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六-(2)
自室に帰りついたチヒロは、留守番をしてくれていたトレーナーのエミ・ナンドとようやく交代した。
もうマナクは落ち着いていたが、二人きりになった途端、今度は自分が妹を抱きしめて号泣してしまう。箍が外れたのか、長い赤毛を何度も撫でながら、チヒロは嗚咽した。
「マナ、ありがとね。マナがレインと友達にならなかったら、隊長は仲直りできなかったよ。本当、ありがとね」
言う傍から涙がこぼれる。涙腺が破壊されたのではないかと思うほどだ。
事情が分からないマナクが困ったように首を傾げる。
「れいんは?」
「レインはね、お注射も止めて起きれるようにお医者さんにお願いしたから、もう大丈夫だよ」
それでも、彼の寿命は確実に短くなってしまったのだ。どちらを選んでもサリュウとレインの苦しみが減ることはないのだと思い、チヒロはまた涙をこぼした。
マナクがやわらかい手のひらで姉の頬を撫で、不器用に涙をぬぐう。
「ちいろ、なかないよ。ないたらめーよ」
「うん、そうだね」
「まな、たいちょーにめーしてきてあげるよ。ちいをなかしてめーって」
泣く原因を隊長と決めつけているらしいマナクに、チヒロは困惑した。
当たっていなくはないのだが、自分が彼への評価を変えたように、やはり妹にも少しはサリュウにいい印象を持ってもらいたい。
「あのね、マナ。レインは隊長の弟なの。大事な大事な弟なの」
「おとーと?」
「そう。チヒロとマナは〝きょうだい〟でしょ? それと同じ。二人も兄弟なの。マナ、レインと友だちだったら、隊長とも友だちになってくれると、姉さんうれしいな」
「たいちょーはやーのっ。ちいとまなとれいんとさんにんですむのっ」
やはりどうあっても、マナクはサリュウを受け入れたくないらしい。
涙顔のまま、チヒロは苦笑した。悔しまぎれにマナクの体を抱え、ベッドに転がる。きゃあっとマナクが喜んだ。
妹の体を抱きこんだまま、少しうとうとしたチヒロは、しばらくして宇宙の煌めきをみせる深い海が熱い想いで満たされるのを感じた。
――隊長……泣いてるのかな。
チヒロは遠慮気味にブロックを上げ、彼の意識を遠ざけたが、それでも完全には閉じないでいた。
痛々しいほどに激しい海のうねりを、心の隅に感じていたいと思ったから。
――わたしにも囁いてあげることができたらいいのに。
ぼんやりと思い、チヒロは心に響く波音にじっと耳を傾けつづけた。
*
翌日午前を過ぎた頃、チヒロは疲れた顔色のサリュウを食堂で発見した。
レインのことがあったせいで、今日の訓練は午後からとなり、午前中を学科の自習と本部の見学で潰したのだ。
いつもの肉料理を相手にするサリュウの前に、チヒロはバゲットサンドとコーンスープを持って腰を下ろした。
「隊長、ひょっとしてお部屋に帰ってらっしゃらないんですか?」
くたびれたような様子が気になって尋ねる。ダークグリーンの瞳が、ちらりとこちらを見た。
「ああ。これを食べたら部屋に戻る。訓練は三時からだったな」
「あ、はい」
「本部はどうだ? まだ朝番がいるはずだろう」
今は十二時半。三交代制の勤務は、十四時から昼番が入る。
「六花のエア・ラインで玉突き事故があって、通信室のフアナさん以外全員出払うことになったので、カイデン宙佐がもうあがれって……下手に本部に人が残ってると、ろくな通信がこないからって」
「それは言えているな」
器用にナイフで鶏のモモ肉を骨から外しながら、サリュウがかすかに頬を緩めた。
「本部の雰囲気は掴めたか?」
「はい。でも緊急通信が入ると、早すぎてなにがなんだか」
「一人が一度に何件も請け負うわけではない。そんなことをしたら身が保たないからな。通信の緊急度を見極め、必要最少人数で解決にあたる。その指示は俺か副隊長が出すから、個々は冷静に処置に当たればいい。もう少し先で、おまえにも実際加わってもらう。そのことを頭に入れて、よく見ておけ」
