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八-(8)
結局、次の日にはサリュウは完璧にアポートをマスターし、ミル導師のお墨付きを勝ち取った。
それどころか、一度基礎をマスターすると応用は容易なのか、複数の対象物や人に対しても次々と成功させ、チヒロを唸らせる。
「……ズルイです、隊長」
「なにがだ?」
三日天下どころか、一日で優位な立場を覆された訓練生が、ふくれっ面で睨んだ。
「なんでそんな簡単にできちゃうんですかっ」
「実力だ」
「ずるいです。不公平です。隊長ばっかり強くなったら、男女雇用機会均等法に違反しますっ!」
「どう関係があるというんだ、それは」
「だって隊長が無敵になったら、独裁政権で巨乳セクシー美女以外隊員になれないとか言うに決まっ……でっ」
言いかけたチヒロの頭上に、別の瞑想室からアポートとさせたと見える丸座布団が五、六個続けざまに落ちてきた。ミル導師がにこりと微笑む。
「おや、遊戯室のクッションが混じっていますね。養成区までアポート範囲を広げたのに、この安定性。さすがと言わねばなりませんね」
「お褒めいただきありがとうございます」
「チヒロ、あなたも精進しなければなりませんね。アポートに関してはあなたが先輩なのですから、負けてはなりませんよ」
「う……は、はい」
クッションの小山からチヒロがしょぼんと頷く。
「頼むぞ、先輩」
サリュウがにやりと口の端を吊りあげる。
今日は朝から共にアポートの練習に入っていた。深夜勤務のあと数時間の仮眠と休憩で訓練に取り組む相手に、調子が悪くてなどという言い訳は通じない。
「分かりました。意地でも叩き潰します」
「望むところだ」
まさに火花散らす力のぶつかり合いが幕を開けた。
おもちゃや本、椅子、机といったものが次々と瞑想室の空間に現われるだけではない。優れたテレパシストである二人は、互いの意識の先を読み、より大きく危険そうな対象物に手を出そうとする相手の邪魔を始める。
研究棟を知り尽くした男は自在に探査可能だが、新参者の少女は培った経験による精度の正確さに勝る。弾き飛ばされながらもサリュウの意識を逸らそうと絡み、絡みながら細かい対象物――ぬいぐるみや空箱といったものを現実の彼に叩きつけていく。
まだそこまで器用さのないサリュウは、大きな対象物をアポートさせることで命中率を上げようと試みた。
四人掛けのソファが訓練生の頭上に現われた瞬間、それは再び消失する。
「……訓練生を殺す気ですか、隊長」
「悪いが、勝負に手段を選ぶ気はない」
「この極悪人」
「仔ネズミが」
言い合いつつも、アポートは休まることはない。上空に切っ先を下にしたハサミやナイフが現われては消え、机や椅子が吹き飛んでいく。
物を叩きつけることに成功はするものの、サイキックをもつ男に実際のダメージはない。
経験の成せるわざか、巧妙な防御に業を煮やしたチヒロは、二、三の本をアポートさせた隙に彼の防御を飛び越え、正面からスポーツドリンクの空瓶を叩き付けた。
途端、破裂音と共にプラスチックボトルが四散する。
サリュウのサイキックだ。同時に、チヒロの背後にアポートしかけていた鉄製の椅子が元の場所に消え戻る。
「サイキックを使うのは反則です、隊長」
「馬鹿者。自分のしたことを良く見ろ」
言下に言い捨て、最強の稀人は傍らでうずくまる鬱金色のローブの人物に手を差し伸べた。
「ミル導師。大丈夫ですか?」
チヒロの総身から血の気がひく。
夢中で気付かなかったが、自分たち二人の容赦ない攻防に至近で晒されていたのだ。一般人なら鼻血を流して昏倒していてもおかしくない。はっと立ち上がる。
「わ、わたし、看護師さん呼んで来ますっ」
「ああ、早くしろ」
わたわたと足をもつれさせて、訓練生が瞑想室を出てゆく。
気遣わしげに導師の痩せた体を抱き起こす男の腕に、そっと痩せた手が触れた。
「私もまだまだ修行が足りませんね。二人の力に圧倒されて意識を切断し忘れるとは……」
