(12)
伍-(12)
チヒロは、ぐったりするマウスを両手に持ち、足早に研究棟へ向かった。いろんな問いが渦巻いているのに、それを形にできないほど頭は混乱して、泣きたかった。
平静を装い、研究棟の事務カウンターに立つ。
「あの、すみません。これ……」
「ああ、いなくなったマウスね。ちょうどよかったわ――アヰ博士」
事務員に呼ばれ、カーテンの向こうから白衣姿の中年女性が現われた。
生きていれば両親と同じくらいの年齢だろうか。タキヱ・アヰという名札をつけた団子頭のその女性は、一瞬、軍服姿の少女に目を瞠ると、その手の中を覗きこんだ。
「あら、L277号じゃない。見つけてくれたのね、ありがとう」
「区別つくんですか?」
「いやーね。足輪よ」
遅まきながら観察すれば、マウスの左後肢に水色の輪っかが嵌まっている。
「すみません。こちらの養成区に通ってる妹が勝手に持ち出したみたいで……」
「いいのよ。この子は実験に使ってないから、管理が甘くて」
白衣の女性は、慣れた手つきでひょいとマウスを片手に持った。ピンクの小さな足が、ぴく、と動く。
「刺激の強い世界を見て気を失ってたな、こいつめ」
冗談交じりに言い、タキヱは化粧気のないさばさばした笑顔を見せた。
「わざわざ、ありがとうね。おかげで探しにいく手間が省けたわ。噛まれなかった?」
「あ、少し」
血の滲む人差し指を見つけ、タキヱが顔を顰める。
「ありゃ、やられちゃったのね。傷薬塗っておこうか」
「大丈夫です」
「遠慮しないのよ。ここには薬が山ほどあるんだから」
剽軽な女性の言い方にチヒロは少し笑い、勧められるまま奥へ入った。
その区画には彼女しかいないのか、他にひとの姿はなく静かだ。
チヒロにも見覚えのある実験用消耗品の箱から、まるで見当もつかない器具まで雑多に積み上げられている机の間に、約三十センチ四方の水槽型のアクリルケージがある。タキヱはそこにマウスを入れ、手を洗うと、チヒロの指に消毒液を塗った。
「マウスの歯はよく切れるから。でも深くないから、大丈夫ね」
「ありがとうございます。あのマウス、実験用じゃないんですか?」
正気を取り戻したらしいマウスが、ケージの中でがさごそ動き出す。
「L277? そうね。その予定だったんだけど、治療対象の子の調子が悪くなって、投薬を止めたの。今じゃここのペットってとこ」
「そうなんですか」
――じゃあ、マナクが言っていた注射は過去のイメージか……それとも思い込みか。
女性研究員の目線が、ふとチヒロの制服の紫と白のラインに留まった。
「あなた、八部の訓練生なのね」
「はい」
「じゃあ、ここには滅多に来ないだろうから、見学でもしてく?」
思いがけない提案に、チヒロは眼を丸くした。
「物に触らなければ自由に見ていいわ。あー……と、奥もだめだけど」
「奥?」
「特別区。秘密のお部屋なの。外部は絶対進入禁止」
冗談めかし、眼をぐるりんとしてタキヱが強調する。
「わたしはまだ仕事があるから案内はできないけど、よかったら見ていくといいわ」
「ほんとにいいんですか?」
分野は違えど、ここは昔父のいた、そしてシンバシ博士のいる職場なのだ。見てみたいに決まっている。しかし、なぜ初対面の自分にそんなことを言い出すのか分からない。
その思いが顔に出ていたのか、タキヱが笑った。
「だって……あなた、興味あるんじゃない? ここに入ってからずっと、もの珍しそうにしてるもの」
単に自分の行動が観察されていただけらしい。チヒロは羞恥に顔を赤らめたが、好奇心には勝てず、タキヱの言葉に甘えて、一人で研究棟を見学して帰ることにした。
――マナクとエミさんを待たせちゃうかな。
手早く終わらせるならと、興味本位にブロックのレベルを下げ、辺りをサーチしてみる。
ふいに。
《……》
微弱なテレパスが、チヒロのアンテナに引っかかった。
――これは……。
夢現のマナクが発する程度の形にならないテレパス。それにチヒロは憶えがあった。
サリュウに向けて発せられた、マウスからのテレパス。
そして――。
チヒロは、なにかに憑かれたように歩き回り、ある場所で足を止めた。
