反転世界の狂える獣(前編)
薄暗い部屋の中、その男――鴻上正也は目を覚ました。
彼は一ヶ月程前、何の前触れも無く異世界へと召喚された人間である。
それまでは、ごく普通に社会生活を営む、道ですれ違っても全く印象に残らない、ごくありふれたサラリーマンに過ぎなかった。
「相変わらず汚いなぁ、ここ」
正也はベッドから身を起こし、関節を鳴らす。砂まみれのベッドは埃っぽく、あまりよく眠れないが。それに、正也に用意された部屋は日当たりが悪くカビ臭い。
ベッド以外は何も無い陰気極まりない部屋。これでも、正也が来た当初よりは大分マシになったのだ。
当時は本当にゴミ溜めになっており、正也は、自分が本当に嫌われているのだと悲しんだものだった。
彼はこの世界に呼び出されてから、まともな人間として扱われていなかった。
「まあ俺は異邦人だしな……みんなに信頼して貰えるよう、今日も一日頑張るぞ!」
「頑張るだとぉ!? 貴様、今、『頑張る』と言ったな!?」
「えっ!? あっ、はい」
正也が滅入る気分を吹き飛ばすように叫ぶと、部屋の入り口で、物凄い形相でに睨む男の姿が見えた。
重鎧に身を包み、正也では持ち上げる事すら難しそうな巨大な剣を肩手で持った、屈強な兵士である。
「おい、貴様、また今日も城の掃除だの、仕事の手伝いだのをやるつもりか!?」
「そうですけど、だって、俺は特に取り柄とか無いですし……」
異界に召喚された時、正也はちょっとだけ「異世界に呼び出されて特殊能力を得る」という事に期待していた。だが、実際には何も起こらなかった。
ヤクザの親分のような国王に凄まれ、「どんな能力を持っているのか」と聞かれたので、「俺は何の取り柄も無いみたいです」と正直に告白した所、ヤクザ――もとい国王の態度が豹変したのだ。
「こいつを城のゴミ溜めにぶちこんでおけ!」と凄まじい剣幕で怒鳴った時、正也は生きた心地がしなかった。
多分、国王は優れた能力者を求めていたのだろうが、実際に呼び出されたのが何の取り柄も無い一般人だったので、逆鱗に触れたのだろうと正也は考えている。
現状、帰る手段が分からないので、正也はせめて自分に出来る事をと思い、城の修復や清掃をせっせと行っている。
この城はオンボロで小汚く、王の住んでいる部屋も廃屋みたいだった。
「てめぇ……あれだけ掃除をしといて、今日もまたやろうってのか」
「ええと、あ、あと、俺は自炊とかしてますから、食事の手伝いでも……」
「や、やめろ! てめぇはここでじっとしてりゃいいんだ!」
正也が何かしようとすると、兵士は鬼のような形相で怒鳴る。
まるで正也が行動するのを阻むような態度だが、正也としては何か役に立たねば、いつ殺されるか分からないので引くわけにもいかない。
「でも、俺は誰かの役に立ちたいんです。物を壊したりしませんし、邪魔はしませんから」
「……クソッ! 好きにしやがれ!」
そして、いつも通りの会話が終わった。身長2メートル近い兵士に殴られれば、正也はあっさりとノックダウンされてしまうだろう。
だが、正也が穏やかに話しかけると、兵士は決まって正也の行動を許可してくれるのだ。
「口は乱暴かもしれないけど、何だかんだ言いつつ、俺の事を見逃してくれてるんだよな」
兵士が去った後、正也は一人呟く。あの兵士に限らず、この城の兵士は百戦錬磨の強者の集まりみたいで、世紀末ならモヒカンでバイクを乗り回しているような連中ばかりである。
そんな彼らは、最初は物凄い悪態を吐くが、正也が実際に掃除や炊事を始めると、何故か挙動不審になって去っていく。
「誠実に接すれば、彼らも、それに国王様も心を開いてくれるかもしれない」
自分は何の取り柄もない無能だが、無能である事は自覚している。
