(1)
伍-(1)
二人が最上階から八部本部のある三十七階に降り、食堂の方をまわって帰っていると、突然チヒロが足を止めた。
「――あ。今、誰かに呼ばれたような……」
「まったく、そのタコ足どうにかしろ」
不機嫌そうにサリュウが言ったが、
「たぶん知ってる人です。ちょっと見てきます」
気にせずチヒロは、たたっと食堂脇のラウンジの方へ走り出した。半端な時刻のせいか、辺りに人影はない。
仕方なくサリュウがその後をついていくと、通路と接したオープンラウンジのソファに座る、金色の大きなライオン頭が見えた。チヒロが身を屈め、その顔を覗き込む。
「眠ってるみたいです」
「らしいな」
カイデンはソファの肘掛けに少しもたれ、腕を組んで熟睡している。傍目には考え事をしているようにも見える彼を、サリュウは立ったまま眺めた。
「ここのところ俺の代わりをしてもらったり、いろいろあったからな。疲れているんだろう」
「こんなところで寝ないで、自分の部屋で眠ればいいのに……」
少し前カイデンに同じことを言われた男は、軽く眉を上げる。
「一人寝の嫌いな男だ。このあいだ彼女と別れたと言っていたから、一人の部屋に帰るのが寂しいんだろう」
「……当たってるんでしょうけど、ものすごく我儘な理由に聞こえるんですけど、それ」
チヒロが眼鏡の上から、じと目で睨んだ。
「いくら人がいても、こんなところで寝たんじゃ風邪引いちゃいますよ。宙佐、起きて下さい」
カイデンの広い肩を、ゆさゆさと片手で揺さぶる。
その瞬間、チヒロの脳裏に鮮烈な光景が飛び込んできた。
セピア色の空。人も道も暗く陰に沈んでいる。
あたたかく自分を抱きしめてくれていた人が、そっと離れ、地面にしゃがんでこちらを見上げる。
きらきらと涙に濡れる大きな瞳。やさしく髪を撫でる、白い手。
『分かってくれるわね、カイ。母さん、こうするしかないの』
涙まじりの声。首を横に振っても、その人は絡む髪を撫でつづけた。
『本当にごめんなさい。でも、母さんにはもう……無理なの。おまえはここで幸せになりなさい』
――いやだ。
口にする代わりに、涙がこぼれる。
『ごめんね、カイ。母さんを許してね……』
――いやだ。もうこんな力は使わないから。二度としないから、置いていかないで。
喉が震えて言葉が出ない。舌が口の中で貼りついたみたいだ。
髪を撫でる手が、離れてゆく。
『ごめんね……』
影が引いていくように、すうっとその人が遠ざかる。
走り出して追いかけたいのに、体が重くて動かない。
――いやだ。行かないで……僕を独りで置いていかないで。
小さくなる影に手を伸ばす。
――行かないで、母さん……!
伸ばした両手が握りしめたのは、母の手ではなく、冷たく硬い鉄格子だった。
「!」
呑まれそうになり、チヒロははっと意識を切り離した。
――今のは……。
視たのは一秒にもならないはずだ。
それでも怒涛となって心に押し寄せてきた、哀しい想い。
「視たのか?」
背後から問いかける冷静な声に、チヒロは頷いた。
「はい。夢……なんでしょうか。宙佐はお母さんと……」
「稀人にはよくある話だ。検査で分かっても、親はなかなか納得しない。だが子どもが超常能力を使うのを見た途端、ころっと変わって預けに来るのさ。子どもは最初なんのことだか分からないが、そのうち現実を理解していく――否が応でもな」
まるで自分のことのように説明するサリュウを、チヒロは不思議そうに仰いだ。
「隊長も視たんですか?」
「過去に何度かな。たぶん、おまえが視たのと同じ夢だ。こいつはいつもオープンすぎる」
サリュウは靴の先でカイデンの足を小突いた。寝入っている男は、体勢を崩しながらも起きる気配はない。
「仕方ない。部屋まで連れて行くか」
「二人がかりでも重そうですけど?」
自分の三倍ほども体重がありそうなカイデンを眺め、チヒロが困惑する。
「誰が運ぶと言った。連れて行くだけだ」
他人への接触を過度に嫌う男はぶっきらぼうに言い、目顔でチヒロに下がるように示した。
ふ…とサリュウから浅い波が押し寄せ、ぱしゃりと足元にかかる。
――あ……。
