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八-(4)
朝、養成区通いを続けるマナクを医務局の玄関まで送り届け、十時の訓練を前にチヒロが最近の日課となった食堂へ顔を出すと、疲れきったサリュウ・コズミが黙々と食事をしていた。
「隊長」
チヒロは淡いピンクの飲み物の入ったグラスを持ち、斜め向かいにそっと腰を下ろした。
「お疲れさまです。今日は一心じゃないんですか?」
「あんなものは三日が限度だ。行き過ぎて、さすがに俺も食傷気味だ」
食傷などと言いながら胃袋は健康なのか、サリュウの目の前にはいつもよりぶ厚めの牛ステーキと鱸とフォアグラのポワレに、グラタン、ライスが並んでいる。
「食事、多くないです?」
「警察庁の食事も不味くはないが、俺には合わない。ジジむささが漂うんだ」
「それは料理じゃなくて、環境の問題でしょう」
「これでも食べる量が減った。やっぱりじじいが伝染ったかな」
「単に年相応になっただけじゃないですか?」
相変わらず口の減らない訓練生をダークグリーンの瞳が睨んだ。
「おまえはわざわざ俺に皮肉を言いに来たのか?」
「いいえ、違います。その……遅れましたけど、昨日のお礼を言おうと思って――」
お礼とはカグヤの一件だろう。サリュウはオレンジ色のロゼワインを一口飲み、あくまでもひねくれた口調で応じる。
「別におまえのためにしたわけではない。客の危険を回避しただけだ」
「でも」
「それに、言ったはずだ。俺は自分の縄張りを荒らされるのが嫌いだ」
「だけど、あのせいでかえって隊長が恨まれたりしたら……」
「それは願ってもいないな。あいつらがおおっぴらに俺を狙う度胸があれば、だが」
深海色の双眸に悪戯っぽい光が浮かぶ。
「俺の悪評はなかなかだぞ? カイハクにも劣らん」
「そんな……」
どうも真面目に会話しようとしない男に、いつもの威勢はどこへやら、チヒロは戸惑うようにテーブルに視線を落とした。
「なんだ。俺を信用しないのか?」
「違います。隊長が本当に強い稀人なのは知ってますし、銃や殴り合いが平気なのも分かりました。でも、どんなに強い人でも万が一っていうことがあるんです」
「万が一を心配していたら何もできんぞ。どんなに安全に気を配っていても、[まほら]が壊れれば皆死ぬ」
「そうですけど、心配なんです。だって、隊長は一人しかいないんですよ? わたしのせいで隊長になにかあったら、わたし――」
度の入らないレンズの向こうで、黒い瞳が潤む。サリュウは乱暴な口調で否定した。
「おまえのせいではない。正確には、おまえの美人な友達のせいだ」
「……美人とか美人じゃないとか関係あるんですか?」
「少なくともカイハクには関係がある。俺の好みではないが」
以前異性の好みに意見していた男の言い回しに、チヒロがかすかに口元を緩める。
「彼女の様子はどうだ?」
「あ、はい。あれからすぐに手続きして、今日か明日にでも入院するみたいです」
「成功すればいいが」
「ええ。わたしも気になってアサギ先生にいろいろ相談したんですけど、カグヤを担当してる先生が一番の腫瘍医らしくて――手術も、脳外科の先生と共同で組み換えミトコンドリアを腫瘍部へ直接注入して細胞の自己破壊を起こさせる方法をとるとのことで、治験段階ですが成功率は従来よりも高いそうです。でも、なにがあってもカグヤにはエイジさんがついてるから……」
先程とは違う理由で瞳を曇らせる訓練生を、ワイングラスを持ったまま、サリュウは無言で眺めた。
『コズミ隊長、あんたは自分の命を賭けても護りたいと思う相手に出会ったことがあるか?』
ヒュウガ・カイハクの手下を追い払った後、ふとエイジは、サリュウにそう尋ねた。
『いや』
『俺はある』
少年のような明快さで、エイジはそう言い切った。