巨大な壁面状のゲートには、部外者立入り禁止の赤い文字が、でかでかと書かれている。タキヱの言っていた秘密の部屋なのだろう、当然のように暗号化された電子ロックがかけられていた。
チヒロはロックに手をかざし、以前サリュウがしていたように、力の波長を合わせてみた。
カチリ、と音を立ててドアが開く。センサーが反応して、室内灯が断続的に奥へと点った。
中は広く、中央に巨大な紡錘形の物体がいくつも垂れ下がっている。
天井から壁へと這う太い管に繋がれたそれらは、まるで果物が実を成しているようだった。しかし、そのどれもが空っぽで、唯一正面のものだけが稼働していた。
果実の中に満たされているのは、半透明の溶液。ガラス壁かそれ自体の色なのか、隙間なく満たされた液体は、深い碧色をしていた。
まるで小さな海のようにも見えるそこには、一人の少年が、何本もの長い管に繋がれて浮かんでいる。
藻のごとくなびく淡い色の髪、青白い肌。わずかに漏れる白い泡。
吸い寄せられるようにチヒロは安全バーを越え、その少年の入った紡錘形の容器に近づいた。
床に固定された容器の隅には、小さなプレートがあり、番号と名前が彫られていた。
【№七二五六 レイン・コズミ】
「レイン……」
チヒロは呟いた。
マナクの言っていた〝レイン〟とは、マウスではなく、この少年のことだったのだ。
存在を確かめるように、そっと容器に指先を触れる。
ふっとチヒロの意識に、別の声が飛び込んだ。
《――あら。最近よく顔をみせるわね》
《レインは?》
《とくに変わった様子はないけど》
先ほどの女性研究員と来訪者の会話が聞こえる。
やがてこちらへと近づいて来る足音に、嬉しさが湧きあがる――意識の片隅で。
チヒロは、部屋に入ってきた人物をふり向いた。
「隊長」
サリュウ・コズミは厳しい表情を崩さず、昏い眼差しをチヒロの背後へと注いだ。
「このひとは――」
「俺の兄弟。弟だ」
「このひとが、さっきマウスの意識に入っていたひとですね」
「そうだ」
頷き、サリュウが安全バーをまたいでやって来た。
先刻サリュウは、マウスをテレパスで眠らせたのではない。マウスを操っていたレインの意識を弾き飛ばしたのだ。
「隊長。わたしがここにいること、怒ってないんですか?」
「おまえが手にしたマウスがレインの意識を持ち、俺の名を喋った段階で、おまえが彼を見つけるのは時間の問題だと思った。なにしろ――」
「タコ足配線だから?」
引きとって続けられた言葉に、サリュウはかすかに笑い、ああと頷く。
チヒロは、サリュウの半分ほどの年齢に見える少年を見上げた。
「彼は本当に、隊長の弟なんですか?」
「血が繋がっているか、という意味では、八分の一しか繋がっていない。第一世代の卵子が一緒だった。だが、置かれた環境という意味でいえば、たった一人の肉親と言っていいだろう。二十六年前同じ稀人計画の第三世代として産み出され、この人工子宮で育てられた――」
サリュウは軽く、容器に指先を添わせる。
「レインは発育途中で成長ホルモンが狂い、正常な発育ができなくなってしまったんだ。俺が三千二百グラムで生まれたときも彼はまだ二千グラムに満たず、誕生した後も意識はあるものの、寝たきりの状態だった。それでも、俺以上の力を持った稀人だ」
「隊長以上、ですか?」
「ああ。だが、強い稀人の力は肉体に負荷がかかる。だから彼は極力、力を使わないようにしてきたんだが、あるとき事故が起こった。彼のいた病室で火災が発生したんだ。レインは必死で助けを求めたんだろうが、俺は気づかず、警報は故障。研究者たちは全員出払っている状況で、レインは自力でテレポートし、心肺停止の状態で発見された。彼には人工呼吸器が不可欠だったからな」
「じゃあ、そのせいで……」
「見ての通り、人工子宮に逆戻り。トヨアシハラに着くまで、ここでこうして眠り続けている」
人工子宮の溶液を循環させるモーターの低い唸り。こぽこぽと水の流れる音。
その光景に、チヒロはあることを思い出した。
――そうか……隊長の海に眠っていたひとは、彼だったんだ。
生命維持と管理のためか、痛々しいまでに痩せた白い体に絡みつく、細く長い管。小さな顔に深く落ち窪んだ両眼は、固く閉じられている。