ならば、その力で出来る限り人々の役に立ちたい。それがきっと今できる事なのだ。
正也は気合を入れ直し、今日もせっせと荒廃しきった城内の清掃活動にいそしむ事にした。
「駄目だ……俺ではあの狂獣を止める事は不可能だ……」
一方その頃、正也に悪態を吐いた兵士はというと、恐怖に震える足取りで王の元へと向かっていた。
彼は重鎧と大剣を軽々と振り回す、この城で最も弱い兵士である。
狂獣マサヤを抑えておけるような実力は持ち合わせていない――いや、この国の何人が、あの狂った獣に対抗できるだろう。そう考えると、自分は恐るべき怪物の生贄に捧げられた気分だった。
「王さんよ、報告に来てやったぜ!」
兵士は廃墟のように荘厳な城の廊下を抜け、王室の前に立ち、丁重な挨拶をした。
「遅いんじゃボケ! さっさと入りやがれ!」
室内に居る王から入室許可が出たので、兵士は持ち前の怪力でドアをぶち破った。この世界において、ドアはぶち破って入るのがしきたりなのだ。
「おい坊主、あの獣相手に今日もよく生きて帰ったな。感心するぜ」
「まったくだ。あいつと喋ってるだけで、いつ殺されるか分かったもんじゃねぇ」
最も弱い兵士である自分に対しても、偉大なる王は丁寧な口調で敬意を払ってくれる。毎日あの狂った獣の罵声を浴びせられている兵士には、最高の癒しであった。
兵士の前には、塗装がはげてボロボロになった椅子に、半袖短パンでふんぞり返った太った男が座っていた。彼こそがこの国の王である。
その威厳ある姿は、縁日でビールを飲んで酔っ払っているおっさんを思い起こさせる高貴なものであった。
国王の横には、二人の人間が地べたに座っていた。
枯れ枝のようなヨボヨボのおじいさんと、年端もいかない幼女であった。
おじいさんは大臣であり、幼女は賢者である。
彼らこそ、この国の頭脳であり、最高権力者であった。
「で、あの狂獣は今日はどうしとるんや?」
国王が尋ねると、兵士は少し身震いし、あのおぞましいやりとりを報告し出す。
「今日は城の掃除をするとか言ってたぜ? あの怪物、どうやら城全体を掃除する気らしい」
「マジかよ! あいつのせいでこの城は滅茶苦茶だ!」
国王は頭を抱えた。あの男――マサヤとかいう怪物を召喚してしまったのは、自分の人生……いや、この世界において最も恥ずべき愚行であった。
「おい王さんよ、この責任どうするんじゃ! お前のせいだぞ!」
「だから何度も謝っとるやろボケェ!」
国王の横に座り込んでいた大臣が、やんわりと国王を責めるが、
王はただ己の責任を静かに悔いていた。
「おお……なんちゅうっこちゃ……」
自分は異世界から、とてつもない化け物を呼び出してしまった。
奴の名はコーガミ・マサヤ。伝説上の存在である「特に何の取り柄も無い一般人」であった。
「あいつにはワシらの常識が一切通じん……まさに狂った獣だ」
王はそう呟き、顔をしかめた。
何故、彼が異世界人を召喚したかというと、それは数百年前から続く戦争が原因であった。
歴史書には、「特にやる事も無いから力比べでもしようぜ」という深い理由で、隣国と戦争を始めたと記されている。
戦争ごっこのつもりが、相手が割と強く殴って来て痛かったので、こっちもムキになって殴り返したらヒートアップしてしまい、ガチの戦争になってしまったという悲しくも血塗られた歴史であった。
大抵の場合、戦争している事を忘れて普通に接しているのだが、たまに戦争ブームが起こる事があった。しかし、現王は賢王である。この茶番を自分の代で終わらせる事を決意した。
「喧嘩すると国民がケガするし、超強い異世界人を呼んで、そいつを兵士に加えれば勝てる」という発想により、宴会芸のノリで異世界人を適当に召喚したのだ。
――それが全ての過ちの始まりだった。