『あいつは――カグヤは、初めて会ったときは今よりもっと痩せっぽちで、追い詰められたノラネコみたいだった。それでも眼だけはギラギラしててさ。見てくれじゃなくて奥がさ、ハンパない強さをもっているんだ。
会った瞬間、俺は絶対にこいつを護ろうと心に誓ったよ。おかしいだろう? たった十四のガキに俺は一目で惚れて、命を賭けたんだ。……今もな』
サリュウが垣間見ただけでも、エイジ・ハシタの過去はけして平凡なものではなかった。
エイジが過去にも殺し屋リオウ・ギンと因縁のある間柄だったことは、さすがに丹念に記憶の奥にしまわれていたが、それでも敏感なチヒロは彼の抱える多くの傷を視てしまっているはずだ。
サリュウには他人に探らせたように言っていたが、カグヤとの逃避行が落ち着いてから数度、危険を冒してエイジはチヒロの様子を見に来ていた。
それは彼女のためというよりもむしろカグヤのためだったはずだが、その些細な彼の気配りがチヒロに淡い恋心を抱かせたというのは、サリュウほどの者なら深く読み込まずとも知れることだった。
だがいくら知ったところで、重病を抱える親友との友情と恋心の間で揺れる彼女にかける言葉を、サリュウは持ち合わせていない。慰める代わりに皮肉がこぼれ出る。
「確かにハシタは年上だが〝大人で頭がよくて品のいい人〟には見えんぞ?」
唐突に過去の自分の発言を持ち出され、チヒロが赤くなった。
「あんな格好して口も悪いですけど、一応エイジさんは二羽大出身です。中退ですけど」
「二羽大に受かるくらいなら俺にもできる。受ける気はないが」
認定を受け、三風に移住した稀人は、例外なく軍への加入と八部入隊への進路を選ばざるを得ない。これは稀人が認識票をつける代わりに得た、自由の代償である。
すなわち初等教育にあたる幼年学校、軍学校、士官学校への就学を義務付けられているのだが、その課程は稀人の力の育成など全く無視された高水準の学力が要求され、厳格と評判の一般軍人養成と同レベルと言われる。
幼少から教育に力を入れて育てられたであろうサリュウが成績が悪いはずもなく、そんな環境で培われた頭脳であれば推して知るべしだ。
およそ挫折や劣等感といった言葉とは無縁に見える男を、チヒロはちらりと眺めた。
「……隊長って、負けず嫌いなんですね」
「勝つのは好きだが、なぜそう思う?」
「だって、エイジさんに張り合ってるじゃないですか」
「張り合ったわけではない。事実を述べただけだ」
「ぜったい嘘」
チヒロはきっぱりと言い、ジュースのグラスを持ったまま、くすりと笑った。
「だって年はエイジさんが上ですけど、社会的にも状況的にも隊長の方が立場が上だっていうのは分かりきってるんですよ? それをわざわざ口に出すってことは、ただの負けず嫌いです」
「おまえ、俺を分析したいのか?」
「いいえ。隊長の行動原理って意外に単純なんだなーって、感心しただけでです」
感心と言うわりに笑いながら、チヒロは続ける。
「そっか、あの人たちを返り討ちにしたのも、おんなじなんですね。気をつけないと隊長、ただの弱いものいじめになりますよ?」
「おまえは、危機を助けた俺に礼を言うために来たんじゃなかったのか?」
「わたしのためにしたわけじゃないって、さっき隊長が自分で言ったじゃないですか」
「おまえの友達の責任はおまえが負え」
「嫌ですよ。隊長だって趣味で助けたようなもんじゃないですか」
「俺に他人と殴り合いをして歩く趣味はない」
「じゃあ聞きますけど、あいつらがカグヤのこと抜きに三風に現われてたら、どうしてました?」
「居合わせれば、するべきことをする」
「するべきことって?」
「銃を抜いたら取り上げる。殴ってきたら殴り返す」
「ほら、おんなじ」
得意げにチヒロが口を尖らせる。