サリュウはふうっと息をついて、チヒロの隣で人工子宮の丸い壁面に背をもたれた。
「妙だな。これでおまえには、みんな話してしまった」
「まだ……話してくれてないところがありますね?」
チヒロは横向きになって、サリュウを見た。
「レインの事故は偶然じゃなかったんでしょう? 彼が自分で起こした――違いますか?」
「……」
「彼はあなたより優れた稀人だった。それは力の強さではなく、力の種類のことですね? あなたにはプリコグニションとパイロキネシスがない。だけど、彼はそれを持っていた。違いますか?」
「なぜそう思う?」
チヒロは答えず、ことんと頭を人工子宮の壁にくっつける。サリュウがはっとした。
「読んだのか?」
「この中には彼の意識が詰まってます。まるで今にもはじけそうなほど……。隊長は気づいていたんでしょう? 彼が自分で……」
「自分を、殺そうとした。……そうだ。だが、そこまで追い詰めたのは俺なんだ」
そう告げ、サリュウはダークグリーンの瞳を固く閉じた。
そもそも[まほら]の人工子宮計画の一環として選ばれた百二十個の凍結受精卵のうち、無事胚芽になったのは半数。人工子宮に着床したのは、その三分の一にも満たない。
順調に発育する十五人の人工子宮ベビーのうち、やはり注目されていたのはコズミ博士の研究結果であるM遺伝子を継いだ五名であった。
脳神経系の完成がみられる五ヶ月目頃からすでに稀人の片鱗をうかがわせていた彼らには、人工子宮児プロジェクトチームの中でも数名が特別に管理にあたったが、四名が死亡。残る一人も発育が悪く、稀人の誕生は絶望的と思われた。
しかし、実験対照として育てられたはずの一名に兆候が見られ、チームはこの二人の徹底管理をおこなった。
これが、レインとサリュウである。
「レインは生まれる前から、たった一人俺が心を打ち明けられる相手だった。精神が同調しないのが不思議なほど、双子みたいな存在さ。
だが、彼のことは秘密だった。俺のというより、存在そのものが極秘だったんだ。研究棟に、コズミ博士の研究通りの稀人が寝たきりでいるという状況は、あまり聞こえのいい話ではないからな」
苦々しくサリュウは言い、眼を開けた。
「昔一度約束を破ってカイに話したが、信じてもらえなかった。当然だよ。なにしろ存在自体が極秘の兄弟だ。信じられないのも無理はない。
そのうち俺は、レインとではなく養成区の友だちと一緒にいるほうを楽しむようになっていた。レインに会う時間はどんどん減っていったよ。彼には俺だけが外との繋がりだったのに――そして、事故が起きた」
「隊長のせいじゃないんじゃ……」
そう言うチヒロを、底の無い深海の双眸が見下ろす。
「妙なことを聞くが……おまえは今まで、マナクを邪魔に思ったことはあるか? 自分なしではいられない相手の存在をうとましく思ったことは?」
チヒロは苦笑ともつかぬ表情を浮かべた。
「厭な質問ですね。でも、ないと言ってしまえば嘘になるでしょうね。マナクがいなければ、わたしは奨学金をとって正式に大学に進んでいたでしょうし、友だちとももっと自由に遊べた――そう思うときはあります」
「俺は、ある。友達や仲間や……好きな相手といると、レインの存在がどうしようもなく重く感じて、いつのまにか彼の存在を忘れたいと願ってるんだ。あんなに双子のように思っていた相手を」
呟くようにそう告げ、サリュウはなにかを――自分を嘲るような笑みを口元に溜めた。
「俺は普通になりたかった。一般人とまではいかなくても、皆みたいにふざけたり、気軽に抱き合ったり、相手のことをいろいろ想ったり、そういうことさ。
意図的ではないにしろ俺が創られた存在だということを知ったのは、物心ついた頃というやつだ。大人たちの会話を盗み聞くのは、どうということのないことだからな。
最初は特別なんだという意識も働いたが、大きくなるとさすがに嫌気がさして、士官学校にあがる頃には、おまえみたいにサイコスキャナーをだまして力がなくなったようにもみせかけた。だが、現実は変わらない。特に、どうやってもレインの存在だけは切り離せなかった……だから」
言い澱むようにサリュウは語を一旦切り、息をついて続けた。
「俺は心で、彼の存在を消したんだ」