「さようなら、白雪姫」(1)
本郷只次は、いつものようにカフェで読書をしていた。
灰色のスーツに、そのスーツのイメージを崩さない青のネクタイをして、手には文庫サイズの小説本が持たれている。日に当たっていたことによって増えたと思われる皺が目立つ顔は、おおよそ読書とは縁遠いタイプの、どちらかと言えば強面の顔立ちだ。
灰色のスーツは三つ揃えのスリーピーススーツのようで、彼の年代が好みそうなダブルスーツではないと言うのに、そのスーツからは強面の顔とは正反対の品の良さが感じられた。年相応にジャケットの前をしっかりと合わせているが、もったりとした印象は受けない。
カフェに流れるゆったりとしたジャズのメロディーを、その音色までも読んでいる本の内容に照らし合わせるかのようにして、本郷は小説のページを捲っていた。彼が好んで読む本は、もっぱら推理小説ばかりである。
現在時刻は午前9時。こんな時間にカフェで寛ぐ事が出来る職業は、せいぜいフリーターか、気ままな小説家と言ったところだ。しかし、彼はそのどちらでもない。彼の職業は警察官だ。しかもそんじょそこらの刑事ではない。捜査一課の警部殿だ。警察官の、それも捜査一課の警部ともなれば、いつも事件と出会っている・・・にも関わらず、彼はフィクションとは言えさらに事件を追い求めていた。
他人から見れば甚だ不思議なその趣味を、彼はあまり気に留めていない。
そう、この気にも留めない部分が彼の唯一にして最大の悪癖なのだ。ただ普通に休憩の時間や休日、就寝前や朝活などに読んでいればいいのだが、彼が今読書をしているこの時間と言うのは、正に仕事の時間なのである。警部である彼のその行為を、大声で咎める者が少ないと言うのが、彼の悪癖を悪化させている原因とも言えるだろう。実際のところは、これが若手刑事の頃からの悪癖なのだから、最早治るも何もあったものではない。
つまり、本人に改善の気持ちがまるでないというのが、きわめて厄介な点と言えるのだ。
「あっ!本郷さん!やっぱりここにいた!!」
まだ若い刑事が、本郷の前に姿を現した。もちろん“若い”と表現しても、それは本郷から見たらの話であって、その刑事も既に三十路を超えている。それでもスポーツを好んでしています、と言わんばかりの爽やかな顔立ちは、パッと見は本郷よりもとっつきやすい印象を与えた。
濃いネイビーのツーピーススーツに、白いワイシャツの襟元をトリコロールのネクタイで彩っている。スポーツをしていることによって厚くなった肩幅と胸板のせいか、二つボタンの前は開け放たれているが、それでもこちらへの印象を悪くしないのは、その好青年風な顔立ちのおかげだろう。ネクタイも、よく見ると拡がっていかないように金色の、ショートクリップのタイピンでとめてあった。
まだ若いこの刑事のスーツは、どこか量販店の大量生産品であることが解るのが難点であるが、唯一、ベルトだけはアルマーニを使用している。時計と言う物を好まない彼が、唯一にして最大限に金を浪費する“おしゃれ”だ。
「ああ、雪くんか。もう少し待ってくれ。もうすぐこの事件が解決するんだ」
本郷はそう言いながら、“雪くん”と呼んだ相手へ視線を送ることもなく、手元のマグカップを傾けた。傾けて初めて中身のココアが底をついている事に気が付いて、本郷は短く感嘆の声を漏らしている。ついでにチラリと腕にしてあるバセロン・コンスタンチンの時計を見た。モデルはパトリモニーで、長年愛用しているのか少し赤褐色の革が変色していた。
「ダメです。警部殿は今から本当の“事件”を解決しに行くんですから。さあ、行きますよ!」
若い刑事―――白石吹雪はそう言うと、本郷の飲んでいたココアの伝票を持ってレジへ向っていく。本郷は名残惜しそうに本を閉じると、内側の右のポケットへしまった。いつもそこに文庫本を無理矢理押し込んでいるため、スーツは若干右斜め前に傾いている。白石とは異なり、オーダーとまではいかないものの、仕立てのよいスーツを着ているがゆえに、その加重の掛け方は文字通り職人泣かせだろう。
本郷を迎えに来たこの白石という刑事だが、彼はなんら肩書きのついていない平の刑事だ。決して警部補というポジションにいるわけでもなければ、何か目立った功績があって警部である本郷の傍にいるわけでもない。ただ、警部であり、自分よりもだいぶ年上の本郷に対して、苦言を呈することの出来る数少ない人間であるというだけで、彼は本郷の傍にいるのであった。周りから見れば、白石が一癖も二癖もあるこの警部の“オモリ”をさせられているようにも見えるが、実際にはそうとは言い切れない部分が多い。
それは、まだ白石が刑事になる前、本郷が警部という役職に就くより以前に、おおいに世話になっているというのが大きな理由だが、それはまた別な話だ。一つだけ付け加えるならば、本郷はこうして苦言を呈してくれる人物がいることを好ましく思っている節がある。そう言った意味では、白石が恩を返しきるのはまだもう少し先になりそうであった。
さて、白石の運転する総走行距離約十万キロメートルのシルバーの、これまた量産型のそこらでよく見かける乗用車に乗り込んだ本郷は、彼から事件のあらましを聞いているところだった。
「被害者は大槻カホ。二六歳のフリーターというか、喫茶店のウェイトレスだそうです」
そう言って白石が渡した写真の被害者は、メイドカフェで見かけるような機能性と実用性ゼロのピンクのメイド服を着て、腰には白いエプロンを巻いていた。おまけに、頭には白に内側がピンク色の猫耳をつけている。
その姿に、本郷はさして珍しくもないと言いたげな表情で写真を見つめた。
「雪くん、彼女はメイド喫茶の店員なのかい?」
「いいえ。男の娘カフェというところの店員だそうです」
「ああ、ネットか何かで見たことがあるよ。男性が女の子のような格好をして、ウェイトレスをやるお店だよね?」
「そうです。つまり、被害者の大槻カホは男性です」
ゆるいウェーブのかかった黒髪に白い肌、ピンク色の唇をぷるんと発色させた赤いグロス。大きくて丸い瞳を、さらに強調するようなアイメイク。写真の何処にも、大槻カホが男性であることを感じられる部分はなかった。