた。
そんなことにはお構いなしで、本郷は部屋の中を物色していた。
「あー・・・今時の子って、日記とかつけます?ブログとかインスタとかあるじゃないですか」
「インスタ?」
「インスタグラムです。・・・何て言うか、そうですね・・・。インターネットでやる写真日記みたいな感じですかね」
「ああ、そうなの」
あまり興味がないと言った様子で、彼は本棚から机の引き出しへ移動していた。白石は開け放ったままの出入り口の傍に立ったまま、その光景を見つめている。刑事になって十年は経っているが、死体を見るのは平気になったものの、こういった臭いの類は未だに慣れない。単純に彼の鼻が良すぎるというのもあるのだが、片手で鼻をつまんで部屋に入ろうとしなかった。
「本郷さん、ありましたか?」
「うん、駄目だね。ないみたいだよ」
そんなにいい笑顔で言う台詞ですか、と白石が思うほどに、本郷は楽しそうな顔で笑っている。こういった所を見ると、やはり刑事と言う職業は彼にとっては天職なのだろう。
扉まで戻って来た本郷は、そのまま見張りの刑事に
「ご苦労様だね」
とだけ呟いて、階下へと下りて行った。警部のその言葉に勢いよく一礼している新米刑事には気の毒だが、たぶん本郷は彼の顔も名前も知らない。もし仮に知っていたとしたら、きっと一癖も二癖もあるあだ名を考えている事だろう。
「で、どこに行くんですか?」
「ここだよ」
そう言いながら、本郷はアパートの一階にある一番奥の部屋のチャイムを押した。柏木さち子の部屋である。白石はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見た。時刻は一一時。部屋の住人が起きているのかどうかは、至極微妙な時間である。
数秒待って、もう一度チャイムを鳴らそうかと思っていると、扉の向こうからくぐもったような声がした。
「はーい。あっ、ケージさんたち。犯人まだ捕まんないの?」
そう言いながら、以前のようなスウェット姿の柏木が顔を出した。どうやら寝起きだったのか、盛大に欠伸をしている。顔もすっぴんなうえに、髪の毛もただの金髪のロングヘアで、寝ぐせで少しばかりはねていた。
「いいえ、自首してきましたよ。貴女の助言が役に立ちました」
「そう?それならよかった・・・って、まさかその報告?律儀だねー」
本郷の言葉に、心底安心した表情で柏木はそう微笑んだ。きっと彼女のこういった見た目とのギャップが、夜の仕事を続けていられる秘訣なのだろう。
「いいえ。すみませんが、少しお話を伺わせていただいてよろしいですか?」
「うん、いいけど?」
柏木に促されるまま、二人は数日前と同様に室内へ足を踏み入れた。少しばかり前回よりは片付いているように見えるが、相変わらず部屋全体は雑然としていた。前回と同じ場所に三人が腰を下ろすと、柏木は口を開いた。
「それで、要件はなに?」
「ええ。柏木さんは、大槻カホさんの直筆のメッセージか何か持っていませんか?」
「カホちゃんの、直筆のメッセージ・・・?」
怪訝そうな表情で、柏木は本郷と白石を交互に見つめた。目が合った時に、白石が口を開いた。
「実は犯人が自白したのはいいんですけど、決定的な証拠がないんですよ。それで、筆跡鑑定っていうのをしようかと思っているんです」
「ああ!前にテレビで見たことあるわ」
柏木はそう言うと、思い出したように立ち上がってウォークインクローゼットを開けた。そこに入っている衣装ケースの一つを引き出すと、中から小さな紙を取り出した。
「はい、これ。私の誕生日にカホちゃんがくれたの。カホちゃん、マメな子だったから誕生日とか記念日にはこうやってメッセージカードくれたのよ」
「へぇ・・・最近の子も、こうやって手紙を書くんですねぇ」
「あっ!という事は、長澤も貰っているかもしれないですよ!」
「そうだね。彼の筆跡も知らなきゃいけないから、一度彼の自宅に家宅捜索にいかなきゃいけないね」
本郷はそう言うと、立ち上がった。いつの間にか取り出していたメモを、いつもの定位置に戻している。前回同様、二人は柏木に見送られてアパートを出ると、そのまま長澤の自宅へ向かった。
「はー、お医者様っていうのは凄いですね。こんな豪邸に住めるんだ」
白石はそう言いながら、そのマンションを見上げた。
高層マンションのそこは、入ってすぐのエントランスに管理人がいるタイプのマンションだった。警察手帳を見せてやっと入れてもらえたが、物凄く渋い顔をされたのは言うまでもないだろう。エレベーターに乗って目的の階についてさらに驚いたのは、ワンフロアに二世帯しか入っていないことだった。
「警察官も偉くなれば、こういったところに住めるよ」
「へー」
「雪くんなら頑張れば行けるよ」
さらりとそう言って、本郷は管理人から受け取ったカードキーで鍵を開けた。頑張れば、と付け加えているあたりが、一朝一夕にはこうなれないことを物語っている。
扉を開けた先の広いその部屋には、あまりにも家具家電が少なかった。全てが続き部屋で、扉が風呂とトイレにしかないのではないかと思われるほどだ。そのほぼワンフロアワンルームの部屋で、本郷は真っ先に彼の書斎へ向かった。
書斎と言ってももちろん部屋には仕切りのようなものはなく、部屋の一番奥の壁際に、数個の本棚とノートパソコンを乗せた机があるだけである。
「ああ、雪くん。ちょっと見てよ」