チヒロが力の放出を感じたと同時に、眠っていた男がふらりと立ち上がった。
組んでいた腕がだらんと垂れ下がり、太い足が右、左と前に動く。
「こういう力の使い方ってあるんですね」
呆れの混じった感嘆に、最強の稀人の異名をもつ男が、にやりとした。
「あまり人に言うなよ。でないと、八部隊長は遠隔で人を操っているなんて噂が立つからな」
実際可能だろうと容易に推察できる話なので、あまり笑えない。
チヒロは、できそこないのロボットよろしくぎこちなく歩き出す男の後ろに、サリュウと並んでついていった。
完全に寝ているのか、うつむき加減で歩を進める姿は、足の動きに合わせて腕も揺れ、自力で歩いていないとは思えない。
「器用ですね、隊長」
「プロだからな」
「本棚のときみたいに本人を浮かせて運ぶか、テレポートしたほうが早くないです?」
「馬鹿者。ここは公共施設だ。そんなことをしたらすぐバレて、M法違反で捕まるぞ」
「あ、そうでした」
稀人の首枷であるM法では、同じ稀人に対してであれ、公の場でのみだりな能力の使用を固く禁じている。サイキック同士喧嘩して食堂で物を投げ合い、双方とも謹慎三ヶ月なんていう笑えない話もあるくらいだ。
チヒロがアポートで医務局から出たのも、制御不能だったとはいえ、軍の監視局から呼び出しがかかってもおかしくないことなのである。
もちろんそれは検査中の事故だったとアサギ医師が届け出たことで収拾がついたわけだが、特異なゆえ、常に稀人は様々な〝目〟に晒されていると言ってよい。
閉塞感をおぼえ、チヒロはわずかに制服の襟を指で緩めた。
生まれたときから誰よりも視線に晒されてきたサリュウが、薄く笑う。
「まあ、これくらいなら軍も大目に見てくれるだろう。本人が歩いていることだし」
「でも、完全に寝てるんですよね?」
「今は眠らせている。中途半端に起きると面倒だからな」
「催眠しながらサイコキネシスですか。隊長も充分タコ足じゃないですか」
自分が持ち出した形容詞での反撃に、サリュウの眼差しが冷ややかになった。
「馬鹿言え。俺は起立させて歩くよう暗示しているだけだ。このくらいのことには最低限の力しか使わん」
「あ、足を一歩ずつ動かしているわけじゃないんですね」
「誰がそんな面倒臭いことをするか。最初だけだ。こいつの脳に反復運動を指示すれば、あとは本人の力でやる」
「まさにマインドコントロールってやつですね」
「人聞きの悪いことを言うな」
言い合っているうちに、巨大な操り人形が本人の部屋の前に着く。カイデンの手が持ち上がり、ドアの窪みに引っかかって、カタンと外れた。
「仕方のない奴だな」
サリュウがぼやいて、部屋のドアに手をかける。
――あ。
チヒロははっとした。直後、かちゃりとカイデンの部屋のドアが開く。
サリュウがテレパスを使って、電子ロックを開けたのだ。
――マスターキーいらないじゃんっ。
心の中で突っ込むチヒロの前で、
「なんだ、開いてるじゃないか」
わざとらしく言ったサリュウが、悪戯っぽい顔でふり返る。
「じゃ、俺たちはちょっと中で話があるから」
カイデンの右手が〝バイバイ〟の形で挙がる。
鬼隊長の思わぬ茶目っ気に砕けそうになりながら、チヒロはじゃあ、と二人の前をすり抜けた。
ふいに。
《……待って》
まだ夢を観ているらしいカイデンの思考が、飛び込んでくる。
《行かないで、母さん》
チヒロが呼んでいると錯覚したテレパスは、これだったのか。
眠っているはずのカイデンが、立ったまま、苦しげに顔をしかめる。
「宙佐、ちょっと待ってください」
思わずチヒロはそう呼びかけて、二人の元に戻った。
背伸びをして、うつむいた男の頭を両手でそっと挟む。額を近づけると、先ほどと同じセピア色の風景の中で泣きじゃくる男の子の姿が、脳裏に飛び込んできた。
チヒロは声に出さず、その小さな背に呼びかける。
《大丈夫……恐くないから。みんな傍にいるから。大丈夫、泣かないで……》
泣いている男の子がふっと顔をあげる。
チヒロは眼を開け、カイデンの頭から手を離した。物言いたげな顔をするサリュウに、
「おまじない、です」
そう言い訳すると、妹の待つ研究棟に向け、足早に立ち去った。