【一九九一 日極戦争】 臆病者
【蛇足】残虐な表現が入っております。ご注意下さい。
~一九九一年(正化三年) 五月二十五日 日極戦争 矢板市丘陵部~
【帝国陸軍 歩兵一〇二連隊 第三中隊 野中学生(伍長待遇)】
俺は臆病者だ。
草むらの中でじっとい息を潜めながらそう思った。
仲間を見捨てた。
パニックになった周りの奴らと敵前逃亡。
だが、逃げようとしない統合士官学校の同期を説得に時間をかけてしまい、本隊とはぐれ、敵中でひとりぼっちになっていた。
いつもそうだ。
中途半端にやるから、どんどん悪い方に行く。
――逃げるな臆病者。
あいつは俺にそう言った。
この矢板の丘陵を抜ければ宇都宮から平地が続き、その先には帝都がある。
極東共和国の奴らがここを抜けたら、帝都での市街地戦になるらしい。
つまり、住民を巻き込んだ戦闘。
家族を守るためにふんばれ。
大切な人を守りたいならここを死守しろ。
――だから、ここで死のう。
そう中隊長が言ったのは覚えている。
――頼む。
そう言われた。
同期のあいつは中隊長が言ったことを守り、あのタコツボの中で死ぬことを選んだ。
まわりのみんなは逃げだした。
小隊長が「予備陣地まで下がれ!」と叫んだ瞬間、穴から飛び出して、敵に背を向けて走り出した。
予備陣地のある穴を飛び越して、もっと後ろを目指して。
でも、俺はできなかった。
中途半端に死ぬこともできず逃げ出すこともできていない。
トカゲのようにじっと地面に張り付いている。
顔は鼻水とよだれでべとべと。
必死にかけずりまわったせいで……地面を舐めるように這いつくばったせいで、口の中は泥の味が広がっている。
――逃げるな臆病者。
あいつは俺を軽蔑した。
ちくしょう。
そう唸りそうになったが、慌てて口を押さえた。
そんなことを言っている場合じゃない。
雑談が聞こえるぐらいの距離に敵がいた。
さっき突撃して来た奴らはこの林の中に集結していた。
今は弾薬補給や再編成をしているんだと思う。何にせよ、敵は少し気の抜けた空気が蔓延している。
「楽勝だ」
「屁みたいな敵だ」
そういう会話が聞こえる。
「敵陣地の掃討で殺った敵を調べたら、大体が新兵、それから士官学校の学生もいたようだ……な、わかるだろ、帝国はじり貧、こりゃ、早く終わる……俺たちの勝ってすぐに帰れる」
「東京? あそこを獲ちまえば、帰れるよな」
「ああ、とりあえず帝国のびち糞共をぶっ殺せば、全部終わる」
俺達は目黒の統合士官学校の学生だった。
将校の卵。
ドンパチが始まった日、たまたま五月の連休で同期たち六人で水戸旅行に行っていた。
帰ることもできず、水戸の駐屯地から学校に輸送してもらおうと思ってそこへ行った。そして、数箇所たらい回しにされた挙句、この歩兵一〇二連隊とかいう予備役連隊に組み込まれたのだ。
あの時六人いた同期とも離れ、あいつと俺だけがこの連隊に編入された。
他の同期は別の連隊とか言っていたが、連隊の番号はよく覚えていない。
気がついたら「この方向から来る敵を撃ち殺せ」と命令され、タコツボの中に入っていた。
ああ、そんなことはどうでもいい。
眠い。
ここ四日間は一睡もしていない。
慣れない穴掘りは疲れた。
敵が来るまで、ひたすら掘らされた。
――砲弾の破片に当たって死にたくなかったら掘れ。
そう言われて穴を掘った。
休んでいると、小隊長に殴られた。
疲れた。
本当に疲れた。
もう二日も飯を食べていない。
もう半日近くこの格好から動いていない。
小便を垂れ流した時は、臭いで敵が気づかれるかもしれないと思ったが、敵の方もドンパチが始まったあの日から着替えも何もしていないんだろう。