サリュウは、そうした行動の根底にある気持ちが違うのだと言いたかったが、それを口にすればすなわち〝チヒロのために〟したことになってしまう。それは絶対に認められなかった。いや、認めたくなかった。
ため息をついて、数切れ残った肉の皿に目を落とす。
「……おまえのせいで食欲が削がれた」
「年のせいじゃないですか?」
にこにこと厭味を言う訓練生を、腹立ちまぎれに睨む。
「責任をとれ」
「隊長の胃袋の責任なんてとれません」
「おまえと話して疲れが増した。おまえが悪い。責任をとれ」
ただの我儘にしか聞こえない台詞に、訓練生は童顔をしかめ、持っていたグラスをそっと前に押し出した。
「じゃあ、これあげます」
「なんだこれは」
「アセロラジュースです。疲労回復のビタミンCがたっぷりですよ」
飲みかけを差し出すのもどうかと思ったが、サリュウはこだわりなくグラスを取り上げて、一口飲む。
「酸っぱい」
「当たり前です。アセロラなんですから」
「見た目は甘そうなのにな」
推し量るように薄桃色の飲み物を照明に透かす。飲み物のなくなったチヒロが、サリュウの前に置いてあるグラスを覗き込んだ。
「隊長のもきれいな色ですね」
「おまえは絶対飲むなよ」
「ケチ」
頬を膨らませる少女に、氷点下の視線が注がれる。
「おまえ、ワインを飲んで自分がどうなったか忘れたのか」
「なんか、ふわぁっと気持ちよくなったのは覚えてます。……なんだ、ワインなんですね」
まだ未成年のチヒロは、惜しそうにオレンジ色のロゼワインを眺めた。
「きれいな色。早く大人になって飲んでみたいなぁ」
「大人云々ではなく、おまえは絶対酒は飲むな」
「いいじゃないですか。これから強くなるかもしれないし」
どうもこの訓練生は、自分の酒の弱さを自覚していないらしい。
「……飲むか?」
「いいんですかっ」
ぱ、とチヒロが満面の笑顔になった。
「その代わり、この前より恥ずかしい格好で部屋に運んでやる。絶対に倒れるからな、おまえは。その覚悟があるなら飲んでもいいぞ」
「う……」
隊長に担がれたことに自尊心が傷ついたらしいチヒロは、言い返せずに沈黙した。
「酒が弱いものは、二十歳になろうが百になろうが弱いままだ。あきらめろ」
「でも、一口くらいなら……」
「だめだ」
小さな希望を打ち砕くように、サリュウは一言の下にはねつける。飲み干したアセロラジュースと同じ調子でワインをあおる男を、チヒロは羨ましそうに見た。
「いいなあ。隊長って美味しそうに飲みますよね、お酒」
「気つけ薬代わりだ」
「今から休むのに、気を張ってどうするんですか?」
「おまえとの会話に疲れた心身に気合いを入れ直しているんだ」
自分が現われる前からワインを持っていたはずだが、相も変わらず皮肉を垂れるサリュウに、チヒロは言い返すより思わず笑ってしまう。
「なんだ?」
「いいえ。少しは隊長の元気が出たかと思って、安心しました」
皮肉ではない言い方に、サリュウは困惑した。
訓練生にまで心配をかけるようでは隊長として威厳がなさすぎるような気がしたが、一人の人間として心配されるのは、くすぐったいような妙な心地よさがある。
――気を許しすぎているのか……俺は。
ミヲの忠告が脳裏をかすめるが、あくまでもこれは仲間としての信頼感なのだと言い聞かせ、サリュウは再び料理皿に集中した。疲れている身に、自制や配慮などする余裕はない。
てきぱきと料理を片付けていくサリュウを見ながら、チヒロが話しかける。
「なにか飲み物持ってきましょうか?」
「ああ。水でいい」
「残念。ワインだったら隠れて飲もうかと思ったのに」
「馬鹿者」
口の減らない訓練生は、サリュウの暴言を笑顔で流し、カウンター近くのウォーター・サーバーに向かった。三風に来て二ヶ月目に入ったせいか、顔見知りも増えたらしく、食堂の調理師やすれ違う一般兵と挨拶を交わしながら戻ってくる。