「ミル導師……」
「ですが、とても素晴らしい光景でしたよ。まるで深い海と大きな風がうねりながら対話しているようでした」
稀人として視た光景をそう表現し、色を失った頬がほんのりと紅く染まる。
「……サリュウ」
「はい」
「良い友人を得ましたね」
ミル導師の声音は、あくまでも深くやわらかい。
虚を突かれた男は即座に否定しかけ、響きの真摯さに口を噤んだ。
――ああ。
訓練生の言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『わたしもあの人たちを〝導師〟という枠組みでしか見ていなかったんです……』
――……俺も、同じだ。
彼らにとって自分は〝吾子〟であり、ただの実験によって産み出された一人に過ぎないと思い込んでいた頑なな何かが、胸の裡でほろりと崩れる。
自分にはまだ推し量りきれぬ歳月を経た指先が、そっと頬に触れた。
「あなたは昔から友人を作るのが下手で……強がってばかりだったでしょう? しかも、レインまであんなことになって――。私たちは本当に心配していたのですよ。あなたに心を許せる相手ができるのかと」
「あいつはただの訓練生です。友人ではありませんよ」
「そう? だけど、あなた楽しそうだった」
でしょう?と、導師は少女のように小首を傾げる。サリュウは苦笑した。
触れられる指先に、嫌悪感はない。むしろ暖かく流れ込んでくる記憶――母としての、愛する子を失ったからこそ他人の子へ深く傾けられる愛情に、胸が熱くなる。
自分が泣きそうになっているのを感じ、サリュウはわずかに眼を閉じて脇を向いた。
「……俺もまだまだ子供ですね」
「知っていますよ」
低い囁きに、サリュウはまたも苦笑を洩らす。
そして、そっと彼女の耳に口を寄せ、ここだけの話にしておいて下さいとお願いしたのだった。
*
「……うう、失敗」
呻いて、チヒロはごろんとベッドに横になった。今はもう夕方、訓練も終えた時刻である。
サリュウとのアポートの鍛錬は、あのあと打ち切りとなった。ミル導師の容態はそれほど深刻なものではなかったが、高齢であることが考慮され、医局へ搬送されていた。
状況は違えど、これでチヒロは二度も導師を病院送りにしたことになる。
『す……すみませんでした』
身を縮まらせて謝るチヒロに、だがサリュウの叱責はなかった。
『これからは周りの状況もよく見て力を使うことを覚えろ』
それだけを言って自室へと去っていく。さすがに勤務のあとのアポート合戦は、彼にも堪えたのだろう。
それにしても、とチヒロの口から溜息が洩れる。
――やっぱ……すごいんだなあ、隊長は。
アポートの習得の早さもそうだが、サリュウの力はどこまでも安定して澱みがない。
統制が見事なのは重々承知だが、自分だけでなく周囲のことも俯瞰して把握できるというのは、力の強さというより裏打ちされた努力と経験の証といえる。
最強の稀人は、伊達ではない。すべてにおいて自分を凌駕する存在に、チヒロは無力さを噛みしめた。
一日でも早く正隊員になるべく訓練に加え学業もこなしているが、彼と堂々と肩を並べて仕事が出来る日など永遠に来ないような気がしてくる。
――だめだ。感情に負けないようにしなきゃ。
気合を入れて午後からは昼番の実務見学を行なったが、焦りばかりが空回りして頭に入ってこない。
研究棟から戻ってきた妹と食事をし、シャワーを浴びたチヒロは、いつも手に取る教科書を放っぽり投げて、スプリングの緩んだベッドを当て所なく転がった。
――わたし、本当に役に立つのかな……。
自信がない。
昔からどんなときも、なるようになるとがむしゃらに前向きを貫いてきたが、今まで支えられてきた根拠のない自信が、本当に脆く薄っぺらなものだったと思い知らされる。
それは自身が成長しただけなのか。それとも――彼に見捨てられることへの不安か。
チヒロはこれ以上の考えを拒否するようにぐっと目を閉じ、傍らに潜り込んできた妹の石鹸の香りのする体を抱き寄せた。