だいぶ麻痺してきたが、獣の様な臭いを放っているのはわかる。
あの異様な臭いは、ほんとうにひどい。
……寒い。
……眠い。
もう、どうでもよくなってきた。
眠い。
もう、どうでもいい。
もう……。
どうせ、捕まって殺される。
それだったら。
今は。
眠り……た……い。
――!。
――!。
凄まじい破裂音が脳ミソをかき回したため、俺は顔を上げた。
真っ暗な世界の中で激しい稲光が見える。
いや、そんなんじゃない。
ただ、砲迫の弾が炸裂しているだけだ。
キーンと奥の方が鳴り響いて、耳が馬鹿になった。そして、上げた顔の先にあった戦車が爆発炎上する。
炎に照らされて、人影が戦車から転げ落ちた。
被服に引火して転げまわっている。
俺は立ち上がって、手元の小銃を構えて訓練でやっていたみたいに引き金を引いた。
初めて人を撃ち。たぶん、殺した。
もう死んでいたのかもしれない。
……そんなことはどうでもいい。
とにかく俺は走った。
脇目も振らず走る。
眠って元気になった気がする。
だから走れた。
俺たちがいたあの陣地の方向。
同期がいる方向へ。
わからない。
何が起こったのかわからない。
砲弾が落ちているのはわかった。きっとそれが味方の弾だということも。
俺たちがいた陣地の上に。
だからその方向へ走った。
味方が陣地を奪回しようとしている。
そう俺の勘が言っていた。
もしかしたら、あいつが穴の中で生きているかもしれない。
今ならまだ、逃げたことを許してくれるかもしれない。
俺は走る。
照明弾。
林の中で木々の陰が動くようにして淡く地面を照らす。
耳が馬鹿になっていたから、銃声はよく聞こえなかった。でも、よく見ると穴から体を半分だけ出して機関銃を撃っている後ろ姿が見えた。
敵。
繋がっている穴に機関銃を撃っている奴と眼鏡を覗いているのがふたり。
ああ、そうか。
俺は敵陣地の背面に回りこんだらしい。
何も考えず、手榴弾を手に機関銃を撃っている奴の後ろに近づく。そしてその穴にゆっくりと転がした。
穴の中でぼこっという破裂音。
想像していたものよりも小さな破裂音だなっと思った。そして、同時に引き金を引いて眼鏡を構えた男の後頭部を撃った。
なんだ。
簡単じゃないか。
俺はそう思って。
突撃の叫び声が聞こえる方に向かい走っていった。
「よくやった野中、さすが士官学校の学生だ」
連隊長から肩を叩かれた。
俺はちょっとした英雄になったようだ。
「この逆襲の成功には、この野中の挺身精神がなければ成し得なかったことである」
連隊長はそう言った。
もちろん俺がやったことはたいした効果はなかったが、兵士の士気を上げる材料にされているのだろう。
「壊滅した陣内に敢闘精神を絶やすことなく、約一日間敵中に潜伏し、敵の側防火器を撃破し、逆襲部隊の突撃を成功させた功績はすばらしい」
べた褒め。
連隊のお偉いさん方が拍手をする。
俺は照れ臭くなりながら連隊長と握手をした。
「お前が逃げ出したことは不問にする」
中隊長はそう言った。
「すでに、お前のところの逃げ出した小隊長は憲兵に引き渡した、銃殺だ」
彼の目の下のクマが黒さを増している。
そのせいだろうか、すごく皮肉たっぷりの笑みを浮かべるように見えた。
「俺は、逃げようとする奴の足をぶち抜いて、逆襲の時は先陣を切った……だからお咎めはない」
そう言いながら、手入れ中の拳銃を組み込んだ。
天井に向けて空撃ちを一回。
カチン。
安っぽく鉄と鉄がぶつかる音が聞こえた。
「奴といっしょに逃げ出した者は逆襲の時に死ぬか、怪我して後送されるか……すでに全員が消えた」
そして、弾倉を拳銃に突っ込んだ。