――俺より知り合いが多いんじゃないのか、あいつは。
三風で生まれ育った男はそう思い、水を差し出す訓練生に尋ねた。
「おまえ、タコ足はリーディングだけじゃなかったのか?」
「え?」
「いつの間に知り合いが増えたんだ?」
その問いかけに、チヒロはやや気を悪くしたように頬をふくらませる。
「わたしじゃありません。隊長のせいです」
「俺の?」
「食堂でポップコーンを撒き散らして以来、わたしたちは有名人です。気がついてなかったんですか?」
他人にほとんど関心を示さない男は、あらためて自分たちに注がれる複数の視線を認識した。
「気付かなかったな」
「なんでそれだけのテレパスもってて気付かないんです。注目の的ですよ?」
「今さら注目を集めようが集めまいが、どうだって構わん」
「そりゃ隊長は注目されることに慣れてるでしょうけど、わたしはこんなの初めてです。いきなり見知らぬ人に話しかけられるんですよ。驚きます。そこまで厭ではないですけど……」
「周囲の目は簡単に敵にも味方にもなる。八部に入った以上、注目されるのは当然だ。それに振り回されないように慣れておけ」
生まれる以前から注目され続けてきた男は辛辣に言い、ふと独りごちた。
「……悪いことをしたな」
「え」
「おまえに、ではなく、みんなに周りの注意を惹くような行為をさせてしまったことに、だ」
ひねくれながらもどうやらサリュウは本気で部下を案じ、反省をしているようだ。
「確かに隊長としてはあるまじき行為でしたけど」
「調子に乗るな」
「だけど、わりとみんな面白がってたみたいでしたよ? イブキさんなんて、参加できなくて残念がってましたし」
「当番別対抗戦なんてやったら盛り上がるんだろうがな」
「面白そうですね、それ」
軽口に乗っかる訓練生を軽く睨む。
「馬鹿者。〝注目〟の半分はおまえの責任だぞ。半端なく目立つ友達を連れてきたんだからな」
「連れてきたのは隊長ですってば」
「原因はおまえだ」
即答で返し、食事を終えたサリュウはナプキンで口を拭った。
「ところでおまえ、訓練は?」
「へっ?」
「今何時だ?」
はっとなったチヒロが食堂の時計を振り返り、飛び跳ねるように立ち上がった。
「もう、隊長! 十時になるんなら早く言ってくださいよっ」
「俺は関係ない。自己責任だ」
「自習言いつけたのは隊長です。あー、こういうときにテレポート使えたら便利なのになあ」
「おまえはどうしてもM法違反をしたいらしいな」
「隊長に言われたくないです」
遅刻寸前にも関わらず、チヒロは自分のグラスと一緒にサリュウの空の食器を引きあげながら、最後まで口ごたえする。ついでに、
「あ、隊長。ちゃんと薬飲んでくださいね?」
念押しも忘れない。
サリュウはしぶしぶポケットからピルケースを取り出した。出て行こうとする訓練生に、低く反撃を刺す。
「おまえ、午前のうちにテレパスは完璧に仕上げておけよ」
「はい。午後からなにかあるんですか?」
「夕方からアポートの訓練にうつる。指導はミル導師だ。俺も一緒に受ける」
チヒロの目が点になった。
「なんで隊長がアポートの訓練をする必要があるんです?」
「一度カイハクの手下で試したら、うまくいかなくて対象物が破損した。おまえにできて俺にできないという状況が許せん」
「……この負けず嫌い」
「黙れ。夕方は十八時からだ。四時間で仕上げてやる。遅れるな」
反論の余地なく言い切ると、サリュウは悠々と薬を飲み下した。
※医療的な記述はまったくのでたらめです。信じる方はいないと思いますが。
サリュウは人嫌いですが、潔癖ではないです。細菌なんて気にしていたら閉鎖空間で生活できないだろう、という合理的な考え。
チヒロはマナクの世話を焼きすぎて、口移しとか間接キスなんていう思考まで至らない。周りの人だけが動揺している。
しかし、この二人が絡むと話が進まない…。