呼び出されたのは、自分たちとはまるで違う価値観を持つ怪物だった。
マサヤは常に口汚い敬語を喋り、老人や子供といった弱者を積極的に助けようとする残虐性を持っていた。
王は、あらんかぎりの罵声を浴びせマサヤの気をなだめようとしたが、彼の機嫌が悪くなるのは一瞬で、すぐに気を取り直し、微笑みを浮かべる異常者だった。
しかも、この世界では「いい人」ほど殺戮者として適性があるため、並の兵士では相手にならない。
マサヤは、殺意という物が具現化したといっていい存在であったのだ。
今もあの男は、この城をクリーンにしようとせっせと動いているという。
奴の清浄な瘴気によって、この薄汚い聖域がじわじわと綺麗になっていくのを見ると、王は夜も眠れない恐怖を感じていた。
いや、国王だけではなく、国民全体が狂えし獣が、いつ城という檻を破るか恐れおののいている。
「あのクソ野郎、一番汚い部屋にぶち込んでやったのに、何が不満なんだ」
王はマサヤに対し、この国で最高に汚い部屋を与え、最高にまずい食事を出し、狂った獣が暴れ出さないよう必死に宥めた。しかし、それでもあの獣は納得がいかないらしい。
一体、どれほど強欲で傲慢なのだろう。まともな精神では理解できない貪欲っぷりだ。
「賢者様の意見も通じんし……困ったもんじゃい」
王の足元にどっかり座りこんでいた老人――大臣は「賢者」の方を見た。
賢者マリエルちゃん(5さい)は、おやつの途中で呼び出されたのが不満らしく、頬を膨らませていた。
「ねー、おうさまー。もう帰っていい?」
「そう言わんでもうちょい待ってくれい。賢者さま、何かいいアイディアはないんか?」
「そのうちなんとかなるよ」
「そりゃいいアイディアだと思うが、まだ何ともならんからこうして集まっとるんよ」
そう、マサヤが異世界に呼び出され、その異常性に気付いた国王はすぐに賢者マリエルちゃんに相談した。
すると、賢者は「そのうちなんとかなるよ」というアドバイスを下した。
その決断、わずか5秒。まさに大賢人のなせる業であり、王は即座にその案を飲んだ。
だが、そのうちなんとなると思っていたが、なんともならなかった。
というわけで、今日、集会を開いたのだ。 一体どうすれば、あの狂獣を宥め、飼い馴らす事が出来るのか、と。
やるべき事は全てやった。兵士たちには常にマサヤを見たら怒声や罵声、誹謗中傷を浴びせるよう指示したし、飯も一番まずいものを出した。部屋もこの城の中で一番上等な豚小屋を改造した。
だというのに、奴はそれを嫌がる素振りすら見せている。
まるで、「こんな物、俺の望む者には程遠い」と言わんばかりだった。
「クソがぁ、一体どうすりゃええっちゅうねん」
王は穴のあいた天井を仰ぎ見る。あんな人智を超えた怪物を召喚してしまったのがそもそもの過ちだったが、今更どうする事も出来ない。
「おい王さん! 王さん! えらいこっちゃ!」
王が苦虫を噛み潰した表情をしていると、先ほど報告に来た下級兵が、物凄い勢いでドアを破壊しながら駆けこんできた。
「そんなに騒がんでも聞こえるわボケェ! 今は会議中じゃい!」
「うるせぇな! 会議なんかしてる場合じゃねぇんだ!」
国王も兵士も、狂獣マサヤの対応で手一杯だが、それでもお互いに敬意ある言葉遣いで話している。日ごろの信頼関係のたまものである。
「んで、会議中に殴りこみするって事は、どういうこっちゃ?」
国王が改めて尋ね直すと、兵士は呼吸を整え直し、大声で叫ぶ。
「テロリストが城に潜入しやがった!」
「なんやて!? 一体何モンや!?」
「フルールや! あの『花畑のフルール』が攻めて来た!」
「な、なんやとぉぉぉぉーーーーっ!?」
狂えし獣に加え、新たなる脅威が襲いかかってきた事に、王はめまいがした。