「さようなら、白雪姫」(10)
同日同時刻―――より、少し前に話は遡る。
勢いよく扉を閉めた女性は、高鳴る心臓の音が鼓膜を突き破るのではないかと思った。
二人の刑事の話声が通り過ぎて行くのを聞きながら、女性は力強くドアノブを握っていた手の力が緩むのを待った。力が緩んでいっても、震える手はなかなかドアノブを放してくれない。ようやく放れたかと思うと、今度は震えを抑えるように両の手をそれぞれの手で抱き締めた。
ようやく震えが納まって、木ノ本瑞樹はドアスコープから、そろり、と外を覗いた。案の定、そこには誰もいなかった。ほっと息を吐きだしたのも束の間、リビングでスマートフォンが鳴り響くのが聞こえて、再び彼女の心臓が高鳴った。しかし、すぐにその着信音が誰のために設定した物かを思い出して、彼女は高鳴る胸の鼓動を別な感情へ置き換えた。
「もしもし?栄徳?」
恋する乙女の声とでも言えばいいのだろうか。普段よりも半音から一音高くなった声が、受話器の向こうへ届けられる。
「刑事が来なかったか?」
木ノ本の言葉に半ば被せるような形で発せられた言葉に、彼女は乱暴に椅子を引き寄せると、腰を下ろしてから口を開いた。
「もう!最悪よ!!」
そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
電話向こうの長澤栄徳は、ため息を一つ吐いてから口を開いた。
「・・・どういう対応をしたんだい?」
「どうもこうも、話し合った通りよ?」
そう言いながら、クスクスと彼女は笑った。
「わたしは親友を殺されたカワイソオな女の子で、あまりのことに動揺してしまってきちんと対応出来ないアワレな子・・・でしょ?」
クッ、クッ、と喉の奥で笑いながら、木ノ本はそう言った。椅子に座り直しながら、ダイニングテーブルに飾ってある花瓶をひと撫でした。四角い布製のコースターの上に置かれた小さなガラスの花瓶には、花は活けられていなかった。それでも花瓶に触れる木ノ本の手は、愛しい物を愛でる時のように、うっとり、とそこに触れていた。
「そうか。それじゃあ、帰ってもらったということで、良いんだな」
「もちろんよ」
電話の向こうの男の安堵の声に、木ノ本は少しばかり苛立った声を返した。
「あたしが何かを間違えるわけがないじゃない」
きっぱりと、そう言い放つ。過剰とも思えるほどの自信が、彼女にはあった。その自信を裏付ける根拠も、裏打ちする実績もなかったが、失敗する未来だけが彼女には見えなかった。だからこそ、こんなにも堂々と彼と会話が出来ているのだ。
「ああ、そうだな」
男は、抑揚のない声でそう返した。その声音に、木ノ本は深いため息を吐いた。悪態を吐くように、けれどどこか張り詰めた声が彼に届けられる。
「そっちこそ上手くやってよね。あたしのこと、守ってくれるんでしょ?」
「もちろん、守るさ」
「本当に?」
「ああ」
歯切れこそ悪くはないものの、短い返事ばかりが彼女の耳に届いた。まるで心ここにあらずと言っているようで、木ノ本は苛立ちを募らせた。何のために、誰のために、こんな状況になっていると思っているのだ。花瓶を撫でていた指が、テーブルの上を滑って指先でリズムを奏で出す。その音に感化されて悪態を吐こうかと唇を開いて、彼女は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
彼を責めても、もう遅い。
「ねぇ、まだカホの死を悔やんでるの?」
かわりに、相手を心配するような、諭すような口調でそう告げた。
「そう言うわけじゃない」
それが本心でないことは、すぐに彼女には解った。だからつい責めるような口調になっていた。
「夢に見るんじゃないの?言っていたでしょ、そうやって」
「ああ、見るよ」
「最低」
思わず、そう返していた。そう返してからハッとして、息を飲んだ。
「愛しているよ」
その空気が伝わったのか、受話器の向こうから聞こえた声は、酷く優しい物だった。
「・・・どっちを?」
恐る恐るそう返した声は、震えていた。受話器の向こうから返って来たのは、短く等間隔に鳴り響く機械音だけだった。
木ノ本はギュッと唇を噛み締めて、スマートフォンの画面を消した。機械音は消えたのかもしれないが、まだ独特のあの音が耳の中で木霊しているのか、遠くで鳴っているように感じた。椅子から立ち上がると、ダイニングからリビングを抜けて自室へ向かう。
自室の奥にある学習机より少し立派な机に、一冊の分厚いノートが置いてあった。罫線も何も書かれていない。ただ真っ白なページだけが続いているノートだ。木ノ本はそのノートの最初のページを捲りながら、備え付けの椅子に腰を下ろした。
「〇月×日 晴れのち曇り
今日は初めてのお店で、可愛い子に出会ったの
名前はカホちゃん
また行ったら、会えるといいな」
その書き出しで始まった日記は、初めこそただの日記だったが、日付が進めば進むほど日記と言うよりもラブレターに近い内容に変化していった。
「△月◇日 雨
カホちゃんとお揃いの花瓶を買えた
わたしが欲しいって言ったら、
「じゃあお揃いにしよう」
って、言ってくれた。嬉しかった
小さな花瓶だけど、カホちゃんも使っていてくれるなら、同じ花を活けたいな」
日付を進めれば進めるほど、二人で撮ったプリクラやチェキなどが文字と一緒に貼られるようになっていった。お揃いの物を買ったという話が、次第に増えていく。
「信じられない 最悪」
その書き出しで始まった文章は、ラブレターと言うよりも脅迫文だった。
「こんなことってあるの?
あたしが何したっていうの?
どうしてあの子なの?
信じられない 殺してやりたい
あたしに何が足りないの 最悪」
恨み辛みの文章は、そこから3ページにもわたっていた。妬み僻みも加わって、日記に書かれている文章は言葉の剣となっていた。諸刃の剣となったその矛先が向いたのは、ラブレターの相手ではなく、彼女自身だった。
「ころすくらいなら いっそ」
それが最後に書かれた日記の言葉だった。
木ノ本はその文字を指の腹で、うっそり、となぞるとノートを閉じた。
机のすぐ横にある窓のカーテンレールに、一枚のコートがハンガーで吊るされていた。ベージュ色のコートは何かに引っ掛けたのか、無残な姿をそこに晒していた。木ノ本がそのコートを手に取ると、首元の金属のタグがチラリと光った。
「カホ・・・」
呟いた声が静寂に木霊した。部屋に反響した声が、何度も彼女の鼓膜を刺激する。
木ノ本はコートを元の場所に戻すと、再びノートを開いた。日記の最後の文章が書かれているページを開くと、そこから一枚ページを捲った。
「あなたのいない世界はこんなにも苦しいよ
ずっと一緒だって言ったじゃない」
筆圧の定まらない文字が、そう書き上げた。
木ノ本はペンを置くと、ノートのページを逆に捲っていった。あるページで、彼女は捲る手をとめた。そのページには二人で植物園に行ったことが書かれていた。二人の好きな花、好きな木、好きな花言葉が羅列されている。木ノ本は口元に笑みを浮かべると、ノートを閉じて部屋から出て行った。
戻って来た木ノ本の手には、黄色い薔薇の花が握られていた。