「あの陣地から逃げなかった奴らは、みんな殺られた」
俺はコクリと頷く。
「なあ、俺達はここで死ぬのが仕事なんだ」
彼は拳銃の銃口を自分のこめかみに当てた。
背中に変な汗が沸くのを感じる。
「俺はお前達をここで磔にするのが仕事だ……緒戦でピカピカ歩兵連隊や機械化連隊が壊滅して、今は予備役だ、倉庫番、お前らみたいな学生を集めた連隊じゃ、そんなことしかできない……だいたい、俺自身、春まで学校教官していたような奴だ」
中隊長はニヤりと笑ったが、目と口が震えていた。
「どっかの馬鹿野郎が言ったらしい、東京を捨てて箱根の線まで退いて戦線を立て直すだと」
俺は頷くことしかできない。
「奇襲を受けた今、もちろん時間が欲しい……しかも北陸正面の線も押されている、下ることは戦術的合理性はある……お前は士官学校行ってるから言っている意味はわかるな」
「……はい」
「まだ、逃げ切れていない、二千万人近くの住民を巻き込めば、そりゃ時間稼ぎもできる」
「……」
「そんなことをすれば、この帝国陸軍は終わりだ」
彼は拳銃をテーブルに置いて、一瞬胸ポケットに手をやった。
「住民を捨てて逃げるような軍隊に未来はない、二千万人……捨てられた住民だけじゃない……帝国の市民が敵にまわる」
「だから、ここで死ぬしかない」
「……そうだ」
中隊長は立ち上がり肩に手を置いた。
「成り行きかもしれんが、お前は中隊に死ぬ覚悟を与えてくれた、感謝する」
そう行って、手の平を上げた。
「明日から逃げるような奴はいなくなる」
出て行けという合図だ。
一方的に話して安心したのだろうか。
中隊長はそれから口を閉じ、目を瞑った。
俺は失礼しましたと言ってテントの外に出る。
同期のあいつは死んでいた。
思ったよりも汚れていなかった。
首と胴体は離れていたが、顔の傷はほとんどなかった。
たぶん、榴弾の小さい破片が飛んできて首をぶった切ったんだろう。
勇気ある同期の首を俺は拾った。
なあ、俺は臆病者か?
そう聞いたが、何も答えない。
ああ。
わかっている。
何も言わなくても。
臆病者。
でもな、今はもう臆病者じゃない。
大丈夫だ。
ちゃんと戦場で生きている。
人もちゃんと撃てる。
殺せる。
もう逃げずにやっていける。
だって、あの時は何も考えず、敵に向かって走っていけたんだから。
俺は次の戦闘で怪我をした。そして後送された。
その戦闘で中隊長は戦死。
一週間後には連隊が壊滅して部隊交代をしたらしいと師団の野戦病院で聞いた。
矢板市丘陵部での陣地の取り合いは続いた。
一つの丘の取り合いで彼我の一個中隊が一日単位で消滅するような戦い。
敵が攻撃して丘を取ると、帝国の部隊が逆襲して取り返す。
次の日の朝はまた攻撃され、取り返した部隊はそこで消える。
そういう戦いが六月の中ごろまで続いたらしい。
俺が前線に復帰するのは、米国が介入して制空権を完全に掌握した七月だった。
復帰した歩兵第一〇二連隊は連隊長以下将校は戦死又は負傷で全員が入れ替わり、まったく新しい部隊と言っていい状態だった。
だが、その連隊も夏の盛りには消滅。
軍旗は折れ、どっかに埋められ、生き残った兵隊はバラバラになった。
俺は幸か不幸か『決』第なんとか連隊とかいう軍旗もない急造部隊に入れられ、また戦場に行くことになる。
――逃げるな臆病者。
逃げてなんかない。
俺はまた戻ったんだから。
逃げていない。
なあ。
そうだろう。
お前を置いて行ったかもしれないが。
俺は逃げていないだろう?
「39歳バツイチ子持ちだが、まわりの女に煽られる。」の主人公、野中大尉のトラウマとなった若いころの戦場のお話です。