「はい。あの……一般の人にも本部の見学って、させてもらえるんですか?」
「邪魔にならん程度なら構わん。勝手にうろうろされて込み入った質問などして、こちらの手を煩わせるようなことがなければ、だ」
チヒロが神妙に頷いて、復唱した。
「うろうろするのと込み入った質問ですね。分かりました」
誰を呼ぶ気だ、とサリュウは、つい最近まで六花に住んでいた訓練生を胡乱げに眺める。
「身元はおまえが責任をもつんだぞ」
「それは大丈夫です」
自信をもって答えたチヒロは、目の前からの冷ややかな視線に気がついた。
「なにかご不満ですか?」
「おまえの大丈夫、に信用がならない」
「失礼です。こんなに頑張ってる訓練生になんてこと言うんですか」
「おまえは訓練以外のことを頑張っているような気がしてならん」
当たっていなくはない指摘に、チヒロの両頬が丸くなった。
「好きでいろいろ口を突っ込んでるわけじゃないです」
「ふうん」
「だけど、引っかかるっていうか……気になって」
ちぎったパンを手にしたまま、ぼそぼそと呟く。
サリュウはさり気なく、彼女が一番気にしているはずの状況を口にした。
「レインの目が覚めたぞ」
「え……いつですか?」
「あれから二時間ほど後だ。まだ人工子宮からは出られないがな。体力がなさすぎて」
「でも、よかったです。これで隊長とも意志の疎通ができますもんね。本当、良かったです」
満面の笑みになるチヒロに、サリュウは戸惑うように眼を逸らす。
「まあ、どうなるかは分からんがな」
「いいほうへいくようお祈りしてます。……あ、隊長。マナはレインに会えますか?」
最初にレインのテレパスに気づいたのがマナクとはいえ、目覚めたばかりのレインに負担になるかもしれない。それに、彼の存在は機密だ。
――みんなに喋ってしまったが……。
苦く思いつつ、頷く。
「直接会えるか分からんが、ユノに話してみよう」
「はい、お願いします」
チヒロは頭を下げ、ようやく手に持っていたパンの欠片を口に入れた。
体の細いこの訓練生は、鳥の子ほどしか食べないくせに、食べ終わるのにとても時間がかかる。今もまだ半分以上、パンもスープも残ったままだ。
健啖家のサリュウは、早くも皿を空にしていた。その彼へ、遠慮がちにチヒロが尋ねる。
「もしかして隊長がダイナンさんと別れた理由って、あの事故……だったんですか?」
「口を出すな、と言ったはずだ」
「今さらでしょう?」
チヒロの言い方に、サリュウは少しだけため息を洩らした。確かに、これ以上隠すものはないほど喋ってしまったのは事実だ。
「あのときはいろいろあったから、それだけとも言えないな。現場の事故で前の隊長が亡くなって、いきなり俺がその跡を引き継ぐことになってしまった」
「おいくつだったんですか?」
「二十二だ」
若すぎる、とは言えないのかもしれない。八部に加入できる稀人は、数が少ない。年に一人か二人いればよいほうだ。
サリュウの同期はカイデンとミヲだが、その前のラギまでの間は、なんと三年間丸まるゼロが続いていたのだ。ちなみに今回、チヒロと同じ訓練生はいない。来期には二人という話だ。
「隊長、波瀾万丈ですね」
「その波瀾万丈の大部分を知ったのは、おまえくらいだ」
吐き出すように、深々と嘆息が洩れる。
「なぜおまえに話したかな」
「今さらまた随分と厭そうに言いますね」
「人生最大の自己嫌悪、というやつだ」
サリュウは嘘ではない顔でそう言ったが、眼はかすかに笑っていた。チヒロは笑わずに質問を続ける。
「じゃあ、隊長。ついでにもうひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「レインが力を使って体を消耗するんなら、隊長も同じ、なんですか……?」
訊く声がかすかに震えている。
