(8)
壱-(8)
「大丈夫そうか?」
「はい。マナ、割合あの人を気に入ったみたいですから」
サリュウの問いかけに、チヒロはぎこちない笑顔で答えた。
応接室にはサリュウの他に、上級幹部のミヲとシャモンもいる。
チヒロは空いているシャモンの隣のソファに座った。その位置なら遊んでいるマナクの姿が見える。チヒロの口から、ほっと息が洩れた。
向かいで足を組み、その膝の上に左肘を乗せて頬杖をついたミヲが、くすりと笑う。
「あんたも大変ねぇ。四六時中でしょ?」
「仕事中は施設に預けてます。休日はずっと一緒ですけど」
「うわ」
「でも、生まれたときから一緒ですから、さすがに慣れてしまって」
「はは。母親みたいだね」
剃髪しているせいか、僧侶のような雰囲気の漂うシャモンが穏やかに笑う。気配り上手なのか、どうぞ、とコーヒーを勧めてきた。
チヒロはコーヒーカップを両手に取ると、ブラックのまま少しすすった。
「あ~。目、覚めそう」
「寝てないの?」
「さすがに少し寝ました。あ……と」
「俺はシャモン。シャモン・カウジだ。君の通報で現場に駆けつけた張本人」
おどけた言い方に、チヒロも笑って握手を交わす。
「張本人、の使い方が違うでしょ――ミヲ・マソホよ」
後輩に突っ込みつつ、目の前の女性がテーブル越しに手を伸ばしてくる。慌ててチヒロはカップを置いて、その手を取った。
真紅の口紅をひいたミヲの唇が、にっこりと吊りあがる。
「あーら、驚いた。カイデンの言うとおり、サリュウ並みだわ。ね?」
「俺は心臓が止まるかと思いましたよ」
シャモンが苦笑して、握手した右手を軽くうち振った。
彼らはチヒロに触れただけで、彼女のテレパスの強さを感じ取ったのだ。
「そんな……宙佐並みだなんて、全然そんなことないと……思うんですけど」
もごもごと口の中で否定し、チヒロが当惑した視線を目の前に座る男に向け、うろうろと自分の手のひらに落とした。
固い雰囲気をほぐすように、シャモンが話しかける。
「君、植物園で働いてるんだって?」
「はい。六花市のカムナビ自然植物公園で、温室の担当をしています。苗を育てたり植え替えたり……虫を飼ったり、です」
「虫ぃ?」
「はい。自然の生態系を再現するというので、蝶とか蜂とかミミズなんかも」
「ミミズ……」
にょろりとした前世紀の生き物の名に、シャモンが妙な顔になった。
「うわ俺、絶対触れねぇ」
「慣れますよ。ずっと飼ってるとなつきますし」
「なつくぅ?」
ミヲの声が半オクターブ上がる。
「あんたって物好きねえ」
「そうですか?」
「っていうより、世話好きなのね。妹の世話もし慣れてるし」
「ええ、まあ」
「進学しなかったんだ?」
「今もできるだけの勉強はしてますけど、働かないとお金ないんで」
恥ずかしそうに言い訳し、チヒロはもう一度コーヒーを両手にとった。
「保険は?」とサリュウが問う。
「親のですか? 出ましたよ、雀の涙ほど。ただマナの分が出ないので――」
「出ない?」
「うち、ちょっと事情が複雑で。わたしを産んだ母は早く亡くなってしまって、父とマナクの母はお互い子連れ同士の再婚なんです。だけどマナクは父の籍に入っていなくて、実父の子のままなんです。なので、わたしとマナクは姉妹なんですけど、DNAも戸籍もまったくの他人というわけです」
「なぜ、そんな複雑なことに?」
「マナクの両親は離婚したわけじゃなくて、死別なんです。そのときマナクの実父が結構な財産を遺したみたいで……籍を抜くともらえないんです。
うちの両親は話し合ってマナクの成長のこととか考えて、お金は必ず必要になるからと、あえて籍を移さなかったみたいです。籍は入れなくても家族にはなれますから」
チヒロは少し冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「ただ、そのお金はマナクが二十歳になるまでもらえないので、うちの家計は火の車ってわけです」
「福祉支援は?」
「船内遺児は多いので、ほとんどないに等しいです。マナに関しては一応、広汎性発達障害なんですけど、レベル分けが医者によってまちまちで、今のところ施設や病院の利用サービス程度といった感じですね。とりあえず、マナが二十歳になるまで我慢です」
ミヲが感心する。
「あんた、えらいわねぇ」
「え、えらいわけじゃないですけど……ご飯食べないと生きてけないんで」
「いや充分えらいよ。そりゃ力も隠すよなぁ――と」
失言をごまかすように、シャモンが慌てて両手で口に蓋をする。
サリュウは不可思議な光を宿した眼をちらりと向けたが、咎めることはなく、代わりにチヒロに問いかけた。
「チヒロ、マナクを施設には預けられないか」
質問というより提案のような形だ。意味を悟って、チヒロがうなだれる。
「わたしと離れるとパニックになるから……」
「今も、仕事の間は離れているんだろう?」