白石が近付くと、本郷は二冊のノートを机の上に広げている所だった。
一冊は彼が診療時間中にでも書いたのだろう。ドイツ語と英語の入り混じった筆記体が、まるでミミズの行進のようにびっしりと書かれている。それとは対照的に、もう一方のノートは日本語だけで書かれていた。こちらはしっかりと丁寧に書かれているように見えて、文字の間隔や大きさも何ページ捲っても崩れていない。
「日本語に直しているんですかね?あっ、これ論文ですよ」
「ほぉ・・・雪くんは物知りだね」
「え?いや、なんとなくですけど・・・」
そう言って白石は、筆記体が書かれたノートを持ち上げて、ページを捲って行く。
「ああ、ほら。この単語って、この日本語の意味じゃないですか?」
「ふんふん、それで?」
「で、日本語の方読んでいくと、日記って言うよりは論述っぽいんですよ、文体が」
「文体、ねぇ」
そう言いながら、本郷は腕を組んで、上にした右手を持ち上げると下唇を弄んでいる。真剣な眼差しが、白石の指示する文字を追いかけて動いた。
「はい。それも理系の文体なんですよ。文系って一つの物事を説明するのに、何べんも同じことについて、二回も三回もまわりくどく説明するんです。でも、理系は本当に理詰めっていうか、そんな感じなんですよ」
「ふーん」
「後ほら、ここ。文系だったら、絶対しないんですよ。句点が、まる「。」じゃなくてピリオド「.」なんです」
ついつい、と指で各当個所を指示しながら、白石はそう言った。その姿に本郷は頼もしそうに頷いている。
「雪くんは物知りだ」
「あー・・・前に論文の事件あったじゃないですか。あれで嫌でも覚えたって言うか。覚えざるを得なかったと言うか・・・しんどかったです、あの事件」
「ああ、あったね。懐かしいな」
思い出して項垂れる白石を他所に、本郷は一人頷いてノートを持ち上げた。
論文の事件とは、数年前に二人が扱った事件の一つだ。殺人未遂―――と言うよりも、狂言自殺に近い事件だったが、例の本郷の素行のおかげと言えばいいのか、そのせいでと言えばいいのか、運悪く担当させられてしまった事件だった。事件自体は単純な物だったが、その遺書と言えばいいのか、遺品と言えばいいのか。残された物の分析が大変だったのだ。
しかし、この話も長くなるためここまでで割愛しよう。
「それでは、これは二冊ともお借りしていこうか」
「えっ、この外国語の方もいります?」
「一応ね」
本郷の言葉に、はあ、と小さく答えて、白石はその二冊の分厚いノートを彼から受け取った。ノートと言うよりは、既に中学校か高校の教科書かと思われるほどに、その二冊のノートは重い。ほぼ抱き上げるようにして持っていると、いつの間にしゃがみ込んだのか足元から本郷の声がした。
「雪くん。あったよ」
「何がですか?」
白石がそう言って屈みこめば、ほら、と本郷は開けた引き出しの中を指差した。一番下の引き出しに入っていたのは、小さなお菓子の空き箱である。そこには、大槻カホの直筆のメッセージがいくつも収められていた。
「本当に、女性よりも女性らしいですね」
「大槻カホは女性だよ」
本郷がそう返すと、白石は口をぽかんと開けた。本郷の世代は、ジェンダーと言う物を男か女の二つにしか分類出来ない世代だと思っていたからである。
「どうかしたかな?」
「いや・・・意外だな、と思っただけです」
白石は本郷から箱を受け取ると、器用に抱えたノートの上に乗せた。本郷の後について部屋を歩いていくと、あまりの生活感のなさに度肝を抜かされた。人が一人いないせいだけではない。主を失っただけでここまで生活感を消すことが出来るのだろうか。そう思うほどに、部屋には人が住んでいた気配がまるでなかった。あまり家に帰ることもない人気医師ならそう言う物なのだろうか。白石は首を傾げると、スン、と鼻を通り抜けていくニオイに気が付いて、足を止めた。
「あれ?本郷さん、この匂いどっかで覚えないですか?」
「うん?何の匂い?」
本郷はそう言うと、ギィ、と小さく音をたてて開く風呂場の扉に吸い込まれていった。その後を追いかけて、白石は大きく頷いた。
洗濯機の周囲を覆うように置かれた銀色のラックには、数種類の柔軟剤が並んでいる。最近は一つの柔軟剤ではなく、その日の気分で柔軟剤を使い分ける若者がいると聞いたことがあったのを思い出して、白石は一人頷いていた。しかし頷きながらふと我に返って、首を捻った。長澤はせいぜい白石と同い年か、それより数歳下なくらいだろう。とても“今時の若者”とは言い難い年齢である。それに、これほどまでに多くの柔軟剤を使い分けるタイプの人間だろうか。
「大槻カホかな?彼女なら―――」
「違います。本郷さん、俺この匂い知っています。思い出しました」
柔軟剤の乗ったラックから柔軟剤を取り上げて、キャップを開ける本郷の言葉を遮るようにして、白石はそう告げた。持っていたノートを床に置くと、そのまま洗濯機を覆うラックから、本郷とは別の柔軟剤を取り上げた。一つ、迷うことなく選んだそれの蓋を開けると、原液特有の強い香りが鼻孔をくすぐった。
「その匂い?」
「はい。初めて木ノ本瑞樹に出会った時、そして彼女の部屋を訪れた時、同じ匂いがしました」
迷いのない瞳が、真っ直ぐに本郷を見つめた。本郷は静かに頷くと、床からノートと小箱を取り上げた。白石がそれを受け取ると、二人は長澤の家を後にした。