思いつめた眼差しを向ける少女に、水のグラスを手にし、サリュウはにやりと頬を歪めた。
「そうだ。大嫌いな隊長が早死にすると分かって、嬉しいだろう?」
「嬉しいわけ……ないです」
うつむいて、チヒロが口の中で小さく反論する。
その頭目がけ、サリュウは片手でナプキンを丸めて投げつけた。
「泣くなと言ったろう、馬鹿。俺がおまえをいじめているように見えるだろうが」
「……実際いじめてるじゃないですか」
泣き虫の訓練生は、ぐすん、と鼻を鳴らして反論した。
「死ぬなんて軽々しく言わないで下さい」
「軽くは言っていない。それに薬も飲んでいるだろう」
いつもの天邪鬼な口調で言い、サリュウはポケットから出したピルケースから緑の丸薬を口に放ると、水で流した。グラスを置いて、
「気が済んだか?」
はい、とチヒロが頷く。
どうも小さな動物のようなその態度に、サリュウは悪戯心が膨らむのを感じた。
「ところで――おまえ、俺にそっくりの幽霊に会ったそうだが」
「ぶっ!」
スープを飲みかけていたチヒロがむせる。サリュウが、にんまりと追い討ちをかけた。
「一体どんな感じだ?」
「……言えません」
なぜか顔を真っ赤にして、チヒロが目を逸らす。
瞬時にほぼ100%近くに上がった精神障壁に、我が訓練生ながら感心しつつ、サリュウは笑顔で問い詰めた。
「レインが俺の姿をしていたんだろう? やはり身内としては気になるんだが」
「昨日言ったことしか言えません」
「昨日の記憶がおぼろげなんだ。徹夜で頭が働かないらしい」
「……」
「確か泣いていた、とか言っていたか?」
「……覚えてるじゃないですか」
「その他を忘れた。もう一度最初から頼む」
「夜中にマナクが誰かと話していたので見に行ったら隊長そっくりな人がいて泣きながら〝サリュウ〟という言葉を残して消えましたそれだけですっ!」
チヒロは息継ぎもなく乱暴に言うと、両手で耳に蓋をした。これ以上質問を受け付けないという意思表示らしい。
「早口でよく分からなかった。もう一度頼む」
「一度しか言えませんし、なにも聞こえませんっ」
「聞こえているだろうが」
指摘するサリュウに、髪の上から両耳を押さえたチヒロは、あーだのわーだの言い出して、彼の言葉の邪魔をはじめる。
――こいつ、ふざけるな!
サリュウは咄嗟に片手を伸ばして、耳を塞ぐ手を取った。
――えっ?!
予想外の行動に、チヒロが驚く。同時にサリュウも驚いた。ぽと、と掴んでいた手を落とす。
「想像、じゃないな?」
視られてしまった、と気づき、仕方なくチヒロは頷く。
「あー……はい。たぶん」
「……なぜ脱いでいるんだ?」
「レインが裸だから、ですかねぇ?」
サリュウがめずらしく顔を赤くして、片手で覆った。
「チヒロ。真面目に答えろ。おまえどこまで覚えている?」
「なるべく記憶しないようには努力します」
「つまり、しっかり見たってことだな?」
「細かくは見てないです。夜でしたし寝惚けてましたし、幽霊みたいに光ってましたし」
「本当だな?」
「わたしも見たくないものは見ないようにしてます。目の毒ですから」
「人の裸が毒とはどういうことだ」
「相手による、ということで」
「なに?」
手の上から鋭い眼光を投げかける男に、チヒロも赤い顔で言い訳した。
「知ってる人のハダカなんて、じっくり見ませんよ。それにあれはレインなんですから、隊長が恥ずかしがることないじゃないですか」
「だが、姿は俺だぞ。貴重な俺の全裸がおまえの脳裏に焼きついたと思うと、いたたまれん」
「大丈夫です。全力で忘れますから」
「……力を込めてそう言われると腹が立つ」
「どーしろというんですか」
「マインドコントロールでおまえの記憶を修正するか」
「ですから、全身全霊で力いっぱい忘れますから、ご心配なく」
「だから、それが腹が立つというんだ」
「どっちなんですかっ」
食堂の片隅で、またもサリュウの貴重な休み時間を削る言い合いが開始された。