「はい。でも、それも小さい頃からずっと通っていた施設で、三十分とか一時間とか預ける時間を少しずつ長くしてやっと慣れさせたくらいで――」
「だったら、その延長と思えばいい。君もマナクの傍に一生付き添っているわけにもいかないだろう。専門家が助けてくれる」
「決まった時間、決まった環境だったら大丈夫なんです。だけど、少しでもそれがずれると大変で……今の職場も無理を言って残業をなくしてもらってるんです。ここでは、そんなことはできないでしょう?」
チヒロは、思いつめたため息をひとつ吐いた。
「自立させないといけないのは分かってるんです。でも、わたしもいっぱいで――」
「よくやってるわよ」
ミヲの声が、やさしい響きを帯びた。涙ぐむチヒロに、シャモンがそっとハンカチを差し出す。
隣で渋い表情を崩さないサリュウに、ミヲがごまかすように言い訳した。
「なによ、味方しちゃいけない? あたしにだって少しは良心ってものがあるのよ。――ほら、カイも協力的みたいだし」
アクリル樹脂の透明な仕切りの向こうでは、シャボン玉でできた恐竜が、のっしのっしと空中を歩いている。きゃーきゃー喜ぶマナクの頭にぶつかり、ぽわんとはじけた。
ライオンのたてがみのようなカイデンの長髪は、すでに泡まみれだ。
「意外と子ども好きなんスねー。カイさん」
「レベルが同じだからな」
サリュウが真顔で指摘する。笑って、ミヲが尋ねた。
「マナちゃんいくつ?」
「十四です」
シャモンのハンカチで涙を押さえ、チヒロが答える。
「でも、発達レベルは五~六才って言われたんですけど」
「カイデンは五~六才かぁ」
「あ、でも亀の歩みですけど、ちょっとずつは成長してるみたいで」
フォローのつもりか、チヒロのだめ押しに三人が失笑した。
「くく。カイデンはライオンじゃなくて、亀ってわけね。なんか納得ぅ」
「あんなド派手な亀いないっスよ、ミヲさん」
げらげら笑い転げるミヲに、シャモンが乗っかる。悪戯っぽくチヒロに片目をつむって、
「今のはカイデンに言わないでね。彼、怒るから」
「……はあ」
「結構いい子にしてるじゃない、マナクちゃん」
「ええ。たぶん……わたしが落ち着いたから」
含みのある言葉に、三人が笑いをおさめる。少しためらい、チヒロは続けた。
「弱いんですけど、マナクもテレパシストです」
「君のテレパスを受けるということか?」
「多少ですが自分から使うことも――ただ精神が未発達なせいか、ときどき混乱するみたいで。しゃべるのと同時にテレパス送ったりとか」
「それは君に?」
「ほとんど無意識です。まあ、両方聞こえてもマナクの思考は複雑ではないので、同じ内容が多重で聞こえるだけなんですけど」
チヒロは、テレパシストなら頭が痛くなりそうなことを、さらりと言った。
「検査には引っかからなかったのか?」
「マナクの力は波が激しいんです。てんかんの持病と関係があるのかもしれませんけど……あの子は、作為が出来る子じゃありません。テストも普通におこなわれたはずです。ただ、発達障害の子は普通の子と脳波が少し違うらしくて、障害の範囲と思われたみたいです」
「だが君は、それを訂正しなかった――」
サリュウの言葉に、チヒロの顔色が変わる。
「あの子を稀人だと言ったところで何になります? テストを受けるときも、鎮静剤を入れたがる医者をやっと説得しました。ここで研究対象として拘束されるくらいなら、まだ障害児として施設に入れたほうがましです」
「――ちょっと、言い過ぎよ」
ミヲがたしなめる。失言を悟り、すみません、とチヒロがうなだれた。
冷静さの崩れないサリュウの低声が、あくまでも淡々と発言を続ける。
「俺はマナクを拘束するという話をしているんじゃない。君の話だ」
「……はい」
「君がマナクを守りたいという気持ちは分かった。だが、君が[まほら]にいる以上、君の力は乗員全員のために生かされるべきものだ。いいな?」
「はい」
小さく頷くチヒロに、自分がさぞ悪者に見えるだろうと自覚しながら、サリュウはちらりと背後のマナクに視線を送った。わずかに息を吐く。
「チヒロ。マナクと一緒にここに移りたまえ」
「え……」
「サリュウ?」
「隊長、それは……」
三者三様の驚きがあがる中、サリュウは、それをねじ伏せるように言葉を重ねる。
「マナクも稀人なら、移住を許可されるはずだ。君はマナクと一緒にここに移って、訓練をすればいい。決まった時刻とはいかないが、少なくとも最初のうちは今までと同じような時間配分がとれるだろう。そのあいだにマナクにも環境に慣れてもらう――これは君に任せるが」
「いいんですか、そんなことをして……?」
「六花と三風を一日に何往復もされるよりましだ。それに――」
――さすがにああ泣かれると、いくら俺でも罪悪感に駆られるさ。
それがマナクなのかチヒロなのか自分でもはっきりしないまま思い、サリュウはそこでの話し合いを切り上げた。